Act-2*炎の猫(1)
「猫ちゃん、おはよう」
朝の掃除で『白い猫』のそばを通りかかれば、そうリアは挨拶する。
「今日は長めの読書の時間がもらえたの」
空き時間がもらえたなら、その喜びを『白い猫』に報告する。
「あ、カウフマンさんが呼んでるわ。今日はここまでね。またね! 猫ちゃん」
カウフマンの声で読書の時間が終了になれば、『白い猫』に一日のお別れの挨拶をした。
リアに“読書”の習慣がついてからは、図書室での毎日はこんな感じになっていた。
端からみれば、それはリアのひとりごとである。だって、絵画の中の『白い猫』は決して返事をしないから。
それでも、リアは『白い猫』に話しかけた。この図書室は、原則リアとカウフマンしか職員がいない。冬のガラス拭きはグループで働いたが、図書室へはリアだけが配置された。日中リアがかかわり合う人は、カウフマンしかいない。
使用人棟に戻れば使用人仲間がいるが、常に彼らと顔を合わせるわけではない。リアこそは決まった時間に掃除をしているが、厨房のメンバーなどは早番があったり、遅番があったりする。
休憩時間に図書室までわざわざやってくる友人はいない。皆、だいたい自分の持ち場で休憩する。リアだって、そうだ。
図書室という場所柄、静粛も求められるから、ここは圧倒的に孤独な掃除場所であった。
だから、何とはなしに、リアは『白い猫』に話しかけてしまう。
当然、『白い猫』からは返事はない。でも、リアはかまわなかった。
毎日、ずっと黙ったまま作業をするのは、意外と心を窮屈にするものがあり、どうも心地がよろしくない。かといって、忙しいカウフマンに話しかけて業務の邪魔をするのはいただけない。
だったら、この『白い猫』とお話しする方がよっぽどいい。こんな奥にまで人は滅多にこないから、ひとりごとを呟く変な娘のことが噂になることもない。
こんな風に、リアが『白い猫』のそばで読書と会話をするようになって、一年ぐらい経った頃だろうか、それは突然やってきた。
***
それとは、とある通達である。老朽化が著しいこの図書室を解体するというもの。リアが掃除をするこの図書室が閉鎖されることになったのである。
「そんなこと、全くきいていないのですが?」
ある初夏の日の、朝のミーティングにて、リアは思わずカウフマンに問い返した。
この図書室に配属されて一年半、真面目に掃除をしていたのだが、出入りする人は誰もそんなこと口にしていなかった。だから、リアにとっては寝耳に水の話である。
「ああ、そうでしたね。ここの閉鎖は、リアさんが配属されるずっと前に決まっていたことでしたから」
そうでしたそうでしたと、何でもない顔をしてカウフマンは告げる。図書室に出入りする人も、とっくの昔に決まったことだから、今さら話題にしていなかった。
リアが配属されるずっと前の決定というのなら、解体が決まっている図書室に新たに人を配置するのはおかしくないか?
また、それを知らずに今まで一生懸命掃除していた自分は何なのか?
(いや、それよりも、私のお仕事なくなっちゃう?)
(だって、新しい掃除場所のことなんて、何もきかされていないし)
閉鎖を告げられてこんな結論に到達すれば、さぁっとリアは青くなった。そんなリアをみて、慌ててカウフマンは補足を入れた。
「新図書室が来月にも完成するので、そちらに引っ越します」
(!)
“新図書室”に“引っ越し”という単語で、リアは気がついた。
確かにこの図書室は、老朽化が著しい。だけど古いのは建物だけで、中の蔵書はそうでない。毎日貸し出し業務が行われ、新書だって毎週、納品されている。まだまだ利用される価値のある施設である。
それに完全に図書室がなくなれば、このカウフマンだって失業になる。でも、焦りや悲壮な雰囲気など、今まで彼はこれっぽっちも漂わせていなかった。
「リアさんは、引き続きそちらの掃除の担当です。解雇ではないですよ」
カウフマンのセリフに、リアの肩の力が抜けた。
(なぁんだ、びっくりした~)
ホッとするリアを認めてから、カウフマンは今後のスケジュールの説明を始めた。
そうして、引っ越しの準備が始まった。
といっても、通常の図書室業務はそのままで、それと平行して進めていく。リアの担当は、カウフマンのリストに沿って本を梱包することである。
引っ越しが決まっても、カウフマンの図書室業務は変わらない。一方のリアは、今までいただいていた自由閲覧の時間が引っ越し梱包作業の時間に変わった。
それは、『白い猫』との時間がなくなってしまうということである。だが、それはあくまでも空き時間のときの習慣で、本来の業務に集中するのが正しい。
最初は少し残念に思ったが、それも引っ越しが終了するまでのこと、そうリアは気持ちを切り替えた。
カウフマンの作る引っ越しリストは、毎朝ミーティングで渡される。
朝の掃除を済ませてから、リアはリストの本を探しだし、紐でまとめ、あの入口ホールのリーディングデスク上に載せていく。一番上に朝もらったカウフマンのリストを挟み込んで。
リーディングデスクには、普段のカウフマンの業務分と、リアの作る引っ越し用の本の束とで、倍の本の山が築かれるようになった。
