Act-8*救済の猫(6)
テラスの侍女らの間に、動揺が走る。たった今、目の前で猫に翻弄されて、テーブルが燃えている。まだその炎が消えていないうちに、次の炎だなんて……
「早く避難を! そこの外階段から王庭へ、皆、いきなさい。まだ火は回っていないわ、落ち着いて行動なさい!」
毅然とマルガレータは侍女らに命令する。
王女の冷静さに侍女らは我を失わずにすんだ。対して“ばあや”は火事だときいて腰を抜かし、マルガレータに引っ張り上げられる始末だ。
その横で厳しい顔のゲラルトが、マルガレータにお願いした。
「マルガレータ様、先に避難してください」
「ゲラルト様?」
「私は、別件がありますので」
白猫が現れて一時は驚いたが、それ以後はずっと冷静なマルガレータにゲラルトは場を任せることができた。本来ならマルガレータと一緒に王庭へ避難するのが筋であり、彼女の保護がここでのゲラルトの最優先事項だ。
だが、ゲラルトはしなかった。
なぜなら、宝物庫の上の階に自分の部屋がある。今その私室では、自分の主ハインリヒと掃除娘のリアが一緒にいる。このふたりの所在を知る者は、ゲラルトと彼の侍従クレーデルしかいない。
このままでは、密会中のハインリヒが逃げ遅れて焼け死んでしまう。自分は侍従という名目もあれば、ハインリヒは自分の望みを叶える大事な駒でもある。見過ごすことはできない。ゲラルトはマルガレータと別れ、避難の人の流れに逆らって王城へ駆け込んだのだった。
***
左指の煌々とした熱が、いつの間にか消えていた。熱と一緒に指輪の効果も消えてしまい、リアの意識も少しずつ覚醒していった。
「………………」
頭が覚醒していけば、視界だって明瞭になっていく。
最初にみえたのは、きらびやかな天井。細かな模様が描かれて、たくさんの色が使われた美しいもの。しかも、とても高い位置にある。ここの天井は使用人棟のリアの自室よりも二倍、いや三倍の高さがあるのだろうか?
次に目に入ったのは、金髪だ。ろうそくの明かりを受けて、それは柔らかに光っている。
金髪の持ち主は、横たわるリアを上から見下ろしていた。
(この金髪は……)
(……ザック?)
(夜が明けて、人間に戻ったのかしら?)
大きな手がリアの前髪を梳き、後ろへと撫で付けていく。髪を弄ったあと、その手のひらが頬を撫で、指先が唇をなぞった。
なんだか大事にされているような仕草に、リアはうっとりしてしまう。
(大きくて温かい手)
(気持ちいいな……なんて)
(あ、でも、ザックがこんなことするなんて……珍しいな。寝坊しそうなときはいつも肩を揺するのに……)
金髪がみえて、次にリアが期待したのはオレンジと青のオッドアイだった。
だがみえたのは、ふたつの碧の瞳。キラキラと初夏の新緑を思わせる明るくて瑞々しい緑色だ。
(あ、違う……ザックなら、目の色がオレンジと青だ、こんな緑の目じゃない……)
こんな瞳の持ち主を、リアは知っている。それは、ハインリヒ。この国の第二王子で、リアの好きな人。
(あんなにハインリヒ様が好きなのに、どうして、オッドアイが一番最初に浮かんだんだろう?)
(ああ、そうか、同居するようになって三ヶ月になるから……)
(……すっかり、慣れちゃったんだ、ザックのいる生活に)
「おはよう、リア。今日は尋問を受けて、疲れただろう。あとで役人を罰しておくから、機嫌を直して」
ザックではないハインリヒの声が、リアの耳に入った。しかも謝罪の言葉がある。
「!」
途端、しっかりリアは目が覚めた。
「あ、は、ハインリヒ、様?」
がばりと起き上がれば、広いベッドの上。それは、使用人棟の自分のベッドなど比べものにならない上質な感触と快適な寝心地だった。リアはお仕着せのまま、そこに寝かされていた。
そして横には片ひじをついて怠惰な姿勢で横たわっているハインリヒ。眠っているリアの隣にずっと寄り添って、リアの髪を弄っていたのだった。
(ちょっと待って!)
