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Act-4*災厄の猫(5)

 カウフマンが会議にいってしまい、リアはいつもの業務を再開させた。

 業務内容は変わりない。もう夏といってもおかしくない午後の陽射しが窓から射し込む。図書室は今日も明るくて、これも普段と変わりない。

 最初こそは王子様がくると身構えてしまったが、いつもの図書片付けを行っているうちに、だんだんリアの緊張は取れてきた。

 カウフマンの不在が知れ渡っていたのだろうか、午後からの閲覧者は少なくて、またリアに難しい質問をする人もいなかった。

 図書返却の作業のあと、あまり受付カウンターを離れているわけにはいかないから、その近辺でリアはとある(・・・)本を開いた。

 その本はザックから渡された文字の本である。

 あの魔法使いは、リアが彼のひとり立ちに協力するのなら、字を教えてやるといった。

 リアははやく同居を終了させたいがためだけ(・・)に、せっせっと彼に食事などを運んだが、ザックの方はその態度に大いに満足したらしい。そして約束を(たが)うことなく、彼はリアに一冊の本を手渡したのだった。



 ━━何よ、これ?

 それは、子供用の教書である。

 一頁にアルファベットが大きくひとつ、中央にどんと配置され、その文字を囲むように小さくて可愛らしい絵がたくさん描かれている。すべてそのアルファベットで始まる単語のイラストらしい。cなら、人参のイラストがあって、そのそばにcarrotの綴りが添えらる、というように。

 ━━みての通り、アルファベットの習本だ。bとd、pとqが、お前は怪しいからな。

 図書室配属当初の本の返却間違いをザックは指摘する。確かにラベルのアルファベットを読み間違えて別のところへ返したこともあったが、それは最初の半年だけのこと。今はそんなこと、あまり(・・・)、ない。

 ━━それは、もういいから!

 確かに自分の識字レベルはお粗末だが、そこまで初心者ではない。ザックが考える自分の識字レベルの低さに、リアは少々腹が立ってくる。

 ━━ダメだ、怪しいところがある。ほら、これはどっちだ?

 ある頁を開き、大きなレタリングで書かれたdを指さして、ザックはリアに訊いた。

 この本はアルファベット順に綴じられていない。ランダムに、複数回、大文字小文字取り混ぜてアルファベットが並び、同じレタリングでもイラストが全然違う。生徒の確認試験に使う教師用の本であった。

(一体、どこでこんな本を見つけてきたのかしら?)

(図書室でみた覚えはないんだけど……)

 それは、ザックが中級使用人の学習室から魔法で抜き取ってきたものである。でも、そんなこと、リアは知らない。

 ━━q。

 ━━違う!

 ━━じゃあ、g。

 ━━バカか、お前は?

 カチンときた。嫌々同居しているだけでなく、こんな風に叱られるなんて、リアはちっともいい気がしない。

 ━━じゃあ、知らない。そもそも文字を教えてほしいなんて頼んだ覚えはないもの。別に教えてくれなくてもいいわよ!

 ━━よくない。お前は力しか取り柄がないのだから、せめて字ぐらい読めないと、将来、困る。

 ━━将来?

 ━━ああ、特に可愛いわけでもないのに、若さだけが頼りの仕事の仕方では、いずれ食べれなくなる。そのときに支えてくれる家族がいればいいが、お前の容姿では期待できない。

 それは、リアが可愛くないから結婚できないといっているようにきこえる。失礼な話である。

 ザックの毒舌は続く。

 ━━見た目が可愛いわけではないのに、素直でないなんて、最悪だな。

 ━━教えてやるっていっているのに、チャンスを棒に振るなんて、正真正銘のバカとしか思えない。

 ━━だいたい、可愛い女は自分の容姿だけでなく、中身も磨く。そしてさらに、可愛くなる。身に覚えがあるだろう?

 とたん、エマの姿がリアの脳裏に浮かんだ。

 エマは、最初はリアと同じ掃除娘であったが、今では王女様のサロンを担当する掃除娘である。クルトという恋人もいる。ここまではエマの容姿のおかげである、とリアは思う。

 だが、その先は違う。エマと同時にサロンの担当になった掃除娘は他にもいたが、現在残っているのはエマとあとひとりのふたりだけになっていた。

(そういえば、エマはクルトさんに色々教えてもらっているといっていた)

(それって、王女様のサロンに長く出入りできていることと関係あるのかしら?)

(……)

 ━━わかったわよ! やればいいんでしょう! やるわよ!

 うまくザックにのせられたような気もしないでもないが、リアは習本を業務の合間に眺めることにしたのである。



 カウンター近くの本棚の閲覧椅子に座り、その教本を広げる。周りに閲覧者がいないことをもう一度、確認して、リアは小さく発音した。

「carrot、cup、clock、coin、chimney……」

 できるだけ声に出して覚えろとザックにいわれたので、こんな風に人のいないときにこっそりとリアは声に出していた。

「あ、これは何かしら?」

 黒い馬の頭だけのイラストに突き当たるが、リアにはそれがわからない。horseはcから始まらない。blackもcから始まらない。

 子供用の習本だから、そんなに珍しいものは載っていないはずだ、でもリアは思いつかない。

 うんうんと悩んでいたら、柔らかな声が座るリアの頭上から響いてきた。

「それは、chessだよ、リア」

「!」

 本から視線を上げれば、陽を受けてキラキラ光る金髪が目に入る。碧の優しい瞳がリアを見下ろしていた。

「ハインリヒ様!」

 発音に気を取られ、リアはまったく気がつかなかった。慌てて立ち上がり周りを見渡せば、ハインリヒの他に閲覧者はいない。

「勉強熱心だね。それに……懐かしいな、マルガレータが使っていた本だ」

 リアの本を覗き込みながら、嬉しそうにハインリヒはいう。王女のお下がり品が、中級使用人の教材になっていたのであった。

「あ、ああ……あの……」

「chessは、マルガレータもわからなかったな。子供にchessは難しいと思うよ」

 リアは童顔で周りから子ども扱いされているが、十八である。でもchessはわからない。そのchessとは、大人になっても庶民には関係のないものなのだろう。些細なことにリアは身分の違いを感じてしまう。

