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Act-6*戸惑いの猫(7)

 

「その手は、どうしたんだ?」

 リアが部屋に戻れば、開口一番、ザックが訊いてきた。いつもなら、夕食のバスケットの方に関心がいくザックなのに、珍しいことがあるものだ。

「うん、図書整理中に、誤って切っちゃたの」

 リアの左手は、親指以外の四本の指先がまとめて包帯で巻かれていた。ザックに指摘されて、今さらながらリアはまじまじとみてしまう。

(そういえば、これは誰が巻いてくれたのかしら?)

 今日は図書室でゲラルトに会って、少し話をした。

 その後からの記憶がはっきりしない。

 終業時間になり、火照った頭で、ふらふらした足取りで、大食堂へいき夕食を食べて帰ってきた。それはなんとなく、覚えている。

 手に持つバスケットも、はっきり受け取った覚えがない。でもここにあるから、無意識のうちに体は習慣を繰り返していたようだ。

 こんな心が頼りないリアに対して、ザックは違っていた。いつもよりも苛立ちの多い、厳しい声でリアに質問する。

「どこを?」

 声色に冷徹さが混ざり、質問というより尋問に近い。

 普段こんな声で訊かれたら、大抵の人は驚き萎縮する。だが、どこか地に足がついていない状態のリアは、そんなこと、ちっとも思わなかった。

「指先を」

「何をして?」

「えっと……何をしていて……だったかしら?」

 ザックの質問を受けて、はじめてリアはそのことに気がついた。

 あらためて左手を目の前にまで上げてじっくりみて、リアは思い出そうとした。

 でもそうすると、さぁあっと脳裏に白い霧が広がる。続いて目元が熱くなってきて、頭がぼぉおっとしてきて、体が重くなって、リアはひどく疲れるのだ。

(そういえば、エマにも、同じことを訊かれたけど……)

(私……何て答えのかしら?)

 大食堂でもエマに左手の怪我について心配された。利き手でないからよかったねといわれて、うん、そうねと返したような……

 今やっと、リアはそれを思い出す。ついさっきまで、全然意識の外側においておかれた記憶である。

「どれ、みせてみろ」

 一歩近づいて、ザックがリアの左手を取ろうとした。とっさにリアは一歩下がり、左手を背中へ隠す。

 あからさまな拒絶に、ザックのオッドアイが大きくなった。リアの方も無自覚の自分の行動に驚き、目を丸くする。

 中途半端な間合いのふたりの元に、奇妙な沈黙が落ちた。

「治癒魔法で、痛みを和らげることはできるのだが……」

 複雑な沈黙を破ったのは、ザックの方だった。

「……必要、無さそうだな」

 治療を申し出たが、ザックはあっさり引き下がる。普段なら、もっとしつこくいい募るはずなのに、だ。

「え……ええ、大丈夫。そんなにひどい傷じゃないから。多分」

(えっ、多分?)

 そう答えておきながら、自分の発言に疑問がわき上がる。大丈夫というものの、リアはこの包帯の下の傷がどのくらいの酷さなのか、わからない。

 心の中で自問自答し悩むリアをそのままに、ザックはバスケットへ関心を向けた。いつもの定位置について、バスケットを開けて夕食にする。

 日がくれると、ザックは猫になる。猫になれば、人間の食事は受け付けない。時間が限られているから、彼は無駄話などせず、最優先事項に着手したのである。

 いつもなら、リアはザックの向かいに座りその様子を眺める。血気盛んな青年だから、体が大きいから、二百年後の食事は進化していて美味しくなったらしいから、ザックはとてもよく食べる。

 ザックがガツガツ食べる様を、驚いて、あきれて、笑いながら、リアはお付き合いしていた。

 さらにここ数日は、新しい教本が加わって、彼の食事の横で読んでレッスンも受けていた。

 同居生活は途中でいろいろ不満や揉めることもあったけど、新しい教本で勉強をはじめてからは、ふたりの間柄は劇的に平和になっていた。

(ああ、今日は……)

 毎日一頁、教本を読めといわれているが、今日はそんなことひどくしたくない。

(とにかく……疲れた)

 ザックの前に座り、本を開き、目で文字を追う━━なんて、それは、おっくうなのだろう。

 いつもの同居人との勉強時間は、そんなに長くない。でも、そんな短時間でも、今のリアには耐えられない。

(どうしちゃったの、私?)

