Act-4*災厄の猫(3)
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母に『恋人はいない』といったものの、リアの心境はやや複雑だ。
なぜなら、白い猫がやってきた日から、リアの生活はすっかり変わってしまったから。
今のリアは、外部に恋人がいるのではなくて、内部に同居人がいる。結婚前の娘が、お城の使用人棟の自室に、同居人を匿っている。なんて、不品行な所業だろう。
加えてその同居人は、信じられないことに、昼は人間で、夜は猫になる。
そうなのだ、昼は金髪オッドアイの絵画の封印から解放された魔法使いで、夜は旧図書室に掛けられた絵画にそっくりの白い猫になるのだ。
人から猫へ、猫から人へ、その瞬間は幸か不幸か、リアは目撃できていない。
リア自身もみたくもなければ想像もしたくもないし、魔法使いの方も気遣って、一番最初にリアが枕を投げつけたことで彼も学習したらしい、衝立の裏側で変身する。お城での住み込み生活が始まったときに、深く考えずに用意した目隠しの衝立が、ここでこんなに効果を発揮することになるとは、思いもよらなかった。
(今の時刻だと、どっちがいるんだろう?)
下町から戻り使用人棟の自室のドアの前で、リアは立ち止まってしまう。自分の部屋なのに、入室するのを躊躇する。
(まだ昼間で明るいから、魔法使いの方か?)
いつものこの時刻なら、机で数冊の本を開いて思案している金髪の青年がいる。
ひと呼吸おいて、リアは思いきってドアを開けた。
(あれ?)
予想に反して、部屋には誰もいなかった。ちょっと拍子抜けする。
粗末だがきちんと整理整頓されたリアの部屋が、目の前に広がっていた。本の代わりに机の上には空のバスケットが残されていて、同居人の昼食が終了しているのを物語っている。
(知り合いは皆、死んでしまって出掛けるところなどないといっていたけど……)
(二百年前の人間が生きてる訳ないわよね、普通は)
夕食までまだ時間があるから、リアは自室で時間を潰すことにした。
(一体、どこへいったのだろう?)
一ヶ月ぶりに、オッドアイの魔法使いも白い猫もいない部屋で、リアはこれまでのことを思い巡らした。
†
猫は私だ━━青年はそういって、その言葉に偽りはなかった。
青年に上腕を掴まれ額を当てられて、リアは変な夢をみた。
青年とリアの額が触れた途端、たくさんの場面が現れては消え、消えては現れてが始まった。あまりにも数が多いからどれがどれだかわからなくなり、一ヶ月経った今ではほとんど覚えていない。
そんな中で、しっかり覚えている数少ないものは、アッシュブロンドの女性が指輪をもらい愛をささやかれている場面と、自分が炎の中から手を差し伸べている場面である。
気を失い、次に目を覚ましたときには、お昼を過ぎていた。
あのオッドアイの自称猫ちゃんは、夜食のバスケットを平らげて呑気に本を読んでいた。
リアが目を覚ましたのに気がついて、涼しげな顔でこういった。
『おはよう、リア。欠勤届けを出してあるから、今日と明日は図書室へいかなくていい』
部屋の明るさとお腹の空き具合から就業時間はとっくに過ぎている。大遅刻だと、リアはすぐに悟った。
慌てて着替えて、もちろん青年にみられないように衝立の裏側でなのだが、青年の制する声をきかず、リアは自室を飛び出した。
図書室へ駆けつければ、リアをみてカウフマンがびっくりした顔になる。
「大丈夫ですか? 熱が出て、安静が必要ときいたのですが」
「熱?」
「ええ、医務室からは、明日の昼まで外出禁止で復帰は明後日から可能と、通知がきてます」
カウフマンは二枚の書類を取り出した。宮廷医の署名の入った診断書とリアの欠勤届けである。
それらをみせられても、リアは字が読めないからわからない。わからなくても、リアが署名した覚えのない書類に間違いなかった。だって、まずリアは医務室へいっていないのだから。
「熱はどうですか?」
カウフマンは不可解な出来事に硬直するリアの額に手を当てて、熱を計る。もちろん熱などないのだが、書類をみて青ざめているリアの顔色から、カウフマンは勘違いした。
「図書室業務は大丈夫ですから、早く部屋に戻りなさい。しっかり休んで、完全に治るまできちゃダメですよ」
カウフマンに叱咤されて、しぶしぶリアは自室へ戻ったのだった。
図書室から困惑した状態で戻ってきたリアに向かって、金髪の青年は余裕の笑みで説明しだした。
その彼のいい分はこうだ。
自分はこの国の王族の一員で、魔法使いである、いや魔法使いであった。冤罪で絵画封印の刑に処されていたが、リアが炎の中で封印の呪文が記された額縁を外したおかげで、二百年ぶりに実体化できたのだと。
「何で、王子が魔法使いなのよ! それって、家来みたいで変じゃない! それに、助けた覚えなんか、ない!」
「昔は、魔法が使えないと王位は継承できなかった」
リアの意見にきっぱりと青年は断言した。
今みたいに科学技術が進んでいなかったから、国を守るのも魔法、民を癒すのも魔法であった。強い魔力を持つ者が、自然とまとめ役となり、やがて民を率いるようになったという。それがこの国の王族のスタートであった。
強い魔力をを持つ者は、その代償なのか、生殖能力が弱かった。なかなか子供が授からず、運よく子供が生まれても、その子供が魔力を持つとは限らない。
外敵から国を守るために、強い魔力を持つ子供が必要だ。民を癒し国を治めるのにも、魔法が一番有効だ。いつしか、子供の中でも魔力を有する子供だけが王位継承権を持てるようになった。
