Act-4*災厄の猫(2)
「そうそう、リア、これをあげるわ」
玄関先でイルザはリアに薄手のスカーフを差し出した。それは明るい朱色の細長いスカーフだ。母は娘の首にかけ、緩く結んでやる。
「やっぱり、その色は若い子が似合うわね」
出来上がったリアをみて、イルザは満足そうにいう。実際、茶色の髪と金色の瞳のリアによく似合っていた。
「どうしたの、これ?」
「仕立て屋の……さんが、いい端切れが手に入って安く作れるからどうっていわれてお願いしたの。色は選べないのをわかってて頼んだのだけど、ちょっと私では派手すぎて……」
イルザの肌は陽に焼けているが、黒髪と青い目をしていて物静かな印象だ。リアとは逆で、このスカーフのような暖かい色よりも青のような寒色が似合う。結んでくれたスカーフの端を手に取り母の顔と見比べば、リアは納得できた。
「ありがとう、お母さん。大事にするね。今後は私がお母さんにスカーフを買ってあげる!」
「そう、じゃあ楽しみにしておくわね。でも、無理しないように」
最後に母娘で軽くハグを交わし、リアは新しいスカーフを巻いてお城の自室へ帰ったのだった。
***
久しぶりの母娘の休日が終わってしまった。
リアを見送るときは、いつもリアが見えなくなるまでイルザは立っていた。
お城はこの家からも尖塔の先がみえて、そう遠いわけではない。だが、あそこへは許された者しか入ることができなくて、イルザのような庶民にとって、お城は近くて遠い場所である。
娘が運よくお城で働けることになったのは嬉しいが、母としてはみえない壁ができてしまったようで寂しいものがある。
母ひとり娘ひとりだから、リアがお城に帰るときのイルザの心境は、何だか嫁に出したような感じでもあった。
恋人はいないと娘はいっていたが、それは時間の問題だと、イルザは思う。いつかはリアにも好きな人ができて、ここに帰ってこなくなる。いつまでも母にべったりなのも困るし、同様にイルザの方もその日のために子離れしておかなくてはならない。
角を曲がりリアの姿が完全に消えてしまって、イルザが部屋に戻ろうとしたときだった。
「イルザ、やっと帰ってきたよ」
背後から懐かしい声が、イルザを呼んだ。それは、低音で太くてしっかりした男性の声。かつて、イルザに愛をささやき、リアに子守歌をきかせた声でもある。
まさかと思いながら、イルザは振り返った。
「ツェーザル?」
イルザの青の瞳が大きくなる。彼女の目の前には、夫ツェーザルが立っていた。ただし、十年前にこの町から出港していったときの姿、二十代半ばの若い男性の容貌のままで。
夫ツェーザルが帰ってきた。一目みて、イルザはすぐにそう思った。
イルザの足が、空に浮く。すぐに駆け寄ろうとしたが、イルザはすぐに気がついた。
自分と娘を置いて船に乗り込んだのは、リアが八才のとき。あれから十年が経っている。いくらツェーザルが童顔だとしても、今では三十半ば過ぎの中年男のはず。こんな若々しい男性ではない。
浮いた足を元の地面につけた。
「あ、ごめんなさい。人違いでした。……あの、ツェーザルの弟さんか親戚の方でしょうか?」
こんなによく似ている人物がいるとしたら、親族である可能性が一番高い。イルザは非礼を詫び、名を尋ねた。
「違うよ、イルザ。信じられないのは無理もないけど、僕は君の夫のツェーザルだ。僕はエルフだから、君の世界と時間軸が違う。だから、あまり見た目の変化がないんだ」
“エルフ”の単語に、ますますイルザの青い目が大きくなった。
ツェーザルは、自分の家族は星空の向こう側にいて僕は君に会いにこちらにきているんだと、いつもふざけたことをいっていた。あれは冗談ではなくて、本当のことだったのか?
