Act-8*救済の猫(2)
「…………」
ぼんやりと暗闇が侵食していく天井を眺め、ザックは考えた。
リアに文字を教えてやるといったが、まだそれは終了できていない。それは、リアの成長に貢献してもいなければ、自分がこの世界で自立するまでの宿の礼にもなっていない。
となれば、今ここでリアを捨ててひとり脱出してしまえば、ただの恩知らずで嘘つきな人になる。二百年前のファビアンが幸せにするといってクリスティーンに求婚したのに、自分の利益のために彼女を売り渡したことと同じだ。
友人を陥れ、友人の婚約者を奪い、その婚約者を裏切った、恨んでも恨み切れないあのファビアンと同じとは。
自分が見下している人物とこれから自分が取れる一番簡単な行動を照らし合わせてみれば、それはひどく嫌だとザックは思う。自分はあんな悪党ではない。ここはかつての品行方正な王子の矜持が、自己保身よりも勝っていた。
「…………」
天井の暗闇が、さらに濃くなってきた。迷っている間にも、刻々と時間は過ぎる。
仕方ない、とりあえず助けにいくか。リアが無実の罪であることには間違いないのだから。その先のことは、しばらく面倒をみて、そして……お互い身の振り方を決めるしかあるまい。
そうザックが決めると、体がそれに呼応するかのように、変身の兆候が表れ出した。
ザックがリアを助けにいくと決めてものの数分後には、白い猫が半地下牢の小窓から顔を出した。そのままするりと十字格子から抜け出れば、断崖を上り、暮れゆく王庭の木陰の中へ消えていった。
猫のザックは、リアの横でぐっすり眠るときもあれば、魔法を使っていろいろ出歩くときもある。
魔法が使えるときの猫はザックの意識があるときだから、人間のザックではいくことのできないところへ忍び込んでいろいろ情報を仕入れていた。
大体は開いた窓辺の下で佇んで、部屋の人物の話から、この世界で生活していくうえで必要な庶民の常識を仕入れていた。
役人らの雑談から税収入の実態や地方自治の良し悪し、領主の評判を、メイドらの噂話から遠くへ嫁いでいった友人のそこでの生活のしやすさを、という具合に。図書室の絵画の中にいたときには、なかなか得られない実用的な内容であった。
この国で暮らすのなら、自分の子孫にあたるこの国の王族のことも知っておいた方がいい。そう判断し、王城内でも王族の住まうエリアにも猫のザックは忍び込んだ。
王太子のマインラートのところへいけば、彼は国王と同じで、ごく普通に執政に取り組んでいた。この親子なら、飛躍的に国が栄えるということはないが、急速に没落するということもない、そんな王と王太子であった。
第三王女のフロランツィアはまだまだ全然子供で、未知数ばかりで何ともいえない。またザックが白猫となる時間には、彼女はとっくに夢の中の住人で、王女と白猫が出会うことはなさそうだ。
第二王子のハインリヒは、女癖が悪く、我が一族の悪い形質をきれいに引き継いでいた。
気に入った娘が見つかれば声をかけ、そばにおいて可愛がり、飽きれば城外へ消えてもらう。ひとりだけでなく同時に何人もというときもあれば、一週間足らずのふれあいもあれば半年以上続くときもある。こんな具合に節操がない。
第二王子という立場も、将来、国王になることもなければ、遊び相手を間違えない限り王族特権剥奪にはならないというものだから、彼の悪癖を助長するだけであった。
そんな裏の顔を持つハインリヒは、リアに目をつける二週間前に、ひとりのメイドに暇を出したばかりであった。
王族にすれば “色を付けてやれ” のひと言で、去っていく彼女の支度金の割り増しができる。その差額も些細なものだ。貰うメイドにしても、一部のメイドらの間ではことの実態が知れ渡っていることもあって、それを知ったうえでハインリヒに近づく娘もいる。
したたかな彼女らは王子の要望に応えて、適度に奉仕して、適当な頃合いに辞退を申し出て、難なく割り増し退職金を手に入れさっさと城を辞めていった。
リアはそんなこと、もちろん、知らない。
彼女が年齢よりも体が小さくて、メイド仕事ではなく庭師の手伝いが城での仕事のスタートだったから。一般的な男女の恋愛の噂話から離れていた。
リアが図書館勤務ということも幸いしていた。そこには業務一辺倒の本の虫、カウフマンしかいなかったから。
友人のエマは書記官見習いのクルトに守られてもいれば、第二王女のマルガレータの配下のメイドということもあって、ハインリヒは彼女に食指を伸ばさなかった。あんなふしだら王子だが、妹の前では品行方正な尊敬される兄を演じていたいようだ。
だから、エマの方もどれだけ城内の不品行の事情を知っていたか怪しいところがある。当然、エマの友人のリアの元には、届く情報がもっと少なくなるのであった。
第二王女マルガレータは、ごく普通の王女である。他の兄妹と違って、このマルガレータは植物や動物を愛する好奇心旺盛なタイプであった。
他の兄妹たちの部屋の窓辺へいっても、ザックは見つかることがなかった。なのに、マルガレータだけにはそうならなかった。
━━あら、猫がいるわ。白猫よ。毛がフワフワして、かわいいかも?
そういって、大胆にも、おいでとザックに手を伸ばす。せっかくのお誘いだから、ザックも乗ることにした。
━━あなた、お腹空いているでしょ? だって、お腹がペッタンコだもの。
抱き上げて腹を撫で、すぐにそう決めつける。マルガレータはザックの食事を用意させた。もちろん、“ばあや”には内緒である。
━━ねぇ、フォル。あの人は、今度いつ手紙をくれるかしら?
