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パスバイクローンズ  作者: 面映唯
第二章
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 姉は、すでに結婚している。相手は知らない。結婚式にも出ていない。私が出席したところで親戚と仲がいい訳でもなければ姉以外の話し相手はいないから、ほぼ行く意味がない。もし仮に行く意味があるとすれば、姉の「来て欲しい」という想いだけだった。招待状が送られたのか送られなかったのかは知らない。ただ私の手元にはなかった。それだけのこと。


 姉が何をしていようと、私の知ったことではない。彼女の人生だから何も言えない。脇役が主人公の演技に口出しするような真似はできないかった。


 何だろうな。嫉妬? ではないと思う。もっとなんか、何かが消えてしまったような、いなくなってしまったような、もうその姿を見せてくれないような。そんな焦燥とも悲壮とも呼べそうなものが私の前にゆらゆらと流れていた。


 あれだよ、あれ。何かを失ったときに感じるやつ。失う前は、そんなに気にも留めていなかったり、早くどっかいけばいいのにとか思っているけど、いざ失うと、えっ? みたいな。あれ、おかしいなって。皆無というか空虚というか何かが足りなくて、それにさえ気がつけなかった以前の自分。失ったことで、「あれ、何かやだな」という感情が湧いてくる。結局数日してその感情は消えてしまったが。


 この感情を表現する言葉は、今の私の辞書からは探し出せそうにない。


 月に一回は会っていた気がする。姉も上京していたから、会うのは簡単だった。彼女と会うときだけは、あれだけ敷き詰めていたシフトも、一日丸々空けていた。それが息抜きになっていたんじゃないかといったら、否定はできない。


 大体、カフェで彼女の話を聞かされる。彼氏の態度とか、友人の嫌なところとか、普通の女子大生が話すような愚痴。ちなみに姉は大学に行かなかった。行けなかったと言った方がいいのかもしれないが、あまり深くは追及できない。言わずもがな、男が絡んでいるのだから。


 他に客がいるのなんていざ知らず、大きな声で、熱心に訴えてくる姉。だが、話を聞く限りでは、客観的に見た彼女の姿と自身は真逆を行っているらしい。



「私、誰かに作られたような生き方してるんだよね」

「何それ」

「なんかさー、彼の思うままの人間になってるんだよね。服は彼の好みだし、髪型も。趣味も。でも、別にそれが嫌かって言われたら、別に彼のためを想ったらそんなに嫌でもないんだよね。私ってどうかしてるかな?」

「大分どうかしてるね」


 私は素っ気ない声で応答していた。相談されているせいか、立ち位置が上になっていることをいいことに姉を見下してしまっている。


「鉋ってさー、なんでそんなに自由なの? なんか羨ましい」

「いや、俺を羨ましがっちゃダメでしょ。俺、やりたくないことはなるべく逃れながら生きていきたいからさ。ただのクズだって」

「私には楽しそうに見えるけどなあ」

「楽しい? 俺が? ありえないよ。親の勝手で生まれてこさせられて、男か女、名前も身長も遺伝子も決まっててここにいるんだよ? しかも、それが快楽を伴った行為の副産物ともなれば、考えただけでおぞましいから。特にうちの親はあんなんだからってのもあるんだろうけど。できれば生きたくないよ。こんな、強制労働みたいな世の中。なんで生きなきゃいけないのって感じ。それ抜きにしてもだるいし。ベーシックインカム早くして欲しい」

「でも、生きてるじゃん」


 姉は、神妙な面持ちでそう言った。


「そりゃあさ、親が子どもに『生きて欲しい』みたいに何か思うことがあって産んだならいいけどさ、うちの親、その類には入らないでしょ?」と、そのままの面持ちで姉は言う。


 姉も同じことを思っていたようだった。それを感じてもなお、正しい道の上を歩いていけるなんて、意思の強さがそこに反映されているに違いない。


 やっぱり出来が違うのだ。子どもの頃さんざん言われた母親の言葉が頭で反芻された。


「なんか、鉋ってそんなところまで考えてるんだね。頭よさそう」

「違う違う。世間の評価する頭の良さは、テストで決まるんです。しょぼい大学に入ったら、みんなそういう目で見られるの。それが嫌だから、みんな一時的な暗記に熱心になるんだって。俺にはいい大学に入るために暗記する才能もないし、友達いないから評価云々とかどうでもいいだけ。普通に俺は頭悪いよ」

「へえー。でも、この間会ったときは、人間の心理について調べてるって言わなかったっけ? 勉強嫌いなのに?」

「そりゃあ、やりたいことはやるよ。自分が知りたいと思ったことだったらとことん突き詰めるし。あれだな。どうでもいいことをさせられるのが嫌なんだな、俺は。役立ちそうもないこととか興味のないことをさせられるの。価値が見い出せないみたいな」


 姉は何度も頷きながら、「勉強になるなー」なんて言って真剣なまなざしだった。


 私から言わせてしまえば、よっぽど姉の方が真面目で頭がよさそうに見える。私は俗にいう自分勝手だ。やりたくないからやらない、なんてことは誰しも望んでいることで、皆それを分かったうえで我慢したり耐え抜いている。その程度が、俺は強いのだ。普通にわがままなのだ。


 それでも私の生き方に姉が耳を傾けるのは、彼女の視野が広いからだろうか。それともただの愚痴を聞く相手なのか。女特有の。


「人間の脳って簡単に言えば奥が深いんだよ。絶対的なものが潜んでいるにもかかわらず、それを騙すことができちゃうから。それも無意識に自分の手によって。無意識だから自分は知らないけど、心理学的には立証されてる。当然例外もあるけど、大体は自分と重ねることができる。姉ちゃんも悩んでるんだったら心理学でも勉強したら? 優等生の雰囲気醸し出してるし」

