Act-3*リアと『同居人』(2)
暑くなって、リアは自然と目が覚めた。夏至間近の初夏の朝は、夜明けが早い。使用人棟のリアの自室もうっすらと明るくなっていた。
胸元に圧迫感を感じ、リアは寝返りを打った。圧迫感を逃れたのに、今度は背後から腕が回されて包み込まれる。
しっかりとした筋肉のついたその腕は、図書室業務に就いている文官のカウフマンと違って、逞しい。
そんな力強い腕に後ろから肩と腰を抱きしめられて、リアはひどく懐かしい気持ちになった。船乗りのリアの父親は、こんな風にリアを抱きしめて、昼寝をしてくれたから。
(あったかい……けど、暑い……)
現実は、情緒的ではなかった。うっすら、リアの額に汗が浮いていた。
日が昇れば、さらに室温が上昇する。初夏の夜明けすぐは、人肌の温もりは心地いいが、一時間としないうちにそうでなくなる。
(あれ? 昨日は猫ちゃんを抱いて寝なかった?)
昨晩の自分は猫を抱いていたのに、今は逆に抱かれている。
(猫って、小さい、はずよね?)
背後に感じる熱量はとても大きくて、その体温は高い。
(この腕は、何?)
この体にあたる感触は猫のものではない。びっしりと生えた毛などなく、人間の皮膚のもの。強いていえば、帰ってこないリアの父親と似ていて、それよりも体毛が少し薄いといったところか。
(!)
暑苦しさと疑問によって、夢うつつからリアはしっかり目が覚めた。
自分を後ろから羽交い締めにする腕の持ち主は、まだ眠っているらしい。首筋後ろに規則正しい寝息を感じる。
リアを抱きしめる腕はそんなに強固ではない。リアが身を起こせば、それはするりと力なく滑り落ちた。
自由になった体を捻り背後をみた。自分に寄り添う正体を知り、リアは目を見開いた。
金髪の青年がリアと同じシーツの中にいる。はだけたシーツの間から、腕と同様の逞しい胸元がみえていた。その奥は確かめるまでもなく、何も身につけていない。ついさっきまで、ぴったりとリアにくっついていた感触から、薄々気がついていたのだが。
「※%#&*!!」
知らぬ間に、金髪の全裸の青年とベッドをともにしていた。言葉にならないリアの大絶叫が部屋に響いたのだった。
夕べは猫を抱いて寝た。だが、今リアの自室にいるのは、金髪の青年。猫ではない。
「おはよう、昨日はいろいろ世話になった」
ベッドの上であぐらをかき、金髪の青年はそばの壁に凭れて、リアに朝の挨拶と謝礼を述べる。リアの動揺とは大違いで、彼はリラックスしていた。
青年の服は、もちろん、この部屋にはない。だから、彼は下半身にシーツを纏っただけの姿、そう上半身はむき出しの裸のままである。
一方のリアは金髪の青年を認めて慌ててベッドから脱出し、衝立の裏側で素早くお仕着せに着替えたのであった。
そして今、ベッドの傍らに立ち、青年と対面している。
端からみれば、ねぼすけ王子と彼を起こしにきた侍女だろうか?
「あの……状況がよくわからないのだけど……猫ちゃんはどこ?」
まず彼の名を尋ねるのが普通の対応だろう、だが、リアは混乱していて猫のことを訊いてしまった。
「猫は、私だ」
迷うことなく、毅然と青年は主張する。
「嘘おっしゃい! 猫と人間が一緒な訳、ないでしょう!」
パニックに陥ってはいたが、リアのそのセリフは極めて普遍の真実である。
「嘘だと思うのなら、よくみてみろ」
と、金髪青年はリアの上腕を掴み、自分の方に強く引き寄せた。
急に引っ張られて、リアは空いた手を青年の膝そばについた。片膝をベッドにのせ、上体を寄せて彼の顔を間近でみる形となる。その距離、金髪青年がその気になれば、すぐにでもキスできそうな距離。
「な、何!」
急接近することになって、リアは焦る。年齢の割には体は小さいが、これでも花も恥じらう十八の乙女である。今までこんな近くにまで異性に近づいたことはない。心臓が高鳴り、頬が熱くなった。
「私の瞳をよくみてみろ。何色だ?」
「え、瞳?」
そう命じられて、ドキドキしながらも、リアは素直に確認を始めた。
目のすぐ前には、金髪に縁取られた端正な顔がある。髪が金色だから、眉毛も睫毛も金色だった。そこに填まる瞳は、右が新鮮な果物ような生き生きとしたオレンジ色、左が南の海を思わせる明るい青色。どちらも濁りのない澄んだ色目であった。
間近で観察して、リアは気がつく。
(この人、すごくきれいな顔を……していない?)
いわゆるハンサムという類いである。
そうと認識してしまえば好奇心が湧いてきて、まじまじとリアは観察してしまう。
口元は引き締まり軽く口角が上がっている。きれいに鼻筋が通り、額から高い鼻までのラインが美しい。二重まぶたの上には力強い眉毛が描かれていて、こめかみから顎の線はがっしりして意思の強さを思わせる。線はがっしりはしていても武骨というものではなく、精悍という言葉が相応しい。やや筋肉質な首には、喉仏が控えめに浮き出ているのも確認できた。
年の頃はリアと変わらないか少し上、だろうか。
リアの上腕を掴かむ手は大きくて、それは小振りなリアの両手を片手で簡単に包み込んでしまいそうだ。
「どう? リア、わかった?」
観察に夢中になっていたリアに、金髪青年が訊いてきた。
(!)
