Act-6*戸惑いの猫(1)
カリカリと、何か尖ったものが擦れる音がする。
音に気がついて、テラスに出る大きな掃き出し窓にマルガレータが目をやった。窓外は闇色だ。手紙を書いている間に、すっかり夜は更けていた。
その夜の帳を背景にして、窓枠下の方に白いふわふわとした塊がある。白塊の中には、オレンジと青の丸いガラス玉が並んでいるのもみえる。
白い物体は、毛足の長い白猫であった。この猫は不愉快でない程度にガラス窓に爪を立てて音を鳴らし、マルガレータを呼んでいた。
礼状を書くペンを置いてマルガレータは窓に歩みより、そっと窓を開いた。
『にゃん!』
白い塊はひと声鳴いて、するりと中へ入り込む。さも、いつものことのように。
白猫はマルガレータの足元をすり抜けて、たったったとソファセットそばまで駆けつければ、ある位置でピタリと止まる。猫特有のあの胸を張る姿勢で鎮座すれば、オッドアイでマルガレータを仰ぎ見た。
「いらっしゃい、フォル。お前はいつも気まぐれにやってくるわね」
礼状を書く作業を一時中断してマルガレータは侍女を呼び、猫のための食事を用意させた。
やってきたのは侍女の中でも最近出入りし始めた娘だ。夜に突然いい付けられて、彼女はいそいそと猫の食事を運んできた。銀のトレーに白磁のボウルがふたつ載り、そこには柔らかく解した肉とミルクが入っている。
侍女が床に並べようとすると、マルガレータはそれを制した。そして自らがボウルを手に取り、猫の前においてやった。
『にゃん!』
いただきますの挨拶のように、またひと声鳴いて遠慮なく白猫は食事を食べ出した。
「フォル、美味しい?」
侍女の前にもかかわらず、白猫の前にしゃがみこんでマルガレータは問うてみる。
白猫は食べるのに夢中で、マルガレータへ返事をしない。けど、パタパタとふわふわのしっぽを振る。ご機嫌に揺れるそれは、充分マルガレータの問いかけの返事になっていた。
「姫様、あの……」
「わかってるわ、“ばあや”がうるさいのでしょう。私が勝手にやっていることだから、あなたのせいにはしないわ。安心して」
“ばあや”とは、現在のマルガレータの筆頭侍女のことである。
彼女は元々は姉ロジーネ第一王女の乳母であった。ロジーネが政略結婚で隣国へ嫁いでいったのが一昨年のこと。その際に同行はせず、この城に留まった。なぜなら、隣国へ同行するには彼女の年齢がいき過ぎたから。
異国の地で新たなスタートを切ることは、高齢の“ばあや”にとって、ひどく酷なことである。ロジーネの提案で、この乳母は妹王女たちのお付きに回ることとなった。
当初は第三王女のフロランツィアの筆頭侍女になる予定であったが、これも年齢を理由に変更となった。なぜなら、当時のフロランツィアは七才で、高齢の乳母がじっとしない幼い王女を追いかけまわすのには体力的に厳しいから。
こんな理由で、“ばあや”はマルガレータの乳母になった。そして、それまでマルガレータに付いていた乳母がフロランツィアの筆頭第二位の侍女へ変更となったのである。
この新しい“ばあや”がやってきたのは、マルガレータが十四のときである。この配置は、乳母というより淑女教育の教師としてである。実際、政略結婚で嫁いでいってしまった姉ロジーネの淑女教育を行ったのは、この“ばあや”。彼女はこの実績を、たいそう誇りにしていた。
淑女教育の教師━━そう、“ばあや”は、先生だけあって、うるさいのである。いろいろと。
マルガレータは、自然の花や小動物が大好きである。外に出ては、自ら花を摘み、子犬などを抱き上げる。
ところが、“ばあや”はそれに制限をかけた。花については庭師に切ってもらえといい、小動物についてはとことんマルガレータから遠ざけようとする。どんな病気をもっているかわからないといって。
だから、今、目の前にいるこの白猫など見つかったら大変だ。猫の食事を運んできたこの新米侍女もそれをよく知っているから、入室してからずっと“ばあや”の出現にハラハラしているのである。
「あとは私の方で片付けておくわ。あなたはもう休みなさい」
「あの……それでは……」
「大丈夫よ」
女主人のマルガレータがそういっても、侍女は直属の上司の顔色を気にしてしまう。もじもじと退室に二の足を踏んでいた。
この侍女はまだこういうのには慣れていないから、無理もない。彼女の退室にいい口実はないかと、マルガレータは部屋を見渡した。
そうね、これがいいわ。
ライティングデスクに戻り、マルガレータはさっき出来上がった礼状を一通、手に取った。宛名はアーベントロート卿。それは兄ハインリヒの学友ゲラルトに宛てたのものである。
「忘れないうちに、あなたにこれをお願いするわ」
新米侍女に手紙を渡せば、恐る恐る彼女は受け取った。私書ではなく公式文書を扱う部署から届けるようにとも、いい付ける。
宛名をみて、侍女はひどく驚いた。
「本当に私書扱いでなくても、よろしいのでしょうか? アーベントロート卿で、ございますが……」
ちらりと衣装室の扉に目配せして、侍女は確認してきた。
