Act-5*リアと『先生』(5)
長いです(5600字)
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ザックと違って、ゲラルトは優しい。
発音の間違いを、確かにそう読んでしまいそうになるねといって、理解を示した上で訂正してくれる。ひと言、違うといい払って直すあの偉そうな魔法使いと大違いだ。
ハインリヒと違って、ゲラルトは親しみやすい。
同じ使用人だと思うと、リアは必要以上に緊張することがない。彼がリアの目線にまで降りてきてくれて、上下の壁のようなものを感じさせない。まるで、エマと話をするような感じである。私は昔の王子だと主張するあの不遜な魔法使いと大違いだ。
ゲラルトのレッスンは一回だけで終わらなかった。ハインリヒの命で行われているから、続いてもせいぜい二、三回だろうとリアは思っていたのだが、気がつけば開始から一ヶ月になっていた。
こんな感じで、リアとゲラルトのレッスンは、和やかに、順調に、確実に進んでいったのである。
「もうそろそろ、その本を終わりにしてもいいんじゃない?」
ある日のレッスンでのことだ、ゲラルトはリアに新しい教本に入るよう提案した。
リアの使う教本は、ザックが用意したものである。毎日、ザックは夕食の席で、朝に予告したページのテストを行っていた。
学習開始当初に比べたら、リアはこの教本のスペルについてはほとんど正しく読めるようになっていた。だが、ヒントになるイラストを隠してテストされると、正解率はガタンと落ちていた。
その都度、ザックはリアに軽口を叩いてからかう。リアがそれについて反発すれば、彼はさっさと猫に変身して逃亡し、ベッドに飛び込んで眠ってしまう。
あまりにも都合のいい変身の仕方だから、リアは猫になるタイミングが調整できないというザックのセリフを疑ってしまうのだった。
こんな風にザックにからかわれると、リアはひどく悔しくなり、ゲラルトとともに必死に勉強した。そして、再びテストに臨む。これを繰り返すうちに、だんだんリアの正解率は向上していった。
「うん、でも、イラストなしでは自信がないの」
実は、リアもゲラルトと同意見だ。同じ内容ばかりでもう飽きてきていた。
だが、次に移りたいと思っても、どの本を選べばいいのか、リアにはわからない。また、自分でお金を出して買うということも不可能である。だって、本はとても高価なものだから。
リアが本を手に入れるには、図書室で不要になった本をもらうことぐらいしか方法がない。
しかし、二ヶ月前の引っ越しで不要な本はすべて焼却された。現在の図書室には、そんな本はない。引っ越しの際に蔵本の見直しが厳格に行われたので、廃棄になるような本もしばらく出ないだろう。
「スペルだけでわかるようになりたいから、もうちょっとこの本で勉強するわ」
とりあえず、隣に座るゲラルトにそんな風に答えておいた。
リアは、ゲラルトにはザックのことを秘密にしてある。だって、説明しても、夜になれば猫に変身する人間のことなんて、まず理解されないだろうから。
この現象を納得してもらうためには、独身女性のリアの部屋に独身男性のザックが同居している事実を明かさなければならない。
これは、ザックの生態を認めさせることができなければ、リアはふしだらな娘という烙印を押すだけで終わる。せっかく勤勉だと褒めてくれたのに、ゲラルトを失望させるようなことになる。もちろん、リアだって、そんなこと望んでいない。
同じように、ザックにもゲラルトのことは内緒にしてある。ハインリヒのことをバカ王子という彼が、そのバカな王子のお付きであるゲラルトのことを、同じようにバカにするのが目にみえているから。下手に新教材のことを口にしてゲラルトのことが発覚してしまえば、またいろいろ叱咤されそうである。
「そう? まぁ、リアが納得してから次に進むのがいいとわかっているけど……」
新教材についても、リアの考えにゲラルトは理解を示してくれた。本当にいい先生に出会えたと、リアは思う。
「でも、僕としては、最近は出番がなくて、ちょっとつまらないんだ」
少しリアの方に身を寄せて、ゲラルトがささやいた。
(?)
口角を上げて、ゲラルトはリアの金の瞳を覗き込む。黒の瞳が少しずる賢く輝いて、リアはドキンとした。並んで座る距離がいつもよりも近いのは、気のせいか?
