Act-3*リアと『同居人』(5)
この白い猫は、部屋でずっとリアのことを待っていたのだろうか?
お帰りなさいといわんばかりに、全身をリアの足にこすりつけてくる。
首を傾げて頭から始まり、肩や背中を沿わせ、最後にしっぽを巻き付けて、リアの足元をすり抜けていく。白い猫はそれを何度も何度も繰り返し、往復した。
どこいっていたの?
遅かったじゃないか!
早く抱っこして!
そんな言葉がきこえてきそうだ。
『にゃん!』
さんざんリアの足に甘えて気が済んだらしく、白い猫はついっと体を離す。くるりと振り返り、胸をはる猫特有のあのポーズで座る。そこからリアを見上げた。
『にゃん!』
「猫ちゃん、どこいっていたの? 心配したわよ」
『にゃん!』
リアは猫の両脇の下に手を入れて、白い猫を抱き上げた。ぶらーんと猫は吊り下げられるが、特に嫌がらない。
リアが顔を近づけると、白い猫の目がよくみえた。右目がオレンジ、左目が青というオッドアイの。
このオッドアイからも、この白い猫は間違いなく昨日リアが抱いて寝た猫と確信できた。
『にゃん、にゃん!』
最初こそはおとなしく吊られていたが、白い猫は体を前後に揺らしだした。Jの字に丸まったり、Iの字に伸びたり。
揺らす勢いがだんだん派手になれば、バランスが崩れてリアの手から滑り落ちた。優雅な姿勢で着地すると、猫は部屋の外へ出ていこうとした。
「あ、待って!」
完全に閉まっていないドアの隙間をすり抜けて、白い猫は廊下へと姿を眩ました。
(マズい!)
(猫のことがバレちゃう!)
誰かに見つかれば、ハインリヒへの無礼ではなく、使用人棟利用規約違反でリアはお城を追い出されてしまう。
「ねっっ……」
“猫ちゃん、ダメ!”と、うっかり叫びそうになるそのセリフを慌てて飲み込んだ。人に見つかっては面倒だ、リアは猫を追いかけた。
人に見つからないように、ドアの閉まる音にも気をつけて、リアは廊下に出てキョロキョロと見渡した。
運よく、廊下には誰もいない。そして、猫の白い影もない。
(どうしよう……)
新しい心配を抱え込んで、リアが途方に暮れそうになったときだった。
『ゴロゴロゴロ……』
(?)
猫独特の喉の鳴る音が、すぐ近くで聞こえた。
耳をすましてそう大きくない喉の声を探れば、猫は“お召し物”の洗濯籠の中にいた。目隠しクロスの上で身を捻り、じゃれて遊んでいる。
無邪気なその姿に、なんだかリアは拍子抜けしてしまう。
(よかった、見つかって)
そばで脱力するリアなど気にもせず、白い猫は洗濯籠の中で戯れるのみ。
洗濯籠の届け先は、夜食のバスケット同様、リアにはわからない。でも、これを、夜食同様、廊下に放置する訳にはいかない。もし洗濯係に見つかったら、仕事をサボったかと思われる。
しばらく猫は籠の中で“もそもそ”していたが、遊び疲れたのだろうか、居心地のいい状態を見つけたのだろうか、丸くなればそのまま目を閉じて動かなくなった。
それを認めてリアは猫もろとも洗濯籠を自室へ運び込んだ。とりあえず、猫もお召し物も人目から隠したのだった。
夜食のバスケットと猫の入った洗濯籠が、リアの部屋に揃ってしまった。
今日新たに増えたふたつの籠とは別に、昨日のバスケットがリンゴ木箱の上に放置されている。中を覗けば、きれいに畳まれたクロスが四枚と空のボトルが二本入っていた。
(食べたんだ、あの金髪男が)
今朝の金髪青年を、再び思い出す。
リアに向かって『世話になった』と礼をいい、『猫は私だ、覚えていないか』と訊き、『一緒に食べよう』と誘った。
『人間が猫な訳ないでしょう』と反論すれば、『私の魔法が解けてない』と主張した。
魔法なんて、あるわけない。あったとしても、それはおとぎ話や昔話の中だけで、今は誰も信じない。リアもそのひとりだ。
「…………」
考えれば考えるほど、訳がわからなくなる。三つに増えた籠を、どうすればいいのかわからない。同じ悩むのなら、ハインリヒ王子のことを考えてドキドキする方がずっといい。
『にゃん!』
もう思考がぐちゃぐちゃになったリアに向かって、白い猫が呼び掛けてきた。
いつの間にか白い猫はリアのベッドへ移動して、ブランケットの上にちょこんと座っている。オレンジと青のオッドアイで、リアを見つめていた。
『にゃん!』
リアの混乱を気遣うように鳴く。大丈夫とも、こっちにおいでよとも、リアにはきこえてしまう。
(ああ、もう寝ちゃお!)
(とにかく、今日は一日は色々なことがありすぎた!)
(相談しようと思っても、相談できるような内容でもないし、相談できる相手もいない)
衝立の裏で夜着に着替えてリアはベッドに潜り込んだ。
白い猫はベッドの主人に場所を空けて、端の方で丸くなる。そこはちょうどリアのふくらはぎのそばであった。
昨夜、猫を抱いて寝たときは、実はリアは暑かった。猫も暑かったのだろう、だからこの位置なのかもしれない。
「猫ちゃん、お休み。明日は勝手に出ていっちゃあダメよ」
『にゃん!』
こうして長い長いリアの一日が終わったのである。
***
悪夢とは眠っているときに訪れるものではなくて、起きているときに訪れるものだっただろうか?
