2
土の匂い。古びたヒノキの香り。しみったれた床が右目に触れている。そんな床から目を背けるように首を上げる。見れば、机の天板を沿うように真っ白な脚がソファアの上に乗っかっていた。左膝は緩く立てられている。
顔を見ようとしたが、角度的に机の脚にかぶってしまって見えなかった。仕方なく横たわっていた床から立ち上がる。見下ろして初めて綺麗にすっと伸びた脚の全容が見えた。当然上半身もだ。身体全体が見えて、ここにいるはずのないような人間がなぜかここにいるのかと違和感に駆られたのだった。
悪い癖が出た。勝手な印象を植え付けられた。突如として彼女の腰のあたりから落ちたであろう物。黒い柄の多機能ナイフ。それが目に入っただけで一歩引いてしまえる私は、今までもそうやって思考を偏らせて人間を判断してきたのかもしれない。
ナイフを持ち歩くような雰囲気の子には見えなかったが、見た目では判断できない。影がない人間なんていないだろう。
だから、理由は聞かないと心に決めた。ただそこにいればいい。それがたとえ自分の身に不幸を呼び寄せる可能性があったのだとしても、それはそれで本望のような気がした。このときの私は、独りよりも、二人を望んでいたのだ。
本当は面倒だからっていう訳でもなくはないが、他人の人生を導いたり促すような人間にはなりたくはない。それだけは確かだった。
私は立ち上がってそっと彼女のポケットにそれを差し込んだ。
とりあえず、彼女が起きないと何も始まらない。かといって、起こす気にもなれない。異性を身近に感じたのは姉以来だったが、寝顔がどうも愛らしく見えた。猫のような、思わず抱きしめたくなるような姿だったが、頭でそう思ったからと言ってそれが行動に直結するかと言ったら、しない。長年そうしてくると、脳も覚えてしまうらしい。「ラーメン!」って誰かに言われたら「豚骨!」って思うように何度も訓練していると、本当にそうなってしまう。
動物園ショーや水族館のショーで動物を飼いならすことができるのだから、人間に同じことができても何ら不思議ではない。寧ろ、あたりまえ。スポーツ選手のルーティンがいい例だ。
「あの……」
彼女の瞼は開いていた。横たわっていたソファから、体を起こしている。
「ごめん。起こしちゃったね」
「いや、自分で起きた……かも……」
「そう……。飯はどうする?」
寝起きのせいか、アホ面をしているように見える彼女だった。実際、本当に頭が回っていない様子だった。
「一緒に買いに行く?」
「ここにいる」
はっきりと彼女は答えた。
私は何度か頷いた。しばらくして、彼女を残したまま外へ出た。
扉の外は、小さな区画から世界へ出てしまったような景色だった。空気が旨い。頬を撫でる生暖かい日差しが、木々の隙間から入ってきていた。ちょうどここだけに。
緑に囲まれた世界。陰鬱な気持ちと陰湿な気持ちがどこかでうごめいている気がするが、それを吹き飛ばしてしまうかの如く、圧倒的な森の支配力に驚かされる。
涼しいんだ。風も、水も。名前も知らない彼女でさえもそれと同化して感じる。