(どうして、ハインリヒ様が隣にいるの?)
(ラルは? ラルはどこ? 一緒にラルの部屋にきたのに!)
予想もしていない人物が、しかも自分の憧れている王子様が、こんなそばにいる。心臓が衝撃でドキドキし、顔に熱がこもる。
興奮しながらもリアは状況を確かめようと、まずは深呼吸した。
(ラルと一緒に彼の私室へやってきた……)
(だが、その先は……)
扉の前で、指輪が熱くなって、全身も熱くなって……意識が飛んでしまった。
それを思い出して、リアが慌てて左手をみれば、薬指は空っぽだ。あの白いオパールの指輪はない。
「リア、どうしたの?」
ハインリヒの声に、この部屋にふたりきりだということにも気がついた。
「あの……ここは?」
「ゲラルトの私室だ」
落ち着いて周りをみれば、ここは今までにみたことのない立派な部屋だ。グレーを基調とした落ち着いたインテリアが男性的で、ゲラルトの私室だといわれれば彼の雰囲気とマッチしていてひどく納得がいく。
ハインリヒもゆっくり起き上がり、リアと向かい合わせに座った。柔らかなベッドがふたり分の体重を受けて沈む。広いベッドの中央に、埋め込まれたようなふたりになった。
「あの……ゲラルト様は?」
部屋の持ち主はわかっても、目の前にいる人はその持ち主ではない。もう一度、リアは左手をみてしまう。でも、いくら左手をみても何も思い出せない。
まじまじと左手をみるリアに、ハインリヒはいった。
「そうそう、今日、リアに会えるときいて、持ってきたんだった」
さっきまでリアの髪を弄っていたハインリヒの手が、ジレの内ポケットから新しい指輪を取り出した。
「リア、これがダイヤモンドだよ。いつかみせてあげると約束していたよね」
ハインリヒが手のひらにのせて差し出したのは、無色透明で鋭い輝きのある宝石の指輪。かつて、図書室で音読した“d”から始まる単語の宝石、ダイヤモンドがついた指輪であった。
生まれて初めてみるダイヤモンドに今の状況を忘れ、リアは見惚れてしまった。
「わぁ……綺麗……です」
キラキラと光の耀きだけを集めた宝石、その表現は本当だと思う。だがすぐに、ほれぼれとダイヤモンドを鑑賞している場合ではないと我に返った。
「あの……ゲラルト様は、どちらに?」
「リア、君はゲラルトのことばかり口にするんだね。確かに、彼を遣わしたのは私だけど……少し、気に食わないな」
「ハインリヒ、様?」
リアの先の質問をさりげなくかわして、ハインリヒはリアの左手を取った。彼もまたゲラルトと同じようにリアの薬指に指輪を嵌めようとする。
「ハインリヒ様、やめてください」
(また変になっちゃう!)
リアの中では、指輪はトラウマとなっていた。
ゲラルトに指輪を嵌めてもらうといつも記憶が飛んでいた。今のハインリヒもリアに指輪を嵌めてようとしていて、また同じことが起こるのではないかとリアは怖くなる。そうなるのが嫌で、リアはすぐさま丁寧に拒絶したが、ハインリヒにはきこえない。
「遠慮しなくていいよ。これは私からのプレゼントだから」
「え! それは困ります。そんな宝石なんて、高価なもの、もらえません!」
リアのいい分がおかしかったのか、くすりとハインリヒは笑って、でも手は強引に指輪を嵌め込んでいく。
ハインリヒの掴む手が、温かい。指輪と一緒にリアの薬指をなぞる指が、艶かしい。好きな人に触れられて、心が落ち着かない人はいない。ゆっくりと指輪越しに薬指の脇をなぞられて、不安になりながらもリアはドキドキした。
「ああ、サイズもちょうどいいね。ピッタリだ」
至極満足してハインリヒはいう。一方のリアは、指輪を嵌めてもらう間、目を強くて閉じ顔を背け、硬直してしまっていた。次に起こるきっとよくない自分の変化に、リアはおびえていた。
(!)
