Act‐1*リアと『白い猫』(1)
リアはお城で働く下級使用人の十八の娘である。仕事内容は、主に掃除である。
ときに人手が足りなくて、厨房に入り、じゃがいもの皮を剥いたりもすることもある。ときに洗濯物が多く出されて、これも人手が足りなくて、専属でなくても問題のないものを洗ったりする。
今では下級使用人の行う仕事なら何でもするのだが、メインはやはり掃除である。
最初のリアの担当は庭であった。そう、庭の掃除仕事とは庭師の見習い業務である。しかも作業は昼間しか行わないからお城に常住することなく、“通い”であった。
リアがお城に出入りするようになったのは、空気も揺らめいてみえる灼熱の真夏の頃であった。
何でもそれまで庭掃除を行っていた下働きの娘が、暑さのために倒れてしまった、とか。その代わりとして、リアが雇われた。
夏の炎天下の下町の青果市場で働いていたリアに、城の買い出し係が目をつけたのだった。
この娘なら体が丈夫そうだから滅多に倒れないだろう、あとで買い出し係がそう採用理由を教えてくれた。
確かにリアは体が丈夫である。小柄な見かけと違って。
そう、こういっちゃ何だが、一見華奢で、か弱そうにみえるが意外とバカ力がある。だって、母を手伝って幼い頃から市で荷物を運んでいたから。
はじめは籠に入ったりんごからスタートし、籠がひとつからふたつに増え、籠は木箱に変わり、お城で働く前にはその木箱を積み上げたりしていた。娘だけれども、力自慢のリアであった。
だから庭仕事も苦労しなかった。伐採した木の枝の束や籠いっぱいの土のついた雑草を運ぶのは何でもない。
また市は原則外に立っているものだから、そこで働いていたリアにとって、暑い陽射しも冷たい北風も慣れたものである。
うん、買い出し係、なかなか目の付け所がいいじゃないか、スカウトした買い出し係がいうようにリアもそう思う。
夏から始まった庭仕事が終わるころ、つまりお城の庭に美しい秋の花が咲いてそのあと実をつけるころ、リアはお暇を出されると思った。冬の庭作業に夏ほど人手は必要でないからだ。
ところが、真面目に、炎天下の中、文句をいわずに働いたせいか、リアに雇用の継続がいい渡された。今度は庭仕事ではなく、一般下級使用人として。
お城で働くのは、市で働くのよりずっと給金がいい。ただし、お城に住むことになるので、もちろんリアが住むのは使用人の共用棟である、母とは別々に暮らすことになる。お話を貰って家に帰り、リアは母と相談した。
リアの父は船乗りである。リアが小さいときに海に出たまま、帰ってきていない。帰ってこないから、もちろん生活のお金も家には入らない。
母は市の青果商の元で働き、多くない賃金でリアを育てた。リアが丈夫で病気などしなかったから、周りもよく似た家族が多かったから、親切な庶民に囲まれて、母子ふたりでも何とか食べていけた。
そんな経済状態の母子のところに、お城の仕事が舞い込んだのである。
母と離れて暮らすのはさみしいが、いつまでもそういうわけにはいかない。将来、リアが結婚して家を出ていくこともあれば、母が再婚して出ていくこともある。
いつまでたっても帰ってこない父など、母子の中では死んだも同然の認識であった。
いずれはくる別れを考えると、今までの仕事の中で給金の条件が一番いいこの話に乗った方が賢明である。母子の考えは一致した。
お城で暮らすといっても休みには母の元へ帰ることもできるし、下町の友人に会うことだってできる。少し今より時間制限が厳しくなるだけだ。そのくらいの軽い気持ちで、リアはお城に住み込みで働くことにしたのである。
リアに課せられたお城での冬の仕事は、床磨きとガラス窓拭きである。
どちらも冷たい冬の水を使う。床磨きはモップ掛けがメインだけど、たまにしゃがんで行う作業もある。誰がみているからわからないから美しくしゃがんで磨きなさい、お仕着せを汚すのはいけません、そう担当侍女長はいう。難しい。
ガラス窓拭きについてはいうまでもないだろう。雨や雪の日の翌日など、悲惨なものだ。お城の威厳にかかわるので窓はぴかぴかの光り輝くものでなければなりません、手抜きなど言語道断、やはり担当侍女長はいう。厳しい。
冬の冷たい水に手はあかぎれするし、北風吹く外に出ての作業はとても寒くて辛い。他の下級使用人が音を上げて辞意を述べて去っていく中、リアは頑張れた。なぜなら、リアは市以外で働いたことがなかったから。
市の仕事はいつも外作業で、力仕事が多かった。それに対し、お城の仕事は屋内作業が半分もあり、大して力もいらない。リアにすれば、この掃除の仕事は信じられないような有難いものであった。
夏の庭仕事の場合と同じように、リアは真面目に、一生懸命、丁寧に掃除仕事をした。
はじめはリア以外にも何人か床磨きとガラス窓拭きの掃除娘がいた。だが、冷え込んだ夜の次の日には体調を崩した娘がひとり去った。霙混じりの雨の日の一日の終わりには、使用人棟に戻らない娘がまたひとり出た。冬が進むに連れてどんどん掃除娘がいなくなる。
そんな人が減っていく冬が終わって春がくれば、もう残っているのはリアを含めて十人ほど。そして、担当侍女長は残った娘たちを集めて、それぞれに新しい担当場所を発表した。
リアは、図書室の掃除を新たにいいつけられたのである。
実は、あとで買い出し係が教えてくれたことなのだが、下級使用人は最初は床磨きとガラス窓拭きから始まるそうだ。そこでの仕事ぶりをみて、お城の使用人として相応しいかどうか、テストしていたらしい。
判断基準は、仕事の丁寧さ、ルールや時間が守れるかで、また体が丈夫であることも重要な項目とのこと。
買い出し係の目は、ここでも狂いはなかったのである。
知らず知らずのうちに試用期間をクリアして、図書室の掃除娘へと、リアは昇格したのであった。
***
本採用になった翌朝、早速、担当侍女長に連れられて、リアは図書室に生まれてはじめて足を踏み入れた。
図書室はお城の中でなく、庭園そばの別棟であった。それは二階建ての古い建物で、蔦がたくさん絡みついている。
一階と二階の一部が図書室、二階の残り奥の一部が資料室だと、道すがら侍女長から説明を受けた。
(お城とは別に建っているから図書室じゃなくて図書館ね)
(昔はお城と続いていて図書室だったのかな?)
