一度目の人生
調子に乗るとすぐに戒めが来る。今回に限ったことではなかった。そして、それは俺に限ってことではない。そう信じていたかったけれど、どう考えても周りの人間は能天気に見えた。調子に乗っているのに、戒められない。ミスを犯してもへらへらしているのに、悪い目に合わない。誰にも咎められない。そういうことですら精神論で片付けられてしまおうものなら、もう何が何だかさっぱりだ。
「申し訳ない」という感情は、いつも俺に「調子づいてんじゃねえ」と気づかせるように絶妙なタイミングで訪れる。ちょっと喜ばせておいて、底辺まで落とす。それがなんとも気味が悪い。
過ぎてしまえばどうでもいいことでも頭から離れないことが多く、明日忘れているはずだ、すぐに忘れる、そう思っていた感情ほど脳の裏にこびりついていたりする。
でも嫌なイメージはないんだ。
時間が経てばその感情は不の意味合いを帯びていなくなる。
でも忘れられない。ふとした瞬間に思い出す。
死にたい死にたいと思いながらも、現実の自分を傷つけられるほど俺は強い人間でも弱い人間でもない。だから頭の中で何度自分の腕を切り刻んだか。何度殴られたか。何度叩かれたか。「俺は死ぬのなんて怖くないんだ、いつでもカッターで腕を切ってやるよ」といちゃもんをつけてきた通りすがりの初老に言葉をかけたか。お前みたいな何を考えて生きているかもわからないような人間にはわからないよなと、生きる前提で事を進めていられる人にもっと視野が広がるんだって教えてあげたかった。
何度も殴られた。蹴られた。もっとやってみろ。もっと切れ。そんな拳をちゃんと頬で受け止めると、それなりにじんじんして痛みがわかる。でも、俺には効かなかった。いやそれは嘘だ。そう思っていたかったんだ。現実で嘘になってしまうのが怖くて、いつも空想の世界で現実を生きていた。そうしていたかった。そうしなくてはいられなかった。現実で理不尽な女に、理想の世界では制裁を与えられる。そうやって、いつも何かを隠して、感情を押し殺して、言いたいことも言わず、言えず、そうやってなーなーな生き方をしていた。
いくら頭の中で何度皮膚を切っても、俺の手には血が滲むことはない。変わらない。でも、現実の世界で実行できない以上、二次元の世界で鬱憤を晴らすしかなくないか。
幸せなんてそこら中に落ちているらしいし、大切な人ほど近しいところにいるって聞いた。
だったら、それを少し分けて欲しい。
どんなにクソ野郎でも、顔が整っている奴はどこまで行ってもその地位を確保している。顔の良し悪しをとやかく言っているのではなくて、そういう雰囲気を出している奴が嫌いだった。彼らには何の罪もない、ただの八つ当たりだが。
本当の自分を見られるのが怖くて。ピアスを付けるのもその程度の理由だったのだろう。人がいないところに行きたくて、真っ暗な遊歩道を歩きたかった。音楽を聴きたかった。耳に掛けた髪を下ろして、前髪も目深にして、風呂に入って綺麗になって、ピアスを付けて、さあお出かけだ。鎧をつけて、もう自分じゃない他の誰かで、いつもいつもそうやって自分を見繕ってた。もう、明日からは惨めに生きよう。隅っこで生きよう。そう決めても、いつの間にか合間合間で微笑がこぼれてたりする。
素の自分が惨めすぎて、自分で見ていられなくなって、コンプレックスの塊だった。でも、それを忘れさせてくれるくらいの大きな存在が現れた。
人間の感情っていうのは面白いもので、同じものをいつ見ても同じことを考えるとは言い難い。同じ対象に対して何度も同じことを思ってしまえば、そりゃあ学習効果でだんだん身についてしまうものだが、普通の人間が対象から毎回同じものしか得られないとしたら、とんでもない愚か者だ。
状況。雰囲気。形。容。型。
