Act-6*戸惑いの猫(5)
差し出された本は、いつもリアが使っている教本と同じ大きさで同じ厚さ、表紙だって前のと色違いだ。
「これは?」
なかなかリアが受け取らないから、ハインリヒはリアの手をつかみ、本を手に取らせた。触れる手のひらが温かい。
「同じシリーズで、もう一段階、上の本だ。頑張っているリアにあげるよ。今晩から、それで勉強すればいい」
ゲラルトとのレッスンはザックには内緒にしてある。ザックとの同居生活はゲラルトには秘密にしてある。こんな状態だから、リアは新しい教本がほしくてもいい出すことができず悩んでいた。
(なんて……すごい偶然!)
(いや、違う。ハインリヒ様がすごいの!)
(本当に、ハインリヒ様って何でもお見通しで、素敵だわ!)
触れた手のひらだけでなくかけられる言葉も温かければ、今度は感激で涙が出そうになる。少し潤んだ目でハインリヒを見上げれば、優しい碧の瞳とかち合った。
「じゃあリア、いくね。残りの仕事、頑張ってね」
ポンポンとその大きな手でリアの頭を軽く叩いて、爽やかな笑顔でハインリヒは去っていったのだった。
同居人は朝になっても戻ってこなかったのに、夕方にはちゃっかりとリアの自室で待機していた。
「ふうん、で、これがその本か」
自称“私は何でも知っている魔法使いだ”のザックは、不機嫌そのものの声でリアを問い質す。
ハインリヒからの教本をこっそり持って帰ってきたが、この同居人には隠しきれなかった。さっさと本を出せといわれて、しぶしぶリアは夜食のバスケットと一緒に提出したのだった。
机に向かい合って座れば、なにやら説教を受ける形となっている。居たたまれない。
「なによ、頑張ってるからって、ご褒美でもらったのよ! ちゃんと文字の勉強をしているのだから、いいじゃない」
「ふん、あの王子、わかってないな」
いつもなら渡せばすぐにがっつく夕食には手をつけず、ハインリヒの教本をペラペラとめくり、ザックは確認する。私の許可なく勝手なことをしやがって、そんなふてくされた顔で。
「どういうことよ?」
「ばかにしているとしか思えない。まぁ、バカ王子だから、無理もないか」
さんざん悪態をついてザックはリアにハインリヒの教本を返すと、立ち上がり別の本を持ってきた。
「これがもともと私が用意しておいた本だ」
「えっ?」
「見比べてみろ」
突き出された本を、それはハインリヒがくれたものより薄くて素っ気ない無味乾燥な表紙なのだが、リアはめくってみた。
とたん、リアの目に入るものはアルファベットだけになる。キュートで明るいイラストなど、どこにもなかった。
(ちょっと待って!)
(こんなの、いきなりレベルが高すぎる!)
(ザックの方こそ、勘違いしていない?)
リアは変な汗が滲んでくるのがわかった。季節はもう夏だから……いやいや、もちろん、そんな理由ではない。
「こんなの、読めない! 全然、わかんない!」
正直な本音を上げれば、ザックはリアから本を取り上げ、目の前で広げた。
「リア、これは?」
ザックはある単語を指差して、発音しろという。テストが始まった。
(何で、今、訊くのよ!)
(さっさと食べて、猫になって、寝てしまえばいいのに!)
(私がうまく正解できなくて、ご飯を食べ損ねたら、また文句いうくせに!)
この抗議を口にしてしまいたいのをぐっとこらえ、リアはザックの指差すアルファベットをみた。
「……」
「…………?」
「…………わ、“私”……」
目から入ったアルファベットの並びは、するりとリアの頭の奥からあるリズムを引っ張り出す。自然と口が音を発した。
(あれ?)
(この文字は、こんな音で……いい?)
