水浴び
生き抜くって何だろう。その場しのぎ? それとも死ぬ直前に思うこと?
毎日、朝起きて、電車に乗って、液晶画面に向かって、同僚とは会話することなく、片言の指示をかけあうばかり。そして、疲れてくたくたになって家に帰れば、真っ暗な部屋が出迎えてくれて、乾いたコンタクトと霞んだ目をこすりたくなるが、堪えて、堪えて、目頭を上下に撫でながら、ステンレスの焦げた鍋でお湯を沸かす。
夕飯は具のないパスタ。コンソメと胡椒をふりかけただけの貧相な手抜き料理。いつも一束か二束にするかで迷うが、結局一束。今日は大丈夫、今日は大丈夫と自分に言い聞かせ、本当に倒れそうなくらい仕事と向き合ったときのために、その幸福感はとっておく。そんな日が訪れることはないとも知らず。
今日を甘んじてしまったら、明日を生き抜くことなんてできない。だから、私にとっての生き抜くっていうのは、その場しのぎ。だが、その場しのぎが何日も続けばいつまでも生きられてしまう。
二束のパスタは永遠に食べられなかったとしても、それに気がつける人はどこにもいない。そう思うと、身体から微粒になった欠片が風に乗ってどこかに行ってしまうようで、クリスマスのホールケーキを一人で食べきったときのように、胸焼けをしたような感覚に襲われる。
雨は止んでいた。トタンを打ち付ける雨粒の音が、いまだに想像できる。アスファルトが土に変わって、それに従って視界の景色も物憂げになり、緑を帯びていった。物憂げではあるが爽やかなのも確かである。青空こそ出ていないものの、薄い雲がちょうどいいくらいに太陽の光を調節してくれている。
吐息が連なった程度に息を乱しながら、石段の裏に回る。今回は来るときにちゃんと梯子を外していたので、それを持って石段を上がる。
慣れた手つきで梯子を手から離し、出るはずの衝撃と音は土に緩和された。軋む梯子の上を、重い荷物を抱えて小走りで渡りきる。
何度来ても思うことは変わらない。五感で感じ取ることができ、壮大な景色だと。自分で作っておいて言うのもおかしいが、これほどまでに自分を満足させられたのは予想外であった。満足なんて死ぬまでしない性格のはずなのに、珍しく私の想像を現実が裏切ってくれて、認めざるを得なかった。それほどまでに神妙で、神秘的で、圧倒的な空間に触れているということが肌で感じられる。
目で樹を感じ、耳で木々のざわめきを聞き取り、澄んだ緑の匂いを空気と一緒に吸い込む。下水などの香りとは対極の味で、ここに立っているだけで森を胃の中に入れてしまった気分になれる。
ここに居られるなら、たとえそそのかされていたとしても何も思うことはない。許せるのだ。
ドアノブに手を掛けた。躊躇なくそれを引いて中に入る。梯子を外していたため、彼女が中にいるのは想像できた。だが、部屋は蛻の殻。丁寧にソファアの上に置かれた衣服を除いて。
腕時計を見れば、すでに十二時を回っていた。ああもうそんな時間か、と思うと同時に、どっとサウナを出た後のような疲労感が襲って来た。数時間にわたって歩けば、誰でも汗は掻くし、疲れる。
堀は上空から見たときにU字に見えるようになっている。私の場合、堀といったら五稜郭をイメージする。だが、誰かに攻め込まれる予定などないので、堀を作るときに五角形に家を囲むようなことはなく、円形でいいじゃないかと思った。実際にそのつもりだった。だが結局U字になった。理由は一つ。だるかったからだ。
そもそもこのアトリエのような居住スペースを作ったのは、一人で暮らしたいと思ったからだ。親のもとを離れ、隔たれた空間で暮らすことができれば、きっもっと生きやすくなる。その期待、羨望が顕著に現れたからだと思う。
ここでいう独り暮らしは、一般的に考えるであろう独り暮らしとは異なる。すべてを一人でこなすのだ。
周りにあるのは自然だけで、人っ子一人見当たらない。人が歩く音、騒音、雑音、話し声すべての生活音をシャットアウトした空間。子どもの頃に見た、無人島で一人で暮らす物語の主人公に私はなりたかった。それに憧れるように始めたのが、確かきっかけだったはず。ああ思い出せた。
