Act-8*救済の猫(12)
***
一日の始まりは、いつもの時間に起きた。大食堂で朝食を取り、カウフマンの待つ図書室へ出勤して……というものだったのに、その後のことはちっとも同じではなかった。
昼からは、役人らに連行された。取調室でさんざんバカにされていたら、ゲラルトが助けにきた。ゲラルトは助けてくれたのに、ハインリヒとふたりきりにされて……抵抗して暴れたら、拘束されて、火事が起こって……そのまま捨てられたんだった。
ザックが助けにきてくれて、王城の大火の中を逃げた。炎の中でエルフと出会って、最後は川へ飛び込んだ。水の中できれいな声をきいたら……もう意識がなくなった。
とんでもない一日だった。
背中がやや固い。自室のベッドもいいものではないけれど、ここまで固くはなかった。
草の薫りが鼻を擽る。気持ちのいい風が頬を撫でた。さわさわと葉の擦れる音がして、遠くで水が流れる音がして、ここは屋内でなく屋外だと知る。時折、小さく鳥の鳴き声がきこえてくれば、もう時刻は朝なのだよと教えてくれるようだ。
瞼の裏が明るくて、ああ、朝なんだと、リアは自覚したのだった。
目覚めて天空にみえるのは、まだグレーの残る空。夕暮れのではなくて朝の空のグレーだ。それはたくさんの葉をつけた枝の間からみえて、リアは自分が森の中の拓けたところに寝かされているのだとわかったのだった。
胸元から膝まで、煤にまみれた布切れが被されていた。模様の入った薄いそれは、元はタペストリー。そう、猫から人間に戻ったザックが身に纏っていたものだ。
起き上がってリアは周りを見渡した。
見覚えのない森林の中、地面は下草で覆われて、一部がなぎ倒されている。それは曖昧なラインを描き、森の奥へと向かっている。
(ここは、どこだろう?)
ごく自然にわき起こった疑問に、声が答えた。
「おはよう、リア。ここは王城より下流の原生林だ。ざっと散策してきたが、獣道しかなかったな。人里から離れたところらしい」
声の方に振り返ると、身支度を整えたザックが立っていた。今ちょうど、その散策を終えて戻ったといわんばかりに。
彼の服は、家庭教師をしているときの宮廷服ではなく、チュニックにトラウザーズという下町庶民のもの。手にはバスケットを持っていて、リアのそばまでやってくると、どかりと座り込んだ。
(その服、どうしたの?)
(昨日は、布切れだったじゃないの?)
膝上をみれば、その布切れ、しかも汚れて破れてぼろぼろなのだが、がある。昨日みたのは確かにこのぼろ布をザックは纏っていた。
リアが謎に思っていたら、ばさりと服が投げ寄越された。渡されたその服はお城のお仕着せではなく、リアが下町で住んでいたときに着ていたようなワンピースだ。
「これは?」
「エルフのお節介だ。この先に泉がある。体を洗って着替えてこい。間違えても川の方にはいくな、王城の火災の瓦礫が流れているから。朝食にしよう」
いわれるまま、リアはワンピースを持ち、泉へ向かう。ザックが先にそこで体を洗ったから、下草に薄く道ができていた。迷うことなく泉へ着けば、そこは池といっていい大きさで、滾々と泉源から水があふれてきている。溢れた水が小さな小川を作り、危険だといっていた川に流れ込んでいた。
周りには誰もいない。動物も見当たらない。火を被り、汗まみれの体に、焼け焦げたお仕着せがまとわりついている。素直にそれを脱いで、朝の空気と同様にややひんやりした泉水で、リアは体を清めたのだった。
リアが元の場所に戻れば、ザックがバスケットを前にして、座って待っていた。待っているといっても、手にはもうワインの瓶を持っている。当然、開栓されていた。
「これ、どうしたの?」
ザックはリアの手を引いて隣に座らせると、彼女にサンドイッチを差し出した。受け取ったけど、手にしたままリアは悩む。ザックは構わずに、食べ出した。
「エルフの差し入れだ。毒なんか入ってないさ」
(いや、そうじゃなくて……)
まずエルフの贈り物だといわれた段階で、普通は疑うものである。だって、昔と違って現在は、エルフもいなければ魔法も存在していないのだから。
だがリアは、昨晩、姿のみえないエルフと対面しザックの魔法もたくさんみたから、もう否定しない。それでも、エルフが贈り物をする意味がわからない。
「怒らせちゃったのに、服とか食べ物とか、用意してくれるの?」
リアの疑問はそれである。屋根上を走る間、さんざん火を放ち、ふたりの避難の邪魔をしたのはエルフじゃなかったのか?