向かいのザックは真一文字に口を結び、リアを見つめていた。
リアが視線を教本から上げれば、ちょうど正面にザックのオッドアイ。目が合えば、彼は口角を上げた。今の発音で、正解だったのだ。
とたん、リアは頬が熱くなる。体も震える。だって、はじめてみた単語を、自分ひとりの力で読めたのだから。
「今ので……あってる?」
「あってる」
心なしか、ザックの二色の瞳の色が柔らかくなっているようにみえた。この同居人は、こんな優しい目をすることがあるんだと、リアが気がついた瞬間でもあった。
「じゃあ、これは?」
ザックは別の単語を指差した。
「あ、うん」
じっくりみて、リアは考える。頭の中でいろいろな音を響かせて、一番自然にきこえるパターンを探していく。そして、一番しっくりくる音を口にした。
「“走る”?」
「そう。リア、正解だ」
落ち着いたザックの声。ここに不遜な色も、苛立ちの破片もない。あるのは教え子の出来を素直に認めて満足する先生のものであった。
リアの瞳が大きくなる。これも、正しく読めたのだ。
「やったぁ~! どうよ、ザック、私がだって、やればできるんだから!」
俄然、リアは嬉しくなる。いつもバカにされていたから、この上もなく嬉しい。ほめるべきときにはほめる、ちゃんと理屈が通っている教師のザックを、リアは見つけたのだった。
「いいぞ、その調子で繰り返すんだ」
あのザックに、こんな風に激励されると、リアは本当に自分も近い将来、文字が読めるような気がしてくる。
「うん、そうね」
目を輝かせて素直に同意したら、正面に穏やかなザックの顔があった。はっと、あることに気づいてしまう。
(ちょっと、待って!)
(いつも嫌みばっかりいわれていたから、忘れていたけど……)
(そうなのよ、ザックって、ルックスは悪くな……いや、いいんだった)
いつも怒られて、命令されて、酷き使われているから、リアの中ではザックは気にくわない同居人であった。その気にくわない同居人のルックスなど、今まで真剣に観察することもなければ、どうであろうとも気にしなかった。
だけど、今こうしてほめられれもすれば、見方が変わってくる。
リアは、一番最初のベッドの上での顔を合わせたときのことを思い出した。
猫を抱いて眠って目覚めた朝、隣に全裸の金髪青年がいて、リアは軽くパニックになった。
あの朝は、ザックの名前も知らなければ、わがままでやりたい放題の魔法使いであることも知らなかったから、瞳の色を確認しろといわれて素直に見つめ、ハンサムなザックの容貌に気づきリアは少しときめいたのであった。
今のザックの顔と最初のザックの顔が重なって、とくんとリアの心臓が不協和音を奏でる。それは小さくて、一度きりであったのだが。
発音をほめられて、ザックがカッコいい青年だと再認識すれば、リアは調子が狂いそうだ。冷静を取り戻そうと視線を外すその前に、ザックが次の単語を指差した。
「これは?」
「あ、はい。えっと……“食べ……る”?」
「そうだ。今までの声に出して読んでいた成果がでてきている。もともと、会話はできるんだ。音と文字が一致すればいいだけなんだから」
“声に出して読め”の真意を知れば、ザックが口うるさくいっていたことにリアは納得がいく。あれはちゃんと意味のあることだったのだ。
(この魔法使い、私の状態に合わせたレッスンをしていたんだ)
自分専用の特別レッスンであるともわかれば、嫌々勉強をしていた自分の姿が恥ずかしくなってくる。
(ザックは生意気で傲慢な態度を取るけど、本当はいい人なのかもしれない)
ザックの評価が少し変わったところで、次のレッスン方針が告げられた。
「リア、明日からこの本を読め。ひとつずつ単語を拾って最後まで読んだら、今度はもう一度それを繋げて、文として読む。三回目は意味を考えて、普段話しているように読む。そのときに脱落音や変化音が見つかるから、読みながら覚えていくこと」
(?)