リアの作った本の束は、主人のご用で出入りする侍従らが、目的の本とあわせて持ち出していく。ご用ついでに、新図書室へそれらを運んでくれていた。
新図書室は来月にできるときいたのだが、すでに本棚はほぼ設置完了しているらしい。未完成なのは内装、特にカーテンがまだ納品されていないとのこと。カウフマンは、工事が終了して使用可能な本棚に入る蔵書から移動させていたのだった。
少しずつ作業を進めながら二週間ぐらいした頃だろうか、この頃には約三分の二の本が新図書室へ移されていた。カウフマンはリアにいった。
「この引っ越しはいい機会なので、本の整理します」
「それは、捨てるということですか?」
これからその廃棄処分の仕方を説明するのかと、リアは真剣にきいた。
「ええ、もう使えない古い知識の本は捨てます。傷みのひどいものとかも。本棚と一緒に、焼却します」
どうやら、最後にまとめて燃やしてしまうらしい。梱包しなかった本を思い浮かべると、そうなっても無理もないかなと思うような汚れて傷んだ本ばかりである。
「だから、本棚に残してある中でほしいのがあれば、持って帰ってもいいですよ」
リアが熱心に読書をしているからご褒美ですよとも、カウフマンは付け加えた。
熱心に読書をしている、正確には熱心に眺めていただけなのだが、カウフマンはリアのことを向学心ある掃除娘と勘違いしたようだ。
リアが眺めていたのは、絵の多い本、そう図鑑のようなものである。そこには、変な色の果物や不思議な形の貝、舟になりそうな巨大な葉っぱに花よりも小さい鳥などが解説文と一緒に載っている。
解説文は知らない単語が多くて意味がわからない。でも、今までリアがみたこともきいたこともない世界が本の中に広がっていた。言葉がわからなくても、とにかく珍しくて、リアは図を眺めるだけでも楽しくって仕方がなかったのである。
「いいのですか?」
「ええ、捨てるものですから。ただし、持ち帰る前に私に確認してくださいね。ラベルを剥がしてしまいます。じゃないと、リアさんが盗んだことになってしまいますから」
手順を間違えて窃盗犯になるのはごめんである。ブンブンとリアは、大きく首を縦に振った。
そうして、リアはいくつか本を選んだ。お気に入りだった花の図鑑は廃棄処分の対象でなかったので、手に入れることはできなかった。でも、それは新しい図書室で並んでいるから、またそこで読むことができる、特にがっかりすることもなかった。
もう一週間もすると、本の梱包は残りわずかとなる。
と同時に、カウフマンの図書室業務が一時停止となった。ここに本がないから、いつもの仕事を行うことができないからである。でも、お城の方では何かと支障が出てくるから、この業務停止期間は一週間と決められていた。
この一週間の間に、彼は違う作業を行った。それは、二階の奥にある資料室の引っ越し梱包作業である。
引っ越しが行われることで、リアはやっとこの図書室の鍵のかかった資料室に入ることになったのである。配属初日に、機会があれば猫の絵をみせてあげましょう、そうカウフマンはいっていたけど、その機会は最後の最後でやっときたのであった。
そのもったいぶって説明された資料室だが、中はカウフマンのいうとおり、使えなくなったものばかりだった。
大陸の形が今では嘘の額装された地図は、額装されているぐらいだからどこかの壁に掛けられていたのだろう。経年劣化著しいタペストリーは、いっぱい虫食い穴があいている。みたこともないデザインの旗は、外国のものに違いない。太った王子の肖像画に至っては、本人が嫌がってこの資料室行きなのだろうと容易に想像がついた。
資料室に入った直後には気がつかなかったが、実は一番多いものは絵画であった。
王子の不名誉な肖像画以外にも、とてもきれいな貴婦人の肖像画があった。それは昔の王様の愛情を一身に受けた愛妾の肖像画で、昔の王妃様の怒りを買い飾られずここにあるとカウフマンはいう。
他にも子煩悩な別の昔の王様が捨てずに手元に取ってあった王子や姫の手紙や拙い刺繍のハンカチなどがある。きっとこれはその王様が亡くなってから当の王子や姫が、とりあえずでここに保管となりそのまま忘れられたのだろう。
要は、お城においておくには誰かが苦い顔をするもの、もしくは些細すぎて存在が忘れられたものだとわかる。
「運んでほしいものは、宰相補佐官から事前にリストをいただいてます」
ぴらりと一枚の書面を、カウフマンはベストの内ポケットから取り出した。
「肖像画はすべて、梱包してください。タペストリーに関しては、紋章の入っているものだけ、梱包」
「あの、今の紋章はわかりますが、これは?」
そばの額装されている旗をリアは指差した。普段みている王家の紋章とは少し違う。旗そのものの形だって、全然違う。
「それは、三世代前のデザインですね。そうですね、資料的価値から廃棄はやめた方がいいかもしれません。補佐官に相談してみます」
そういって、カウフマンは少し考え、こう提案した。
「肖像画以外は、確実なものに私が記しをつけていきます。リアさんはそれだけを梱包してください」
リアはホッとする。肖像画はみればわかるが、古い紋章は判断がつかない。
「あと、部屋の外の絵画も忘れずに包んでくださいね」