「また、そんなこといって! 他の侍女にも同じようなこと、いっているんでしょ?」
「まさか、そんなことしないよ。もし、そんな風にみえたのなら……残念だな」
「だって、ラルはいつもハインリヒ様のことでからかうじゃない。あれ、恥ずかしいんだから」
ゲラルトがハインリヒ王子の側近というのはすぐにわかった。だが、詳しいことは最近まで知らなかった。彼の仕事は、ハインリヒの身の回りのお世話とかでなく、学友というものであった。
ゲラルトは、お城にはほとんど毎日のように登城しているが、ずっと仕事をしているわけではない。ハインリヒに公務が入ると勉強は一時中止となり、その間はお役目御免となる。
だから、ハインリヒは自分から離れる時間のあるゲラルトに、リアのレッスン講師を指名したのだ、そんな経緯をリアはゲラルトから知らされたのだった。
ゲラルトは、ハインに頼まれたからと図書室へやってきては、リアと本を読んでいく。もっとも、リアの業務が終わっていないときは、適当なリーディングチェアに腰かけて自分のための難しい本を読んで待っている。リアが別件で手が離せないときでも、傍若無人にあれこれ話しかけるあの魔法使いと違い、彼は礼儀正しい。
さらに、ゲラルトはザックのことを知っていた。王子の学友だから、ザックから王子とともに彼のレクチャーを受けていた。
ここでやっと、リアはカウフマンのいない図書室の留守番を思い出したのだった。
その日は、ハインリヒとキス未遂事件となった日だ。キスのことばかり気を取られていたが、実は、ゲラルトもハインリヒとザックに同行していて、あの未遂場面を目撃していたのだった。
面白おかしくゲラルトにそのときのことを指摘されて、リアは穴があったら入りたい気分になった。
リアにすればとても恥ずかしいことであるが、ゲラルトはそんな風に思っていなかった。ひと言、あのくらいのキスは、ハインは日常茶飯事で挨拶程度のものだという。王家や貴族のマナーを知らないリアにすれば、驚きの作法であった。
「あの日以外にも、ハインと一緒に何度か図書室へいってリアとは顔を合わせていたのだけど、気がつかなかった?」
お付きの人がいても、リアはそこまで気が回らなかった。とにかくハインリヒに失礼がないように、リアはそればかりに集中していて、彼の回りに注意を払う余裕など全然なかったのだった。
素直にそう告げれば、ゲラルトは、リアらしいと吹き出した。くっくと大声で笑いたいのを、喉の奥で必死にこらえる。だって、図書室では静粛に、だから。
「あのときのこと……ちょっと、みっともないから、早く忘れて!」
「いやいや、忘れたくても、忘れられないよ。ハインが、図書室に可愛い娘がいるってやたらと話題に出すし、それがリアだってわかった瞬間だったからね」
━━ハインが、図書室に可愛い娘がいるってやたらと話題に出すし、それがリアだってわかった瞬間だったからね。
そんなハインリヒのセリフに、リアは真っ赤になった。すかざず、ゲラルトが茶々を入れた。
「リア、顔が真っ赤になっている。やっぱり、ハインのことが好きなんだね」
━━やっぱり、ハインのことが好きなんだね。
ズバリ、本音をいい当てられる。
ザックからは深入りするなといわれ、自身も身の程をわきまえるをリアは意識している。でも、心の奥底では、資料室の入口ではじめてハインリヒから声をかけられた瞬間に、世界が急に色めき鮮やかになったことを、リアは忘れることができない。
━━好きになるのは構わないが、深入りするな。
ザックの言葉がリアの頭のなかで、リフレインする。
深入りはするなと釘を刺されても、好きになるのは禁じられていない。遠くから眺めている分には何も問題はない。そこまで、ザックは許さないわけではなかった。
「うん、皆には内緒よ。一番最初にお会いしたとき、実はハインリヒ様のことを知らなくって、失礼なことをしてしまったの」
ハインリヒとの出会いになった、資料室でやってしまった注意勧告のことをゲラルトに白状した。
「知らなかったとはいえ、思いっきりダメです、なんていってしまったから、てっきりそのままクビになるかと落ち込んでいたの。でもそんなことなくて、後日お会いすれば、仕事を手伝ってくれたり、今だってラルを遣わしてくれたりするし……本当にお優しい方だなって……」
「ふうん、それで?」
ニヤニヤした顔で、ゲラルトはリアに先を促した。
「あの、ハインリヒ様には絶対内緒よ。身の程をわかってるから、好きになってはいけないと思っているんだけど……」
「思っている、けど?」
「やっぱり、なかなかその気持ちは、消えそうにないなって」
ゲラルトはハインリヒの付き人である。変な下心を持っているとは思われたくない。ゲラルトを利用してハインリヒに近づきたいなんて、考えていないとリアは念押しした。
「ハインリヒ様のことは、本当に好きだから、みているだけでいいの。そこは、ラルにきちんとわかっていてもらいたいから、お話したの。だから、絶対、ハインリヒ様にはいわないでね」
真面目な顔で、真摯にリアは懇願した。この一ヶ月、一緒に勉強して、ゲラルトのことが信頼できるとわかったからこその、お願いであった。
真面目なリアの金の瞳を、黒のゲラルトの瞳が真っ正面から受け止める。ゲラルトの顔にも、リアを茶化す色はなかった。
「本当に、ハインのことが好きなんだね。僕の付け入る隙がないな」
(?)
