Act-8*救済の猫(8)
複雑な城内の造りは敵の侵入を防ぐためのものなのに、煙の侵入を簡単に許してしまう。黒い煙は壁を伝い、階段を抜けて、上へ上へと昇っていく。
炎はまだやってきていない。ゲラルトが走り抜けていく廊下や階段は、まだ薄い煙が漂っているだけであった。等間隔のランプの明かりが、行く手を照らしていた。
「アーベントロート卿、そちらはもう煙が……」
「この先は、危険です。卿も避難を!」
すれ違う召し使いらは避難している最中で、全員が外に向かって走っていく。口々にそう警告もされる。
だが、そんな声を一切きかず、ゲラルトは走る。行き先は彼らとは逆、城奥の自分の部屋だ。それは、宝物庫からそう遠くない位置の上層階の部屋。火元が宝物庫なら、その上の私室が炎に包まれるのは早い。
騒ぎに気づいてクレーデルが王子を避難させていればいいのだが、それは期待できない。なぜなら、部屋は外部へ音が漏れないように設計されているから。ゲラルトの私室は元々は高次元会議のための部屋で、壁が厚いのだ。これを利用して、ゲラルトはハインリヒに私室を提供していた。
外の物音がきこえない、それは同時に外部の音が中にはきこえないということでもある。奥部屋にいるハインリヒはもとより、前室にいるクレーデルも王城の火事に気がついていないかもしれない。
ある階段を上りきったところで、ゲラルトは避難指示を出している騎士に止められた。
「この先は、危険です」
「だめだ、この先の私室に忘れ物があるんだ!」
「でも、いけません! 宝物庫からリネン室にまで火が回ってしまっています」
騎士のいうとおり、ここから奥は廊下全体がめらめらと熱い空気で澱んでみえる。もっと先の扉や壁は、炎に半分包まれている。ここもあと少しであの火が回ってくるだろう。まさに、炎の縁ぎりぎりのところである。
そんな危険な廊下だが、ゲラルトは騎士を振り切って侵入しようとする。だが、守る騎士も必死で、体を張ってゲラルトを止めていた。そうこうする間にも、煙も炎も激しくなっていく。
煙が呼吸を苦しいものにする。炎は明るく燃え上がって周りを照らし出す。熱風が肌を刺激すれば、汗が噴き出てくる。
「だが、部屋にはハイ……いや、クレーデルが……」
この先の部屋で王子がメイドと楽しんでいるなどと、非常事態であっても口にできない。ただひたすら自分の侍従のクレーデルのことを心配していると、ゲラルトはいい募った。
「この階はだめです。通り抜けは危険です。隣の塔から展望回廊を使って、反対側からなら……人を遣わしますので。ここからは、ああ、もう階段が焼け落ち……ア、アーベントロート卿!」
階段に火が回り、それが燃える煙突の内部のようになっている、そう告げられる前に、ゲラルトは騎士をかわして飛び込んでいった。
ザックもゲラルトの後を追いかけた。こちらは猫だから、姿勢が低ければ目立たないし避難時に猫など構う人もいない。難なく騎士の関門を抜けた。
その先は、瞬く間に壁全体が炎に包まれようとしている。さらにその先は赤い炎と黒い煙が絡まり合い、ごうごうと音を立てている。さながら、火獣が暴れ回っているかのようだ。
だが先をいくゲラルトは怯むことなく、そばの花瓶から花を抜き、花瓶の水を被る。首もとのスカーフを抜き取って、鼻と口を覆った。炎の中へ飛び込むために。
爆ぜる炎を左右にかわし、焼けて脆くなった階段踏板を避けて、ゲラルトは上層階の私室を目指す。
「ハインリヒ様ー、クレーデルー」
あらん限りの声を張り上げて、ゲラルトは王子を呼んだ。ついさっきまでは、王子の名誉を気にして名を呼べなかったが、ここではもう関係ない。