そういうものから得られるもの、感じるものは山ほどある。
だから、人を好きになるっていうのはそういうことなんじゃないかと思っていた。
そのときたまたまそこに君がいたから僕はあなたを好きになった。明日見たら笑ってしまうようなキミでも、今日の君がとんでもなく綺麗だったから僕は君と付き合う。
出会いやきっかけがなければ当然恋愛には発展しない。誰かの言葉を借りれば、そこら中に落ちているんだと思うんだ。ただ、そうじゃない。俺は違うんだ。私も違う。そういうのじゃないんだ、って、言うなれば格好つけて生きてきたのが俺の人生だったんだ。付き合いたいなら素直に付き合えばよかったし、楽しいなら楽しいって伝えてあげればよかった。そういう部分が足りなくて、いつの間にか周りにはだーれもいなくなっていた。おまけに自分はより一層醜くなり、毎日仕事に明け暮れる。同僚と飲みに行ったり、休日に学生時代の同級生と遊びに行くことはない。本当に何もない。残っていなかった。そんな人間が社会に適合することはほぼ皆無。何の楽しみもないのに体に苦痛な労働をさせられ続けたら、誰だって辞めたくなること極まりないだろう。寸暇や休日に息抜きをするから続けられる。
彼女は何を思ったのだろう。当然、最初に会った当初と今とでは感情が変化した。何かを伝えたかったのか。それとも自分の心にしまい込んで、自分だけで欲を満たそうとしたのか。
この先に希望がないのを知って絶望すらできなくなる。だからといってどうでもよくなったと思ったら、それはやっぱり違くて。
理不尽で、
不条理で、
それでもやっぱり生きるのをやめられない自分が、日々の短い自分の掌を眺めるたびに感じられる。ささくれをちぎって、その程度の痛みを感じて、丸い血が膨らんできて、「俺に手首を切ることなんて無理なんだな」と悟る。
固い決意なんてない。特に趣味もない。やりたいこともそんなにない。休日は砂のようにさらっさら流れて行くだけ。
でも――――。
自分で自分の価値を測るのも悪くないのかな。自分に委ねるのも。見誤らなければいいな。
誰かに呼ばれた気がして振り返ると、荘厳な風がずっしり且つ何も帯びていないような軽さで俺を舐めていく。
進んできた道はいつもそうだ。振り返らないと教えてくれない。
暗い砂利の上をまた歩き出す。ふと右側の淵に立つ。俯くと、十メートルは高さがあった。濃い緑の雑草が横に広がっていて、隙間から茶色い土が顔を出す。怖くないと言ったら嘘になる。しゃがんでみたら、端に電化製品が捨てられていた。黒いタイヤの山と、懐かしいブラウン管や電子レンジ、蓋の外れた冷蔵庫と洗濯機。それらを見て、また歩き出そうと立ち上がった。
進んでも進んでも景色は同じ。右側は崖で、二十メートルはゆうに超える高さの樹が止まら連なっている。左側は視界を遮るような山。表面が削られていて明るい土の色が見える。露出した樹々の根がその大きさを想像させる。
どこかでは絶対に止まる。景色も変わる。進んでいる以上変化する。そんなことを思いながら、止めようと思えば止められる足を前に出す。
始まりがあるのだから、終わりだってある。結構、いや大分不確定なのだが、絶対的な安心感と根拠のない普遍性を帯びている。これが人間の性ってやつですかね。そういうのに自分の知らないところでそそのかされて、止まれずにいるのだから「人間だからしょうがない」と言ってしまっても仕方がないことなのかもしれない。
「人間だからミスを犯す」。そんなことをたびたび耳にする。ずるいなあ、人のせいにはするなっていう癖に、人間のせいにはしていいのか。小さい頃に漠然と思っていたことは、社会では通用しなかった。
繰り返される曲道。もう何度も見たような光景。でも全部違う曲がり角。それに見慣れていたせいか、突然右側の視界が開けると、すでに安心していたはずなのに安堵の溜息は出る。