「エルフは、根本的に人間の嫌がることをしたがる。城の火事を大きくして必要以上に混乱させたのが、いい証拠だ」
「じゃあ、助けてやるっていったのは……」
「そう、嘘だ。助けてと頼んでも、エルフは助けない。仮に助けてくれても一生それを口実にして、干渉してくる。だから、逆のことを希望した。死にたがっている人間には、エルフは嫌がらせで死なないようにするはずだから」
確かに、生きていくのが嫌な人に生存を強要するのは、酷なことに違いない。
(そうなんだ、一緒に死のうといったのは、全部、嘘の演技だったんだ)
あのセリフにときめいてしまったから、リアはちょっと悔しい。それを悟られるのが嫌で、努めて平然とした顔を装った。
「じゃあ、飛び込む直前まで火を使って邪魔をしたのは?」
「ああ、私たちが根を上げて、泣きついてくるのを期待してやったんだろう。とにかく、目を付けた人間が、泣きわめき叫び苦しむのをみるのが、大好きな奴らだから。実際、飛び込んでからも、死なないようにわざと爆風で飛行距離を伸ばしていたし」
屋根から踏み切る直前でザックが呪文を唱えていたが、それだけではなかった。体が浮いたような感じがしたのは、気のせいではなかったのだった。
リアにエルフ相手の狂言の理由を明かしながら、ザックは次々とサンドイッチを食べていく。
このままでは全部食べられてしまう。だって、ザックは大飯食らいだから。リアも現実に戻り、慌てて残りのサンドイッチに手を伸ばした。
「エルフはさぁ、私たちに、生きて、苦労しろってことなのかな?」
「ああ。生きて、生き地獄を味わえってさ! まんまと裏をかいてやったぜ」
そう説明されると、用意された服と食事が用意された理由が納得できた。親切なのか不親切なのか、不思議なところがあるが、今は有難く頂戴するのが正解だ。だって、身ひとつしか、残っていないのだから。
(生き地獄を味わえ、か……)
ふむ、と納得いくようないかないような……リアはひと口、サンドイッチを噛った。レタスとハムのサンドイッチだ。レタスがしゃりしゃりとして、出来立てのサンドイッチであった。
サンドイッチを頬張り、ワインで喉を潤す。それらが胃にまで落ちれば、あらためて『生きている』を実感できた。
「エルフのやつ、まぁまぁの品を寄こしてきたな。合格だ」
と、ザックの毒舌は変わりない。どんな状況でも動じないこの魔法使いは、憎たらしいけど今は頼りになる。
(?)
何気にザックの顔をみれば、リアはあることに気がついた。ザックのオッドアイの青の瞳が消えていた。両目がオレンジ色になっている。エルフと同じオレンジ色なのだが、このことはリアは知らない。
「ザック。目、目の色がオレンジだよ。知ってた?」
「ああ、気がついたか。魔法を使い過ぎると、先祖返りして青の色素が抜けるんだ」
さらりとザックは返した。
「え、大丈夫なの?」
「これは体質だ、しばらく魔法を使わなければ、元に戻る。心配してくれるのか?」
(!)
ワインの瓶口に唇を当てて、ニヤニヤした顔でザックはリアに問い返した。
こんな顔、いつかどこかでしなかったか。優越感いっぱいのザックの仕草に、リアはどきりとした。
「ち、違うわよ! ちょっと気になっただけ……助けてもくれたし……なんか、悪いなって……」
「まぁ、それはお互い様だ。私のことより、自分の心配をしたらどうだ?」
軽く笑みをこぼして、ザックは立ち上がった。食事は終了と、パンくずを払う。
「それ、どういうこと?」
「左薬指、みてみろよ」
いわれて左薬指をみれば、そこにはダイヤモンドの指輪が嵌まっていた。それはハインリヒからもらったものだ。
(!)
「掃除娘がそんなもの、持っていれば、確実に窃盗犯だよな~」
昨晩の出来事もそうだが、これにもリアは青ざめた。まさにザックのいう通りで、このままではリアは泥棒になってしまう。
真実を話しても到底信じてもらえないだろうし、無実を証明してもらおうにもハインリヒには二度とリアは会いたくない。きっと、向こうもそうだろう。
(ちょっと待って! 私、もしかしたら、お城に帰れない?)
(そうだよね、ラルのところの使用人になるってことになっているし……)
(そうだよ、ハインリヒ様に顔合わせできなければ、ラルのところにだっていけないよ!)
命からがら王城の火災から、エルフのいたずらから逃げることができたのに、同時にリアには失業もすれば、帰る場所もなくなってしまったのである。
ザックのセリフから現状を認識すれば、リアは青ざめる。そんなリアをみて、ザックは手を差し伸べた。
「まだ、文字のレッスンは終わっていない。仕方がないから、字が読めるようになるまで面倒をみてやる」
口角が上がった不敵な笑みに、皮肉いっぱいのセリフ。それがザックの本心でないのは、もうリアは知っている。
「まずは、gとqの復習からだ。道すがらテストするぞ」
講師は厳しくて、容赦ない。いきなりレッスンが再開される運びとなった。
「わかった。ところで、どこへいくの?」
「そうだな、さしずめクリスティーンの墓参りだな」
クリスティーンときいて、リアは首を縦に振った。
(あの声は、そうだよね)
(クリスティーンさんだよね)
(とても心配していたもの。本当にふたりは愛し合っていたんだな)
かつてザックにみせられた記憶の中に、虹色の指輪を贈るザックとバラの花を髪に挿してもらうクリスティーンがいた。とても素敵なカップルで、素直にリアはふたりを応援したいと思っていた。
その応援してあげたいふたりの片割れはもういない。二百年前に流行り病で病死した。川へ飛び込むときに彼女の声がきこえたのは、やはり、エルフの仕業なのだろうか?
(悩んでも仕方ないか)
(もう、いないし。二百年も前のことだし)
(いつまでも嘆いていても、先に進めないもんね)
大きなザックの手に、リアは小さな自分の手を重ねたのだった。
ざぁあっと、風が吹いて木の葉を揺らす。それは陸の潮騒のよう。そんな森の中、ふたりは手をつなぎ、大地を踏みしめて、前を向いて歩いていく。
リアの手をしっかり握るザックの手は、大きくて温かい。並んで歩く彼の歩幅は リアに合わせてやや狭い。
ground、green、God……queen、question、quartet……口にはgとqの単語をのせて、ときに笑いながら、ときに怒りながら、ふたりは町を目指した。
━━……ザック、ありがとう。ふたりで頑張ってね。
━━リア、元気でね。ふたりで仲良くやっていくのよ。
ふたりがgとqの発音する合間に、風に乗ってそんな声が、リアの耳にきこえてくるのだった。