侍女がそう気にかけるのも、無理はない。でもマルガレータは澄ました顔で、公式扱いしろと念押しした。
「親族以外への私の手紙は公式文書になるから、それでいいのよ」
侍女に託したその手紙はひどく薄い。なぜなら、時候の挨拶、贈り物への謝辞、締めくくりの安否を労う言葉の三点しか記されていないから。ひどく他人行儀な礼状である。
義理しか感じさせない中身の礼状を押し付ければ、やっと新米侍女は下がっていった。
「本当に、アーベントロート卿には困ったものだわ」
無人になった勉強部屋で、白猫のフォルにマルガレータは本音を漏らしてしまう。
これも“ばあや”にきこえようものなら、くどくどと叱られそうだ。
本当はさっきの礼状も書きたくなかった。毎日のように送り届けられるゲラルトのプレゼントに、その都度礼状を書いているので、マルガレータはもううんざりしているのである。
「あれ、どうにかならないかしら、ねぇ?」
ゲラルトは何かと理由をつけては、マルガレータへの贈り物を用意する。
庭のバラが咲いたといっては大振りのブーケを、もちろん“ばあや”の小言をきちんと守って棘を取り払ったものをだ、届けさせる。また可愛い小鳥のイラスト集を見つけたといっては、もちろん“ばあや”の主張を知ったうえで本物の小鳥でなくイラスト集なのだが、贈ってくる。
そう、彼はマルガレータに毎日のように贈り物をするのである。
そんな彼の届け物は、マルガレータの衣装室の一画で山積みとなっている。花は飾っても枯れるから残ることはない。でもイラスト集や縫いぐるみなどは時間の経過で消えていくことはない。
それとなくゲラルトにはプレゼントの辞退をお願いしたのだが、まったく聞き入れてもらえなかった。兄ハインリヒと仲がいいがために、マルガレータは強くもいえず、贈り物を捨てることもできず、その礼だって告げないわけにはいかない。まさに衣装室は、その成れの果ての姿であった。
そんな衣装室の事情を知っての先の侍女の確認である。こんなにたくさん姫様に贈り物をするアーベントロート公爵令息のゲラルトに対して、そんな軽い扱いをしていいのかと。
『にゃん、にゃん!』
「フォルはいいわね、好きなときに好きなところへ好きなだけ出歩けるのだもの。私も自由に出歩けることができれば、このお城を出て、フォルカー様のところにいきたいのだけど……」
少し遠い目をして、マルガレータはフォルに話しかける。
マルガレータは王女だから、誰にも本音は話せない。“ばあや”はもちろん、父王、母王妃、兄マインラートとハインリヒ、妹のフロランツィアにだって。第二王女の立場を理解していて、近い将来、国のために政略結婚する可能性があると思っているから、下手なことはいえない。
ゲラルトは毎日登城してきて、兄とともに家庭教師の講義を受けている。学習以外でもゲラルトはハインリヒと行動をともにすることが多くて、マルガレータとも一応、親しい。周りからは、もうひとりの兄といっていいくらいの位置づけでみられている。
ゲラルトは自分の家族と仲が良く、マルガレータとは年齢的にも家柄的にもつり合いが取れて、ルックスも申し分ない。マルガレータと並んで立てばお似合いといわれ、将来はハインリヒの側近として国政に携わる有望な公爵令息である。
そんな彼が毎日のように王女に贈り物を届けさせる。その真意は、誰だって間違えることはないだろう。
そう、誰もがゲラルトとマルガレータの結婚は時間の問題だと思っている。
だから、だからこそ、マルガレータはゲラルトには他人行儀を貫いた。ゲラルトは兄の友人としては問題ないのだが、マルガレータは別に好きな人がいる。さっきの礼状がそっけないのも、そういうわけなのである。ささやかなマルガレータの気持ちの表れであった。
『にゃん、にゃん!』
食事を終えた白猫がソファに座るマルガレータの足先に身をすり寄せてきた。抱っこして、の催促だ。
「あら、もういいの?」
両脇の下に手を入れてマルガレータが持ち上げると、素直に白猫は身を預けた。膝の上にのせれば、白猫はリラックスして長くなって寝そべる。顎を撫で背中を撫でてやると、白猫はゴロゴロと喉を鳴らした。腹が膨れ、愛撫ももらって、すっかりご機嫌の猫がいた。
この白猫は一ヶ月ぐらい前からマルガレータの部屋のベランダに現れるようになった。やってくるのは決まって日の落ちた夜で、窓外からマルガレータを見つけては、にゃんにゃんとアピールする。
この猫は真っ白で柔らかい毛をしていて、野良猫というほど乱雑な毛並みではない。でも、首輪はしていない。
右目がオレンジ色、左目が青色なのだが、侍女の中にはこれを気味悪がって、白猫に近づかない娘もいる。もしかしたら、オッドアイを珍しがって飼ったものの、途中で気持ち悪くなって捨てられた猫かもしれない。試しに餌をやってみれば、白猫は喜んで食べだした。
それからというもの、不定期に白猫はマルガレータの元にやってきて、食事をしていくようになった。
飼い猫かどうかもわからないこの迷い猫に、マルガレータは『フォル』と名付けた。好きな人の名前、フォルカーの略称をつけて、“ばあや”に内緒で可愛がっていた。