Act-6*戸惑いの猫(4)
最初はそうでなかったが、ここ一ヶ月の間、ザックがいない夜が幾度かあった。いないといっても翌朝リアが目を覚ませば、ザックはちゃんと戻っていて、身支度を整えてバスケットの夜食を頬張っている。
「おはよう、リア。お前はよく眠れるな、目玉が溶けてしまうぞ」
頭がぼんやりとしたところへ、ザックから毒舌をもらう。そんなこといったって、眠いものは眠い。
「あ、うん、おはよう。……って、戻ってきたんだ。昨日いなかったから、新しい家が見つかって出ていっちゃったんだと思った」
目覚めて間もない頭だから、本音が出てしまう。
「残念ながら、家はまだ見つからない。どこもかしこも一長一短で、なかなか気に入ったものに出会えない。もう少し金が貯まったら、選択肢が増えるのだけどな。まぁ、そういうことだ。もうしばらく、ここにいるから、安心しろ」
安心しろといわれても、リアは安心などしない。あるのは安心でなくて我慢である、
「ちゃんと探しているのなら、それでいいけど……」
「心配するな、お前と違って私はきちんと考えている。手間を惜しまず、行動している。出ていくときには、ちゃんと礼を述べて出ていってやる」
押し掛け同居人が、毒舌混じりだけどまともなことをいう。
「ふうん、まぁ、いろいろ頑張っているんならいい。お家は早く見つかるといいね」
「そうだな。家が見つかって、落ち着いたら……そのときは、一度リアを招待してやろう。楽しみにしてろ。びっくりさせてやる」
そう不遜にいって、ザックはリアをからかうのであった。
小さな子供じゃあるまいし、ザックが一晩帰ってこなかったといって、心配することはない。ザックだって遊び歩いているわけでないはずだ、多分。
出ていくときにはきちんと挨拶していくといったのだから、突然ザックは消えたりしないと、リアは考えている。あの同居人は、毒舌だけど嘘はいわない、多分。
戻ってこれなくなった理由として考えられるのは、うっかり猫になってしまいその場から動けなくなった場合だろうか。猫が居てはいけない場所で猫になったら、人間の姿に戻るまでじっとそこで隠れて待っているのが無難である。
朝になり陽の光を浴びて元に戻れば、ザックは部屋へ戻ってくる。腹を空かして。きっと。
だからリアは昨晩のバスケットをそのままにして、出勤したのであった。
リアが図書室へいけば、前日の予告通り、荷運びの業務が待っていた。
カウフマンはリアにリストを渡し、その資料を探して梱包し図書室前の扉に並べるようにいう。図書室から先は別の使用人によって、目的の部屋へ運ばれていくことになっていた。
相変わらずリアは字が読めない。ザックに叱咤され、ハインリヒに激励され、ゲラルトに教示されても、識字レベルはまだまだ拙くて、カウフマンが満足するレベルにまで達していない。
もちろんカウフマンはそれを承知しているから、リアが困らないように蔵書のラベルと同じ方法を取ることにした。リストにアルファベットと数字をふり、前日までに資料室の該当品に札を貼ったのである。札のアルファベットは運び先、数字は運び出す数という具合に。リアはリストのアルファベットと数字が一致する札を探せばいいのである。
(勉強して少しは字が読めるようになったかと思ったけど……)
(やっぱり、わからない単語が多いなぁ)
(ザックが怒るのも、無理ないか)
リアが使う教本は子供用である。図書業務とは畑違いなのだが、そんなこと、リアは知らない。リアはまだまだ勉強が必要なんだとがっかりもし、識字マスターの道の長さに目眩もする。
とにかく、カウフマンの配慮には感謝する。もっともカウフマンとしては、自分の業務に集中したいがための下準備であったのだが。
カウフマンから資料室の鍵を受け取って、リアは二階へ上がった。階段の踊り場からステンドグラスを見上げれば、今朝も輝きが美しい。まだ涼しい朝の空気の中で、澄んだ色の光が降り注いでいる。
初夏が過ぎ、季節はもう夏である。今日作業する資料室は部屋の向きのせいで、午前はいいが午後から部屋が暑くなる。できるだけ午前中に作業を済ませておきたいとリアは考えた。
(何度みてもリストの品がわからないなぁ。実際に札をみて確認しないとダメね。どんなサイズか検討もつかないし)
(あまり大きいものだと、梱包が大変だな)
(今はいいけど、暑くなったら窓を開けてもいいかしら?)