 もう立っているだけも辛い。リアは一刻も早く横になりたいと思う。

「あの、ザック、今日はもう休むね」

 そういって、ふらふらとした足取りで衝立の裏側のベッドへいき、お仕着せのままリアは倒れ込んだ。



 ***



 ━━お互い、今日の残りの仕事が終わったら、また会わない?

 ━━旧図書室で待っているよ。その指輪をつけて、僕に会いにきて。


 リアの頭の中で、絶対に守らなければならない約束が告げられる。

 それは何度も何度も繰り返し、リアにいいきかせる。リアは息苦しくなって目を覚ました。

 額はうっすらと汗ばんでいる。着の身着のままで眠るには、もう寝苦しい夏の夜になっていた。

 足元をみれば、白猫姿のザックが、丸くなって眠っている。ひとつのベッドで眠るには、お互いの体温が熱くて寝苦しい季節になっていた。それでも、この猫はリアのそばで眠る。別に就寝用の籠を用意しても、ザックはベッドの上で眠りたがった。

 部屋の明かりを小さく絞ったランプに照らされて、猫の白いお腹が規則正しく上下している。

 そっと頭を撫でてみれば、呼吸はそのまま。起きる様子はない。

 静かにリアはベッドを抜け出して、入口ドアを開けた。

 まだ廊下には明かりが灯っていて、どこからか生活の物音が小さくきこえる。起きている人がいる。まだ深夜ではなさそうだ。


 ━━その指輪をつけて、僕に会いにきて。


 もう一度、頭の中で、声が響く。

(そうね、約束したから、いかなくっちゃ)

(愛しい人が待っているわ)

(ラル、私も早く、貴方に会いたい)

 リアは部屋のランプを手にして、自室をあとにした。



 旧図書室への道は、建物をつなぐ回廊を通り、大食堂を横切り、大庭園を越えた先。回廊は建物からの明かりがこぼれ落ちていて、ランプなしでも歩くことができた。だが、大食堂から先は一度に暗くなる。

 手持ちのランプの明かりを調節して、リアは大庭園へ入っていく。

 当然、夜の大庭園は、王家の催し物がない限り、明かりなど灯されない。暗くて不案内だとしても、ほんの数ヶ月前まで通っていた職場への道を、リアの足は忘れていなかった。曲がり角、坂の勾配、要注意の脆い舗道の端、すべてを覚えていて、小さなランプひとつでも何も不安がなかった。

 やがて旧図書室がみえてくる。みえてくるといっても、もう閉鎖された図書室など、明かりは何もつけられず、ただの大きな黒い塊でしかなかった。


 ━━旧図書室で待っているよ。


(旧図書室のどこかしら?)

 旧図書室正面玄関のドアステップでリアは佇み、今さらそのことに気づく。

(中は入れないはず。最後にカウフマンさんが施錠したから)

 新図書室への引っ越しで、旧図書室の備品はすべて運び出された。あの引っ越しは肉体労働をするにはやや暑い初夏の日のことで、一週間かけて作業した。

 最終日の夕方には、リアとカウフマンはがらんとした内部を見渡して、旧図書室に別れを告げたのだった。

(よく考えたら、ここにはもう動かせない本棚しか残っていないはず)

(お金になりそうなものは何もないから、鍵なんて必要ないんじゃないかって、思ったんだった)

 そんなことないだろうと思いながらも、リアは扉に手をかけた。

(!)

 ロックの手応えがない。軽い金属音と軋む音がして、扉が薄く開いた。

(本当は、鍵なんてかけていなかった?)

