Act-4*災厄の猫(6)
制止の声を受けて、ハインリヒとリアが振り返ると、そこにはザックとゲラルトが立っていた。
(ザック?)
(なんで、ここに?)
(昼間は、私の部屋にいるんじゃないの?)
そのザックの服装は、リアのみたことのないもの。ハインリヒが先生と呼んでいたのはザックのことなのか、彼の服装は上質の宮廷服だ。書記官クルトのものなど、これの足元にも及ばない。
(あんな服、籠に入っていたかしら?)
ふたりとも両腕にたくさんの本を持ち、ザックは怪訝な表情を浮かべて、ゲラルトは苦笑していた。
「先生、みてたのですか? お人が悪いですね」
ハインリヒがおどけて、そうザックに告げる。探しものをしている先生とは、このザックのことだった。
ザックは受け付けカウンターにどざりと手持ちの本を乱暴に置き、リアとハインリヒの方にやってきた。
そして無言で、いつまでもリアを抱いている彼の手をはがし、次に強引にリアを自分の方に引き寄せる。ハインリヒの腕から外れたリアの体は、今度はザックの腕の中に確保されていた。
「おふざけが過ぎます。掃除娘のバカが移ります」
(!)
なんといういい種だろう、急に保護者面したザックをリアが彼の腕の中から見上げれば、そのザックは真剣な顔で怒っていた。
(ひどい! 確かに雰囲気につられちゃって、キスしそうになったけど……)
(そんなに、バカ、バカって、いわないでよ!)
睨まれたハインリヒはというと、ザックの剣幕に動じることもなく、にこやかな顔でリアに謝罪してきた。
「リアが可愛かったから、つい……ごめんね。君は悪くないよ」
王子とのロマンチックな過ちのことで、残念ながらこれは未遂で終わってしまったのだが、てっきり自分のせいにされるとリアは思っていた。だから、このハインリヒのセリフにびっくりしてしまう。
自分を悪者にしないこの優しい王子のことを、ますますリアは好きになってしまう。
「どうせ、この掃除娘が悪知恵を働かせたのでしょう、王子が謝る必要はありません」
毅然とザックがいい放つ。リアの意見などきかず、ザックはそうと決めつける。
自分を悪者にしてしまうこの偉そうな魔法使いのことを、ますますリアは憎たらしく思う。
「先生、そろそろ、その辺で。三時を過ぎてしまいます。それこそ、マルガレータ様に叱られます」
一触即発のビリビリした空気に助け船を出したのは、ずっと騒動を傍観していたゲラルトであった。
「もうそんな時間か。確かに、マルガレータに叱られる」
壁掛け時計を見上げて、ハインリヒはゲラルトに同意した。ふたりは、三時の王女の茶会に呼ばれているという。
「では、書物は私の方でお部屋に運んでおきます。ハインリヒ様もアーベントルート卿も、サロンまでお急ぎください」
臣下らしくザックが後始末を申し出ると、あっさりふたりの青年は認めた。
「先生、お手を煩わせますがお願いいたします。明日の講義は……」
ゲラルトが側近らしくザックに明日の講義の確認を取れば、さっさとふたりは図書室を後にした。
騒動の中心はリアであったが、ゲラルトは特にリアに注意を払うことはなかった。単なる図書室の掃除娘、たまたまそこに居合わせた下級使用人の娘、それだけであった。
「お前は、一体、何しているんだ?」
王子とその友人が去り、図書室にはリアとザックが取り残された。
カウフマンのいない午後三時を過ぎた図書室は、今度こそ誰もいない、リアとザックのふたりきりの空間であった。
「よ、読み方を教わっていただけよ。chessがわからなくて、悩んでいたら、教えてくれた……の」
怒りを露にし、ものすごい形相で、ザックはリアを見つめていた。
(た、確かに、うふふな感じにはなっちゃたけど……)
(キスは、してない!)
(ここは、胸を張ってもいいと思う!)
未遂で終わったからこそ、後ろめたい気持ちになることはない。そうリアは自分にいいきかす。
そのリアの心境を知ってか、すっかり保護者面で、ザックは諭し出した。
「お前、相手は王子だぞ。お前みたいな掃除娘を、本気で相手するわけないだろ。身の程知らずも甚だしい」
「わ、わかってるわよ。たまたま、そんな雰囲気になっただけで……」
そんなの、リアはわかっている。リアでなくとも、このお城に住む人間はわかってるし、わきまえている。
(たとえ恋仲になっても、結婚なんてできるわけないし……)
(運がよくても、退職金を多めに渡されて追い出されるのが関の山で……)
お城での職を失うのが嫌ならば、品行方正を貫くのが正解だ。重々、リアは承知している。
(承知しているけれど……)
(あんなきれいな瞳で見つめられたら……)
(抵抗なんて……)
(できない……)
ザックに叱られながらもハインリヒの碧の瞳を思い出せば、リアは胸がドキドキする。
リアの葛藤する心の声とときめいて激しくなる鼓動がきこえるのか、厳しくザックがいい脅した。
「本当に隙だらけだからな、お前は。ったく、ハインリヒのガキも手が早い。我が一族の末裔だから警戒はしていたが、よりにもよって、残念な気質を引き継いでしまった……父と同じだ。情けなくなってくる」
「?」
はじめは自分のことを非難されているかとリアは思ったが、途中から様子が変わっていた。
(我が一族の末裔? 残念な気質? 父と同じ?)