「リア、起きて。朝食にしよう」
まるで下町で暮らしていたときのように、リアは肩を揺すられ起こされる。
おかしいわね、お城では食事は大食堂で取るから、まるで今すぐここで食べるかのようないい方はすごく変だ。
「ううーん、お母さん、もう少し……」
実際、リアは眠かった。
昨日はたくさんのハプニングが起こった。朝一番に猫が消えて、ベッドには全裸の金髪青年がいた。図書室で王子と遭遇し、大食堂ではまた意味不明のバスケットを渡される。最後に部屋に帰れば、青年が消えて猫が戻っていた。
一体、昨日はなんという一日だろう、リアはひどく疲れていた。肉体的にでなく精神的に。
ベッドに入ったのがそんなに遅くはなかった。なのに、眠りの割には疲労が取れていない、まだまだ寝ていたい気分だ。
「お母さん、それに……まだ、早くない?」
部屋は初夏だからこそ薄明るくなっているが、仕事開始までまだ時間がたくさんあると思われた。
「でも、起きて。リアと話をしたいから」
(…………あれ?)
(お母さん? お母さん、こんなに低い声だったかしら?)
自分を起こす人は、母以外にいない。無条件に母だと思ったが、声質が違いすぎる。それに……
(ここはお城だ。お母さんはいない)
はっと、リアは目が覚めた。
こんな風にリアの肩を揺すって起こす人は、お城にはいない。リアは使用人棟のひとり部屋に住んでいるのだ、あり得ない。
自分に触れるのは一体、何なのか、しっかり目を開けて、リアはみた。
ベッドで横たわるリアの目の前に、金髪に縁取られたハンサムな顔。昨日と同じ顔に、同じオレンジと青の瞳があった。喉仏が小さく上下して、再びリアの名を呼んだ。
(#&*@§♯♭†※!)
がばりとリアが身を起こせば、昨日の朝の金髪青年がベッドに腰かけていた。今度は全裸ではなく、すっかり身支度を整えて。
リアの肩を揺すったのは、この青年の手であった。
「@§♯♭†※%#▲▽!」
またもや言葉にならない悲鳴をリアは上げた。
今日の金髪青年は全裸ではない。今日は今日で、別の理由で叫んでしまう。
(どうしてこの男が!)
(部屋を出ていったんじゃないの?)
足元をみれば、皺の寄ったブランケットがあるのみ。
(猫ちゃん?)
(猫ちゃん、どこいった?)
青年を無視して、リアは白い猫を探した。ベッドから下りて、ベッド下を覗いたり、部屋の隅やリンゴの木箱の陰を確かめる。
でも……
(猫ちゃんが、いない!)
リアは青くなる。あちこち探しても、猫の姿がない。
昨晩、猫はここにいた。抱き上げた感触は生々しかった。確実にいたのだ、幻ではない。
では、どこへ……?
諦めきれず、リアはもう一度、猫を探した。
そんなリアの動揺など青年は気にしない。落ち着き払って立ち上がり、バスケットの夜食を机の上に広げ出した。
「リア、腹が減って仕方ない。早く朝食にしよう」
ハインリヒ王子とは違う類いの爽やかな笑みを向けて、金髪オッドアイの青年は、戸惑うリアへ告げたのだった。
「朝食にする? 冗談じゃないわ、猫ちゃんがいなくなったのに?」
向かい合って立ち、澄まし顔の青年へリアは抗議した。
それに食べようといっているその食事は、上級使用人の夜食である。リアが届けなければならないもので、リアが食べていいものではない。
「だから、猫は私だと、いっているじゃないか?」
「うそ! うそをつくなら、もっとマシなうそをいいなさいよ!」
「うそじゃないさ。もう一度、よくみて確かめてみろ」
そういって、素早くリアの両二の腕を掴むと、青年はグッと自分の方に引き寄せた。
身長差の大きいふたりだから、伸ばす青年の腕は長く、逃げるリアの歩幅は小さい。リアはあっさり捕まってしまった。
大きな青年の手で細いリアの二の腕が固定されれば、もうこれは一種の拘束に相違ない。
きれいな顔の青年に凄んだ目で見下ろされて、リアは恐怖を感じる。
昨日は全裸だったから、向こうに隙があった。でも今朝は、ビシッと宮廷服を着こんですでに臨戦体制が整った背の高い青年である。リアは力持ちといっても、所詮は十八の乙女。戦闘能力は、明らかに青年の方が高い。
喧嘩を売る相手を間違えた、すぐにリアは悟った。
(どうしよう……自分の部屋で乱暴をされるかもしれない!)
その思いは顔に出ていた。驚きで大きく見開いていたリアの目は恐怖で力がなくなり、視線を外す。
一方の金髪の青年は、そらみたことかと勝ち誇った不遜な顔、そして信じないのなら仕方ないねという憐憫の顔でもある。
「よく私の目をみろ。何色だ?」
諭すように、リアに瞳の色の確認を要求した。
「右がオレンジで、左がブルー……」
恐る恐る視線を青年の瞳に合わせ、みえたままの色をリアが告げる。そして、次の質問が出された。
「猫の瞳は?」
「猫ちゃん?」
なぜここに消えた猫のことが出てくるのか?
謎に思いながらも、すぐそばできれいな顔に凄まれて、リアは昨晩の猫の顔を思い浮かべた。
「オッドアイで、青とオレンジ……」