Act-8*救済の猫(9)
(目が変な感じがしたのは、これのせいだ!)
クレーデルがやってきた扉から、薄く煙が流れ込んでくる。煙と一緒に、焦げる匂いもした。ベッドに留められたリアはクレーデルの言葉、火事を信じることができた。
(た、助かった!)
(これで、ハインリヒ様から逃れることができる!)
安堵のリアに対して、ハインリヒはけだるげに答えた。
「ああ、なら、仕方がないな」
リアの上から降りて、ハインリヒはベッドからも降りた。そのまま素直にクレーデルに従い、マントを着せてもらう。そのマントにはフードがないから、クレーデルは別のマントをさらにハインリヒの頭の上から被せた。黒ローブ姿のふたり組ができあがった。
「防音ゆえに確認が遅れました。少々手荒になりますが、ご辛抱なさってください」
「わかった、さっさとやれ」
そばの水差しの水、全部をマント姿のハインリヒにかけて、クレーデルはハインリヒの手を引いた。それきり、ふたりは部屋を出てしまう。リアをベッドに残したまま、一度も振り向かずに、ふたりはいってしまった。
一連の所業は、リアの目の前で行われた。あっという間のことだった。その後に残るは開きっぱなしの扉、その扉の向こうの部屋からは、絶えず黒い煙が流れ込んでくる。
(う、嘘でしょ?)
(私、ほっていかれたの?)
(ひと言も、声をかけられなかった! 最初っから私はいなかった人みたいじゃない!)
両手をベッドに固定されたまま、まったく相手にされず取り残された。リアは茫然としてしまった。
こんなこと、前にもあったような気がする。
今の出来事が引き金となって、リアの記憶の底から昨晩の旧図書室の火事が浮かび上がった。
燃える旧図書室の中を、ゲラルトに手を引かれて走った。ふたりで逃げていたのに、途中でリアが転んで……転んで怪我をして……怪我をしてもそのままで……ゲラルトは逃げた。動けなくなったリアを捨ておいて、躊躇することなくゲラルトは逃げたのだった。
(傷? 転んだときの傷って……?)
(それよりも、どうして私はラルと旧図書室にいたの?)
(旧図書室の火事は、窃盗団の仕業じゃないかったの?)
一度に疑問がわき上がる。でもそれに答えてくれるほど、思い出せた記憶は多くない。
リアが一生懸命思い出そうとしても、それを煙が邪魔をした。煙は一向に衰えることなく部屋に侵入し、壁を黒く汚していく。
息が苦しい。直接、煙を吸い込んだわけではないのにだ。部屋の酸素が少なくなってきていた。
(ぼうっとしている場合じゃない!)
(逃げなきゃ!)
(逃げなきゃ、焼け死んじゃう!)
生存本能が目まぐるしく警告した。
ハインリヒの施した拘束は強固なものだった。リアがいくら手を動かしても結び目が緩まない。きつく縛り上げてもあれば、拘束の隙間から手を抜くこともできない。
体の向きを変えることもできなければ、顔を寄せ歯を使って噛み切ることもできなかった。
ぼんと隣の部屋から爆発音がきこえた。ガシャンという何かが割れる音もする。この部屋にも隣の部屋にもリアしかいない。だって、壊れる音しかきこえないから。
(私、ここで死んじゃうの?)
途端、母イルザの顔が浮かんだ。イルザも下町の火事に巻き込まれて死んでしまった。イルザもこんな思いで炎の中にいたのだろうか?
リアの父は十年以上も前に航海に出たきり帰ってきていない。
両親はふたりとも、リアに何も告げず遠くへいってしまった。このままではリアも両親と同じで、人知れずこの世を去ってしまうことになる。
(そんなの、嫌だ!)
誰にも知られずに死んでしまうなんて、とても悲しい。エマとクルトの顔が浮かんでくる。自分の人生は長くもなければ、何も残っていない。一体、何だったのかと思う。
「ザック、ザック、ザックーーー!」
気がつけばリアはザックを呼んでいた。もしかしたら自分のことを心配してくれるかもしれない人、生意気な同居人の名を呼んでいた。
━━リア、しっかりしろ! そっちに向かっている!
突如、頭の中に明瞭な声がきこえた。その声はまさしくザック、ザックの声である。
すぐそばにザックがいるのだろうか、リアは金の目を大きくして開いたままの扉の向こうを凝視した。でも、そこにみえるはメラメラと燃える炎。さっきはまだ部屋の家具がみえていたのに、もうそんなもの、すっかり黒い塊だ。
「ザック、どこ!」
火は隣の部屋から、ハインリヒらが逃げていった方向から、こちらに向かって燃えている。この部屋には扉はそれ一枚しかなくて、あとは窓が一枚。人がやってくるとなれば、通路はそこだけだ。
でも、その通路はとっくに炎の海で、本当にザックはここからやってくるのだろうか?
リアの心配とは別に、声はガイドを求めてきた。
━━今、階段を上った! その部屋には何がある?
この声はザックの魔法なのだろうか、離れていても声がきこえるなんて! 奇妙でもなんでも、その声だけが今は頼りで、リアは必死になって答えていた。目に映るものを、そのまま口にした。
「グレーの壁の部屋、天井に細かい絵が描いてあって……窓から真っ赤な空がみえる」
━━他には?
「え……っと、」
ばーんと大きな倒壊音が隣の部屋で轟いた。また何か、大きなものが崩れたようだ。
音に驚き体が震えたが、リアはザックの要求に応えようと部屋を見渡した。
「えっと……大きな絵、横に細長い絵がある。金の額縁で、絵は老人がたくさんいて、昔の服を着ていて、長いテーブルの周りで何か話し合いをしている絵。その横が入口ドアで……」
━━入口ドアから何がみえる?
