Act-5*リアと『先生』(1)
「dandelion、doll、dress……」
城下町の火事から数日後、リアは昼からの図書室業務の合間に、例の教本を広げた。二階の本棚横のリーディングチェアに腰かけて、ときどき周りを警戒しながらこっそりと声に出す。ザックから教本を渡されてそれなりに時間が経っていたが、リアは次の本に進めていなかった。
あの夜の火事からこちら、ザックは一日の終わりに、もちろん猫になる前の人間の姿のときなのだが、リアの教本の進み具合をチェックするようになっていた。リアが嫌々勉強していて一向に上達しないから、彼の方も強硬手段に出たのである。
こんな感じで毎日確認テストが行われるようになってしまったのだが、こうなればリアは勉強せざるを得ない。母が亡くなって気落ちしているところに休む間もなく、ザックは容赦なく教示する。こういいながら。
━━お前はバカなんだから、字ぐらい読めなくてどうする?
━━私がここにいるうちに、さっさと文字くらいマスターしろ! そんな子供の本に、一体いつまでかかってるんだ?
━━勉強はやめてしまえば、それでおしまいだ。そんなことをすれば、バカなお前なんか、すぐに餓死するぞ!
教師のザックは、ちっとも優しくない。テストで間違えようものなら、暴言が飛んでくる。
ザックのいうことはわかる。
予期せぬ下町の火事は、リアから母イルザを奪い去った。火事の起こる前からも字を教えてやるというザックのセリフには、いつもリアがひとりになったときのことがセットになっていた。何度も彼は口を酸っぱくして、明るくない未来をリアに告げていた。
彼のいうことは、ごく一般的なことである。それはリアだってよくわかっている。
人間には寿命があるし、人間はいつかは死ぬものだ。それは産まれた順に起こることで、普通に考えれば、母は娘より先に亡くなる。そうなる前に親は子供がひとりでやっていけるように子供を育てる。子育ての究極の目的がそれである。
今回の下町の火事は、リアの想定外であった。母との別れはいつかはくるものだとわかっていても、そんなに早くやってくるとは思ってもみなかった。くるとすればその時期は、リアが結婚して、子供ができて、その子供がそこそこ大きくなってからと、なんとなく考えていたから。
そんなに早くくるものだと知っていたら、リアは母に警告をしただろう。火事で死ぬのが回避できない運命だとしても、事前に知っていれば、もっと頻繁に家に帰ったかもしれない。極端な話、リアはお城に働きに出なかったこともあり得る。
未来なんて、誰にもわからない。
それを、身をもって知った火事であった。
「dandelion、doll、dress、drop、door……これは何かしら?」
今日はdのページをテストするとザックに予告されていた。開いたページには中央に大きなdの文字があり、周りに可愛らしいイラストが踊っている。cやrのページと同じである。
そのイラストの中で、色のついていない宝石の指輪が描かれていた。指輪のringはrで始まる。dではない。
ringの文字に、リアは隣りにハインリヒが並び一緒に読み上げてくれたことを思い出した。
「それはdiamondだね、リア」
(!)
ハインリヒの声が頭上から降ってきた。空耳かと思い、慌ててリアは本から目を離し、声の方を仰ぎ見た。たった今、ハインリヒのことを思い出していたから、なおさらに。
午後の陽射しを受けて、艶やかに金髪が光っている。声の主は紛れもなくハインリヒ本人だった。空耳ではなかった。カウフマンが留守にしたあの昼下がりの図書室が、再現されていた。
リアはハインリヒが図書室にくるとは思っていなかった。なぜなら、カウフマンから朝礼で予告されてもいなければ、ザックからは当分、王子のレッスンには図書室を使わないともきいていたから。
先日の個人レッスンと違い、今日の彼の服装はジュストコールだ。それは彼の金髪と同じ金の刺繍が襟や袖、胸元にふんだんに施された豪華なもの。刺繍だけでなく濃紺の生地も光沢が美しい。このジュストコールはこの上もなく、ハインリヒの美貌を引き立てていた。まさに、おとぎ話に出てくる正統派の王子様そのもの。
間近でみるハインリヒの素敵なジュストコール姿にリアはドキドキする。
彼が図書室にくるときは、開襟シャツにブリーチーズで、こんな立派な姿ではない。リアが知っているハインリヒのジュストコール姿は、二年前の庭師の補佐をしていたときにお城の庭園で行なわれていたお茶会を、遠くからちらりとみたものだけだった。
「火災のことをきいて、リアがどうしているのか気になってね。公務の途中だけど、近くまできたから立ち寄ってみたんだ」
少し沈んだトーンの声に憂いの混ざった碧の瞳で、ハインリヒはお悔やみを口にする。意外なことに、火事の被害者がリアの母であったことをハインリヒは知っていた。
「ハインリヒ様……お言葉、ありがとうございます。あの火事では、きれいに何もかも焼けてしまって、形見になりそうなものがまったく残っていませんでした……」
だから母は亡くなったのではなくて、どこかへ旅に出てしまったと考えることにしました、そうリアは続けようとしたが、出てきたのは言葉ではなく、大粒の涙であった。
(あ、いけない……)
ぽとりとひとしずくの涙が、dropの文字と青色の滴のイラストの上に落ちて紙に滲み込んでいく。
「ご、ごめ……あ、申し訳ありません。とんだ失礼を……」
慌ててリアはいい繕った。本当は椅子から立ち上がり深々と頭を下がるのが正解だろう。だが、ここ数日ずっと心の奥底に鎮めてあった想いをハインリヒに掘り起こされて、リアはチェアに座ったまま身動きできなかった。
「いいんだよ。肉親の死は、誰だって辛いものだ」
ハインリヒは優雅な仕草で内ポケットからハンカチーフを取り出すと、リアの前に跪いた。リアの頬に手を添えて、そのハンカチーフで流れた涙をぬぐい取る。まるで、自分の恋人にしてあげるかのように。
「ハインリヒ様……」
温かな大きな手を頬に感じてしまえば、ますます涙が溢れてくる。早く泣き止まなければと思いながらも、頬に添えられた手が気持ちよくて、ずっとそのまま触れていてほしいと願ってしまう。
「リア、辛かったね。でも、真面目に生きていれば、きっといいことがあるよ。今日だってきちんと勉強をしているじゃないか、その努力は必ず花咲くよ」
そういって、王子が下級使用人の掃除娘を慰めた。正装の王子が、お仕着せの掃除娘に跪くなんて、侍従長にでも見つかったら大目玉だ。
通常ではあり得ないこの展開に、リアはすっかり感激してしまっていた。
(なんて、ハインリヒ様は、慈悲深い王子様なの!)
