Act-4*災厄の猫(4)
次に目を覚ませば、部屋は夕闇色。リアはベッドに寝かされていた。
今日このベッドで目を覚ますのは、何回目だろう? 普通に起きた朝の一回目、昼前に慌てて起きて図書室へ向かった二回目、一日が終わった今の三回目、である。
入口ドアそばのランプには火がともされていて、完全な闇色になるのを防いでいる。朧げなランプの視界の中で、リアが部屋を見渡せば、あの魔法使いはいなかった。
(消えちゃった?)
代わりに残っているのは、空のバスケットと着用済みの召し物が突っ込まれた衣装籠。そして、ベッドの隅に白い猫が、丸くなって眠っているのだった。
朝からずっと白昼夢を見続けているおかげで、リアはひどく疲れていた。空腹も感じるが、疲労の方が甚だしい。あんなに眠った時間は長かったはずなのに、体は睡眠を要求する。また眠りについた。
翌朝、目が覚めれば、足元の白い猫が消えていて、金髪の魔法使いが机のところで本を読んでいた。
開口一番、オッドアイの魔法使いは、目覚めたばかりのリアにこう命令する。
「腹が減った。昨日は夕食を食べ損ねた。早く取ってこい」
昨日の分の夜食が用意されたままだから、今なら大食堂へいけば残っている、そう断言する。
「ちょっと! なんで私が?」
「私がこの部屋を出るところを目撃されてもいいのか?」
年頃の未婚の娘の部屋から、これまた年頃の青年が出入りするなんて、いい噂が立たない。
それは、困る。年頃の花も恥じらう十八の娘のリアはとても困る。恋人募集中でもあるから、大いに困る。
乙女なリアの事情を見越しての、巧みな魔法使いの命令であった。
朝食代わりの夜食を平らげながら、意地悪そうに口角を上げて、魔法使いはこうもいう。
「いいか、リア。リアには、私をこの世界に連れ戻した責任がある。私がこの世界でやっていけるようになるまで、リアは私に協力なければならない。とりあえず、しばらく食事と衣装を、ここまで運んでくること、あと寝床も提供しろ」
二日経ち、リアが図書室へ復帰する日になれば、リアは現実を認めた。
納得いかないところはあるが、丸二日、一緒に生活したら、魔法使いの戯れ言が真実とわかった。だって、魔法使いとあの図書室の絵画の『白い猫』が同時に存在することがなかったから。
具体的にいえば、あの魔法使いが白い猫を抱いて立っていることは、絶対に有り得ない。
つまり、リアと同居する人物は、昼はオッドアイの金髪の魔法使いの姿に、夜は絵に描かれていた毛のふさふさとした不細工な白い猫の姿になる。一人二役なのである。
なぜそんなことになっているのか、本人の分析によれば、絵画封印の刑を執行した魔法使いがへっぽこだったから、封印が解けた今でも中途半端に魔法が残ってしまっていると。
昼の明るい時間には、魔法の効力が弱まって美しい人間の姿で存在できるが、夜には魔力が増幅されて可愛らしい猫に戻ってしまうと。
━━私がこの世界でやっていけるようになるまで、協力しろ。
この同居は、永遠に続くものではない。鼻持ちならないこの魔法使いが、この世界でひとり立ちできるまでの期間限定の協力だ。
この押しかけ同居人は鼻持ちならない上に、こんなこともいう。
━━物事をうまくやっていくには、コツがある。それは、give and takeだ。
━━リアが私に仕えるのなら、私はリアに字を教えてやろう。
リアには字を教えてほしいなどとお願いした覚えはないのだが、自由に行動できないこの引きこもり魔法使いにできそうなことは、それぐらいしかない。
この同居はあくまでも期間限定。期間中は、リアは仕事だけでなく自分の部屋に帰ってからも、余分な下働きをさせられる。
リアは考えた。こんな重労働を早く終了させるためには、彼の命令に従って環境を整えてやって、さっさと自立してもらうに限る、と。しぶしぶリアは、魔法使いに同意した。
こうしてリアの部屋に、二百年前のお城の魔法使いが居座ることになったのである。
†
夕食の時間になった。だが、同居人は帰ってこない。
(ひとり立ちの準備をしに、どこかへ出ているのかしら?)
そういえば、あれこれリアに命令して偉そうな態度の魔法使いは、しばらく自分の名前を思い出せないでいた。
━━リア、もっと早く食事を持って帰ってこい。早くしないと陽が暮れて、私は猫に戻ってしまう。腹を空かした状態で、朝までお預けは結構辛い。
どうやら、猫の体では人間の食べ物は受け付けないらしい。
━━そんなこといったって、いつ仕事が終わるかわからないの!
━━お前は仕事がトロいんだよ。みていて、ときどき、目を覆いたくなった。
どこでそんな様子をみたのかと思ったら、それは額縁の向こう側から覗いて知っていたという。図書室勤務初期の頃の話だ。
━━居候のくせに、図々しいわね。私がその気になれば、食事なんて、運ぶのやめちゃうわよ!……えぇっと、何だった、かしら?
魔法使いはリアの名を知っていた。図書室の壁の猫の絵だったときの記憶をこの魔法使いは覚えていたのだった。
対して、リアは彼の名前を知らない。だって、リアの自室から出ることのない魔法使いに向かって、名前で呼びかける必要がなかったから。
━━あれ? 名前、きいてなかったわよね、なんていうの?
