着物の少年
何日か前から、亡者をよく見かける。
彼らの頭には髪も眉毛もなくて、額に罪の文字が刻まれている。目と口は静かにとざされている。
着物のように塵を体にまとっていて、塵は先細りになっていて宙に浮いている。足は見えないが手はある。両腕をのばして、人間の肩に捕まっているのを見たことがある。
普段見かける幽霊とは少し違う。
幽霊は生前の姿で現れるし、長くとどまることもない。
中学校の門から、紺のセーラーと学生服の生徒たちが気だるげに出てくる。
千佳もその流れの中にいた。肩のところで切りそろえた黒髪の、小柄な少女である。目立つのを嫌うように伏し目がちにゆっくりと歩いている。
どこまでも続くような中学生の行列も、角を一つ折れるだけでだいぶ密度が薄くなる。
前後の距離が少し開いて、千佳はほっと息をはいた。
そうして気を抜いたとたん、道の向こうに亡者が見えた。
取るべき手段はただ一つ。
見えないふりをするのだ。
騒ぎ立てるのはよくない。感情を乱すのは、隙を見せるのと一緒だ。
ふと頭をよぎったのは、三人の同級生のことだ。
何をされるわけでもない。たまにくすくすと笑いながら、こちらに視線をよこすだけだ。
少しばかり気に障る。けれど、そんなときでも千佳はつとめて表情を変えない。ただ、静かに彼女たちを見やる。それだけで彼女たちはぴたりと口を閉ざす。
考え込みながら歩いていたせいか、それを見たとき千佳は思わず「え?」とつぶやいていた。
その小さなつぶやきが、ここ一番の失敗だった。
通学路に最低限の公園がある。木が数本植わっていてベンチがある。ただそれだけの公園だ。
その木の枝に、人が引っかかっていた。
目についたのは笠だった。お地蔵さんがかぶっているあれだ。
青々とした葉の茂る細い枝に、小学生くらいの男の子が、二つ折りになって引っかかっているのだ。
はじめは着物のように見えた。いや、確かに着物だが、色々アレンジが加わっている。
腰にベルトポーチのようなものがついているし、腕に数珠みたいなアクセサリーを巻いている。よく見ると半ズボンだ。笠と、足元のわらじだけが妙に古風だった。
彼には重さがないようだ。枝がちっともしなっていない。
千佳はハッとした。これは関わってはいけないものだ。しかしその判断は少し遅く、少年は人好きのする笑顔を浮かべた。
「助かった~! 見ての通り困ってるんだ。手を貸してくれないか?」
とても軽い調子で声をかけられて、千佳は無視することに決めた。早足でその場を通り過ぎようとする。
「――いやいやいや! 今から気づかないふりとか無理だろう。頼むって!」
と少年は千佳の頭に手を伸ばした。
「さ――」
触らないでと、声を荒げようとした瞬間、間の悪いことに前を歩いていた人が振り向いた。同じクラスの男子だった。
その一瞬の隙をつかれて、千佳は少年に頭をつかまれてしまった。
憑りつかれる!
千佳は身を固くした。意外なことに少年は、千佳に触れたかと思うと、すぐに離れた。おそらく数秒にも満たなかったと思う。
「助かった、ありがとう!」
礼を言われても、千佳は何もしていない。
困惑していたせいで、千佳は少年の行き先を目で追ってしまった。
彼は一直線に亡者の元に駆け出した。さっきまで木に引っかかっていたわりに元気そうだ。
少年の姿に気づいたのか、亡者の方は逃げるそぶりを見せた。
けれど少年の方が早かった。
あっという間に亡者の前に回り込んだ。
腕に巻いていた数珠みたいなアクセサリーが青い光を放ち、亡者に巻き付く。亡者は身をよじって抵抗した。
少年が鋭く口笛を吹く。すると、赤と青の丸い物体がすごい勢いで少年のそばまで飛んできた。
二つの丸い物体は、亡者の周りをくるくる回る。軌跡が格子状に光って見えた。
光の格子は徐々に狭まり、やがてキンと澄んだ音を立てて、五十センチ四方のゲージになった。気づけば亡者はその中だ。かなり狭そうにみっちりと詰まっている。
うっかり、一部始終を見届けてしまった。
「何あれ……」
まさか千佳の呟きを拾ったわけであるまい。着物の少年が、千佳の方を向いた気がした。
千佳は慌ててその場を立ち去った。
◇
「よかった。今日も会えるかなって思って、待ってた」
公園の木の枝から、少年が降ってきた。
彼は笠をちょっと持ち上げて、笑顔を見せた。笠の下には少し長めの黒髪が収まっていた。
こうして並び立つと、彼は千佳よりも小さい。九歳か十歳くらいに見えた。
遠回りでも、違う道を通るべきだった。
千佳が口もきけずに立ちすくんでいると、「ん? 聞こえているんだろう?」などとさらに近寄ってきた。千佳はとうとうのけぞった。
悲鳴を飲み込めたのは、日頃から冷静に行動することを心がけているおかげである。たとえ相手が何者であろうと、取り乱したりはしたくない。
そう、たとえ相手が生身の人間じゃなくても。
千佳の態度にも動じず、彼は非常に穏やかな笑みを浮かべた。大人が幼子に向けるまなざしのように感じられて、千佳は内心ムッとした。
「俺は仁也。人間界に逃げ出した、亡者を捕まえる仕事をしている。少し、話を聞いて欲しい」
人間界?