(…………)
何も起こらなかった。
手と指にハインリヒの体温を感じるが、指輪からは冷たい金属の感触しかない。このダイヤモンドの指輪をつけてもリアの体には何も変化が起こらなかった。
「?」
ゆっくり目を開けて、リアはハインリヒの顔をみた。
ろうそくの光を受けて、ハインリヒの金髪が温かな色目で輝いている。碧の瞳にも穏やかな色が浮かび、口元は柔らかな弧を描いていた。品行方正で、皆に優しい、リアの知っている美貌の王子様が目の前にいた。
お城のメイドたちの憧れのハインリヒ王子が、自分の手を取り、自分のために用意してくれた指輪を嵌めた。まるでお姫様にでもなった気分だ。心臓がとくんと、甘く拍打った。
(どうしよう……これは夢?)
ハインリヒのことはみているだけでいいとゲラルトへ宣言していたが、心臓の高鳴りにやはり本音は違うのだとリアは自覚した。
「リア、ゲラルトからは、何てきいている?」
「え?」
質問の意味がわからず、リアは返事に躊躇する。少し困ったように、ハインリヒは言葉を探りながらいい直した。
「ああ……うーんっと、そうだな、明日から、どうするようにいわれた?」
「はい、アーベントロート家にて働くようにと」
自分でいっておきながら、そうだったのかと疑問に思う。騎士団エリアの取調室でゲラルトが役人らに向かっていったことを、リアはそのまま告げた。
途端、嬉しそうにハインリヒが微笑んだ。その様子は春の陽射しを受けて一斉に新緑がほころぶようだ。この上もなく上機嫌な顔をリアにみせて、弾む声でこう尋ねた。
「それで、リアは何て答えたの?」
(え? 何て……何て、答えたかしら?)
リアに、答えた覚えはない。取調室では、ゲラルトがすべてひとりで役人らに話をつけた。その間、ずっとリアは沈黙を貫いていた。その後の詳しい説明は、うやむやになっている。
アーベントロート家行きのことは、肯定もしていなければ、否定もしていない。今晩の宿を借りても明日には元の使用人棟へ戻るつもりでここにいるし、彼にはそう伝えた。
だから、こう答えるのが無難だと、深く考えずにリアは口にした。
「はい、よろしくお願いします、と」
ハインリヒの碧の瞳が、鋭く光る。きれいな形の唇だって、口角が上がった。
「!」
リアのセリフが終わるとすぐに、ハインリヒはリアの二の腕を掴んだ。そのまま自分の方へ引き寄せ、ベッドへ押し倒す。品行方正で素敵な王子様、そんな姿など、このハインリヒにはなかった。
あっさりとベッドの上に、ハインリヒに組み敷かれたリアが出来上がった。
「ねぇ、リア、はじめて会ったときは、君は私のことを知らない振りをしているかと思ったよ。だが、そうじゃなくて、本当にリアは知らなかったのだね。私のことを知らない人間がいるだなんて、びっくりだったよ……まぁ私の方も、自分を買い被り過ぎていたのかもしれないが……」
今までと同じ丁寧なハインリヒの口調、感慨深くもあるその声の底には、今までにない下卑た色も見え隠れする。
「?」
押し倒されたリアの方は状況がよくわからず、告げられるセリフの意味も理解できず、ただ金の目を大きく見開いてハインリヒを見上げるのみ。
(ハインリヒ、様?)
(この人、あのハインリヒ様よね?)
いつの間にか、お仕着せのスカートの上から足の間にハインリヒの体がある。両肩はハインリヒの両手でホールドされて、リアはベッドに張り付けられていた。