Act-3*リアと『同居人』(1)
ふっと、リアは我にかえった。今、自分は昼下がりの図書室内の資料室にいる。
午前はカウフマンと一緒に焼却場までいって、そこで昼休みに入った。お昼休憩のあと、この資料室に戻り、昼からの業務についている。そう、リアは自覚した。
窓からは午後の陽射しがさんさんと射し込んでいる。明るい資料室には、布に包まれた備品がまだまだたくさん残っていた。
(あれ? 私、何をしていたんだ?)
居眠りでもしてしまったのだろうか。数時間分の記憶が曖昧である。そして、ひどく体が疲れている。まだ昼過ぎ、終業時間まで三時間は残っているというのに。
(処分品の運び出しが、午前の分だけでも意外とキツかったのかな?)
手元をみれば太った王子の絵画があり、それは中途半端に包みが解かれていた。
(あ、これ、完全に開いて、奥の棚に並べるんだった)
飾られていない絵画はすべて解梱して、奥の絵画専用保管棚に並べるようカウフマンに指示されたのを思い出す。そのカウフマンは、通常の図書室業務を行うために図書室に戻ってしまっていた。
この資料室には、今はリアひとりしかいない。だから、今みたいにぼぉっとしていても、注意されなかったのである。
引き摺らないように、絵画の絵の具に触れないように、リアは額縁中央少し下を両手で持って、王子の絵を移動させた。そう重い訳ではないのに、なぜだろう、少し手が痛い。
専用棚にはすでに何枚か絵画が立てられている。それは、静物画だったり、風景画だったり。あまり肖像画はない。あるのはこの太った王子と人相の悪い老人の男性ぐらいだ。残されたものをみれば、展示された作品は美醜による選別結果によるものとよくわかる。
旧図書室に比べて新図書室ではギャラリースペースが増えたから、仕舞われている絵画がずいぶん減った。訳のわからない備品は、宰相補佐官の再チェックによって処分となった。新図書室の資料室は、今後の資料的価値のある収集物保管に備えて、スペースが用意されたのだった。
王子の絵を棚に収めて、リアは資料室を見渡した。
(…………)
何か引っかかるものがある。それは胸の奥で、もやんとしている。何がそう思わせるのか、リアはわからない。
ポケットを探れば、赤い六角形の小箱が指先に当たった。
(あれ? お昼にエマからビスケットをもらったのだけど、ない!)
(食べちゃったのかしら?)
それも一緒にポケットに入れてあると思ったのに、ポケットにはなかった。
作業の合間に空腹に駆られて食べてしまったのだろうか。そのわりにはお腹が空いているのは、やはり整理作業がキツいからなのだろう。そう自分を納得させて、リアは仕事を続けた。
違和感は、仕事が終わってもリアに絡みついていた。
「はい、これ、頼まれていた分ね」
夕食を取りに大食堂へいけば、帰り際にバスケットを渡される。
何かと尋ねたら、夜食だと厨房のおばさんはいう。
「誰の?」
「そこまでは知らないよ。夜食を二人前作って、あんたに渡せとだけいわれたのだけど」
「誰に?」
「さぁ、誰だったかしら? とにかく、いわれたとおり作ったんだから、ちゃんと持っていって」
夕食時の食堂は忙しい、おばさんは用が済んだとばかりに奥へ引っ込んでしまう。ずっしりと重いバスケットを握らされて、とりあえずリアは部屋に戻ることにした。
部屋に戻り、バスケットを机に置いて、リアはランプを点けた。
今日の解梱作業は時間がかかって、日没ギリギリまで資料室にいた。それでも資料室の片付けはようやく半分が終わったというところだ。
解梱自体はそうでもないが、新図書室から焼却場まで距離があってゴミ出しに案外、時間がかかる。その道を何度も往復した一日であった。
(ああ、今日は疲れたなぁ~)
(でも、このバスケットのことがまだ残っている)
夜食など、リアは頼んだ覚えはない。しかも、二人前だ。バスケットに入っているその様子は、まるで誰かと一緒に食べるために用意したという感じである。
(きっと誰かと勘違いしている)
何かヒントはないかと、バスケットを開けてみた。
ランプの光の下でみてみれば、中は赤黒い液体が入ったボトルが二本、クリーム色のクロスの包みが四つ。ボトルもクロスも新品のきれいなものである。バスケットの重みから、ボリュームのある上等な夜食だと思われた。
そんな立派な夜食の上に畳まれたメモがある。これも上質紙だ。
(これが届け先ね)
手に取り開けば、細かい字が何行にも渡って書かれている。
(ええ~! これ、わかんない!)
そう、リアは字が読めない。並ぶ文字の中に、レタス、チキンなどの知った単語が少しあるが、あとはまったく解読不可能である。貧相な想像力を働かせて、なんとなくメモはメニュー表だと推測した。
(ここに宛名が書いてあればいいのだけど、誰かに読んで確かめてもらう?)
(えっと、誰がいい?)
(そうだ、エマならわかるかも。一緒にクルトさんもいれば、確実に教えてもらえる)
今日のクルトは下町に出ているので、エマとの夕方の逢瀬はない。だが、気が動転しているリアは忘れてしまっていた。
気づかないまま、リアはメモを持って自室を出ようとした。
不意に、青年の声がきこえた。
━━リア、いいんだ。それは、私が頼んだものだから。
(!)
リアの足が止まる。ドアノブを握ったまま、リアは硬直した。
この声は、今日、どこかできいた声。どこでだろう? ここでもリアの記憶は曖昧だった。
━━それは私とリアの食事だから、外に確かめにいかなくていい。
(?)
