どんな時でも冷静に
どんな時でも冷静に。そう心がけている千佳も、この時は正直かなりうろたえていた。
「えっとなんだっけ、かずなり!」
千佳は保温ポットを頭上に掲げて、少年を睨みつけた。
「仁也だ。なんだ、呼ばないと思ったら名前もまともに覚えていなかったのか」
「どうだっていいよ、アレさっさとやつけてよっ。仕事なんでしょう!」
「どうでもいいことじゃない。契約上名前は重要なんだぞ。それに、退治じゃない。順に話すからそんなもの振り回すのは止めてくれないか。危ないしあいつには無意味だ」
「え? でもあんたには効きそうだよね?」
「……落ち着け。効くかも知れないが意味がない」
「言葉を話すほうが味方とは限らない」
よしなりは「なるほど」と唸った。
「そこまで疑うんじゃ仕方ない。俺も別に押し売りじゃないんで退散しよう」
などとあっさり背を向けるので、困ったのは千佳の方だった。
「ちょっ! だから、アレ片付けていってよ!」
亡者に視線をやって、千佳はハッとした。
よしなりと話しているうちに、亡者は思ったよりもそばに来ていた。
千佳はポットをワゴンに戻すと、入り口の方へ駆け寄った。そしてよしなりの背後に回って亡者の方へ押しやる。
触れた。やっぱりポットで殴ったら効いたかもしれない。
よしなりは迷惑そうに振り返った。
「このままじゃ無理だ。仕事をするには代価が必要なんだ」
「お金取るってこと?」
「いや、この世の貨幣はあの世では使えない」
「え? じゃあ六文銭は?」
「ああ、いい質問だな」
どうでもいいが年下にいい質問とか言われると若干ムカつく。
「死出の旅に持たせるという六文銭は三途の川の渡し賃として使われるわけだが、そもそも三途の川というのは、あの世とこの世の境界線で」
「ちょっと待ってそれ今必要な説明!?」
「なんだよ。そっちが聞いたんだろ」
「そうだけど!」
まさか本当に懇切丁寧に説明されるとは思ってなかったのだ。
こんな話をしているうちに、亡者はどんどんこちらに近づいてきている。よしなりまであと数歩というところだ。
よしなりがいるのに逃げないのはなぜなんだろう。彼に捕まえる気がないからか。
焦る千佳を見あげて、よしなりは軽く首を傾げた。
「説明、聞く気になったか?」
「聞く! 聞くから! ちょっ! こっち来て!」
千佳は廊下へ飛び出して、階段を上ってひとまず自分の部屋に逃げ込む。よしなりもちゃんとついてきた。
「逃げるつもりなら……逆だと思うけど」
「なんで!?」
「だって、飛べないだろ」
「何当たり前なこと言ってるの! ……あ」
指摘の通りだった。亡者が追いかけてきても、窓から飛び降りるわけにはいかない。
「あ、ちょっと待った。慌てるなって」
廊下に出ようとした千佳の腕をよしなりが掴んだ。千佳は反射的に彼を睨みつけるが、彼は悪びれなく言った。
「俺としてはこっちの方が都合がいい。落ち着いて話ができるだろ。大丈夫、そのくらいの時間はあるよ」
「ほ、本当に……?」
よしなりはそのまま千佳の腕をひいて、千佳を勉強机の椅子に座らせた。
そして自分は窓によりかかる。彼はまぶしそうに目を細めた。
「あんた、いったい何者なの」
千佳はそんなよしなりを睨みつつ尋ねる。
「俺のこと聞くのか。あいつらじゃなくて」
「あいつら? 普通の幽霊じゃないみたいだけど」
「あれは幽霊じゃない。幽霊って言うのは生を終えた存在が四十九日に渡る死出の旅に出て、審判を終えて次の生を受けるまでの状態をいう。まだ生前の罪と記憶を持っている。そして、あいつらは審判を終えて新たな存在として生まれ変わったものであって――」
よしなりの話はまだまだ続きそうな気配があったものの、千佳はぶった切った。
「だから、今! そんな説明どうでもいいんだけど!」
「それはダメだ」
よしなりは真顔で言う。
「自分の立ち向かうべき存在が、どんなものなのか知らずにいるのは一番よくない。恐怖に打ち勝つためにはまず相手のことをよく知らなくては」
言ってることはたいそうもっともらしいが、けれどもっと大事な、先に聞いておかなくてはな
らないような単語があったはずだ。
千佳は必死で頭を働かせる。そう、確か――
「代価! なんか代価とか言ってたじゃない。逃げる余裕を与えずに、なし崩しに契約取ろうっていうわけ? それでもまだ押し売りじゃないとか言うつもり!」
「あー、誤解だそういうつもりじゃない。単にエネルギーを分けて欲しいっていうだけだよ」
「エネルギー? 食べるものなら下に行かないと!」
「いや、そうじゃない。欲しいのは香だ」
「香?」
「そう。線香が一番いいけど、なければアロマでもフレグランスでも構わない」
「アロマ?」
千佳は頭を抑えた。
「待って、意味がわからない」
「まず俺も、あの亡者もあの世の存在だ」
「幽霊なの!?」
ぎょっとして千佳は顔を上げるが、
「話聞いていたか? 幽霊ってのは――」
「聞いてたごめん。けど、幽霊でも亡者でもないならあんたは何なの?」
「俺は鬼だな」
「角はないみたいだけど?」
「じゃなくて。地獄で職を持つものを鬼、転生を拒むものを亡者と呼ぶ。……今はそれで納得してくれ。それで続けるけど、俺たちあの世の人間は、この世の食べ物を食べることができない」
「あ、そうなんだ」
「うん。その代わり食べるのが香だ。それだけが唯一エネルギーとして取り込める。亡者たちは人に憑りつき、本来感じるはずの香りを全て吸い取ってしまう」
「と、どうなるの?」
「食べ物の味がしなくなり、体がだるくなり、なんとなく憂鬱になったりする」
「え? そんなもの?」
なんだか拍子抜けしてしまう。亡者って言うのはもっと禍々しい存在なのだと思っていた。額に罪とか刻まれているし。
「そんなものと言うが、それがずっと続くんだぞ」
「うーん」
「あと、少しばかり運が悪くなるという報告もある」
「え? それは嫌」
「体の不調にともなって注意力が落ちた結果と考えられなくもないけどな。……と、時間切れだ」
扉から滲み出るように亡者が姿を現した。