きっかけは意識していなかった。本当は後付けなのかもしれない。それだけ今は記憶がなくて、でもふわふわとなんとなく行うに至った理由が浮かんでいる。
大学の入試は推薦だったので、高校三年の後半は比較的早く学校に行かなくなった。まあ、本当は行かなければならなかったのだが、その空いた時間、そこから大学入学までの約二か月半は、頻繁に山に通った。
素人ができることなんてたかが知れている。それをわかっていた私は、人生ではじめてバイトで稼いだ金をツールと材料に使った。
スコップと大脳皮質を並行してひたすらに動かし続けた。理解してから行動するなんて私にはできない。理解しながら行動する方が、どう考えたって私の理念には適っている。
単純作業の最中、頭で専門的なことを理解しながら作業は進んでいく。堀はすべて手作業だった。最初から深く掘るのではなく、最初は二十センチ程度の深さで、出来上がる場所だけを明確にした。それよりも、アトリエの方が大変だからだ。堀なんて、来たときにちまちまやっていればいい。ただの自己満足の飾りなのだから。
何と言っても、材料を運ぶのが大変であった。街のホームセンターの従業員の方に、この山奥まで軽トラックで持ってきていただいた。「ここ君の土地なの?」とか、年齢のせいでやたらといろんなことを聞かれたが、「はいそうです。将来建築士になりたいんです」と適当に答えていた。
実際、この土地が誰のものかは知らない。が、小さい頃の記憶では、私の祖父の土地だった……気がする。
また思い出した。昔、まだ家庭が円満だった頃だ。祖父母や家族総出で山に「こごみ」という山菜を取りに来たことがあった。そのとき、軽トラックを止めたのがここだった……はず。
「ここもうちの土地なんだぞ」と父親だったか祖父だったか祖母だったかが言っていた記憶がかすかにある。何しろ、小学一年ぐらいの年齢だったと思うからあまり覚えていない。覚えているのは、急な斜面を登りながら見つけたこごみを取って、スーパーのビニール袋に入れる。でも、家に帰ってからは食べない。そんな光景だけ。
二、三年その家庭内行事が続いたが、その最中に山で迷子になったのは今でも忘れない。ひとりで行けると思っていたはずだったが、それは過信にすぎず、結果、家族とはぐれ、やばいやばいを連呼しながらひたすらに山をそこかしこに駆け回っていた。単独行動をしていた祖母と合流できたのは偶然という他ない。
幼稚園のときにイナゴを取りに行ったこともあった。それを食べさせられるとは知らずに、捕まえるのに必死だった。イナゴ狩りから帰ってきて、「栄養があるから食べなさい」と煮つけを出されたときは、吐き気がするほど喰う気が失せた覚えがある。本当に駄目だと、身体が受け付けないことを先生に伝えたのだが、例外は認められなかった。「皆も食べてるんだから」と一蹴。「まずい」「きもちわるい」が飛び交う中で、噛まずに飲み込んだら、案の定、吐いた。
「だから言ったじゃん」
という私の顔と、「あ、本当だったんだ。まあしょうがない」という先生の顔は、鏡の前に立ったら自分の顔が見えるっていうのと同じくらい明確に覚えている。それだけ印象的で、気に障る計らいだった。
その程度の記憶だが、蘇らせるには十分の景色が私の前に広がっているのだろう。
この土地が誰のものであろうと、こんなド田舎の山奥にご老体に鞭を打ってまで登ってくるものはいない。大体このあたりの土地の権利者って老人ばっかだし。孫が来たら大変だが、そのときはそのとき。というか、うちの土地だしここ。多分……。
そんなこんなで、多少値を張る機材も取り入れながら、アトリエの大体の型を完成させてから上京した。堀も含め、完成させるのは就職して二、三年で仕事を辞めてからでも遅くないと思っていたのだが、それが大学を辞めてからになったのは言うまでもない。
Uの天井に当たる直線の部分は、崖になっている。断崖絶壁というほどの崖ではないので、少し気を遣えば上り下りもできる。その程度の崖。もはや崖と呼ぶにはふさわしくない。
