Act-6*戸惑いの猫(3)
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一日の仕事が終わりリアが大食堂へ向かえば、すでにエマは夕食を食べていた。彼女に見つかって手招きされる。
さっきのゲラルトとのキスから、リアは興奮からまだ冷めない。できれば誰にも会いたくなかったのだが、よりにもよってエマと夕食のタイミングがかち合ってしまった。
うっかり口を開けば、動揺丸だしの姿をエマにさらけ出してしまいそうだ。でも、エマの誘いを断るとかえって心配される。
善意の詮索を避けるべく悩んだ末に、リアはカウンターで夕食のトレイを受け取って、エマの前に着席した。
今日は就業時間中にゲラルトがやってきて、リアはゲラルトと一緒に文字の勉強をすることができた。その際に、新しい教本の提案がされて、ハインリヒのことが話題に上がり、指輪が出てきて……そして、本棚の影でゲラルトとキスした。
(どうして、キスなんかしちゃったのだろう……)
ハインリヒのことが好きだと告白したのに、キスをした相手はハインリヒではなく彼の侍従のゲラルトである。
ゲラルトの差し出す指輪をつけたことは覚えている。不思議な色できれいだなとうっとりして見つめていたら、唇が塞がっていた。
そこから先は、よく覚えていない。
何がきっかけでキスしたのか、わからない。ぼんやりとした意識の時間が続いて、その後、我に返ればリアはひとりであった。
静かな夕方前の図書室は本棚の影が濃くなっていて、初夏の気だるい室温がリアの思考を鈍らせる。
左薬指の指輪は消えていて、ゲラルトも消えていた。残っているのは膝の上の教本と空っぽになった隣のリーディングチェア。
ひとり取り残されて、またリアは混乱した。そうこうしているうちに、終業時間がやってきた。
戸惑いながら階下のカウフマンのところへいけば、カウフマンはリアを認め、いつもどおりの声でいつもどおりに明日の業務をいい渡した。
「リアさん、時間ですから今日はもういいですよ。明日は資料室のものを運び出すので力仕事になります。今晩はゆっくり休んで、また明日、元気な状態できてくださいね」
なるだけ平静を装って帰りの挨拶をし、リアは図書室をあとにしたのだった。
夕方の大食堂の騒がしさは、普段とまったくかわりない。老若男女が不規則に出入りし、あちこちで食器の当たる音がする。話し声に笑い声、椅子を引く音と雑多な音で満ちている。
午後の図書室勤務が奇妙なものだったから、こんな騒音の中に身をおけばほっとできるものがある。エマの態度もいつもと同じで、お城での出来事をささやきだした。ただし、今日は不満混じりの声なのだが。
「まったく、困るわよね~、この間は……の部屋が抜き打ち検査されたんだって!」
例の窃盗事件の犯人はまだ見つかっていない。依然、抜き打ち検査が続けられている。
ザックは犯人の目星がついているといっていたが、まだ捕まっていない。
さらに、ザックはリアの部屋には役人はこないといい切っていたが、ここ数日のエマの話からはそう思えない。
毎日、誰かの部屋が、しかもひとりではなく複数人の部屋が、検査されている。一体、どういう順番で抜き打ち検査を行っているのか、これはリアもエマもわからなかった。
(本当に大丈夫なんだろうか?)
なかなか犯人が捕まらない。だから、いつまでも抜き打ち検査が行われている。
検査の期間が長くなり検査対象者が多くなれば、いつかは自分の部屋も検査される、そう思うとリアはハラハラする。だって、リアの部屋にはリアに似つかわしくない私物がいっぱいだから。
ゲラルトとのハプニングで悶々している上に、抜き打ち検査のことも思い出せば、リアはため息が出てしまう。
「……のときも、……とふたりでいるときに役人が踏み込んできて、ふたりの邪魔をされただけでなく使用人棟利用違反だって叱られたんだって!」
昼間は仕事に出ているから、恋人達が会うのは普通、夕方以降になる。だから、どちらかの部屋にふたりが一緒にいてもおかしくない。
結婚していない状態では世間はそれを不謹慎だといい、使用人棟利用規約にも常識的な範囲で節度ある行動をとやんわりと触れられている。
エマのいうこのふたりは、使用人棟利用規約違反を持ち出されるくらいだから、かなり大胆に振る舞っていたのだろう。
(私の場合……)
(ザックは夜には猫になるから大丈……いや、動物を飼うのは禁止だから、大丈夫じゃない……)
この辺りはややズレた心配をするリアである。
「それに、没収された私物の中でも、返ってこないものがあるらしいの」
盗品と照合するといって私物は没収されるのだが、そのままになっている場合が多い。そういえば、抜き打ち検査は使用人の横領も防ぐ目的もあるとザックはいっていた。
(ハインリヒ様のハンカチーフ、見つかったら、絶対返ってこない……)
(いくらハインリヒ様から直接もらったといっても、信じてくれないだろうな)
(掃除娘と王子様の接点なんて、普通はあり得ないと考えるから)
「ねぇ、ちょっと、リア、きいてる?」
皿の人参をつつきながら、ぷんぷんと可愛い顔を膨らませてエマが文句をいう。八つ当たりされる人参は、フォークの穴がたくさん開いていてボロボロになっている。
「えっ! ええ、そうそう! そうよね、検査が終わったらさっさと返してほしいわよね!」
リアは慌ててエマに話を合わせた。抜き打ち検査なんて自分も不愉快だといわんばかりに少し乱暴に夕食を噛みしめて、リアも怒りを演出する。
「……は、恋人からもらったネックレスが、宝物庫から盗まれたものじゃないかって疑われて、贈り主の恋人まで呼び出されたそうよ」
(ネックレス!)