(いけない、見惚れちゃった)
赤面したまま、第一印象そのままのことを口にした。
「あの、目の色が違うのだけど」
「ああ、今はオッドアイだ。変わった目の色だから、見覚えがあるだろう?」
「見覚え?」
果たして、リアの知り合いにオッドアイの人がいただろうか?
ベッドに手をついたまま、赤面しながらも、じっと青年の瞳を覗きこんだ。でも、リアには覚えがない。
悩むリアにしびれを切らして、青年の方から答え合わせをしてきた。
「私のことを“猫ちゃん”といって、挨拶していただろう?」
「猫ちゃん?」
リアが猫ちゃんと呼んでいたのは、あの絵画の『白い猫』である。
お城の中では、当然、使用人が動物を飼うのは禁止である。下町のリアの知り合いに猫を飼っている人はいない。だから、リアが“猫ちゃん”と呼ぶような猫は、現実にはいない。
「私の助けの声に気がついて、きてくれたじゃないか?」
「助けの声?」
業務でカウフマンにいろいろ指示をされたが、助けを求められた覚えはない。彼にも、それ以外の人にも。
「そうだ、炎の中から私の手を引っ張ってくれた」
「炎の中?」
炎という単語でリアが思いつくものは、昨日の図書館と焼却場の間の往復のことである。
「まだ、思い出せない?」
「思い出す?」
正直なところ、昨日の正午を挟んだ数時間の記憶が曖昧である。一晩経った今ではさらに時間が流れていて、なおさら薄れてしまっている。
思い出せないと金髪青年に訊かれても、リアは思い出せない。
それはとても大事な記憶なのだろうか?
でも、思い出そうとすると白い霧がリアの頭の中に広がって、それは鮮明になりだした記憶の輪郭を隠してしまう。
思い出せないのは、すごく悪いことなのかもしれない。そんな思いがリアの顔に出たようだ、青年が不思議なことをいってきた。
「まだ、私の魔法が効いているようだな。久しぶりの現世だから、調子が取り戻せていないようだ」
リアの反応が青年の期待通りでないのを、自分の不調のせいだと青年はいう。リアを責めたりはしない。
(魔法?)
図書室の幽霊の声に始まって、助けを求める猫の鳴き声ときて、ついには魔法まで出てきてしまった。
(魔法なんて、おとぎ話の世界だけのものじゃないの?)
(大昔に魔法が存在したなんていうけど……今はそんなの、誰も信じないわよ)
青年のセリフに答えず、リアは心の中で否定した。
「まぁ、いいさ。本調子じゃないし。昨日の火炙りで体もダメージを受けたままで、まだ辛い。とりあえず、リア、朝食にしよう」
リアの上腕を解放すると、ベッドの住人は昨晩のバスケットの夜食を一緒に頂こうと提案する。
「はい?」
(それって、お城の人のものじゃないの?)
(そういえば、昨晩、誰かが取り戻しにきた気配はなかった)
(だとしても……)
リアが迷っていると、また金髪青年はしびれを切らしたらしい。少しよろめきながらも、ベッドから降りようとする。
その弾みで、彼の腰回りを覆っていたシーツが、するりとずれ落ちた。引き締まった腹筋、しなやかな筋肉で包まれた太腿、脛から足先にも無駄のない筋肉が続いていて、そして……
全裸の金髪青年は、リアに自身の裸体をみせることに恥じらいも何もないらしい。
「▼※%#&*!!」
リアは赤面し、思わずそばの枕を掴んで青年の下腹部に向かって投げた。精一杯の力を込めて。
そして、くるりと背を向ける。
「あ、すまない。猫の姿が長かったから、服を着るのを忘れていた」
(どういう理論よ!)
人間世界の常識を理解しているが、やはり猫であったことを正々堂々と彼は主張する。
(いや、それより……)
「私はバスケットのものを食べる訳にはいかないの!」
畏れ多くてできないと、リアは拒絶した。
昨晩、誰もこなかったが、どうしても彼のいうことは信じられない。そもそもが、下級使用人のリアが、夜食なんかを頂ける仕事をしていなければ、用意してもらえる立場でもないのだ。
「大丈夫だって。魔法で用意させたものだから、誰も気づきやしない。それに、昨日の夕方、あまりにも空腹で、リアのビスケットを食べてしまった。その詫びでもある」
(ビスケットを食べた?)
ちょうど目の前に、ナイトスタンド代わりの樽がある。そこには昨晩放置しままのペーパーナプキンがある。それはリアの推測通り、エマのくれたビスケットの残骸だった。
(エマのビスケット、食べられちゃたんだ!)
自分で食べた記憶がまるでなかったのだが、それは正解だった。食べてないのだから、記憶がないのは当然である。失くしたとかエマに返したとかでなく、よりにもよってこの金髪青年にビスケットを食べられてしまったとは。
(あれは、かなり楽しみにしていたいたのに!)
ビスケットのお詫びだといわれても、ますます“はいそうですか”とは従えない。お詫び以前に、勝手に食べられたことの方が悔しくてたまらない。
彼があの『白い猫』だという狂言は解決していない。バスケットの夜食にはリアの分も含まれるといわれても、そんな大嘘つきのいうことなど信頼してはいけない。
「私、ちゃんと食堂で朝ごはんを食べるから! 悪いけど、バスケットのを食べたら、この部屋から出ていってね!」
そういい捨てるので精一杯、リアは青年に顔を背けたまま、自室を飛び出した。