「継承順位は、生まれた順。のんびり王子が全員、成人するのを待つような時間はない。王が不慮の事故で亡くなり、十三の王子が即位したこともある。若すぎる新王が子供を授かる前に亡くなったことだってある」
このオッドアイの魔法使いがいうには、それは、ほんの二百五十年前まで普通のことだったと。
昨日、今日の話ではない遠い過去のことに、リアは困ってしまう。
「とにかく王のいない空白期間を回避するために、王はたくさん妻を娶り、たくさん子供を作った」
随分立派にきこえるが、今では絶対、歓迎されないことだ。
なぜなら、今のこの国は一夫多妻制ではないからだ。今の王様には、王妃様がひとり。子供は王子がふたりと王女が三人の五人である。
今のこの国は平和でもあるから、ひと組の夫婦から五人も子供がいれば充分だとリアは思う。
「そんな王妃様がいっぱいる王様は……嫌だな」
ぼそりと、リアは心の声を漏らしてしまう。現代の庶民のリアには関係ないことだけど、昔の王妃様はさぞかし辛かっただろうなと想像する。
「まあな。私の父は正妃と五人の愛妾がいた。私は、第五位の愛妾の子供だ。魔力が強かったから、継承順位を繰り上げる話もあったが、継承権第一位の兄がとっくに成人していて魔力に問題なかったし、特にひっ迫した状態ではなかった」
妻が六人、それからすると一体子供は何人いたのだろう? 単純に考えて、六人は絶対いるとリアは思う。
それぞれにふたりずつ子供ができれば十二人、三人ずつだと十八人……この魔法使いは第五位の愛妾の子供だというから、第一位の兄がとっくに成人していてのセリフに信憑性がある。
「それで?」
「だから、家を出て、独立する予定だった」
リアの脳裏に蘇る、君の故郷に戻って一緒に暮らそうとささやかれているアッシュブロンドの女性の姿が。
「美人の恋人もいたから早く独立したかった。父には彼女の故郷に近いところの防衛拠点地に配属してもらうつもりだった。だが……」
魔法使いは言葉を詰まらせる。視線をリアから外し、明るい窓外に向けた。
「友人だと思っていたファビアンに……」
(友人だと思っていたファビアンに、何をされたのかしら?)
しおらしくなった青年の態度に、リアも沈黙する。部屋に、しんとした空気が張りつめた。
静寂を破ったのは、金髪の青年の方だった。
「まぁ、それはいいさ。二百年前の出来事だからな。それよりも……」
(それよりも?)
「今晩食べる飯がない」
胃の辺りを押さえながら、魔法使いはいう。
「?」
「どんなにきれいごとを並べても、腹は減るし、寝る場所が必要だ」
「そ、それは……そうね」
リアは、父のいなくなった直後の下町での母との生活を思い浮かべた。
父がいてもいなくても、毎日の生活にはお金がかかる。食事ひとつにしろ、一晩の宿にしろ、纏う服一枚にだって、お金が必要。施しに与ることができても、いつまで無条件に受けられる訳はない。リアがお城に働きにきている基本の目的である。
リアには母がいて、ふたりの周りには下町の仲間がいた。貧しいなりにも助け合って、なんとかやってこれた。
だが、この青年はどうだろう。
(私が侍女長とかの偉い人に、この青年のことを告げれば、彼はきっと牢獄行きだ)
(だって、不審者以外の何者でもないんだもの)
(それにこの人の方だって、家族なり知人なり伝があれば、ここに留まらずそこへさっさといくわよね)
二百年前の魔法使いとかいう戯れ言は別にして、一向にリアの部屋から出ていこうとしないところをみると、金髪の青年に行き先がないのは明白だった。
「そこで、取引だ」
ニヤリとオッドアイの青年が、口角を上げた。声のトーンも、強気の色が混ざっていた。
リアは嫌な予感がする。一瞬でも、この青年の身の上に同情した自分の愚かさを叱りたい。
「私は、お前のおかげで天に昇ることができなかった。あのまま焼却場で燃えていれば、ここにいることはなかった。覚えてないなんて、いわせないぞ」
(焼却場で、燃えていれば?)
(それって……)
リアは目が丸くなる。
(それって、あの猫の絵の……)
━━にゃん、にゃーん!
リアの頭の中に、エマからビスケットをもらった日の回廊での猫の鳴き声が甦った。
━━リア、リアーーー!
回廊から焼却場へいき、そこのごみを燃やす炎の間から白い猫が駆け下りてくる光景も甦った。
とたん、激しい頭痛がリアに襲いかかる。
この痛みは、頭の内側から金槌でガンガンと打たれているかのよう。リアは思わず座り込み、床に膝をついてしまった。
両手で頭を押さえ痛みに耐えながら、リアは焼却場で猫を拾い上げた続きをみる。
回廊がみえて、使用人棟の廊下がみえて、自室のドアがみえる。
リアは無我夢中で金髪の全裸の青年の腕を自分の肩に回して、この部屋まで連れ帰った。
リアよりもずっと青年の体は大きいのに、なぜか引きずりながらも運ぶことができた。さらに、運よく誰にも出会わなかった。
人目に触れることなく、ふたりはこの部屋までたどり着いたのだった。
自分のベッドにこの青年を横たえて、リアはエマからもらったビスケットを樽の上に置いた。なんとなく、青年がお腹を空かせているのではないかと思ったから。
そして、図書室にいき、昼からの業務に戻ったのだった。
あの日の資料室での謎が解けた。空白になっていたリアの記憶が、つなぎ合わされた瞬間であった。
『白い猫』を焼却場の炎の中から助けたから、だから、やたらと腕が痺れていたんだ。
ビスケットを『白い猫』にあげてしまったから、だから、ポケットには赤い箱しか入っていなかったのだ。
そこまでの記憶を思い出すことができたら、そのまま、リアの意識はなくなった。