Act-6*戸惑いの猫(9)
「な、なんだ、一体!」
リアを抱いたまま、ゲラルトは木塵の雨を被る。
舞い上がる木塵は、崩壊した本棚の破片。そこに本棚の上に積もりに積もった長年の埃も混ざる。木塵と違いゆっくりと落ちていく埃は、あたり一帯に埃の霧をかける。いつまでもふわふわと漂うそれは、淡いランプの光を遮り、視界を一段、暗くした。
吸い込む息に埃が混ざり、息苦しい。頭や肩に細かな木片が降り落ちて、チクチクして不愉快だ。ふたりとも呼吸を確保しようと抱擁をとき、両手で自分の口元を覆った。
しばらくして、それ以上変化がないと判断すれば、ゲラルトはそばのランプを手にして立ち上がった。ランプを上方へ掲げ、確認する。
空中に浮遊する埃ではっきりしないが、玄関ホールには倒れた本棚が山のように重なっていた。この様子に、リアは焼却場に積み上げられていた廃棄物の山を思い出す。足を踏み入れたときには何もないがらんとした入口ホールだったのに、一度に廃墟の様相と化した。
「何かの弾みで固定してあったものが、外れたか。まぁ、古かったからな」
残骸の山をみて冷静に分析し、ゲラルトは早々にこの場の退散を決めた。
一度に全部崩れたかどうかは不明だが、残りがあればそれもまた崩れるだろう。下手に長居して巻き込まれ、下敷きになんてなったりしたら、何かとややこしい。
そんな考えとは別に、この不愉快な埃と木塵を彼は早く取り除きたかった。
「リア、戻ろう」
座ったまま顔下半分を隠しているリアへ、ゲラルトは手を差し出した。リアからは、侍女の件について承諾を得ることができた。計画の半分はもう達成されている、そんな余裕のあるゲラルトがリアの手を取ったときだった。
かたかたかた……
かつん……、かつん……、かつん……
リアの耳に、不思議な音が入ってきた。さっきと同じ、ネジが外れ落ちる音。二回目の崩壊の予兆である。リアとゲラルトには、一度目はきこえていないから、耳にしてもそうとはわからない。
この異音はとても小さかったが、リアはききとることができた。一方のゲラルトはそうではなくて、足を進めると同時に舞い上がる埃と木塵に気を取られ、度々立ち止まっては悪戦苦闘していた。
リアも手をつないだまま一緒に立ち止まり、埃に難儀する。難儀しながらも、ゲラルトとは別に耳を澄ます。この小さな正体不明の音に、リアはリアで『図書室の幽霊』の噂話を思い出した。
(幽霊は雨の日や曇りに日によく現れるといっていなかった?)
今まさに、この埃の舞う夜の図書室は、悪天候の日の暗い図書室と似ていないか?
ゲラルトの横で周りを見渡して、リアはそう思う。
幽霊なんか、リアは信じてはいない。だが、そうすると、今の本棚の転倒は生きている誰かの仕業になる。
リアは誰にも告げずにここまでやってきた。誰だって恋人との逢引きの場所を事前に他人にいいふらすようなことはしない、普通は。ゲラルトだって、きっとそう。
ここは老朽化した図書館で、ゲラルトのいう通り、時間の経過で設備が脆くなって、勝手に本棚が崩れたのかもしれない。
でも、今のはとても規模が大きかった。すべての本棚が崩れたんじゃないかというくらいに。直前にきっかけとなるような地震などがあったわけでもないのに、だ。
(本当に、偶然なのかしら?)
(まるで、見計らったような……)
(やっぱり、誰かいるのでは? 人間じゃない誰かが……)
もう、リアは黙っていられなかった。
「ラル……ここ、には……幽霊が住んで……いるって……きいたこと、があるの」
いつまでも漂う埃に咽ながら、リアはいう。
「リア……何、それは? そんなもの……この世の中に……は、存在しない」
図書室の幽霊のことは、一部の使用人の間では有名であった。だけど、それは限られた使用人の間だけのことで、ゲラルトは知らない。彼は嘲笑して、すぐにリアの幽霊説を否定した。
「でも……今まで……の掃除娘は……幽霊がいるって……いって……すぐにやめ……え?」
かたかたかた……
かつん……、かつん……、かつん……
ふたりが討論する間にも、正体不明の音は響き続けていた。音量を増しながら。
「何……の音だ?」
ゲラルトも音に気がついた。
もうその音は、さっきよりも抜けるネジの数も増え、合わさってうねるような音となり、空耳のレベルではなくなった。
きこえてくるのは頭の上の方から。幽霊のことを考えていたせいか、リアは上空からその幽霊に見下ろされているような恐怖がわいてくる。
それでも思い切って、リアは入口ホール吹き抜けを大きく仰ぎみた。頭上には、埃でかすむステンドグラス、これは変わらない。そして、視線を移動し、リアは気がついた。
(二階にも、本棚がある!)