(何だろう?)
あまりいいようにきこえないのは、気のせいか?
「で、カウフマンのおっさんは、何時に帰ってくるんだ?」
今度はカウフマンのことを乱暴にそう呼ぶ。カウフマンに失礼だといいたいが、これも火に油を注ぎそうでリアはぐっと堪えた。
「四時の予定。今日は長くなるかもしれないって」
「そうか。で、鍵は?」
「鍵?」
「そうだ、図書室の鍵は持っているか?」
カウフマンから図書室の鍵は預かっている。素直に頷くと、ザックはカウンターの上の本をリアに無理やり持たせた。
「え、何?」
腕に乗せられた本は厚くて重い。すべて籠に入れるとその重みで底が抜けそうなくらいだ。
「王子の部屋まで持っていくんだよ。四時まで時間があまりない」
「え?」
両手のふさがったリアのポケットから、ザックは図書室の鍵を取り出した。ふんふんふんと鼻歌を歌いながら残りの本を持ち、リアに退室を促す。
本を持ったふたりが図書室を出れば、ザックはガチャリと入口ドアを施錠した。リアがカウフマンから預かった鍵で。
「ちょっと!」
図書室に閲覧者はいなかったが、これから誰かくるかもしれない。誰かどころか、カウフマンが早めに帰ってきたりしたら、リアは叱られてしまう。
「まぁまぁ、そういうなよ。四時までには帰してやるから」
資料本はふたりで運べば一回で済むとザックはいう。また、ここからお城のハインリヒの部屋まで歩いて十分ほどで、往復二十分だともいう。確かに、時間は問題ない。
「でも、ダメ!」
カウフマンののいいつけを忠実に守って、もう一度、リアは拒絶した。
「なら、カウフマンに王子のこと、バラすぞ」
「う……」
そういわれると、リアは反論できない。施錠して図書室を無人にするのと、カウフマンのいない図書室で王子といちゃついていたのとでは、どちらが罪深いだろうか?
うまくいい返すことができず、悔しくてリアは小さく体を震わせる。そんなリアを確かめて、余裕の声で魔法使いはこういった。
「いい機会だから、リア、王城へ連れていってやる」
その顔も口角を上げた余裕のもの。オッドアイの煌めきだって、強気そのものである。
リアの返事などきかず、ザックは歩き出す。二百年経とうとも勝手知ったる自分の城に変わりないと、ザックはリアに案内し始めた。
中庭を抜け、とあるお城の入口から、ふたりは入城する。お城に勤め出した最初の冬に掃除で入っていたが、今ザックに連れられて歩く場所は、リアの全然知らない風景である。
「さっき、先生って呼ばれてたけど……」
ハインリヒと対峙した図書室でのザックはすごい剣幕であったが、お城に入ってからのザックはそうではない。意外にご機嫌で、あれこれと城内の装飾などを説明する。機嫌が直ったみたいで大丈夫かなと、並んで歩きながらリアは尋ねた。
ザックはなぜ、先生になったことを教えてくれなかったのだろう……普段からリアのことを小バカにしているから教える必要などないのだろうか、最初リアはそう思った。
だが、よくよく考えてみたら、陽が暮れるとザックは猫になる。ザックが猫になれば、当然、リアには猫の言葉などわからない。
猫ではない魔法使いの姿のザックとリアが顔を合わせるのは、朝夕の短い時間だけ。
朝のリアは出勤前で忙しく、夕方は夕方で業務終了時間が延びたり、使用人らと大食堂で長居なんかしてリアが遅く自室に戻れば、ザックはもう猫になって眠っている。
同居しているといってもふたりの『人と人』としての接触は限られていて、『人と猫』の方がずっと長い。そうなれば、近況など話すタイミングがなかったと気づく。
「とりあえず、王子らの家庭教師になってみた。町から通いでくる先生にしてある。移動が大変だから住み込みで、とも提示されたが、通いの方が何かと都合がいい」
これもそうだ。ザックは夜には猫になるのだから、うっかり夜、誰かが彼の元に訪れたりしたら、大変だ。ザックが行方不明だと騒ぎになる。敢えて余計な騒音が立つ原因を作る必要はない。
「昼間は、ずっと部屋に閉じこもっている訳じゃなかったんだ」
「まあな。家庭教師なら、王城を歩いていても問題ないし、教材と称していろいろ資料請求できる。今はそれを利用して、曖昧になっている二百年分の歴史を調べ直している」
この辺りのことは、リアには関係のないことだ。だって、リアが二百年分の歴史に詳しくなっても、今のリアの生活には何も変わりはないから。
ただリアにわかるのは、不本意に解放された二百年後の世界で生きていくために、ザックはいろいろやっているということ。
封印を解いた責任を取れとかいわれたが、ザックは責任転換することもなく、現状を嘆いているだけでもなかった。リアの知らないところでいろいろ考えて、次の行動を起こしていたのだった。