(それに比べて、あの同居人の魔法使いは、どうよ!)
とにかくザックは勉強しろというばかりで、今のハインリヒのようにリアの気持ちを汲み取ることはしなかった。
カウフマンは、王子は優しすぎるところがあるといっていたが、本当にその通りだとリアは体感する。こんな掃除娘にまで、慈愛を注いでくれるなんて。
私が勤めているお城にはこんな立派な方が暮らしている。そう思えば、しっかりしなきゃあとリアは前向きになれた。
(そういえば、ハインリヒ様、公務の途中っていっていたわね。遅刻になんかなってはいけないわ)
いつまでも跪いたままでリアを見上げるハインリヒへ、苦しいけれどリアから今の時間の終わりを申し出た。
「ありがとうございます。でも、いつまでも悲しみに浸っていては、母も喜ばないと思います。ハインリヒ様、もう大丈夫です。ハインリヒ様の邪魔をするわけにはいけません。どうぞ、お立ちになってください」
リアが謝辞を述べれば、ハインリヒは涙を拭ったハンカチーフをそっとリアに握らせた。
「そんなに簡単には涙は枯れないだろう、それはあげるよ。辛くなったら、そのときはそれを使えばいい」
白の上等なハンカチーフには、緑の糸でHのイニシャルが刺繍されている。彼の瞳の碧に合わせたものだ。ハインリヒのためだけの品だとわかる。
「ハインリヒ様? よろしいのですか?」
特別な感じのするハンカチーフに、リアは恐縮してしまう。
「いいよ。それで涙を拭って、早く元気になって。そうそう、そのイラストだけど、それはダイヤモンドという宝石だ。無色透明で光の輝きだけを集めたような宝石だよ」
もちろん、リアはダイヤモンドなんてみたこともなければ、そんな言葉も知らない。でも詳しく説明を求めても、理解できないだろう。わかるのは、ダイヤモンドがとにかく高価な宝石ということぐらい。
「よければ今度、みせてあげよう」
何でもない感じでハインリヒがいう。
「えっ? お城には、“だいやもんど”があるのですか?」
リアの庶民的なセリフに、くすりとハインリヒが笑った。
(変なこと、いっちゃたかしら?)
「他にも、青のサファイアや、緑のエメラルド、黄色のトパーズに、赤のルビーがある。そうだな……リアは赤のルビーが似合いそうだね」
━━リアは赤のルビーが似合いそうだね。
このセリフにリアは赤面してしまう。まるでハインリヒが自分の恋人に宝石を選んでいるかのようにきこえてしまって、落ち着いてきた心臓が再び跳ね上がった。
一度に涙が止まり、リアは大きく目を見開いてハインリヒを見つめてしまう。
「そうそう、その顔、泣いている顔よりも、ずっといい。じゃあ、ゲラルトが心配するから、いくよ。またね」
お優しい第二王子のハインリヒはにこやかな笑みで激励し、その顔のまま本棚の向こう側へ消えていった。
***
「ごめんね、リア。今日もお菓子はダメだったの」
ハインリヒとの思いがけない邂逅をしたあとの夕方、大食堂でエマと一緒に夕食を食べているときだった。
ハインリヒ同様、もちろんエマも、下町の火災でリアの母が亡くなったことを知っている。だが、特にそのことに触れることなく、リアには普段通り接してくれていた。下手に慰めるよりかその方がいいと彼女は思ったらしい。
ただし、エマがお城でもらったお菓子はすべてリアに貢ぐようになっていた。エマはエマなりの慰め方を実践していたのであった。
最初は素直に受け取っていたが、回数が重なると、いくらなんでもわざとだとリアも気がつく。
クルトさんと一緒に食べなよとリアが遠慮すれば、いいのいいのとエマはリアのポケットにねじ込んでしまう。素敵な友達だと、リアは心が温かくなっていたのだった。