息が荒かった訳ではないのに、ぜえぜえと音を立てる。動悸が走る。
「あった……」
古びた小さな小屋。ただのボロ屋。
小学生の頃、史跡見学という名の下でこの山に登らされた。離れ屋のような小ささなのに昔はお城だったそうだ。
見学した当時見たものと同じ。そのときのまま。目の前に実在していた。
不穏な雰囲気を纏っているようだったが、自分の思い過ごしだろうと思ってそれに近づく。ところどころ破れた障子が、さらに俺を近寄せまいとしていたのだが構うことはなかった。
竪桟に手を掛けると煤の感触がする。気にせず右に引いた。滑りが悪くガタガタと左右に繰り返し傾きながらも、なんとか扉は開いた。
ぞっとするほど、びびっていた。まるで、俺の家のリビングみたいだったから。
でも特に何もないここ。八畳くらいの小さな空間。奥にお内裏様とお雛様のような人形が置かれていた。
前に来たことがある。
ずっと前。
すすけたお内裏様とお雛様。それがべっぴんさんだった頃。今みたいに暗くなくて、明かりが少し差していた。
現実味はあるんだけれど、夢かもしれない。そう思わせるくらい印象は薄いんだけれど断片的だった。
今日、なぜここに来たかと言うのも、たまたま思いついたからというのが本音。洋服がタンスの引き出しに挟まってしまって、それを直すのと同じくらい自然な行動だった。気になったから来た。「やっぱそんなもんだよな」と妙な期待に裏切られて帰るはずだったのに、また気になることができてしまった。若しくは、この不穏な雰囲気に呼び寄せられたのかもしれない。
律儀に靴を脱ぐ。引き戸を、またガタガタと音をたてながら閉めた。
部屋の真ん中に腰を下ろしてみる。座禅のようで、胡坐をかくのは躊躇った。右足だけたてて、左手を後ろに置いた。
明るいとは到底言えないような、黒く汚れた木目が天井に広がっていた。渦の木目を眺めながら、「おひさまみたいだね」って言ってた。
確か、誰かと一緒に来たんだ。一度。いや、一度じゃない。何度か来ている……ような。隣に居たのは誰だっけ。女の子だった? 小さい俺と同じくらいの小学生の女の子。隣に居て、一緒に何かお願いしている。……何を?
それ以上思い出そうとしても出てきそうで出てこない。頭が痛くなって身の毛がよだつ。何かが引っかかる。しっくりこない。落ち着かない。
史跡見学のときの記憶はちゃんと残っている。人数は大人も合わせて十人くらいで、名前は忘れたけど、仲の良かった一つ年下の男の子と一緒にその空間を見ていた。「障子、指でつつきたいね」「怒られるよ。おじさんにここは神聖な場だからって説明されたし」なんて話した記憶もうっすら。その子の顔ははっきりと覚えている。ただ、その先が……。
「あ」
手を突いた左手がフッと離れ、座禅をするような、背筋が伸びた状態になる。
そうだ。思い出した。確か雨だったんだ。来るときは降ってなかったから傘を持っていなくて、止むまでここにいたんだ。
雨の音。わかる。自然と瞼は下りる。薄暗くて、トタンがバタバタと音を鳴らす。その音の大きさが雨粒を形どって寒さを感じさせる。寒くないかって聞こうか聞かまいか悩んだ。そうそう。
そうだ、そうだ。それで止んだからって一緒に外に出た。帰り道に一緒に歩いた気がする。そう。それで女の子が水溜まりにアメンボがいるって一緒に――。
開いた口が塞がらない。身の毛が逆立つように鳥肌が立った。まるでアントニン・ドヴォルザークの交響曲第9番ホ短調op.95『新世界より』の第四章を聞いたときの様な。寒い。雨なんか降ってやしないのに。
違和感は目線の高さだった。水溜まりを見てはっきりする――。
情けない男の顔がそこには映っていた。