食事のあとはいつもザックを膝の上に乗せ、撫でながら話しかけた。名前だって、“フォル”という特別なものを頂戴してしまっていた。
気がつけば、誰にもいえない秘密を、たまにやってくる猫のザックとマルガレータは共有するようになっていた。
姉のロジーネがすでに政略結婚で国外に嫁いでいったので、当面マルガレータには国外の政略結婚の話は上がらない。
国王自身は、マルガレータには国内の有力貴族と婚姻を結ばせて国内基盤を強固にしたいと考えているようだった。はっきりとはいわないが、国王と王太子の会話からそんな空気をザックは読み取っていた。
でも当のマルガレータは、父や兄の望む国内の有力貴族、筆頭につけているのがゲラルトなのだが、よりも、隣国の宰相の嫡男フォルカーとの結婚を望んでいる。
そして何よりも、そのゲラルトとのことが好きではない。
“ばあや”の目の届かないところでは、ゲラルトの贈り物をみてため息をついている。別の侍女の前ではいわないが、猫のザックの前ではフォルカーの名を口にする。いい証拠だ。
うまい食事、皮肉にも猫のときには猫用が口に合うのだが、を出してくれて、毛並みを撫で慈しみ、“ばあや”から守ってくれるマルガレータ、何かとリアの次に恩のあるマルガレータとなっていた。
魔法を使ってゲラルトに干渉してやるべきか、余計なことをせずさっさと城を去るべきか、ここもザックは悩んでいた。
幸いにも、脱走したときの猫のザックは魔法の使える猫だった。
半地下牢は、猫ゆえに難なく脱走できた。そもそもが人間のための牢屋であり、猫の檻ではない。十字格子の隙間は人間には通り抜け不可能だが、猫には可能な広さである。
小窓は断崖絶壁に近い斜面の途中に設けられていた。洞穴に手を加えて作ったという自然の地形を利用した半地下牢であった。
窓下方には並々と水を湛えた川が流れている。上方を見上げれば、ほぼ手付かずに近い森林が広がり、一見、その地下に牢獄があるなどとは思えない王城の騎士団エリアであった。
すぐにリアの元へいきたいが、半地下牢にいるうちは、エルフを警戒して大々的に魔法を使わなかった。まだリアの居場所は見つかってはいない。
見つかっていないといっても、拘束されている場所はだいたい見当がついている。だが城は広くて、ザックは空腹でもあった。変な自尊心で囚人用の食事に手をつけなかったから、それこそお腹がペッタンコだ。
適度な空腹は思考を研ぎ澄ますが、過度の空腹は実行力を損なわせる。
ここへいけば、食事にありつける。━━迷うことなく一目散にマルガレータの部屋へ、白猫は向かったのだった。
━━にゃん! にゃん!
マルガレータの部屋のテラスから、催促した。
すぐに彼女は気がついて、自らがガラス戸を開いた。たったったと、物音ひとつ立てずにザックは入り込んだ。
「あら、フォル、いらっしゃい。今日はずいぶんと早い時間のお越しね」
いつもの場所、それは食事を出してくれるソファそばだ、へいき、いつものようにマルガレータを仰ぎ見た。
「なぁに? お腹が空いているの?」
━━にゃん!
「待ってて、用意させるわね」
いつも訪れる時間よりも今日は早く、日没直前だ。
この時刻にテラスからみえる空は、完全な闇色ではなく複雑な色合いだ。西の空は黄昏色の名残が残ったグラデーションというのに、東の空は星屑が散っている。
本来ならザックは、まだ人間の姿である時間。なのに、もうすっかり猫であった。
昨晩のエルフの魔力の混ざった光を大量に浴びて、すっかり体内のリズムが狂ってしまった。翌朝に陽の光を浴びて体はリセットされて人間に戻っても、意識はそうならず目が覚めなかった。
そんな深い眠りのまま、午後から半地下牢に閉じ込められて、強制的に陽の光が遮断される。今日のザックは、充分に自然の太陽の光を浴びていなかった。
そのせいで、ザックの変身の時間がまた狂い、早くに夜の姿である猫へと変身したのだった。
出された食事、今日は白身魚のパテだ、を、無我夢中で貪った。丸一日ぶりに食するディッシュは、この上もなく旨い。猫のものだけど。
パテの横にミルクも置かれ、こちらもぴちゃぴちゃと音を立てて舐め啜った。
「どうしたの? 今日はずいぶんお腹を空かせていたのね」
クスクスと笑いながら、隣でマルガレータが見守っていた。
そこに、ノックの音が響いた。マルガレータの誰何の声を待たずに、ノックの主は用件を告げた。
「マルガレータ様、アーベントロート卿がお越しです。お通ししますね」
ノックの主は、マルガレータの乳母であった。
“ばあや”は、どこかゲラルトに甘い。そうマルガレータは独り言を漏らしていたあの乳母だ。ザックはいつだったか、テラスできいていた。
今だって、そのマルガレータの言葉は正しくて、誰何の声を返す前に、彼女はゲラルトを通してしまう。
マルガレータは慌ててフォルのディッシュとミルクプレートを、ソファ下へ隠した。ザックも、皿に引き寄せられようにソファ下へ潜り込んだ。
テラスへ出る時間もなければ、ザックの腹もまだ満たされてなかった。
「こんばんは、マルガレータ様。ブルーベリーのタルトをご馳走になりに参りました」
爽やかな笑みとご機嫌な声が、マルガレータに向けられた。
リアをハインリヒに引き渡した後、マルガレータのご機嫌伺いにゲラルトがやってきたのであった。