Act-8*救済の猫(1)
昨晩は奇妙な時間にエルフの魔力が混ざる炎を浴びたせいで、すっかりザックは体のリズムが狂ってしまった。一定の光度以上の明るさでも、太陽のものとエルフのものでは質が違うらしい。体の芯が重く違和感がいつまでの跡を引いていた。
だから翌日に正しい太陽の光を浴びても、ザックは目覚めることがなかった。
ずっと眠っているから、リアが出勤前に上掛けをかけてくれたことも、役人が抜き打ち持ち物検査にやってきたことも、不審人物として拘束され騎士団エリアの半地下牢に放り込まれたことも、ザックは知らない。泥沼に沈んでしまったような深い眠りの中で、過去の負の遺産であるあの指輪を一体どうやって処分すればいいのか考えていた。
━━信じられない心臓の持ち主だな。この状態で、まだ眠っているぜ。
━━どうだかな。薬で眠らされているんじゃないか? いくらなんでもこんな雑に扱われたら、普通は目が覚めるって。
━━まぁ、あの部屋の女は、独身向けの使用人棟に男を引きずり込むようなタマだ。あんなに服や本が並んでいるところをみれば、こいつとは昨日今日という仲じゃないだろう。薬漬けにして、何日も一緒に住んでいたんだぜ、きっと。目が覚めないのはそういうことさ。
━━そうだな。それに、そんな手癖の悪い女なら、金ほしさ、いや薬ほしさに窃盗団にも手を貸すだろうよ。
━━ああでも、やっとこれで、このめんどくさい業務が終わった。今晩はうまい酒が飲めそうだ。
役人らは口々に悪態をついて、眠りから覚めないザックをリアの部屋から運び出したのだった。
役人らがリアの部屋に踏み込んだとき、ザックは全裸でベッドの上で眠っていた。
無人だと思っていた部屋で全裸の金髪男を見つけてしまい役人らは大いに驚いたが、極めて彼が不審過ぎるから迷うことなく拘束した。
ザックが全裸でベッドにいるのをいいことに、その上掛けごと縄でぐるぐる巻きにしてしまう。全裸だから、身体検査の必要もなかった。眠っているから、暴れることも逃げることもない。簡単な捕物帳であった。と同時に、彼らにすれば、何日もかけて行ってきた持ち物検査と窃盗犯捜索がやっと終わったのである。
こんな風にザックは運び出され、日当たりの悪い北向きの半地下の牢に放り込まれた。
半地下牢には、小さな小さな窓が部屋の上方にひとつ、ぽつんとあるのみ。そこから光がわずかに射し込んでいる。光が少なければ換気もされていないので、部屋全体が湿気を帯び、かび臭い空気がよどんでいた。
そんな昼なお暗い部屋の粗末なベッドフレームの上に、ザックはごろんと転がされた。さすがに縛ったままでは良心が咎めたのだろう、役人らはザックの縄を解いて去っていった。
エルフの炎の悪影響が抜けて、ザックが目を覚ましたのは、夕方少し前。ちょうど、リアが騎士団エリアの取調室で尋問を受けている時間であった。
目覚めてまず、昨晩と違う薄汚い天井がオッドアイに映る。ザックは訳が分からず、しばらく呆然としていた。まるでここは、クリスティーンと引き離されて裁判まで拘束されたときの部屋のようだ。忌々しい過去の記憶と重なった。
二百年前、クリスティーンとふたりでいるところに、大柄の騎士ふたりと結界張りを得意とした魔法使いふたりを従えた役人がやってきた。四人がかりでザックは取り押さえられ、連れ出された先は拷問部屋からそう遠くない地下牢の一室。ガタガタの家具に擦り切れた薄いリネンしかない部屋で、食事は冷えたスープと硬いパン。王族であっても、通常の犯罪者と同じ扱い、同じ待遇であった。忘れてしまいたい屈辱的な記憶を掘り起こされて、ザックは気持ちが滅入ってくる。
これだから、エルフは嫌いだ。
しっかり目覚め、次にエルフを恨む。昨晩のツェーザルの炎は役に立ったが、こんな弊害が生じることになるとは。
夏の陽射しが強く日没まで時間があるといっても、こんな半地下牢では季節などあまり関係ない。強いていえば、寒くないのが幸いか。全裸のままの自分の姿を見つけ、ザックは苦笑した。
普段はリアが困惑するから、ザックは彼女よりも早く起きて身支度を整えていた。全裸のままで牢屋にいるということは、リアはザックを起こさずに仕事に出たとわかる。
自分がここにいるということは、リアも逮捕されているだろう。昨夜の火事を重くみて、窃盗事件を一気に解決すべく、なりふり構わず一斉捜索に入ったと思われた。やはりこの城の役人は、二百年経っても質が向上していなかった。
火災をきっかけに使用人の部屋を一斉に調べたとなれば、それを受けて当の泥棒は今晩この城から撤退するとみた。せこい犯罪を重ねて城内の人間を疑心暗鬼にさせて仕事を行ってきたが、もう潮時だ。完全撤退するとなれば、最後に大物を狙ってずらかるのも目にみえた。
今ごろは王城のどこかに潜んで、機会を待っているはず。ザックは確信する。
「…………」
魔法を使えば、その匂いを嗅ぎつけてエルフが集まってくる。二百年前に比べて魔法使いがほとんどいない今の時代は、ほんの少しの魔力でもエルフの目につきやすい。
エルフなんか、大嫌いだ。あいつらはろくなことをしない。
あまり魔法は使いたくなかったが、現状を探るためにザックは意識を半地下牢の外へ広げたのであった。
魔法で周りを探索する間、身体を丸くして上掛け一枚にくるまっていた。そこに、看守が食事を運んできた。