がたんと何かが焼け落ちた音がして、めりめりと何かが裂ける音もする。ボンと爆発音があちこちできこえてくれば、ゲラルトは最悪を想像してしまう。
「ハインリヒ様ーー、クレーデルーー」
「はい、ゲラルト様!」
炎の向こう側から、叫ぶゲラルトの声に反応してクレーデルが返事をした。
魔法使いのような黒いローブ姿の人物がふたり、炎のすき間を縫って現れた。
「クレーデル、ハインは?」
「こちらに!」
黒のローブはよくみれば正装時のマントである。クレーデルはマントを水で濡らし、頭からすっぽりハインリヒに被せて、部屋から連れ出してきたのだった。
マントの影からゲラルトの姿を認め、ハインリヒは安堵の声をあげた。
「ゲラルト!」
「はい、ハインリヒ様、ご無事で!」
主人と侍従がが再会する横で、めしっとまた何かが割ける音がする。三人は目で了解を取ると、一目散にゲラルトがやってきた道を引き返したのだった。
ザックは猫である。床を這うように走るその姿は、煙の被害には遭いにくい。ゲラルトを追いながら、ここでも猫であることに幸運を感じていた。だが、突然、異変を感じる。
ゲラルトを追いかける足取りが急に重くなる。無音に近い猫の足音が、ペタンという人間の足音に変わる。そして、視界が高くなり、ザックは免れていた煙を吸う羽目になった。
「!」
思いっきり煙を吸い込んでしまい、咽てしまう。
火は勢いを増し、いつの間にか周りは昼のように明るくなっていた。それは、ランプの明かりの何百倍もの光量。そんな燃える炎の明かりを受けて、猫のザックは人間のザックに戻ったのであった。
昨晩、ザックはエルフの炎を浴びて体のリズムに変調をきたしていた。そこに、本来、人間の姿であるはずの昼の時間に半地下牢へ閉じ込められてもいた。
まともに自然光を受けていないから、夕方早々に猫に戻ってしまう。そして今、魔力が混ざっていない炎なのに昼のように明るいから、夜が明けたのだと体が勘違いする。ザックの体のリズムが再び狂ったのだった。
裸足の足に、瓦礫だらけの床が痛い。息が苦しければ、煙が目に染みる。肺だって、先の吐き出し切れていない煙が残っていて不愉快だ。そして何よりも、肌が熱くて痛い。全裸の人間に戻ったザックには、過酷な火災現場であった。
不意の変身がきてしまったために、ザックはゲラルトを見失ってしまった。だが、行き先はわかっている。ゲラルトが叫んだセリフ、『だめだ、この先の私室に忘れ物があるんだ!』で、ザックにはリアの居場所がわかっている。
ゲラルトの私室は、この先のもうふたつ上の階の一番奥の部屋だ。そこにリアがいる。家庭教師で王城に出入りしていたときの情報が役に立った。
細かく考える時間はない、まだ扉の原型を留めている手近な部屋へ飛び込んだ。何の防御もない全裸では、リアを救出するのは困難だ。
そこは役人の私室のようで、簡素な執務机がありその下にサンダルが脱ぎ置かれていた。迷わず履く。これで走ることができる。半分裸足と変わりないが、文句はいえない。
靴を確保して窓をみれば、夜なのに赤い空がみえる。禍々しい赤色だ。すぐそばまで火がきている。その横のカーテンは、隙間からの煙ですでに煤だらけ、これは身に纏えない。
窓とは逆のまだ燃えていない壁をみれば、薄手のタペストリーがかかっていた。ザックは迷わず引き剥がす。執務机上のペーパーナイフでタペストリーを切り裂いて、身に纏えるようにした。
ペーパーナイフを脇に挿し、卓上の水差しの水をひと口飲んだ。最後に残りを頭から被って、ザックは元の炎の中に飛び込んでいった。
***
なんだか目が痛い。痛いというか目が染みて、涙が出てくる。
この感じはザックの声をきいて、彼を助けに焼却場へいったときと同じもの。