(いや、ラルが鍵を開けてくれていたのね)

(私が困らないようにしてくれていたなんて、やっぱり、ラルは素敵だわ)

 これはゲラルトの計らいだと信じきって、リアは迷うことなく旧図書室へ入っていった。



 †


 そのリアの様子を、オレンジと青の瞳がずっと庭園の植栽の影から見つめていた。瞳の持ち主は、白いふわふわとした毛と長い足を持っていた。リアが完全に扉の向こうへ消えると、その長い四本足で、ゆっくり静かに移動する。

 そう、それは『図書室の白い猫』。ベッドにいたはずの主人が消えたことに気づいて、ひそかに彼女を追いかけてきたのであった。


 †



「ラル、ラル? どこにいるの?」

 旧図書室へ入室して、リアは遠慮なく愛しい人の名を呼んだ。静かな夜の無人の旧図書室に、それはよく響いた。

「リア、こっちだよ。本当にきてくれたんだ」

 ゲラルトの声が響き返ってきた。声は左側の階段からきこえてきた。そちらに目を向けると、階段踏み板に置かれた小さなランプの明かりがみえた。その明かりに照らされて、階段に浅く腰をかけて待っているゲラルトがいた。

「ラル、ラル……ああ、嬉しい。今日は二回も会えるだなんて!」

 今まで息を潜めて行動してきたのに、それをすべて忘れて、リアは一目散に駆けつける。ゲラルトはそんなリアの姿を認めたら、立ち上がり両手を広げて待ち構えた。

 軽いリアのフラットシューズの音、駆ける振動で大きくランプの光が揺れる。音と光の共演が一時中断したならば、もうリアはゲラルトの腕の中にいた。

 星明かりがステンドグラスを通り抜け、ふたりのいる階段昇り口に落ちている。薄く色づいた幻想的な光の中で、ひしと抱き合った。

「リア、いい子だね。よくここまでこれた、怖くなかった?」

 リアの耳元でゲラルトがささやいた。

「ええ、庭園は真っ暗に近かったけど、それまでは建物からの明かりで案外明るくて、大丈夫だったわ」

 いつでもキスができる間合いで、リアもささやき返した。

「誰にも見つからないところを、と考えて、ここに決めたものの、あとで夜の闇のことが気になっていたんだけど……リアはしっかりしてて、助かるよ」

「心配してくれて、ありがとう。この時間ならもう遅すぎて、かえって人はいないみたいよ」

 もうこの頃には、ゲラルトの腕がしっかりとリアの肩と腰に回っていた。強く抱擁されると、リアは欠けていたものが埋められていく充足感を得る。

(ああ、ラルの腕の中は、とても気持ちいい)

 リアもランプを踏み板に置き、ふたりは並んで階段中腹に腰をかけた。お互いのランプをふたりの両脇に置けば、ふたつの光が互いに干渉して、複雑になったふたりの影が床に落ちる。ここは……

 誰もいない、誰もこない、誰も知らない、ふたりだけの世界。床に落ちるふたりの影だって、結界のように伸びている。

「ラル、みて。ステンドグラスがきれいに輝いているわ」

 ランプの光は高い位置のステンドグラスにまで届いていて、リアたちがいる位置からも、反射光が美しくみえた。

「そうだね、リア。ちゃんと、リアが僕のいい付けを守っているから、天気もよくてステンドグラスがきれいにみえるのかもしれない」

「いい付け?」

「そう、いい付け」

 ゲラルトはリアの左手をとって、巻き付けてあった包帯をといた。包帯と思っていたものはゲラルトのハンカチーフで、薬指に指輪を嵌めたリアの手が現れた。その指先にチュッとゲラルトはキスをした。

「いい子だね、リアは。約束通り、ここまでやってきた。だから、リアの願いを叶えてあげる」

(?)

 ゲラルトは不思議なことをいいはじめた。

(私の願いを叶えてくれる?)

(私の願いはラルと一緒にいること。もう充分、叶っているけど……)

 ランプがふたつあっても小さなものだから、離して置いてあれば相手の顔はよくみえない。

「ラル?」

「ねぇ、リア。リアはハインをみているだけでいいといっていたけど、本当は一緒にいたんだよね?」

「えっ?」

 ハインリヒの名が出てきて、リアは不意をつかれる。

(私が好きなのはラルよ、ハインリヒ様じゃない)

 リアの心の声など当然きこえないから、ゲラルトはそのまま続けた。

「今勤めている図書室の仕事を辞めて、僕の侍女にならない? そうすれば、毎日僕と一緒だし、ハインにも同じくらい会えるんだよ」

 静かな静かな無人の図書室に、優しすぎるゲラルトの声が響いたのだった。


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