と千佳は眉をひそめた。
確かに亡者も、よしなりと名乗るこの少年も、人ではないと感じていた。それでも改めて人間界などと言われると胡散臭くてしょうがない。
係わりたくない。
千佳は人目が気になって、慌てて歩を運んだ。
少年は追ってきた。
「待ってくれ! まずは話を聞いて欲しい。そうしないと、お互い困ったことになると思う」
お互い? 何を言ってるんだろう。困っているのはこっちだけだ。
千佳は返事をせず、早足で歩き続けた。学校が近づけば登校する生徒の数だって当然増える。千佳はもう、何があっても口を開くわけにはいかないのだ。
「取引がしたい。俺の名は、仁也だ。いつでも呼んでくれ。けど、急いだほうがいい。あいつら明日にはもっと近づくぞ」
彼はまだ何か言っていたが、千佳は聞かず学校に駆け込んだ。
少年は、学校まではついてこなかった。
千佳の席は窓際の後ろから二番目だ。もともと集中しづらい席ではあるが、少年の取引という言葉が引っかかっていた。
中二の女子に向かって取引などと言うのは詐欺師か悪魔の類ではないだろうか。
けれど相手は和服の少年なのだ。どちらもなんだかピンとこない。
思考を放棄して、何気なく校庭を眺めたらポツンと亡者が立っていた。
だが千佳はあまり気に留めなかった。
近くによしなりがいたのだから捕獲するだろう。それが仕事みたいなことを言っていたし。
ところが次の日、教室の前側の入り口に、亡者が立っていた。
額に刻まれた、罪の文字まではっきりと見えた。着物のように体にまとっている塵が、出入りする生徒や先生にぶつかるたびに、ゆらりと揺らいだ。
少年が言っていた、あいつらが近づいてくるとは、このことなのだろうか。
亡者はその場から動かなかったが、同じ部屋の中にアレがいると思うと、千佳はひどく落ち着かなかった
本当は動いているのではないか? さっきより一歩中に入ってきたのではないか? 千佳が教
室から出るとき、薄目を開けてこちらを見ているのではないか。
どうしても、そんな想像をしてしまう。
だが、千佳はそれでも知らないふりを貫きとおした。ああいったものは、見ないふりをしなければいけない。それが祖母の教えだった。
学校を終えて家に帰ったが、母親は出かけているようだった。高校生の兄は千佳よりも帰宅が遅い。父はさらに遅くて、いつも夜中近くにならないと帰ってこない。
ダイニングテーブルの上はきっちりと片付いていた。
テレビの前に大きめのソファが置いてあるが、そこで家族そろって寛ぐことはない。
目の端に何かが入った気がして、ぎくりとして振り返る。
窓を背にして亡者が立っている。
そんなはずはないのだが、網戸から入ってくる風を楽しんでいるようにみえた。
人の家でくつろぐな!
怒りを込めて睨みつけてしまったせいで、どうやら向こうも千佳に気づいてしまったらしい。非常にゆっくりとした速度ではあるが、こちらに近づいてきた。
焦った千佳はキッチンワゴンの上のポットを掴んだ。保温を目的にするものでコンセントの類はついていない。要するに、持ち上げやすかったのだ。
ポットを頭上に振り上げたその時、背後からのんきな声が聞こえてきた。
「あんたも、結構強情だな」
着物の少年まで家に入ってきてしまった。
家の中だからか笠を取り、わらじは懐にしまっている。不法侵入のくせに妙に律儀だった。