だーん……
だーん、だーん……
だーん、だーん、だーん……
遠くで何か大きなものが倒れる音。
ひとつがふたつ、ふたつが三つ、三つが四つと……だんだん数を重ねて、大きくなっていく。
それがはっきり音がきこえる頃には、もう正体がわかっていた。
「ラル!」
「リア!」
本能が生存の危機を告げる。原因がわからなくても、次に何が起こるのかがわかる。
ふたりは手を取り入口ドアへ走り出した。二階の本棚の転倒がやってくる。巻き込まれたら、大怪我だ。怪我だけで済めばいいが、万が一のことも充分あり得る。もう埃になんか構っていられなかった。
階段昇り口から入口まで入ってきたときにはたわいのない距離であったが、ここにも本棚の破片が飛び散り、長く困難な道に変わっていた。一歩進むごとに瓦礫を踏んで、足が取られそうに、滑りそうに、転びそうになる。
足元が悪い。とにかく悪い。現在地から出口までの脱出ルートは、ランプを持ち残りの手をつないで走るには、不適切な悪路となっていた。
だーん……
だーーん……
だーーーん……
ばーーーーんーーーー
すぐ近くの頭上で、轟音を響かせて、二階の本棚が倒れた。予想通り、衝撃で本棚は多数の断片となり砕け散る。ホール吹き抜けに面した二階踊り場から、バラバラと細かいものが降ってきた。二階本棚の埃と木塵を、再びふたりは頭や肩に浴びた。
木塵の雨だけでなく、勢い余った本棚の大きな断片が、手すりを破り踊り場から滝のように零れ落ち出した。やかましい衝突音を立てて床にあたり、断片はさらに木っ端微塵に砕け飛ぶ。その舞い上がる瓦解が、視界をもっと悪くした。
階段だって、ここを伝って長い木片が流れ落ちてくる。途中で壁に当たれば、痛々しい衝突がした。そこに木片が折れる音、割ける音、破砕音が混じり、砕けて破片となり、土石流のように階段を埋め尽くし迫ってきた。
木塵をまき散らして迫りくる本棚の残骸は、もうふたりを飲み込もうとする生き物のようにしか思えない。
最初の転倒でも、本棚に意思があるんじゃないかと思われた。二回目の本棚の転倒はそれをもっと確信させた。そして、それを操るのはこの閉鎖された旧図書室そのものだと思わずにはいられない。
(幽霊がいる!)
(早くここから出ていかないと、幽霊に食べられてしまう!)
飛んできた鋭い木片が当たり、リアの頬が切れた。だが、そんなの構ってられない。ひたすらふたりは出口ドアを目指した。
そんなふたりの前に、白い閃光が横切った。あと少しで、図書室入口ドアというところで。
(!)
白い閃光はふたりの前を一瞬、横切って、次の瞬間には消えた。
「うわっ! 熱っ! 熱っ!」
となりのゲラルトの悲鳴がきこえてきた。同時につないでいた手が振りほどかれた。
「ラル?」
「熱い、熱い!」
手を離されて、リアがゲラルトをみれば、彼のジレが燃えていた。彼は火を消そうと体をよじり、リアとつないでいた方の手ではたく。反対側のランプを持つ彼の手が大きく揺れて、ランプの光が図書室内部を不規則に照らし出した。
「いやぁーー! ラル! ラル!」
リアが思わず叫んだら、ゲラルトの持つランプの炎が大きくなった。そんなことゲラルトが気づくこともなく、彼は自身のジレについた炎のことで手一杯。ランプを大きく振り続けば、空中の大きな埃に引火した。
途端、ランプの軌道に沿って炎が動く。まるで、空中を泳いでいた火炎の蛇が、ゲラルトの腕を見つけ食らいついているかのように。
「いやぁーー、ランプも、誰か、早く消して!」
リアの叫びは天には届かず、ゲラルトのランプの炎がまた大きくなった。
リアの声で、ゲラルトがジレから目をやれば、異常に大きな炎となったランプがある。とっさに身の危険を感じ、ゲラルトはランプを放り投げた。
捨てられたランプは、放物線を描き、床に着く前に爆発した。ガラスの破砕音の混ざった爆音がして、回りの埃や木塵に火が飛び移った。
爆炎は床に降り積もった木塵にも燃え移り、あっという間に赤い炎が床を舐め、四方八方へ広がっていく。いとも容易く、炎の海が出来上がった瞬間だった。
熱い炎に炙られて、もうゲラルトには冷静さなど残っていない。彼は一目散に出口へ走る。途中で燃えるジレを脱ぎ捨てて、本能のままに、自己の生存だけを優先し、火獣の手から逃亡したのだった。
「あ、ま……」
リアも追いかけていこうと、ダッシュをする。だが、踏み場所が悪く、リアはバランスを崩し転倒した。
弾みで持っていたランプを手放してしまう。それは空を切って飛んでいき、少し離れたところで割れて、新たな着火点となる。リアの脱出ルートが、炎の壁と化してしまった。
目の前に火のついた木片が飛んできて、間一髪でリアは免れた。だが、すぐ近くの木塵を燃やしてしまう。ひどい臭いの煙が立ち、埃よりも、もっと息が苦しくなった。
(早く、ここから出なければ!)
立ち上がり、一歩を踏み出す。迂回路を取り、走ろうとするも、転んだ際に足を挫いたようだ。
右足が痛む。走ることができない。それでもリアは炎を避け、右足を庇うように急ぎ足で歩いていくが、またもや不安定な木塵を踏みリアは転倒した。
倒れた目の前に、別の炎が飛び火してきた。瞬く間に、自分の背よりも高く炎が燃え上がった。その様は、ザックを助けたときにみた焼却場の炎と変わりなかった。
(熱い! 熱い!)
(足が……痛い! 動かない!)
(息が……熱くて……苦しくて、できない!)
倒れたまま立ち上がることができず、その倒れた姿勢のままで、リアは炎の向こう側に逃亡するゲラルトの背中を見つめるだけであった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます(^^)
このAct-6、一週間どころか九日もかかってしまいました。
明日からは、ゆっくり起きてくださいね。
いろいろ忙しかったプライベートですが、ひとまず区切りがつきました。次回は五月末を目標に更新したいと思います。
どうぞ、よろしくお願いいたします <<(_ _)>>