Act-6*戸惑いの猫(8)
━━いい子だね、リアは。約束通り、ここまでやってきた。だから、リアの願いを叶えてあげる。
━━ねぇ、リア。リアはハインをみているだけでいいといっていたけど、本当は一緒にいたんだよね?
━━今勤めている図書室の仕事を辞めて、僕の侍女にならない? そうすれば、毎日僕と一緒だし、ハインにも同じくらい会えるんだよ。
(……)
ゲラルトのセリフの意味が、どれもリアはわからない。リアはゲラルトの腕の中で目を凝らし、彼を仰ぎ見た。
ステンドグラスを通した星明かりは弱い。ランプはふたつあっても離れて置かれているから頼りない。そんな光の下では、黒髪で黒い瞳のゲラルトは薄闇に溶け込んでしまう。すぐそばにいても、リアにはゲラルトの顔がよくみえない。
「ラル? ラルって、ハインリヒ様のお付きなのよね?」
「そうだよ」
「お付きの人に侍女がつくっていうのが、よくわからないわ。だって、お付きは使用人で、ただの使用人に使用人がつくだなんて、おかしくない?」
リアの知る使用人で、一番地位が高いのは侍女長である。彼女は侍女全員の管理をしていてとても偉いが、彼女のそばに付かず離れずでついている人はいない。ときに補佐役らしき侍女がいるときもあるが、原則、侍女長はひとりで業務を行い、城内を歩き回っていた。
だから、リアの中では使用人のゲラルトにリアが侍女としてつくなんてことは考えられなかった。
リアの愚直な疑問をきいて、ゲラルトはクスクスと笑う。そんなことも知らないの、本当に君は無知で、純真で、世間知らずなのだねといわんばかりに。
「可愛いね、リア。確かに、ただの使用人に使用人がつくことはないよ」
ゲラルトは続けた。
「高貴な人に付き人がいるのは、当たり前のことだよ。普通の高貴な人の場合は、リアの考えている通りさ」
「普通の高貴な人?」
高貴な人とは偉い人のこと、それはリアでもわかる。
でも、普通の高貴な人とは、どういうことなのだろう? “高貴”に、普通とそうでないのとがあるのか?
庶民で下町の世界しか知らないリアにはわからない。王城に勤めているといっても、リアは所詮、下位使用人の掃除娘でしかない。
意味不明なことをいわれて、知らないのと指摘されれば、リアはゲラルトのことが急に遠くの存在に感じられた。
「高貴な人の中でも、王族となれば話は変わる。王族に付くことができるのは、貴族だけだ。平民ではなれない。リア、考えてごらん。ハインや両陛下、マインラート王太子殿下、マルガレータ殿下の周りに、身元が賤しい平民がいるなんて、危なっかしいと思わない?」
王族の付き人が貴族である理由を、そうゲラルトは説明した。これをきけば、確かにそうだ。リアはひどく納得がいく。
「最も高貴な人は普通の高貴な人に身の回りの世話をさせ、普通の高貴な人はギリギリ高貴な人に世話をさせ、さらにギリギリ高貴な人は平民に世話をさせる。貴族の中でも順列があってね、リア、通常ならこの順番を飛び越えることはとても難しいんだ」
「ラル、それは、使用人でも、仕える相手によっては、貴族の方が使用人になったりするということ?」
「そうだよ、わかった?」
「それは、わかった……けど……」
その理論からすると、今、一緒にいるこのゲラルトは……
(ちょっと待って!)
ある結論に、簡単にリアはたどり着いた。
ラルは王子付きの学友といっていた。学友という業務上、リアはゲラルトのことを難しい勉強についていける頭のいい庶民だと思っていた。でも、王子につけるのは貴族のみ。そうすると……
(ラルは貴族だ!)
(気がつかなかったとはいえ、私、とんでもないことをしていた?)
リアはゲラルトの本当の身分を知り、彼の腕の中でひそかに青ざめる。
よくよく思い起こせば、思い当たることがたくさんある。
まず、彼はいい服を着ている。リアは城内のことをよく知らないから、あんな立派な制服があるのだと思っていた。だが、そうではない。制服ではなく、ゲラルト個人の私服だったのだ。
他にも、ゲラルトからはいい香りが漂っていた。あれは庶民には縁のない香水というもの。
夕方みせてくれたゲラルトの懐中時計だって、とても立派なものであった。ちらっとみたことのあるカウフマンのものなんか、足元にも及ばない。上蓋に施された装飾の豪華さが、すべてを物語っている。
(そうだ、あの上蓋には……何て書いてあった?)
あのとき、ぼんやりとしていたが、無意識のうちにリアは文字を読み取ろうとしていた。はじまったばかりではあるが、ザックと学習するうちに、文字をみれば自然と発音を考えるようになっていた。
(あれは……あ、べ、ん、と……ろー……)
まだまだリアの語彙力は乏しくて、具体的な単語にならない。でも頭の中で装飾文字を思い浮かべて発音を当てていけば、ひとつ、なめらかなものが見つかった。
(……アーベントロート)
━━特別な誰かが、くるのですか?
━━ハインリヒ殿下とアーベントロート卿です。あと家庭教師の先生もご一緒かもしれません。
いつかのカウフマンとの会話を思い出す。
(アーベントロート卿って、誰?)
深く考えてなくても、すぐにわかる。アーベントロートはゲラルトだ。
(この“卿”って称号は、どういった人につけるの?)