ついっとリアの金の瞳からゲラルトは視線を外すと、ポケットから何やら取り出した。
出てきたのは指輪である。白くて楕円形の半透明の宝石がひとつ着いているシンプルな指輪だ。
(あ、不思議な色。ガラス窓みたいにキラキラ光っていないけど、それでもきれい)
(光の輝きだけを集めた宝石だってハインリヒ様は教えてくれたけど、これが “だいやもんど” なのかしら?)
「リア、左手を出して」
ゲラルトにいわれて、素直に手のひらを上にしてリアは差し出した。
リアの手の出し方に、くすりとゲラルトは苦笑する。苦笑しながらリアの左手を取れば、くるりとひっくり返し、その指輪を薬指へ嵌めた。
「ちょっと、ラル?」
目を丸くして、リアは問うた。さっきハインリヒのことが好きだと告白したばかりなのに、ひどくそれに反する行為だ。
薬指に指輪を嵌めるなんて恋人同士がすることで、リアとゲラルトはそんな仲ではない。リアが焦るのも無理はなかった。
「どう? なかなか似合っているよ。手を伸ばしてみてごらん」
ゲラルトはリアに、好きな人はハインリヒであると確認を取っている。それを踏まえた上で、指輪を嵌めた指を眺めるようにいう。
穏やかに促すから、ゲラルトには特に他意はないだろう。不思議に思いながらも、リアは目線より少し上の位置で光にかざしてみた。
半透明の宝石は、厳かに輝いている。その煌めきは、華やかというよりは慎ましいが相応しい。
(なんか、こんな感じの指輪をどこかでみたような気がするけど……)
(気のせいかな?)
(下町で暮らしていたときに、結婚するお姉さんたちにみせてもらった中に、こんなのがあったかもしれない)
そんなことを思いめぐらしているときに、名が呼ばれた。
「リア」
とくんと、心臓が大きく拍動した。
声の主は、ゲラルトである。並んで座って行う発音練習で、すっかり聞き慣れた声。なのに、今の声はひどくリアをドキドキさせる。
「リア、こっち向いて」
もう一度、ゲラルトの声がリアの名を呼んだ。
リアの耳に心地よくゲラルトの声が響き、また大きくリアの心臓が鼓動した。呼応するように、頬に熱が集まりだす。
(何? 何でこんなに落ち着かないの?)
恐る恐るリアは隣のゲラルトに向き直った。
目の前には黒髪の黒い瞳のゲラルトがいた。
(あ、私、この人のこと……)
目に熱い涙が浮かび、頭がぼんやりしてきだした。
そこに、強く肩を抱かれて、ゲラルトの方に抱き寄せられる。途端、強い新緑の香りがリアの鼻を擽った。
彼がつけている今日のフレグランスも、とてもいい香りであった。鼻腔を擽られて、リアはくらくらしてくる。
ゲラルトとはいい先生であり、仕事仲間である。好きなのは、ハインリヒなのに、リアはゲラルトの抱擁に抵抗できない。抱き包まれた腕の中で、ひどくそうされたい思うと同時にとても幸せな気分になる。
(あれ? 私、ハインリヒ様が好きだったのよね?)
ゲラルトとはいい先生であり、仕事仲間である。なぜだろう、もうそんなこと、どうでもいいような気がしてきた。
気がつけば上半身だけでなく腰もしっかり抱き寄せられている。上半身だけでなく太ももから膝下、足先まで、ぴったりと横にくっついていた。お仕着せや靴を介しても、感じるゲラルトの体温がこの上もなく、愛しく思えてくる。
「リア、キスしてもいい?」
そう懇願するゲラルトの望みを、リアはひどく叶えてあげたいと思う。
「ええ、いいわ」
(あれ? 私、何いってるの?)
思考と感情が一致しない。口は感情に従っていた。
「リア、可愛いね。僕はそんなリアが好きだよ」
そう告げられると、リアはひどく嬉しい気分になった。
「ラル、私も、ラルのことが好き」
(えっ! 私、ラルが好きだったのかしら?)
ここでも思考と感情が一致していなかった。
ゆっくりとゲラルトの顔が近づいてくる。近くなってくるから、自然とリアは目を閉じた。
温かくて柔らかな感触が、唇の上に落とされる。リアが抵抗しないのを確認すれば、さらにゲラルトは唇を押し付けた。
強く触れて、軽く触れて、向きを変え、また強く触れる。ゲラルトの唇が、リアの唇の上で戯れた。
静かな図書室の本棚の陰から、ぴったりとくっついて並んで座るふたりのリップ音が響くのであった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます♪
次回の更新は、三月下旬(予定)となります。
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→プライベートで引っ越し案件がありまして、こちらが難航しております(T_T)
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