そして、その下にあるのが川。この川の水を汲んで生活する。本当は水をアトリエまで引きたかったのだが、それをするまでの労力と気力はもう残されておらず、諦めた。家が完成した時点で早く住んでみたいという熱望が大きかったのも一つの理由かもしれない。
私は、持ってきたキャリーバッグから先ほどスーパーで買ってきた食材とパンやおにぎりなどを取り出した。腐ってしまいそうなものだけ冷蔵庫に入れておかなければならない。
久々に開けた冷蔵庫は意外にも汚いというほどではなかった。それでも埃は付着しているので、一緒に買ってきたウェットティッシュで中を軽く拭き、食材を中に詰め込んだ。当然、電気は入っていない。
それを終えると、キッチンのキャビネットの中からタオルを取り出す。入れてから日が経っているせいで、タオルは田舎の押し入れのような匂いがしたが、構うことなくそれを首に掛けた。冷蔵庫の前に置いてあるバッテリーと太陽光パネルを抱えて、再び私は外に出た。
崖を下るというよりは、急な坂を下ると言った方が正しい。道にこそなっていないものの、斜面を下るのは容易である。神経を使いさえすれば。朝の冷たい空気によって固められた雪の上を、自転車で走った中学時代を思い出す。
茫々に生えた草が、視界と俺の身体を邪魔する。草と戯れながら数十メートルをゆっくり且つ、勢いよく下った。視界が開けると、白い砂利が見える。なんてことはない。そんな上等な場所ではない。草が生えた河原のような場所。そこにパネルを置いた。川のせいか、ここだけは日当たりがいい。時間によって変わるのだろうが、そういう太陽の角度とかはわからないので、今、陽が当たっているところに置いた。
霊妙な空間に触れているのも悪くないが、ずっと薄暗いところにいると体が固まってしまう。日光を直に浴びるのも人間の性だと思う。今まさにそれを感じているところ。空気はそこそこ冷たいのに、日光に当たっていると体の中からじわじわと温まってくる。
突如、視覚が反応した。
「何やってるの」
声を掛けられないことを望んでいたかのように、数秒の間があった。その真っ白い背中をそのままに、首をひねって顔だけがこちらに向いた。
「見ないでください。恥ずかしいので」
深さは一メートルもなかっただろうか。肩まで水に浸り、自分の両腕を掴みながら彼女はそこにいた。
「いや、俺、悲しいことに女の裸見ても反応しないんだよね。なんでかわかんないんだけど。だから別に気にしなくていいと思うけど」
「あなたがよくても、私がよくないんです」
「そもそも、何で裸って恥ずかしいんだろうな」
「知りませんよ、そんなの」
「君はコンプレックスとかないの?」
「は、はあ?! 何言ってんですか? この状況で何言ってんですか!」
信じられないという顔。
「あ、いや、君の胸のことを言ってるんじゃなくて、普通に自分の嫌なところとか」
冷たいはずの水に、口を沈めて訝しげにこちらを見つめていた。
「君がどうかは知らないけど、やっぱりコンプレックスの一つや二つは誰にでもあるじゃん? 完璧な人とかいると思う? 例えば誰かを好きになって結婚したとしても、相手が自分の気持ちに気づいてくれなかったり、彼のこの癖が気に入らないんだよな、とか思ったりするでしょ? そうじゃなきゃ離婚なんて言葉元からないし、不倫なんてみんなしないでしょ。目の前が、現実が退屈で、満足できなくて、嫌いな人がいて、自分も嫌いで。考え方次第なんじゃない?」
彼女のことなど何も知らない。私の領域に勝手に入り込んで、ソファアの上で寝ていただけ。後は何も知らない。なのに、どこか知ったような感覚に陥り、思ったことをそのまま口にしてしまった。つくづく女に嫌われるタイプだなあと思う。
急に何を思ったのか、彼女は立ち上がった。バシャッと水を鳴らす音と、ぽたぽたと水面に落ちる音の両方を聞き分けながら彼女の顔を見ていた。あのときの寝顔とは正反対の表情。瞼は大きく開いていて、目が大きく見えるのに、それはもう鋭い目つきで、睨んでいる様だった。冷徹な目つき。感情には左右されなくともその目は冷酷にも見え、しなやかな黒が、白と対比されてより光っていた。
