誰かの記憶
べりべりとマジックテープをはがし、靴の中に足を入れる。適当に張りなおして、タイルを叩いて玄関を出る。
物置の中からサッカーボールを取り出す。使い込んでいて、青い装飾が取れている。ほぼ白くなってしまったボールだった。それを蹴りながら、アスファルトに出た。
石畳の橋を渡ると、真っ黒に廃れた大きな木の鳥居が出迎えた。石段を上ると、ほどよく雑草の生えた広い空間が現れる。小さな鳥居はまっすぐに何基も続いていて、その奥には階段がある。
階段の上には行こうとはせず、緑色が鮮やかに感じられる雑草の上でサッカーボールを蹴り続けた。奥まで行き、階段の隣には石がいくつも縦に重なって壁を作っている。それがもう一段あって、その上に神様がまつられている建物があった。
ただひたすらに、サッカーボールを石の壁に向かって蹴り続けた。平らな石ではないので、当たった後はどこに弾かれるかわからない。予想だにしない方向へ転がるサッカーボールを必死に追いかけた。
当たり所が悪かったのか、ボールは大きく右に逸れた。それは小さな鳥居を越えて、奥へと転がっていく。何かに当たって、止まる。近寄ると、それは大きな樹の幹で、見上げると太く伸びていた。
どれくらい太いのかと、幹の周りを回った――。
泣いているのに、笑っているようにも見える。
「ひとり?」
そう聞くと少女は小さく頷く。
ボールを左手に、その手首を引っ張った。
握った袖の湿り気は、疑いようもないものだった。
日が暮れるまで、二人でボールをただ蹴り続けた――。
「家どこ?」
「むこうのほう」
肩まで伸びた髪をなびかせながら、笑顔で指さす。まん丸い目が見つめていた。
長い急な坂を下りると、団地にたどり着いた。
「ここ。ついてきて」
言われるままについていった。
そこは三つ並ぶ団地の真ん中だった。初めて入る団地の廊下。ひんやりと冷たい空気と雰囲気の暗さに好奇心が湧きだす。その勢いと先を急ぐ心で、二人とも階段を走って登った。
女の子は、ポケットから鍵を取り出して差し込んだようだ。取っ手を引くが開かない。もう一度差して引けば、今度は開いた。
中に入る。女の子は靴を脱いで、進んだ。それに続こうとした。だが……。
女の子の左から手が伸びたのだ。
弾く音。数秒あってそれは泣き声に変わる。
鬼がいた。一瞬でおぞましさを感じ取る。
何かにとりつかれたように焦って、マジックテープを止めないで、踵を踏んで、手を突く音を響かせ、扉を押した。気づいたら無我夢中で階段を駆け下りていた。靴が脱げた。知らない。
帰り道。下った坂を上る途中、腕の中にサッカーボールはなかった。
中一の二学期。転校生が来たらしい。このクラスじゃない、他のクラス。野郎どもが騒いでいた。どうも、その転校生は女らしい。東京から来たとか何とかで、クラスメイトが蛇口からの水でのどを潤していると、「ミネラルウォーター買わないの?」と言ったらしい。
廊下で肩が当たった。謝った。相手も自分も。隣を歩いていた友人曰く、そいつが例の女らしい。
中二になった。クラス替えがあった。前の日から遅刻していこうと決めていたから、案の定、昇降口はしんみりしていた。
二階まで筒抜けになっているせいか、コンクリートの冷たさを肌で感じることができる。何百回と通った空間だが、たまに感じさせられるこの冷淡さが綻びを促す。綻びと言うと明るいイメージだが、冷たいことには変わりはない。
下駄箱を出てすぐ目の前に、コンクリートでできた一メートル四方の柱が四つある。右から一組、二組、三組、四組のクラス分けの張り紙。左から探していったら、一番時間がかかってしまった。
教室には誰もいない。始業式のせいか、机の上に指定鞄は少ない。
廊下に声が響いた――。視界がだんだん埋まっていった。
どうやら席替えをするらしい。
「目が見えない人は前にどうぞ」
教師の声がした。
斜め前の席の男が、「自分から好んで前に行くやつとかいないよな」「お前行けよ」と、隣の席の男をつついていた。
一番前に座った。
「前に来るのは宝生君と〇〇さんだけね」
教師はそう言った。
右手に肘をついて、窓を眺めていた。汚れがよくわかる。薄いけど、自分の姿も反射している。
窓に映った隣の女は、微笑んでいる様に見えた。