「今日は資料を探しにゲラルトと先生と三人できたのだけど、まだふたりは見つかっていないようだ。ふたりを待つ間、わからない言葉を読んであげよう」

「え、いいのですか?」

「いいよ、勉強をするのはいいことだ。文字が読めるようになれば、将来きっとリアの役に立つからね」

 優しい口調でハインリヒが、勉学の目的を告げる。あの居候魔法使いのひどい物言いとはずいぶん違う。同じ内容を諭されるのに、こんな風に親身にいわれると俄然、リアはやる気になる。

「ありがとうございます」

「ただし、ゲラルトが戻ってくるまでだけどね」

「はい」

 ハインリヒはリアの横に並び、立ったまま一緒に教書を眺めた。もうcの頁は終わったので、次のrの頁に移る。

「これは?」

 ハインリヒがウサギを指差して、リアが発音した。

「rabbit」

「これは?」

 ウサギの隣は、紫の宝石がついた指輪である。

「ring」

「じゃあ、これは?」

 赤い唇の形がある。キスマークだろうか? 少しリアは悩んで、

「……red、あ、違う、ripね」

 発音する途中で閃いて、いい直した。

「そうだね、正解にしたいけど、lipはlで始まる。rじゃない」

「あ……」

(間違えちゃった……)

 ごくごく基本の綴りをなのに、間違えるなんて、恥ずかしい。リアは、しゅんとしてしまう。

「リア、間違いは誰にだってある。今度、間違えなければいいんだよ」

 落ち込んだリアに、そういってハインリヒは慰めた。そんな激励に嬉しくなってリアは本から視線を上げ、ハインリヒの顔をみた。

 驚いたことに、澄んだきれいな緑の瞳が、リアのすぐそばにあった。教書を声に出して読んでいるうちに、ずいぶんふたりの距離が近くなっていたのだった。まさに、リアの肩がハインリヒの胸元に触れるくらいにまで。

「リアの唇は、redというよりは、raspberryだね。ほんのりピンク色が混ざっている」

 ハインリヒは、リアの顔を覗き込んで、そんな感想を述べる。薄化粧のリアの唇は、ハインリヒのいうとおり、淡いピンクであった。

 ハインリヒに触れる寸前だったリアの肩には、いつの間にか彼の腕が回されていた。その腕に力が入り、リアは教書を手にしたまま、ぐっとハインリヒの胸元へ引き寄せられた。本がふたりの間に挟まれた状態で、リアはハインリヒの腕の中に閉じ込められた。

「ハ……」

 空いていた彼の人差し指が、“静かに”と彼の唇の前で立てられた。

 声に出そうになった彼の名を、リアは飲み込んだ。

 状況がよくわからず、間近のハインリヒの顔にリアはドキドキするばかり。心臓の音がきこえるのではないかと、緊張もピークに達し、ハインリヒに注意されなくとも硬直して動けなかった。

 一方のハインリヒは余裕の笑みをリアに向け、“静かに”を表したジェスチャーの人差し指で、そっとリアの唇をなぞった。

 ハインリヒは数回リアの唇をなぞってその感触を楽しむ。そのあと、今度はリアの頬を撫で出した。

「ここのrは、rougeもいいかもしれない」

 赤い唇のイラストに、新たな解釈をつけた。

(redに、raspberryに、rouge……素敵な言葉ばかり、こんなにすらすらと出てくるなんて……ハインリヒ様は物知りだわ)

 誰もいない図書室で、王子様に抱き締められて、頬を撫でられ、語学レッスンを受ける。夢のようである。

 小柄なリアの体を包み込む王子の腕の力強さに、リアは安心できるものを感じてしまう。鼻を擽るのは、王子様がつけるフレグランスだろうか、今まで嗅いだことのない新緑のような瑞々しい香りに、これにもリアはうっとりしてしまう。

「rose、rainbow、rubby、rondo……他にどんなrの単語があったかな?」

 語学レッスンよろしくと、ハインリヒはrで始まる単語を次から次へと並べていく。並ぶ単語はどれもきれいなものばかり、リアはますます惚れ惚れして、もう思考が停止してしまう。

「リアは、本当に小さくて可愛いね。そうだな、rで始まる動物だと……raccoonがあったかな?」

 語学レッスンは続いていた。

(raccoonって、何だったかしら?)

 アライグマといわれているのだが、リアにはわからない。

「私としては、squirrelがリアにはぴったりだと思うけど、どうかな?」

(squirrelって、何だったかしら?)

 リスといわれて、アライグマよりも可愛い動物になったのだけど、これもリアにはわからない。

 そこまで告げるとハインリヒはリアの顎を取り、そっと唇を近づけた。ハインリヒの緑の瞳が細められる。温かな息遣いを感じたら、リアの方も同じように金色の瞳を細め、目を閉じた。


「王子、その者をお離しください。そのような下賤な掃除娘、王子の身が(けが)れます」

 ふたりの唇が触れるかどうかの、瞬間だった。どこかできいたような声が、ふたりのくちづけを禁じたのであった。


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