青年の声は、ここが正当な届け先だと主張する。しかも、リアの分もあるという。
「でも……」
誰もいない自室で、リアは振り返り反論した。誰に向かってなのかは、自分でもわからない。ただ声に反応して、リアも部屋の中央に向かって声に出した。
「間違いだったら、大変だわ。夜の仕事のために用意されたものでしょ? 本当に必要な人がお腹を空かせて待っている。悪いじゃない」
端からみればずいぶん奇妙な構図だろう。リアの大袈裟なひとりごと、いやひとり芝居といったところだろうか?
━━間違いだったら、きっと料理人がここまでやってくる。不用意に騒ぎ立てる方が、厨房に迷惑がかかる。
声は冷静に返事をした。姿はみえないが、対話は可能であるらしい。
そんなどこかおかしい状況にもかかわらず、合理的な回答をもらえば、リアはひどくそんな気がする。
厨房のおばさんはいわれたとおりに作ったといい、リアにバスケットを渡した。渡す相手を間違えたなら、そのおばさんが取り返しにやってくる。
なぜなら、こんな豪華な夜食を食べて仕事をするのは、官僚やそれとよく似た立場の人。忙しい役人がわざわざ下級使用人の自室までくることはない。人を遣わすに決まっている。手っ取り早くて確実に回収できる人物は、やはり厨房のおばさんになる。
━━リア、食事のことは大丈夫だから。こっちにきて。
(!)
(こっちにきてって?)
「誰か、いるの?」
こっちとは、どこだろう?
使用人棟の下級使用人の自室など、狭い空間だ。
ドアそばの壁際に、簡単な机と椅子。その上にリアは夜食の入ったバスケットを置いた。ランプは机の上の壁に吊り下げフックがあり、そこにかかっている。
部屋の中央が少し開けて、右側に荷物入れにしている林檎の木箱が三つ並んでいる。
正面には窓。ペラペラのカーテンが掛かって、今は日が暮れたから外は闇色。
木箱の反対側にはベッドがある。ドアを開れば丸見えになる位置だから、リアは目隠しとして簡単な衝立を立ててあった。
このランプは、そう強い光ではない。だから、机にも、木箱にも、衝立にも影がかかっている。その中では、一見、この部屋は、普段の自室にしかみえない。
━━うん、リア、ここにいる。
━━しばらく、休みたいから……そばにいて……
このいい方、まるでベッドで療養している子供みたいないい方だ。
昼過ぎからここまでの出来事に、リアはまったく疑問を持たなかった訳ではない。はっきりとはわからないが、引っかかることがたくさんあった。
でも、疑問は湧いても、恐怖は湧かなかった。今だって、自室に正体不明の人物がいるかもしれないというのに、リアは怖くないのだ。
「誰かいるの?」
間抜けな質問だと思いつつ、リアはフックからランプを手に取り、衝立向こうのベッドへ向かった。
衝立を越えると正面窓下にナイトスタンド代わりにした小振りな樽がある。その上に見覚えのあるペーパーナプキンが、くちゃくちゃの状態で放置されていた。
(あれは、ビスケットの包み紙?)
それは、エマのくれたビスケットのものに間違いない。そっと開けば、紙の間にはビスケット屑だけが残されている。
(私、ここでビスケットを食べた?)
昼休み以降のことを思い出す。食べたのなら、どんな味だったのか、記憶に残っているはず。あれはお城のおこぼれだから、とても美味しいビスケットに違いない。なのに、何の感想も浮かび上がらない。
ということは……
(食べていない?)
ポケットからビスケットを取り出して、ここに置いた。その様子は脳裏に残っている。そのビスケットは食べずに置くだけにして、仕事に戻ったのか?
では、その前は?
(大食堂でエマからビスケットをもらった)
エマと別れてから、ビスケットを樽の上に置くまでの記憶がすっぽり抜けている。
(この感じ……資料室でも、こんな感じがした)
すると、急速に記憶の断片が現れた。
エマからビスケットをもらい、一度はこの自室に戻ろうとした。だが、その途中で、寄り道をして……
また記憶に空白の部分が出てきた。必死になってリアは思い出す。
(そうだ、『白い猫』を連れて戻った!)
ランプをベッドの方へ移動してみれば、その白い猫がぐったりと力のない状態で眠っていた。
リアは目が丸くなった。自分はいつの間にか、猫を拾っていたらしい。しかも、今の今まで忘れていた。
「猫ちゃん?」
リアの呼び掛けに、白い猫はうっすらと目を開けた。白いふさふさとした毛の間から、二色の瞳が現れる。
右目がオレンジ色、左目が青色。この白い猫は、オッドアイであった。
『にゃん』
力なく、小さく猫が鳴いた。その声は、今の先までリアと会話していた声とどことなく声色が似ている。
白い猫はリアの姿を認めると、目を閉じた。その目を閉じた顔に、リアは見覚えがあった。
(あれ、何? 私、この猫を知っている!)
力なく四肢を投げ出した白い猫は、やや足が長い。
(この子の鳴き声も、どこかできいたような気がする)
猫は眠ったのだろうか、弱々しいが胸元が規則正しく上下している。柔らかい白い毛が、ふわふわと揺れ動く。
(いや、待って待って! この子、大丈夫なの?)
もうバスケットのことは、後回しだ。間違いなら、厨房の人がくる。きたらそのときに、それを返せばいい。まずは、この弱った猫の看病だ。
リアは夜の身支度を整えて、ベッドに入った。猫をそっと胸元に抱え込む。
白い猫は大人しくされるがまま、じっとしていた。
初夏の夜に猫を抱いて眠るのは、やや暑苦しい。でも、規則正しい猫の呼吸音が確認できれば、リアもほっとした気持ちになる。
一日の解梱作業の疲れもあって、リアもすぐに眠りに落ちたのだった。