━━名前? いっていなかったか? 仕方ない、教えてやろう。きいて驚くな、私は……
もったいぶっていうくせに、いざ名を名乗る段になると魔法使いの減らず口が止まった。そして、神妙な顔つきになる。そのまま顎に手を当てて、思案し出した。
何かとムカつく俺様魔法使いだが、こんな静かな仕草は、悔しいかな、非常に様になる。それこそ一枚の悩める美貌の青年の絵画である。あの不細工な白い猫ではなくて。
沈黙が落ちて、その間、不覚にもリアは見惚れてしまっていた。その沈黙を破ったのは、魔法使いの方だった。
━━わからない。二百年間、誰にも話しかけられなかったから、忘れてしまった。
そう告げる顔は、悲哀に満ちていた。
いつもリアのことを下手にみて偉そうな態度をとっているが、もしかしたら、あれは孤独で寂しい気持ちの裏返しだったのではと、リアは同情してしまう。
━━ああ、待て、思い出せそうだ。……そうだ、ザックだ。ザックだった。
━━ザック、ね。
━━ああ、確か、私はザックだった……と思う。
━━と思う?
思い出せても、自信がないという。どうもしっくりこないというのだ、自分の名前なのに。二百年間呼ばれないと、そんなことになるのだろうか。
とりあえず名無しの魔法使いでは困るから、彼のことは、『ザック』とリアは呼ぶことにした。
そんな頼りない身の上で、どうやってザックはひとり立ちするのか、リアには見当がつかない。
だが、そんなことどうだっていい。早く魔法使いがここから出ていくことだけが、今のリアの一番の願いであった。
***
魔法使いがきたからといっても、リアの図書室の掃除やカウフマンの業務補佐に変わりはない。
変わったのは、朝夕のリアの習慣である。
朝は朝食の前に、ザックが空にしたバスケットを大食堂へ、汚れ物の入った衣装籠を洗濯場へ持っていく。
夕方は、仕事帰りに夕食を食べたあと新しい夜食の入ったバスケットを受け取って持ち帰り、自室前に届けられた衣装籠を部屋の中へ入れる。
お城の住人名簿に載っていないザックはお城を歩き回ることができないから、すべてリアが彼の身の回りの品を運ばざるを得ないのだった。
最初は面倒くさいと思ったが、慣れてくればザックと接するのは朝と夕方と夜だけで済むと気づく。しかも、夜のザックは猫だ。
朝夕の太陽の光があるときのザックは、あの金髪オッドアイの青年の姿で、あれこれと注文がうるさい。でも、リアは図書室へ出勤しているから、部屋にふたりきりで長時間閉じこもることはない。
陽がくれて夜になれば、ザックは猫に変身する。変身が起こる予兆は感じるが、タイミングをコントロールすることができないと、彼はぼやいていた。
夜は若い男女が同じ部屋で眠ることになるのだが、一緒にいるのは白い猫。リアでも力任せにねじ伏せることのできる猫である。夜行性の動物の猫のくせに、彼はうろつき回ることなくきちんと眠る。猫独特のあの構ってくれとじゃれついてくるようなこともなく、リアは安眠できたのだった。
***
「じゃあリアさん、あとは頼みましたよ」
ある日のことだった。司書のカウフマンが、公用で昼から出かけるという。原則、図書室在室のカウフマンであるが、ときに宰相補佐官らとミーティングを持つ。今日はその定例会議の日であった。
「はい、いつも通りで、いいんですよね?」
「ええ、会議は四時に終わる予定ですが、今回は延長になるかもしれません。私が五時までに戻ってこなかったら、鍵を閉めて帰ってくださいね」
カウフマンは図書室の入口ドアの大きな鍵を自分の鍵束から抜き取って、リアに渡した。
「今日はこちらも預けておきます。もしかすると資料室に保管しているものをリクエストするかもしれないので」
カウフマン不在の間の閲覧者の有無を予告して、入口ドアの鍵とは別に、もう一つ、少し小さい鍵をリアに差し出した。資料室の鍵だ。
「特別な誰かが、くるのですか?」
「ハインリヒ殿下とアーベントロート卿です。あと家庭教師の先生もご一緒かもしれません」
とたん、リアは緊張する。王子様がくるのだ!
心臓がドクンと大きく鼓動を打った。鍵を持つ手が、密かに震えてしまう。
リアは何度か書架でハインリヒと顔を合わせているが、カウフマン不在の図書室で彼と会うのははじめてになる。しかも、資料を探しにくるとなると、それについて何か質問されるかもしれない。リアだけでうまく答えることができるだろうか?
ハインリヒの姿を拝めるのは嬉しいが、彼と接触することは、実は恥ずかしい。
ハインリヒのことは好きだけど、好きすぎて本人の前では緊張して、うまく話せないし振る舞えない。リアは挙動不審になってしまうのである。
「大丈夫ですよ。わからないことはわからないといって構いません。事前に話してありますので」
顔を真っ赤にして硬直するリアのことを軽く笑って、カウフマンは身支度を始めた。彼は重そうな本がずっしりと詰まった籠を持ち上げた。カウフマンが出席するのは、専門知識が要求される会議のようだ。
「では、お願いしますね」
「はい、頑張ってみます。いってらっしゃいませ」
昼下がりの図書室に、ひとりリアは取り残されたのだった。