いざ資料室の扉を開けると、淀んだ空気が溢れ出てきた。新しい図書室といっても資料室は普段、誰も入らない。当然、窓など開けて換気をする人などいないから、新しいのにカビ臭いがかすかに混ざっている。部屋は新しくとも備品が古いから無理もない。
(さっさと終わらせよう)
(午前中は閲覧者はほとんどいないから、ドアを少しくらいなら開けてても大丈夫よね)
適当な脚立を取ってきて、簡単なバリケード兼ドアストッパーに転用する。合わせて資料室の窓も開け、風が通るようにした。すぐに朝の清涼な風が流れ込んできて、淀んだ空気を押し流す。さっぱりした。
リストの品は二十個ほど、まずは確認して……と、リアは作業に入った。
「リア、今日は大掃除をしているの?」
やや汗ばんで作業するリアに、室外から声がかかった。
この声は、カウフマンではない。ゲラルトでもない、もちろんあの魔法使いのザックでもない。しばらくぶりに図書室を訪れたハインリヒの声であった。
作業はリアの予想よりも手間がかかって、午前中には終わらなかった。正午間近にカウフマンが覗きにきて、一度、昼食を含んだ大休憩を取るようにいう。昼休み後は再び作業に戻れば、もうこのときには資料室は暑くなってしまっていたから、カウフマンはドアも窓も全開にして作業を行うようにと注意したのだった。
素直にカウフマンの指示に従って、リアはドアを全開にし作業する。それは数ヶ月前の引っ越し直後と同じ構図となっていた。
そして、今こうやってハインリヒがドアそばに立っているのも、そのときとまったく同じ構図である。
「ハ、ハインリヒ様!」
梱包の手を止めて、ドアそばに立つハインリヒの元へリアは駆けつけた。
今日のハインリヒは、共布のジレとブリーチーズ、公務でなくプライベート時のスタイルだ。普段着だといっても王族が纏うからその質は上等で、リアには眩しくみえる。手には本、調べものか何かで図書室にきたようだ。
ゲラルトがきたら、どうしよう。作業をしながらふとそんな心配をしてリアは不安になっていたが、やってきたのはハインリヒであった。しかもハインリヒと会うのは、彼がリアにイニシャルの入ったハンカチーフをあげたとき以来である。
「大丈夫だよ、ここから先には入らないから。リアに叱られてしまうからね」
軽く笑みをこぼして、ハインリヒはいう。そのセリフを受けて、ボンとリアは真っ赤になった。本人から初対面での無礼のことを無邪気にからかわれて、リアは恥ずかしいしかない。
「何を思い出してるの? 一番最初に会った日のこと?」
ズバリをいい当てられて、ますますリアは赤くなる。
「ハインリヒ様、それは、もう、勘弁してください。本当に、知らなかったとはいえ、失礼なことをしてしまって……」
恥ずかしいが極まって、涙が出てきそうだ。セリフの最後が小さくなっていく。
そんなリアを見下ろしながら、ハインリヒは苦笑する。お気に入りの小動物が、自分の手の内であたふたするのが愛しいといわんばかりに。
「うん、うん、可愛いなぁ、リアは。あのときも今と同じで、真面目な顔で真剣に訴えてきて……あれは、とても可愛いと思ったんだ」
━━あれはとても可愛いと思ったんだ。
ハインリヒのセリフに、リアはどきりとする。
真っ赤な顔のまま、リアが金の瞳を大きくしてハインリヒを見上げれば、碧の瞳がそこにあった。それはきらきらと輝いて、リアはきれいだなとうっとりすれば、もう目が離せない。
「でも火災の後のリアの落ち込み方がひどくて、びっくりした。小さくて可愛いリアが、ますます小さくなって消えてしまいそうで……様子をみにいきたくても、私の公務がちょうど忙しくなってしまって、いけなかった。そのままずっとリアには会えなかったから、気になっていたんだ」
━━そのままずっとリアには会えなかったから、気になっていたんだ。
このハインリヒのセリフに、リアの心臓がさらに大きく拍打った。
王子様が直々に、こんな風に心配してくれたのだとわかれば、リアはとても嬉しい。身に余る光栄とは、こういうことなのだろう。
本当に、ハインリヒ様は、なんて慈悲深い方なのだろう。一度ならず二度も、こうやって慰めてもらえれるなんて! 自分はお城の中で一番幸運な掃除娘だとリアは思う。
(あ、そうだ。ラルのことも、お礼をいわなきゃ!)
ゲラルトはハインリヒに頼まれて様子見にきたといっていた。さらに様子見だけでなく、語学レッスンまでしてくれている。
ゲラルトはハインリヒのお付きなのに頻繁にリアの前に現れるから、ひそかにリアは、彼の仕事は大丈夫なのかと心配していた。
だがそれは、リアの杞憂だった。ハインリヒはずっと公務だったというし、それでゲラルトは出番がなかったのだとわかれば、彼がリアに付きっきりになれたことに納得がいく。
(そのラルは……どこかにいる?)
(ハインリヒ様のお付きだから、きっと近くにいるわよね)
(いたら……どうしよう)
ゲラルトのことは、ハインリヒと同じくらい感謝している。だけど、昨日のキス事件の今日だ、どんな顔をして、しかもハインリヒのいる前で、話をすればいいのかわからない。
無意識のうちにリアはハインリヒから視線を外し、ゲラルトの姿を探していた。
急に目を逸らされたハインリヒは、すぐに気がついた。
「どうかした、リア?」
「あの……ゲラルト様の姿がみえないのですが……」
ハインリヒがドア前を塞ぐようにして立っているから、リアはハインリヒの後ろ、本棚の森からゲラルトの姿を探すのが困難となっていた。
「今日はいないよ。遣いに出しているから」
「遣い?」
「そう、マルガリータらの伴として、……大聖堂までいっている。ねぇ、リア、そんなにゲラルトのことが気になるの?」
━━そんなにゲラルトのことが気になるの?
このハインリヒのセリフに、今度はリアの心臓が鷲掴みにされる。
リアは慌てて大きく左右に首を振った。動揺丸出しの声で、たどたどしく、否定もした。
「いえ、そうじゃなくて、ラル……ああ、じゃない、ゲラルト様には、文字を教えてもらっていて……ハインの……ああ、いや、ハインリヒ様の指示でって……ああ……ごめんなさい……」
支離滅裂なリアのセリフ。その慌てぶりに、ハインリヒは軽く吹き出してしまう。
「リア、本当に、君は可愛いね。確かにゲラルトは、私が君の元へ遣わしたし、レッスンも頼んだよ。レッスンの様子も、きちんと報告を受けていてね、リアは頑張っているし、上達もしてきたときいた。次の教本が必要になってきたってことも、きいてるよ」
「次の教本?」
「ああ、ゲラルト先生がいうには、新しい教本に入ってもいい時期だって」
そういって手に持っている本をハインリヒは差し出した。