難しいことをいう。でも、今までのザックの指導が正しかったから、まずは素直にやってみようと決める。
「よくわからないけど、三回読めばいいのね?」
「うーん、説明がわかりにくいか……まぁ、三回読め。一日一頁だ。あと、そのバカ王子の本、語彙力をつける意味で好きなときに読んでいいぞ。ただし、今まで通り声に出すこと」
「え、いいの?」
これなら図書室でハインリヒに鉢合わせても、格好がつく。
「いいさ。私は“心の広い”魔法使いだからな」
不遜にザックはそういって、ハインリヒの教本をリアに返したのであった。
***
リアは翌日から新しいレッスンに入った。
ザックの教本は自室で読むとする。これは一日一頁だから朝と夕方の時間で充分間に合いそうで、かつザックの指導も受けられるからだ。
ハインリヒの教本は図書室で読むと決める。
図書室での勉強時間は毎日取れるとは限らない。忙しいと三日ぐらい連続でカウフマンのアシスタント業務だけで終わってしまうこともある。
勉強できる日に運よくハインリヒがやってくればいいのだが、なかなかそうはいかない。だって、ハインリヒは公務で忙しい王子だから。
ハインリヒの本を使っていることを知らせたくて、リアは図書室では彼の本で勉強すると決めたのだった。
しかし、ハインリヒについてはそれでいいとして、問題がひとつ、まだ残っていた。
ハインリヒから本をもらって、三日目のことだった。本をもらってから、なかなかハインリヒとは会えなかった。
「リア、今日も勉強熱心で、感心するよ」
頭上から、声がかかる。この声を、リアはよく知っている。
(……)
そう、この声はゲラルトだ。
ハインリヒと同様に、リアはゲラルトにもキスしてから、会うことがなかったのである。
声の主を知っているからこそ、リアの息が止まってしまう。
顔を上げず硬直したままのリアの様子に気づかずに、ゲラルトはいつものようにリーディングチェアを持ってきた。そして、いつものように椅子を並べ、横に座った。
途端、リアの心臓の鼓動が速くなる。しかし、体は緊張して身動きできない。じっと息を潜めて、横のゲラルトの様子を伺うのみ。
(あ、どうしよう……)
(帰って、ともいえないし……)
(……どうしたらいいの?)
ゲラルトの出現がいつかはあると、リアは思っていた。
わかってはいたものの、どう対応すべきかは決めていない。というより、どう対応すべきかわからない。結論がでないまま、四日が過ぎていた。
「あれ?」
ゲラルトがリアの膝の上の本を覗き込んで、すぐに気がついた。新しい教本に変わっていると。
「新しい本だね。次のが見つかったんだ」
「はい」
リアは小さく答える。なんとか喉奥から絞り出せた。
「これは前のと同じシリーズだね。イラストが同じ人のものだから」
「はい」
ここもなんとか、できた。
「単語は少し綴りの長いものが増えている。読み方が特殊な単語も入っているね」
「はい」
次々とゲラルトは新教材の内容を確認していく。キスをする前のレッスン時と同じ距離で話しかけられているのだが、リアにはそう思えない。いつ肩を抱かれキスされるのかと、びくびくしてしまう。
そのことばかりに気を取られ、彼の質問の内容をよく吟味しないまま、ずっと“はい、はい”とばかり、リアは答えてしまっていた。
そんな動揺しぱなしのリアに、気づかないゲラルトではない。
故意に、ゲラルトは質問の中身をすり替えた。
「この本は、ハインからのものだね」
「はい」
条件反射のように、“はい”を口にしていた。
「ふうん、やっぱり、ハインのことが好きなんだ」
「はい」
ここも、そうなっていた。
「悔しいな」
(!)
(しまった!)
緊張のあまり失敗してしまった。慌てて顔を上げ、リアはゲラルトをみた。
そこには眉尻が下がり覇気のない顔をしたゲラルトが座っていた。