夕食の時間にはずいぶん早いが、その理由はきっとランプを使いたくないからだろう。囚人などに明かりを灯してやる必要はない、食事が出るだけでもありがたいと思え、そんな意図がよくわかる。出される時間も役人らの都合だから、ランプをつけずに出入りできるこんな早い時間に供されたのだった。
「ほら、夕飯だぜ。金髪のにーちゃんよぉ」
「…………」
こちらは精神集中しているので、そんなのにいちいち構うのはごめんである。寝たふりをしてザックは無視をした。
「まだ寝てるのか? おっそろしく効く薬だな。一体、どんな薬なんだよ。ああ、怖い怖い」
格子のすき間から木製ボウルに入ったスープとパンを押し込んで、それきり看守は去っていく。囚人の容態など、どうでもいいらしい。足音が小さくなり、遠くで扉の閉まる音が小さく響いた。
「…………」
昨日の夕方にリアの持って帰ってきたバスケットの夜食を食べてから、ザックは何も食べていない。腹は減っているが、どうもこの食事には手をつけたくなかった。変なプライドがザックを禁欲にする。そして、飢餓状態であればあるほどに、彼の頭は冴えてきた。
ランプなしで夕食を持ってきたのだから、もうここに看守は戻ってこない。他に物音がひとつもきこえてこなければ、囚人はザックひとりだけだともわかる。
日が暮れたら、行動を開始するか。猫になれば、あの窓から脱出できる。
十字の格子がはめ込まれただけの小窓を見上げて、今しばらく、ザックは猫になる時間まで待つことにした。
近いうちにこの城を出る予定であったので、ザックにはあらかたの準備ができていた。
リアの部屋へ本を持ち込んで二百年分の歴史と生活様式などを確認し、今後の食べていく手段を何にするかいくつか選択肢を見つけてある。現在の国土情報から、流れ者が定住しても怪しまれる恐れのない土地もいくつか見つけてある。
王子の家庭教師を行っていたが、あの王子の学習到達の云々など、どうでもよかった。誰が家庭教師になろうとも、あの王子に学ぶ意欲が乏しいから上達に差が出るとは思えない。家庭教師になった目的は、図書室以外の資料を読むためであって王子に教育を与えることではない。適当な理由を述べて、適当な頃合いで辞職する予定であった。
そんな自立の準備の最中で唯一の気がかりになったのは、リアのこと。彼女を連れてこの城を去るのか、彼女をここに残して去るのか、ザックはまだ結論が出ていなかった。
リアのことをツェーザルに頼まれたのもあるが、彼女には焼却場での自分の叫びに反応し助けてくれた恩がある。勝手な口実をつけて居候したが、不承不承でもあの部屋にリアは自分をおいてくれた。その借りもある。
彼女の方で異存がなければ、場所を変えて同居生活を継続してもいいとザックは考えていた。なぜなら、城を出てからも、ザックは夜になれば猫になることに変わりないからだ。
この体は死ぬまでそういう運命だろう。城を去ったのち、ひとりで生きていけないこともないが、ひとりよりも複数人で生活する方がやはり生きやすい。
リアはそんなザックの特異体質を理解している唯一の人間で、説明の必要もなければ、ふたりの間のリズムもかなり整っている。今後、リアと同じくらい理解の得られる人間に出会えるとも限らない。
リアに文字を教えるのは、自分の救命なり、居候なりの礼であるのは確かである。リアが文字を覚え、掃除以外の能力を身につけてくれれば、ザックも後腐れなく出発できる。
だから、ハインリヒが現れたのは迷惑だった。リアが文盲を克服する前だったから、もっと賢くなる前だったから、バカ王子のことに干渉した。
城の使用人の娘が王子に見初められて愛妾に納まることになれば、それはそれでいいだろう。だが、そうならなかったら?
特に美しいわけでもなく肉体労働しか能がない掃除娘のリアが、ハインリヒに飽きられて捨てられてこの城を後にするときのことを考えると、その後の彼女はきっと食べるのに事欠いてしまう。
もう少しリアに生活能力があれば、ハインリヒと親密な仲になっても文句はいわないつもりであった。だが、リアはまだまだ未熟な娘で、好き勝手に恋愛をしてその責任が取れるような大人ではなかった。
ったく、面倒なものを押しつけやがって……これだから、エルフは嫌いだ。
窃盗団のこともあるが、昨夜の火事で状況が一度に変わってしまった。
猫になれば、あの窓からザックは逃亡できる。遅かれ早かれ城を出ていくには変わりない。
自分の予定は変わらないが、リアの未来は大きく変わってしまった。
彼女は冤罪で逮捕されているのだ、リアの未来はハインリヒとの恋愛後に心配していたものとは全然違うものになってしまった。
「…………」
二百年前、ザックは王太子殺害未遂事件の首謀者とされて、誤認逮捕されて、そのまま絵画封印の刑となった。ザックの無実を知っていても、誰もザックの冤罪を晴らすことができなかった。巧みに罠が張り巡らされ、状況証拠が揃い過ぎたあの冤罪を、根底からひっくり返すのは非常に難しかったし、できる人間もいなかった。
だけど、今のリアは違う。二百年前のアイザックとは違う。
ザックはずっとリアと暮らしていたから、リアの無実を知っている。ザックは魔法使いでもあれば、リアを救出する術もある。
そして何よりも、今リアが感じている冤罪の悔しさと無念さを、他の誰よりもザックは理解できるのであった。