「ええ、ドアからは火しか……みえな……ザック!」
さっきまで激しくなっていく炎しかみえなかった。今は違う、背後から炎を受けてオレンジ色に髪を輝かせてオッドアイの魔法使いが立っていた。
煤まみれの布切れを纏い、足元はサンダルだ。脛や腕に擦り傷を受けていて、ボロボロの姿。
だが、オッドアイの瞳は力強く輝き、口角が上がり不敵な笑みをザックは浮かべていた。私は何でも知っている優秀な魔法使いだ、その言葉通り、リアを助けにザックはここへ現れたのだった。
「ザック! ザック! ザック!」
「ああ、リア、待たせたな!」
猫のときのような軽い足取りでベッドに飛び乗ると、ザックは拝借してきたペーパーナイフでリアの拘束を切り解いた。
ザックはリアの無事を確認したら、今度はそばの椅子を持ち上げ窓を破壊しにかかる。ここから逃げるには、もうこの窓を使うしかない。扉の向こうは火の海で、脱出不可能になっているからだ。
ばらばらとガラスが砕け、外へ飛び散った。しかし高層階の窓は、ガラスは割れても転落防止の格子が残っている。頑丈な格子はガラスと違い、何度も椅子を叩きつけるがなかなか壊れない。
リアもまだ燃えていないオットマンを部屋の片隅に見つけ、掴み持ち上げた。ひと言ザックに声をかけて、思いっきりそれを窓にぶちつける。
椅子よりもオットマンの方が、効果は絶大だった。格子が壊れて人が通り抜けるスペースが開いたのだった。
「いくぞ!」
短く宣言して、ザックは窓から飛び降りた。窓枠に足をかけて軽々とジャンプし、ぼろきれをなびかせて消えていく。
「え!」
ここはお城の中でも高い場所にある部屋だ。リアはゲラルトに連れられて、いくつも階段を上った。ここは地上へ飛び降りることのできる高さではないはず。
(ザ、ザック?)
「何している? 早くしろ!」
リアに驚く隙を与えず、ザックの怒鳴り声が催促した。それは窓外から、比較的近くから、きこえてきた。慌ててリアが窓からのぞいてみれば、隣接する建物の屋根の上にザックがいる。手を振り、ここだとアピールしている。
その屋根の上にも煙が流れていて、火の粉が舞っている。どれもこちらの建物から出る分だ。
ザックの立つ後ろには、そこより背の低い建物が点在して、それらの建物の間からも煙が立ち上がっていた。植えられている大木がおもちゃのように小さくみえる。ザックのいる屋根も、やはり高い位置の場所であった。
空は真っ赤だ。火はリアのいる建物から出ていて、ザックのところまでは本格的に燃えていない。でもそれは、時間の問題である。
「迷うな! 飛び降りろ!」
ザックは軽々と飛び降りたが、地上よりは近いといってもそこまで三階分ぐらいの高さはあるだろうか?
力自慢のリアは、庭師のお手伝いで王庭の木に登ったことはある。図書室勤務で脚立に乗って、本を片付けたこともある。だが、ザックのいる屋根までは、今までの仕事で体験したような高さではない。
(わ、わかっているけど……高いよ!)
飛び降りなくては思っても、リアは足が震える。着地が悪ければ、屋根から転げ落ち地面に真っ逆さまだろう。
(怖い!)
(うまく、出来そうにない!)
バチンと背後で壊れる音がした。後ろから生命を脅かす炎の火獣が迫りくる。背中が熱い。でも目の前の窓からの脱出も命がけにみえた。
足だけでなく、心臓も手も震える。煙で目が染みる以外にも、リアは恐怖で涙目になる。
どーんと後ろの炎がまた噴き出して、熱風がリアの茶色の髪を吹き乱した。
「早くしろ―! 私を信じろ! 必ず、受け止める!」
「ザック!」
ぱりんとガラスが割れる音。音と同時に、後ろから濃い黒煙を浴びた。
「リアーー、こーーい!」
「ザック! ザックーー」
炎は炎だ、感情もなければ遠慮もない。
ハインリヒに拘束されたベッドのリネンに火がついた。リアのすぐそばで、新しい炎が誕生したのだった。
(ここにいても飲み込まれて死んでしまう!)
ザックと同じように窓枠を踏んで、リアは外へと飛び降りた。
「ザック!」
「リアーーー」
リアがザックの悲鳴をきいて焼却場の炎の中へ手を伸ばしたように、今度はザックがリアの叫びに応えて手を広げて待ち構えていたのだった。
リアが飛んだ瞬間、部屋が爆発した。その勢いで、リアの体が少し浮いた。
浮いてまっすぐに、リアはザックの胸元へ飛ばされる。運よく爆風がリアの体を押し、ザックの元へと運んだのだった。
ザックは腰を落として、身構えていた。空から飛び落ちてくるリアを外すことなくキャッチして、しっかりと両腕の中にリアを確保したのだった。
「ザック、ザック、ザック!」
ザックの腕の中で、リアは声を張り上げて、泣いた。
「 ザックぅーー、怖かった、怖かったよー」
自分は生きている。
最後は火に飲み込まれるのが嫌で、タイミングも何も考えずに、恐怖で飛んだ。爆風にも飛ばされた。背中が焼けて少し痛い。
でも、でも、自分は生きている。
ザックが助けてくれたのだ!
回されたザックの腕に、その腕の力強さに、リアは生存が実感できたのだった。
「よーし、リア、よく飛んだ! よく頑張った! これから展望回廊へいくぞ!」
泣きじゃくるリアを宥め、魔法使いは次の行動へと移ったのだった。