彼のいうことが本当ならば、星空の向こう側には人間以外のものが住み、別世界が広がっていることになる。だとしたら、時間の流れ方が違うのも、大いにあり得る。
「ツェーザル……なの?」
彼の戯れ言は、まるでおとぎ話のようにきこえる。半信半疑になりながらも、愛する夫の名をイルザは口にした。
「ああ、そうだよ、愛しいイルザ。僕は君の夫のツェーザル・コリントだ」
思い出の中の夫とまったく同じ姿の青年が、夫とまったく同じフルネームを力強く名乗る。青年の瞳はオレンジ色で、ツェーザルのものと同じ。髪の色も、体格も、しゃべり方も同じ。
何か不思議なことが起こって時間が十年分巻き戻されたのだろうか、もしくは、自分は変装をした悪党にまんまと騙されているのかもしれない。イルザは迷う。
「じゃあ、なんで、私とリアを、十年もほったらかしにしていたの!」
真偽に迷いながらも出たのは非難の言葉。お帰りなさいでもなく、また会えて嬉しいでもない。
イルザに責められて、ツェーザルは肩をすくめた。
この肩をすくめる仕草だって、イルザの記憶の中のツェーザルそのもの。イルザの迷いが深くなる。
「向こうの世界の王のところまで、君とリアを受け入れてもらえるようにお願いしにいっていた。なかなか王と謁見できなくて、一年もかかってしまった」
なじられながらも、今一歩、ツェーザルはイルザに詰め寄った。ふわりと懐かしい匂いが、イルザの鼻腔を擽った。
同じ姿、同じ声、同じ匂い。目も、耳も、鼻も、どれもイルザの記憶と、ぴったり重なる。
ツェーザルの逞しい腕が伸びて、戸惑うイルザをそっと抱き寄せた。途端、漂っていたツェーザルの匂いがぐんと強くなる。あまりにも似ているから、イルザは涙が出てきそうになる。
イルザの背中に回る腕のこの感触も、やはり記憶と違わない。包み込まれる温もりだって、同じ。
「イルザ……」
大人しくはしているが、依然迷いの残るイルザに、ツェーザルはキスをした。イルザの鼻先に軽く触れてから、唇に自身の唇を重ねる。すぐには離れず、向きを変えたりして、しばらくお互いの唇の感触を確かめあった。
「こんなキスをするのは、僕しかいないだろ?」
キスの仕方も同じなら、触れる感触も、熱量も同じ。ここまでくれば、頭では信じられなくても体は覚えていて、イルザは居心地の良さを認めてしまう。これはツェーザルがイルザに与えてくれたもの。もうイルザは拒絶できなかった。
「向こうの一年はこちらの十年に相当するから、イルザ、ごめん、本当に長く待たせてしまった。でも、これからはずっと一緒だ」
ずっと一緒のセリフに、イルザは自分からツェーザルの背中に腕を回してしがみついた。
「本当? 本当に、本当?」
しつこく、同意を求めてしまう。自分を信じさせるように、ツェーザルが白昼夢でないように、再び自分の前から消えないように。
「ああ、本当だ。もう離さない。いいかい、よくきいて。次の星降る夜に、君を向こう側へ連れていくよ」
「え? どういうこと?」
「ここにいては、僕と君の時間の流れが違うから、同じように年をとることができない。君の時間の方がずっと流れるスピードが速くて、先に君の寿命がきてしまう」
時間軸が違うとは、ツェーザルは若いままでイルザが先に老婆になっていくということ。
現に、出会ったときは変わらない風貌のふたりだったが、今は十才の年の開きがある。二十代の青年のツェーザルと三十代の子持ちの中年女のイルザである。ツェーザルの説明では、このままだともっとふたりの年齢差が大きくなっていく。
「それでは僕が取り残されてしまう。君のいない世界など、僕には耐えられない。だから、向こう側へいこう。王の許可は得ている。そうすれば、ずっと一緒にいれるし、同じスピードで年を取ることができる」
今までのツェーザルがいない生活も辛かった。だが、このまま彼とここにいて一緒の生活を送っても、自分だけが先にどんどん年老いていく。なんて、それは残酷なことだろう。
その未来を想像すれば、イルザは心臓が止まるような衝撃しかない。ツェーザルに抱き包まれて安心できるはずなのに、イルザは青い目からぽろぽろと涙の粒を零れ落とした。
「ツェーザル、今のこんな年上女になってしまった私のことを愛してくれるのは、とても嬉しい。あなたのいう通り、向こう側へいけば少しは解決するようだけど……」
「だけど?」
「……リアが……」
リアがいる。そう、ここには、リアがある。イルザには、お城に働きに出ているリアがいるのだ。
リアはたった今、お城に帰ったから、次に会えるのは数ヶ月先。会えたときに、このツェーザルの話を説明し、理解させ、納得させて、同意を得て、親子で揃って移動しなければならない。
それは、かなり困難なこと。だって、リアはツェーザルとは八才のときに別れたから。
リアは小さかったから、記憶が薄れてしまって父ツェーザルの顔を覚えていないかもしれない。また、こんな話を信じるだろうか? イルザだって、まだ半信半疑なのだ。
「リアは大丈夫だ。アイザックがそばについている。リアを残していってしまうことになるが、私たちの代わりに彼がリアを守ってくれる」
イルザの心配を見透かして、そうツェーザルは付け足した。
アイザックとは誰、イルザがはじめてきく名前である。
「アイザックって?」
「リアのそばにいる魔法使いだ。ちょっと素直じゃないヤツだが、腕は間違いない。それにヤツはリアのことを愛している。預けても大丈夫だ」
まるでリアの結婚相手として認めたようないい方をする。それに、魔法使いなんて……
“エルフ”に、“向こう側”に、“魔法使い”と、どれもおとぎ話に出てくるような単語ばかりで、理解が追い付かずイルザは頭が痛くなってくる。
「イルザ、チャンスは一度だけだ。扉は星降る夜にしか開かない。次の星降る夜は十日後で、これを逃すとその次は三十年後だ」
その次は三十年後━━先に想像した悲惨な現実が、イルザの心を揺さぶる。三十年経てばイルザは七十前の老婆で、時間の流れの遅いエルフのツェーザルは……
扉が開く前に、イルザの寿命の方が先にくるかもしれない。十日後の星降る夜が、自分にとって最初で最後の扉が開くときだと、即座にそれだけは、イルザは理解できた。