Act-3*リアと『同居人』(3)
昼下がりの図書室は人の出入りが一巡するので、どこか穏やかな空気になる。
そんなのんびりとした図書室の、さらに奥の資料室は、もっとのどかな空気である。資料室で昨日の続きの片付け最中に、ふっと、リアは我にかえった。
(あれ? 私、何をしていたんだ?)
右手には鋏、左手に紐。そうだ、今は絵画を解梱していたと、リアは思い出した。
足元にはたくさんの布地と紐の残骸が散らばっている。
今日は焼却場が使えないということで、そこまでゴミ出しにいく必要はない。今の一瞬、仕事のことを忘れてしまっていたが、朝のミーティングで、カウフマンに告げられた指示をリアは覚えている。
窓からは午後の陽射しがさんさんと射し込んでいる。明るい資料室には、布に包まれた備品はまだ半分近く残っている。
居眠りでもしてしまったのだろうか。朝のミーティング以降の数時間分の記憶が、また曖昧である。昨日の昼の記憶もそれと同様で、依然、それも霧がかかったまま。
一方の体はというと、昨日と違い疲れが取れている。正常な体調と混乱した記憶、ちぐはぐな体と頭の状態に、気持ちがすっきりしない。
━━嘘おっしゃい! 猫と人間が一緒な訳、ないでしょう!
思い出せない記憶とは別に、今朝の出来事を思い出す。
あの金髪青年は、どこから侵入してきたのか?
抱いて寝た猫は消えてしまったのだが、どこから出ていったのか?
あの夜食のバスケットは本当に間違いではないのか?
朝の不可解な出来事を考えているときであった。凛々しい青年の声が、リアの思考を邪魔をした。
「ねえ、君、そこで何をしているの?」
背中からの声に反応して振り返れば、リアがみたこともない立派な服をきた金髪の青年が立っている。胸元に二冊の厚い書物を抱え、資料室入口ドアそばで、中の様子を伺っていた。
きちんとドアを閉めて作業をしていたはずなのに、そのドアは大きく開かれて侵入者を許していた。
(しまった! 内鍵を忘れていた!)
カウフマンからは、資料室へは誰も入れないようにといい付けられている。
(でも、勝手にドアを開けるこの人って?)
ノックの音などきこえなかったから、この金髪の青年は確認なしで開けたのに違いない。そんな図々しい所作から、この彼は職位がリアなんかよりもずっと上の人物だと確信できた。
「はい。資料の整理をしています」
と、リアは従順に答えた。ノックなしのマナー違反は口にしない。
服装から高い地位の人とわかったが、よくよくみれば、この青年、高いといってもかなり高い地位だと、リアは気がついた。だって、形は似ていても服の装飾、刺繍がひとつにしても輝く糸で細かでたくさん施されているのだ、がとても豪華だから。今までみてきた図書室に出入りする中級使用人なんかとは全然違う。
(もしかしたら、あの夜食の本当の届け先の人?)
夜食を横取りしたのが見つかったのかと、リアはさぁっと青ざめた。
(どうしよう……)
最悪の展開を予想するリアに対して、青年は淡々とこう返してきた。
「ふうん……」
彼の視線はリアでなく、彼女のいる部屋、資料室の内部を漂っていた。
「今まで図書室は部屋から遠く離れていて出入りしなかったけど、図書室には資料室という部屋があるのか」
(あれ?)
リアの動揺など全く関与せず、青年はじろじろと珍しそうに資料室内を観察する。そして興味のまま、一歩、踏み込もうとした。ドアを開けたのも、この純粋な好奇心によるものとみて取れた。
「すみません、あの、関係者以外、立ち入り禁止です」
解梱作業途中の資料をそのままに、慌ててリアは駆け寄って青年の前に立ち塞がった。
関係者以外、資料室には入れないでください、そんなカウフマンのセリフがリアの頭に繰り返される。
「あ、そうなんだ。危険なものがあるのかな? 私は専門外だから、よくわからないけど」
図々しいのかそうでないのか、金髪の青年は素直にリアの注意に従った。彼が後退りすれば、リアとはドアの敷居を挟んで向かい合う形となった。
青年は背が高く、すらりとしたバランスのいい体躯で、リアの背は彼の肩ぐらいまでしかない。向かい合えば、リアが見上げ、青年が見下ろす形となっていた。
下から見上げれば、きれいな新緑の瞳がよくみえた。春の芽吹き直後の新芽のような柔らかく明るい緑色だ。とても美しい。それを髪と同じ金色の睫毛が縁取っている。
顔つきは優美、でも冷たい感じはしない。温かな雰囲気を漂わせている。それは、彼の目が大きくて、少し垂れているからだろう。
行動は別にして、今までの優しい口調の会話からも、彼は身分が高いのにもかかわらず畏れ多い印象を与えない。教会の神父のような、もちろんこの青年の方がずっと若くて格好いいのだが、ほっとする安心感を与える。
リアは図書室勤務だが、所詮は掃除娘である。図書室長のカウフマンは司書で知識人だから、出入りする人は彼には一応に丁寧な対応する。
でも、リアにはそうではない。皆がみなという訳ではないが、どこか見下した視線をリアは彼らから感じ取っていた。
今、この目の前にいる青年はそんなことない。この状況なら、“ふん!”とひと言いって侮蔑の目をして踵を返す人が多いのだが、彼は謝罪こそないがリアの懇願にはちゃんと応じてくれた。
(身分が高いのに、偉そうにしていないなんて……珍しいな)
きれいな形の唇の口角が上がって、青年が質問してきた。
「君は、ここの担当なのかな?」
尋ねる口調が、依然、優しい。下町で働いていたときの頼りになる青果商組合のグループリーダーを思い出す。
「はい、カウフマンさんのアシスタントもしています」
あえて掃除係とはいわなかった。いえば、他の人と同じように、この彼にも冷たい態度を取られそうな気がしたから。
「アシスタントって何しているの? ここの掃除?」
(!)