(宝物庫!)
先日までは盗品は些細な品ばかり、だいたい食べ物や上級使用人の私物といったものなのだが、であったのに、一度に高価な品が狙われるようになっていた。
ネックレスに宝物庫なんていわれたら、リアはゲラルトの指輪を思い出してしまう。だが気づいたときには指輪は消えていて自分は持っていない。だから、それは大丈夫のはず……
だが、部屋にはハインリヒのハンカチーフと六角形の赤い箱がある。
使用人が持つには似つかわしくない高価なものが没収されるとすれば、それはどのくらいの値段のものだろう?
疑問に思って、リアは訊いてみた。
「それって、そんなに高いネックレスだったのかな?」
「さぁ、それはわからないけど……でも、役人の中には恋人がいない人もいて、その人の鬱憤が入っているんじゃないかって噂よ」
とんでもない話である。恋人のいない役人が盛り上がっている恋人同士に嫉妬して冤罪をでっち上げたなんて、もし本当なら公私混同も甚だしい。
それは別にして、こうもエマが怒るところをみると、彼女はクルトから本当にたくさん贈り物をもらっているとわかる。きっとそのネックレスに相当するような高価なものもあるのかもしれない。前回の噂話のときよりも、さらにリアは確信できた。
(まぁ、エマは可愛いから)
(いろいろプレゼントしたくなっちゃうわよね、男の人だったら)
(同じお城で働いていても、エマとは昼間は顔を合わせたることはなかなかないし……クルトさんも心配で、繋ぎ止めるのに必死なんだろうな)
「本当に、早く犯人が捕まってほしいわよね」
「うん、そうね」
ハインリヒのハンカチーフのことを思えば、リアもそう思う。しっかりエマに同意するのであった。
厨房のおばさんから例のバスケットを受け取って、リアは自室へ向かった。
エマと会話して普段の調子を取り戻したが、ひとりになると、とたんに足取りが重くなる。
友人と思っていたゲラルトとキスをしてしまったことが、とにかく後ろめたい。こんなに自分はふしだらな娘だったのだろうか? ひどく落ち込む。
ハインリヒとのキス未遂では、こんな重苦しい気持ちにはならなかった。きっと好きでない人とキスしてしまった事実を、好きな人に対して申し訳ないと心の底で謝罪してしまうのだろう。その好きな人とは相思相愛でなかったとしても、だ。
この場合、ハインリヒの顔をみるのが苦しい、というのはわかる。でも……
(何だろう、ザックの顔をみるのも……嫌だなぁ)
この感情の理由がリアにはいまいちよくわからない。別にザックのことが好きというわけでもないのに。どちらかというと早く同居を終了させたいと思っているのに。なぜか、今はみたくないと思う。
キスのことは、ザックに報告しなければわからないこと。あえてするつもりもない。
しかし、“私は何でも知っている”と不敵な顔でいい張るザックだから、今日のキス事件を知っているのではないかとリアは警戒してしまう。
どんなにゆっくり歩いても、いずれは自室へたどり着く。ほら、洗濯係が運んできた洗濯籠がみえてきた。これもいつものように行儀正しくリアの部屋の前に置かれている。
戻るのが遅ければ、あの同居人は腹が減ったとうるさい。
今日はそこまで遅くはないけど、観念してリアは鍵を取り出し扉を開けた。廊下からの明かりを頼りにして、部屋のランプをつける。パッと明るくなった自分の部屋には、また新しい本が並んでいた。
バスケットを机に置き、リアは洗濯籠を運び込む。パタンと扉を締めれば、今日は自分の立てる物音以外、何もきこえなかった。
(?)
普段なら、扉を閉めると“おかえり”と声がかかる。完全な密室にならないと、ザックは気配を現さない。不許可滞在をよくよく自覚していて、彼はこの点についてリアの評判に配慮してくれていた。
だが、今日は声がかからない。たまに眠っていて、時間が時間だからまだ人間の姿である場合が多いのだが、挨拶がないこともある。
そんなときは、衝立向こうのリアのベッドの上で大の字になって眠っている。
(寝てる、のかな?)
ちょっと、ほっとする。
(でも、そのままにはできないし……仕方ないわね、起こそう)
一度、眠ったままにしておいたら、食事を食べそびれたと朝にぼやかれた。そのことがあってから帰宅してザックが眠っているときは、リアは彼を起こすことにしていた。
「ねぇ、ザック、寝てる?」
衝立向こうを覗き込む。
「あれ? いない」
そこには朝に整えた状態のままのベッドがあるだけであった。
「なーんだ、今日はお出かけなんだ」
悪いことをしているわけではないのに、ザックの顔をみなくてすんで安堵したリアがいる。
少し時間が経てば、いつもどおりに接することができるだろう。ザックにも、ハインリヒにも、ゲラルトにも。
思いがけずひとりの時間を手に入れることができて、心身ともにリアはリラックスできた。
そして、そのひとりの時間はそのまま一晩続き、ザックは翌朝になっても戻ってこなかったのである。