濡れた肌が、光を浴びて青く滑らかさと艶を表現している。ゆるやかに流れる川を、水の抵抗を感じさせないような足取りで一歩ずつ横切る。
「そのタオル、貸してください」
私の目の前に来てそう言った。そこにはもう、訝しい目はどこにもなくて、冷徹とも澄んでいるとも言えそうな瞳が、まっすぐ前を向いていた。
無言で、自分の首から取ったタオルを渡し、彼女はそのまま俺の後ろを去ってゆく。
「いいじゃん」
そう呟いて、私は上着を脱いだ。
タオルを貸してしまったため、私には拭く物がない。髪の毛の水をできるだけ絞り、バッテリーと太陽光パネルの横に立っていた。太陽の光というのは偉大で、数分で体についた水滴は飛んでしまった。
服を着て家に戻ると、今度はちゃんと彼女の姿があった。
「腹減ってる?」
「それなりに?」
机に置いてあったパンやおにぎりの封は開いていなかった。気を使ったのだろうか。
「そのパンとおにぎりでいい?」
私がそう聞くと、彼女は頷いた。
私はソファアの反対側にある椅子に座った。
彼女は躊躇いながらも、梅のおにぎりを選んで封を開けた。勢いよく口を開け、閉じる。特有の海苔の音が、盛大に響いた。それなりどころか、普通に腹が減っていたんじゃないのかと思わせぶりな行動だった。
「飯食ってなかったの?」
夢中におにぎりに向いていた視線が、私に向けられる。「ん?」みたいな感じで。
ちょっと待ってと目で訴え、数秒かけて口の中のものを飲み込み、彼女は話し出した。
「クロワッサンも、食べていいですか?」
「ああ、どうぞどうぞ」
袋の口を両手で引っ張り、クロワッサンの頭を少し出して、そのままかじる。かじる。かじる。ぱらぱらとした欠片を机に残してクロワッサンは消えた。
指の腹で口を拭き、満足げな表情でこちらを向いた。
「何の話だっけ?」
「ん? ああ、ええと、飯食べてなかったの? って」
「んー、一日くらいは」
顎に人差し指を当てて斜め上を見る。
「そう……」
いつも一人暮らしだったせいか異様な空間だった。歳を見抜けるほど人と関わってこなかったのでわからないが、大分若そうに見える。しかも、都会風の。言うなれば、高校時代に見た姉のような恰好。
そんな女と話している。目の前にいる。
え。なんで?
「名前は?」と彼女はおもむろに話し出した。
「ああ、俺? 宝生っていいます」
「それ名字でしょ? 下の名前教えてよ」
「ああ、下ね。鉋っていいます」
「ふーん。それってどっちにアクセント置いたらいいの?」
「ああー。漢字的には、削る道具の鉋だから、な、にアクセント置けばいいと思うけど、人によって違ったな」
彼女は頷きを繰り返していた。
「じゃあ、鉋!」
「はい」
「あんた変態でしょ」
え。
勢いよく名前を呼んだ割には、的外れな質問が来た。思わず顔が体に対して前に出てしまった。
「いや、人並みだと思うけど」
「女の裸見て襲ってこない男はおかしい。しかも、『いいじゃん』とかよくわかんない捨て台詞残すとか、お前は男じゃない」
届いていたようだった。私の言葉は。
「いや、別に何も感じないって訳じゃないんだけど、感じ方が鈍いのかな。あ、肌は綺麗だよね。最初に見たときから思ってた」
彼女の引きつった顔が見えた。大分表情が豊かだなあと感心。顔を見ただけで何が言いたいのかわかる。
「まあ胸はそんなに大きいようには見えないけど、胸大きすぎてもスタイルよく見えないし、普通に悩みどころのない美女に見えるけど」
彼女は、「そ、そう……」と小さい声で言った。
結果、話はそこで終わってしまった。多少なりとも彼女の今置かれている境遇について興味があったが、彼女からは話してくれなかった。当然だろう。私が聞けばいいのだろうが、私は自分の境遇について他人に語りたいとは思わないので、自分から聞くのは踏みとどめておく。まあ、もう少ししたら何か聞いてみるつもりだ。まあそれも、彼女がずっとここにいるのならの話なのだが。