ゲラルトの私室の窓は厚いカーテンに覆われて、外の様子はわからない。昼なのか、夜なのか、カーテンを開かなければわからない。外部の音もきこえてこなかった。
ハインリヒに両手を拘束されて、それでもリアは抵抗を続けていた。
リアが好きなのは、使用人にも優しく労うことのできる人格者のハインリヒ、今の欲望むき出しの乱暴なハインリヒではない。
いつかハインリヒが誠実な言葉とともに手を差し伸べてくれたのなら、迷わずリアはその手を取ったかもしれない。だが、同じ手を差し伸べてくれても、今のハインリヒは嫌だ。とても大事にしてもらえそうにない。直感でわかる。
ハインリヒの下で暴れながら、リアは役人に抗議するカウフマンの言葉も思い出した。
━━ハンカチーフなんて、たいていのメイドは殿下からもらってますよ。むしろ、もらっていないメイドの方が少ないんじゃないですか。
その言葉を深く考えれば、今のリアのようなメイドはたくさんいたのだろう。お城に勤める若い娘の採用に、侍女長らが慎重すぎるくらい慎重だったのが、今にしてわかる。
好きになった人は品行方正な王子ではなく、ただの放蕩王子。初恋がこんな無残な形で終焉してしまい、リアはひどく失望した。
「なかなか……大人しくならないな」
リアは小柄な体の割には力持ちだ。だって、リアは人間とエルフのハーフだから。普通のメイドよりも力が強ければ、持久力もある。それを買われての、庭師見習いであり、図書室勤務であった。
いつまでも暴れるリアにはじめは面白がっていたハインリヒだが、だんだん機嫌が悪くなっていく。
「小さくて可愛いと思っていたけど、それだけだな。でも、味見もせずに捨てるのも癪だし……なんといっても、用意してくれたゲラルトに悪いからな」
ゲラルトときいて、リアの金の瞳が大きくなった。
ゲラルトは一緒に勉強してくれたいい友人だと思っていた。だが、変な指輪を嵌めてキスしてきたり、騎士団エリアで助けてくれたと思ったらハインリヒとふたりっきりにされている。
(ラルは、最初からこういうつもりだったんだ!)
━━親友だと思っていたファビアンに裏切られた。
ザックのセリフも思い出す。まさにそれは、今のリアの状況と全く同じではないか?
今までのハインリヒのいい分と、カウフマンやザックのセリフ、お城に入ったばかりの頃の研修内容を併せて考えてみれば、もうゲラルトも、ちっともいい人ではない。
(庶民だと思って、バカにしている!)
(嫌だ!)
(こんな風に扱われて、最後にはごみ屑のように捨てられるなんて、絶対、嫌だ!)
「何だ、その目は? そんな挑発的な目をするなんて、まだまだ余裕があるようだ」
リアの金の瞳をにらみ返し、ハインリヒは暴れるリアのスカートを捲りあげた。スカートの中にハインリヒの手が潜り込む。彼の硬い指先が足首を伝い、ふくらばぎをなぞり、太ももまでたどり着けば靴下留めを外した。そのまま靴下を奪い取る。
剥ぎ取った靴下を紐に見立てて、ハインリヒはリアの手を縛っているクラバットとベッドボードの意匠飾りとを結びつけた。リアは両手を上げた状態でベッドに固定されたのだった。
「足も縛ってもいいんだけど……それは、やめておくね。ここまで手を焼かせたんだ、リア、わかってるだろうね」
ハインリヒの両手がリアの両膝にかかる。膝を立てられて、大きく横へ開こうとした。
(誰か、助けて!)
(こんなの、嫌ーー)
(ザック! ザックーーー)
まさにその瞬間だった。
派手にドアが開く音がして、マント姿のクレーデルが飛び込んできた。
「何だ、騒々しい!」
「ハインリヒ様! 緊急事態です! 火事です! 今すぐにご避難を!」
早口でクレーデルがいい、彼は窓のカーテンを開いた。そこから、真っ赤になった空がみえたのだった。