入口から侍女長に続いて入館すれば、入口ホールは吹き抜けであった。高い窓から朝の澄んだ光が降り注いでいて、そこだけが特別な空間のように輝いてみえた。
(うわぁ~、外は古くて廃屋っぽかったけど、中は教会みたい)
光が通り抜けてくる窓を下から見上げれば、三枚の縦長のステンドグラスが嵌め込まれている。ここからは小さな色ガラスの塊だが、あの高さだ、きっとそれは大きなものに違いない。
下町の教会なんかと一緒にしてはいけない。自然とリアは厳かな気分になる。
周りに目をやれば、正面に古びたカウンター、左右には重厚な作りのリーディングデスク&チェアーが四組ある。下町の生活ではお目にかかれないものだから、珍しくてリアはキョロキョロしてしまう。
カウンターの後ろには、ずらりと厚みのある本棚が窮屈そうに並んでいた。本棚は作り付けになっていて高い天井まで棚板が渡されている。棚には数冊ずつ同じ色の背表紙がまとまって入っていて、きちんと整理されているのがわかった。
よくよくみれば、本棚はリアと侍女長の立つ入口ホールをぐるりと囲み、壁のように整然と聳え立っている。どの棚にもぎっしりと本が詰まっていた。
まさに、本、本、本、のオンバレード。壁が全て本棚なんて、圧倒されてしまう。こんなにたくさんの本をリアはみたことがなかった。
(ここを掃除するって……どんな掃除?)
足元の赤いカーペットには、塵ひとつ落ちていない。整理整頓された本棚同様、カウンターも片付いている。ただし、リーディングデスクには、角を揃えて積まれた数冊の本の山が三つある。
そんな疑問をリアが持ったときであった。
「侍女長、お疲れ様です」
と、眼鏡をかけ、やや神経質そうな色白の痩せた中年男性が、カウンターの陰から立ち上がって姿をみせた。そして、ぐるっと回ってこちらまで出てくる。
彼の衣装は黒の長ズボンと同色のベスト、白シャツに赤の短いタイ、袖汚れを防ぐためなのかアームカバーをつけている。
「あなたが新しい業務補佐の方ですね、図書室長のカウフマンです」
男性は自己紹介する。通達が届いていて、彼はふたりを待っていたのだった。
侍女長に促されて、リアは返事をした。
「は、はじめまして。この度ここの掃除担当になりましたリア・コリントです。よ、よろしくお願いします」
買い出し係は荷物を運ぶから、比較的ラフな格好だ。庭師は庭仕事で土まみれになるからもっとラフな格好だ。だが、このカウフマンは違う。彼のような役人風のきちんとした服装の男性と言葉を交わすのは、リアははじめてのことである。
だから、緊張してしまう。
「そんな畏まらなくてもいいですよ。では、侍女長、確かにお預かりします」
「Mr.カウフマン、よろしくお願いしますね」
と、侍女長はあっさりリアをカウフマンに引き渡し、さっさと踵を返した。今日の侍女長は忙しい。正式採用の娘たちを新しい配属先へ連れていかねばならないから。
「では、早速案内しましょう」
侍女長の姿を見送って、カウフマンが案内を始めた。
一階はカウフマンがついていた受付カウンターとリーディングデスク&チェアー以外、全て本棚。二階に上がる階段は、東側の本棚の間にあって、逆光のせいでリアは気がつかなかったのだが、緩やかな弧を描き上へと伸びている。
手すりのない壁側に背の低い本棚がちぐはぐに配置されている。やや階段幅が狭いのはきっと後付けのこの本棚のせいだろう、カウフマンのあとに従って本棚付きの階段を上りながらリアは思う。
階段を上がった先もやはり本棚の森。でもその森は、一階の三分の一ほどの広さである。二階は、階下よりもずっと明るかった。