ズバリ、掃除係の本業を当てられる。どきりとする。図星のリアに対して、青年はニコニコと無邪気に答えを待っていた。
(この人……)
(身分が高過ぎて、下級使用人なんか今までみたことないってところかしら?)
最初の冬の床磨きのことを思い出す。侍女長からは、高貴な方の目に入らないように働けと命じられたことを。
「それもします。朝は掃除をして、昼からはカウフマンさんの業務を手伝います」
「カウフマンの業務って、何?」
(あれ?)
これで終わりかと思ったのに、いつまでも質問が続く。まるで、“これは何?”と無条件に疑問を口にする小さい子どものようだ。天真爛漫な一面を彼はみせた。
身分の高い人はもっと堅苦しい話し方をするとも、リアは思っていた。でもどうもこの青年、リアが思っている高貴な人とちょっと様子が違う
「返ってきた本を元の場所に戻します。あとは、本の並びが間違っていたら正しい場所に入れ換えたり、新書が入ったときにラベルを付けたりとか……」
自分でいっておきながら、この説明ではたいした業務でないなとリアは思う。今さらながら、侍従らが鼻で笑う理由を再認識してしまった。
「そうか、じゃあこの本のラベルも、君が貼ったものなのだね」
と、青年は胸元の本をリアにみせた。それはリアが図書室に配属される前からある本だ。本当は違うのだが、何だか否定するのも悪いような気がして、うんと頷いてしまった。
「前の図書室は、側近が危険だといって立ち入らせてもらえなくてね」
確かに、前の図書室は古くて、暗くて、場所によっては陰気なところがあった。きれいな身なりのこの美貌の青年を近寄らせたくないという侍従の気持ちが、なんとなくわかる。きれいなものをあえて汚す必要はない。
「新しくなったときいて、部屋からも近くなったし、今日はじめてここにきたけど……」
(はじめてきたけど……?)
「なかなか面白いところだね。読んでみたい本がたくさんあって、迷ってしまったよ」
にっこりと極上の笑みを浮かべて、金髪の青年はそうリアに告げる。とたん、リアは、青空の下で広い草原の中に立ち、緩やかな薫風に吹かれて深呼吸をしたような気分になる。
ハンサムな青年からとびきり爽やかな笑みを向けられて、リアの心臓がきゅうぅっと縮こまった。頬に、目元に熱を感じ、こめかみに打つ血潮が激しくなる。
(ちょっと、待って、待って!)
(何、この人!)
(ドキドキしちゃうじゃない!)
花も恥じらう十八の乙女のリアは、この不法侵入者の青年の笑みにノックアウトされてしまったのだった。
「お兄さま~」
ひとり勝手にときめいているリアの耳に、可愛らしい令嬢の声がきこえてきた。鈴が転がるような軽やかな声、どこかエマの声と似ている。その声を受けて、青年が振り返った。
「お兄さま、どちら~?」
再び、呼びかける。探しているようだ。
「マルガレータ、ここだ。すぐにいくよ」
(お兄さま? マルガレータ?)
お兄さまと呼ばれて、青年は躊躇なく踵を返した。
「じゃあ君、アシスタント、頑張って」
社交辞令ひとつ残して、美貌の青年はさっさと一階の一般図書のコーナーへいってしまった。
金髪の青年の姿が本棚の向こうへ消えるのを見送って、はっとリアは我に返った。
慌てて資料室入口ドアの鍵、今日はカウフマンから特別に鍵を預かっていたのだ、を閉めて、本棚に隠れながらリアは彼の後を追った。
二階の踊り場までくれば、あの金髪青年は、すでに一階の図書室入口ホールまで降りていた。リアは踊り場の手すりの隙間から、こっそりその様子を覗いてしまう。
金髪青年の横には金髪の美少女がいた。彼女の頭があの青年の肩付近にあり、美少女の背はリアと同じくらいとわかる。
フリルとレースがたっぷりあしらわれたライトピンクの可愛らしいドレスを着ていて、軽やかな声で金髪青年と親しげに話をしている。
結い上げていない彼女の金髪はふわふわで、ステンドグラスからの陽射しを受けてキラキラだ。華奢な体が白いレースに包まれて、その姿はまるで繊細な砂糖菓子のよう。同性のリアでも、彼女の可愛らしさに頬が緩んでいた。
(何? あのふたり、とてもきれい)
ステンドグラスの光を浴びて、ひときわ美しく輝くふたりがリアの瞳に写る。
手すりの隙間から覗き見して、リアはため息が出てしまった。
一階入口ホールでは、美男美少女の金髪のふたりと焦げ茶色の髪のカウフマン、その他金髪でない侍従や侍女がいた。
「じゃあ、これを借りていくよ」
「はい、かしこまりました」
恭しくカウフマンが頭を下げれば、手ぶらの青年と美少女が図書室を去っていく。ふたりの後を、両腕に本を抱えた侍従と侍女が続いた。
完全に一団が退室したのを確かめて、リアはカウフマンのところまで降りていった。
「あの、カウフマンさん」
リアに声かけられて、カウフマンは眼鏡を外して振り向いた。
「はい、どうかしましたか?」
「今の方は?」
「リアさん、知りませんでしたか? 第二王子のハインリヒ殿下と第二王女のマルガレータ殿下ですよ」
(!)
リアは目が丸くなった。