リアは、そこまではわからない。だって、下町の庶民の間ではそんな称号、きくことがなかったから。
かたかた……と、どこかで小さな音がした。その音は何かが外れる音。だが、会話をするふたりにはきこえない。
「ラル……いえ、ゲラルト様」
「なあに、リア。急に畏まって。いつものように“ラル”って呼んで」
「いえ、それはできません。だって、ゲラルト様に向かって、そんなこと、いえません。今まで気がつかなかったとはいえ、失礼なことをしてしまい申し訳ありませんでした」
今までの無礼を詫び、ゲラルトの抱擁を辞退しようとリアは彼の胸元を押す。だが、小柄なリアでは、背の高いゲラルトに対して何の抵抗にもならない。さらにぎゅうぅっと抱き包まれると、もう拘束されているといっていい。
「リア、リア、可愛い僕のリア」
リアの耳元で、ゲラルトはささやいた。
強く抱かれてささやかれると、急にリアの心臓が大きく鼓動した。頬が熱くなる。目元が霞む。この感じは、はじめてではない。
「僕は君を離さないよ」
そのままゲラルトはリアの頬にキスをする。触れる唇と当たる吐息が温かい。
リアの頭の後ろを固定すると、ゲラルトはリアの唇へ自分のを押し付けた。くちづけは一回で終わらない、何度も何度も、いろいろなところへ落とされる。
そうしているうちに、だんだんリアは体に力が入らなくなってくる。離れようと押し返していた腕も同様で、もうひどく重くて動かせない。
「ゲラルト様……」
ゲラルトと触れる箇所から、熱が伝わってくる。その熱のせいなのか、くらくらと目眩がしてきて、頭はぼんやりしてくる。
「違うよ、リア。ラルっていってごらん」
ゲラルトは片手でしっかりリアを抱いたまま、残りの手の人差し指で、ゆっくりとリアの艶のある唇をなぞった。
†
かたかたと、何か外れる音がする。続いて、こつん……と床に落ちる小さな金属音が響いた。誰もいない旧図書室の書架の奥では、次々にネジが外れて落ちていき、あちこちへ転がっていく。ネジが抜け落ちるその様は、大粒の雨のようだ。
かたかたかた……
こつん……、こつん…………
かたかたかたかた……
こつん……、こつん……、こつん…………
入口ホールそばの階段にいるふたりの耳に、その音は届いていていない。
ふたりの知らないうちに、奥の床の上にはたくさんのネジが敷き詰められていく。それはすべて、本棚を固定する古いネジ。
旧図書室の奥の本棚からはじまって、『図書室の幽霊』は着々と書架を解体していった。
†
「ラル……」
ゲラルトのくちづけを受けて、一方のリアはなされるがまま。とにかく体が熱いから、深く考えることが嫌になっていた。ゲラルトに要求されるまま、リアは口にする。
「そう、可愛いね、僕のリアは。そんな素直なリアが、僕は大好きだよ」
至極ご満悦なゲラルトの声。この声をきけば、リアは嬉しくなってきた。
「可愛いだなんて……ラル……私、幸せだわ。私も、ラルが大好きよ」
「本当に、僕のことが好き?」
「ええ、本当。ずっと貴方とこうしていたいわ」
ゲラルトの腕の中が、とにかく気持ちいい。彼の要求に従うだけで、この幸せな時間が得られるなんて、私は恵まれている。
リアの熱に浮かされた思考は、熱で火照った体と同じで余計なことは放棄していた。
†
床にたくさんネジが降り積もり、あとから外れるネジはその上に降り注ぐ。ネジの雨は降りやまない、すべてのネジが外れるまでは。
かたかたかた……
がしゃっがしゃっがしゃっ……
かたかたかたかた……
がしゃっがしゃっ……がしゃっがしゃっ……
そのネジの雨の隙間を縫って、白い塊が飛躍する。長い毛をふわりと棚引かせて、長い四本足が優雅に本棚の棚板を蹴り、白い猫が登っていく。
一番奥の本棚頂上にたどり着けば、『図書室の白い猫』はタイミングを見計らって、ある本棚に体当たりした。
体当たりを受けた本棚は、ゆっくり倒れていく。すでにそれを固定するネジは取り払われていて、本棚はわずかな振動でも崩れる瓦礫の群集と化していた。
軋む音が小さく響いて、最初の一枚目の側板が倒れていく。それに呼応して棚板が上から順に崩れ落ち、重なって落ちる棚板が次の側板を倒していく。ドミノ倒しのように、並ぶ本棚が奥から順に倒れ、崩れ出していった。
†
ネジの雨が降り注ぐ間も、本棚の崩壊の間も、リアの幸福な時間は継続していた。もうここには、ゲラルトのいうことに無条件で従うリアしかいない。
「じゃあ、このまま、僕の部屋にいこうか。僕の侍女になって、ずっと僕のそばにいればいい」
「ええ、ラル。私、貴方の侍女になる。一生懸命、貴方のために働くわ。だから、ラルも私のことを大事にしてね」
恋慕の指輪の効果は絶大であった。一度は冷静を取り戻したリアの理性を、あっという間に押し流し、思考をゲラルト一色に変えてしまう。
「ああ、いいよ。君は僕にとって、必要な存在だからね。大事にするよ、後悔させな……」
ゲラルトがリアの左手をとって、指輪越しにキスを落とすその瞬間であった。
すぐそばで、轟音が響いた。最後の本棚のドミノが倒れ、大きな転倒音と同時に細かな木塵が大量に飛び散り、舞い上がり、ふたりに降り注いだのだった。
小さくはじまった本棚のドミノは、四方八方へバタバタと倒れていった。まるで静かな水面に雫が落ちて、波紋が広がるように。
同じく小さくはじまった側板の擦れる音も、全方向へ響き広がっていく。一匹の狼が遠吠えして仲間を呼び、仲間がそれに同調して遠吠えを重ねるように。
だんだん派手になる倒壊と騒音を伴ったドミノ終演は、リアとゲラルトのいる階段昇り口手前で終わったのであった。