「私、優等生に見られたことないよー。話しかけられるまでは、大体チャラそうって言われるし」

「じゃあ、話してみて印象が変わる訳だ」

「まあ、よく言われるーかな?」


 彼女は垂れていた横髪を耳に掛け、アイスコーヒーのストローに口をつけた。右手はストロー、左手は髪の毛。こういう上品な様子から育ちの良さが窺えてしまう。服も靴も髪型も適当な私と、目の前の女が姉弟だとは誰も疑わないだろう。一歩間違えば、出会い系、援交にさえ見える気がする。


 雰囲気なんて人間それぞれが創り出した幻想にすぎない。それに「ある種」の印象を携えた服を着てしまえば、鬼に金棒。第三者には、「ある種」の印象が植え付けられる。


「鉋は、死にたいって思ったことはない?」

「大分話が重くなったね」

「ごめん、嫌だった?」

「全然」

「じゃ、じゃあ……どう?」

「……何度か?」

「じゃあ一緒だね!」


 印象を飛び越え、姉弟だった。


 また何を言い出すかと思ったが、蓋を返せばいつもの姉だった。


「姉ちゃんは優しすぎるんだよ。身勝手な男のために生きるとか、俺が女だったらごめんだね」


 彼女は笑っていた。彼氏が身勝手だと認めているのか、「ありがとう」とか、「弟に褒められちゃった」とか、うれしそうに笑うもんだから、言った自分で恥ずかしくなってしまった。


「ねえ、鉋。でもね、身勝手な彼氏だったとしても、私は嫌いになれないし、今でも大好きなの。誰かのために生きるっていうのも一つの生き方だよ? でも、期待に応えられるようにいつも振る舞ってるのって、結構疲れちゃうんだよね。鉋も女の子とデートするときは、ちゃんと彼女のこと考えてあげてよね」


 よくも重いことをそんな笑顔で言うものだ。そんなだから、周りの人間は真面目なのかチャラいのか、辛いのか楽しいのかわからないんだよ。


「具体的にはどうすればいいの?」と私が真面目に聞くと、真面目な姉は「そんなことまで言わせないでよー」と笑った。でもそのあとに小さな声で、

「何も言わずに抱き締め続ける……とか……」

 と呟いた。


 その言葉が私の心の奥底まで満たしてしまい、熱くなったというのは今でも忘れられない。







 毎日が体たらくであったら人はみんな生きようとしないのかもしれない。だから、たまに息抜きするくらいがちょうどいい。日常が荒れれば荒れるほど、息抜きの快感が際立って、大きくなって、そうやってまた嫌なことに向かっていく。もしかしたら、そうしなきゃ世の中が回らないのかもしれない。だとしても、私は、社会の言う体たらくな生活を望むのだけれど。



 もうここ最近は姉と会っていない。メールこそ続いているものの、その返信スピードは遅くなり、それに応じて返信回数も減っていった。内容も以前は愚痴が多かったのだが、最近は楽しかったことや日常について送ってきたりする。昔と変わったなとは思うが、彼女のメールを真に受けて、「すごい楽しそうじゃん!」なんて送ってしまう私はどうかしているのかもしれない。ただ、その返信にさえ姉は、「でっしょー? 私、昔と変わった気がする」なんて返してくる。疑い深い私にとっては、どうも奇妙で、不思議でたまらなかった。あれだけ自分の生き方を批判して、おかしな生き方だとわかっているのに、それがやめられなかった姉。恋愛とはつくづくすごいと思う。「好き」というだけでこんなにも人と人を結びつけてしまうのだから。


 もしかしたら私は意固地なのかもしれない。真意はわからないが、文字列から想像できる彼女の楽しそうに生きている姿が羨ましいのかもしれない。だから姉のことを批判したくなる。でも言葉では言えないし口にも出せない。人間特有の欲とか、感情に支配されてしまっていて、いつの間にか自分の思うがままに生きて来ていたつもりが、自分の中の他人にコントロールされてしまっていたのかもしれないと、そんな思いが強くなっていた。


 本当につくづく思う。正しいものって何だろうって。


 そもそも、正しいか否かを確かめようとするのがおかしいのか。本当はどうでもいいことじゃないか。だが、それを知ろうとしている時点で私は欲に負けている。じゃあ、欲って何だ? 欲が無かったら、どうやって生きて行く? 何も感じずロボットのように定型な毎日を繰り返し、壁に額縁に沿って開けられた穴に埋め込まれ、身動きが取れずにいる。でも、身体は動く。勝手に動く。


 それって人間なのか?

 欲にまみれるからこそ人間なんじゃないのか?

 誰かの上に立とうとするのが人間の心理なんじゃないのか?

 じゃあ私は誰なんだ。


 これは人間としてどうなんだ、不倫はおかしい、なんて言われてやめていたら、お前誰だよと真っ先に思ってしまう。不倫するからあんたなんだろうって。


 でもその選択を決意したときに忘れてはいけないのは、その対価。誰かが不倫したことによって誰かは悲しい思いをする。そういう人たちの思いを踏みにじってでものし上がりたいのなら、どこまででも登っていけばいい。それが本心だから。


 でも、迷う。迷ってしまう。そういう人は、どこかで、「これはいけないことなんだ。誰かが悲しむかもしれない」そう考えている。


 踏みとどまるも、先を行くも、どちらも正解だ。


 真実なんて私にはさっぱりだった。



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