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パスバイクローンズ  作者: 面映唯
第五章
17/31

深読みさせる姉


「いらっしゃいませー。おひとり様ですか?」

「あ、いえ、待ち合わせを……」


 そう言いながら、フロアを見渡すと、こちらに手を振っているのが見えた。


「あ、じゃあ」と言って、店員さんと別れる。


 デミグラスの香りを漂わせるテーブルの間を歩き抜け、にぎやかな店内の雰囲気を半減させた一番奥の左の角にあるテーブル。そこに私の姉はいた。


「久しぶりー」

「なんか、姉ちゃん雰囲気変わったね」

「そう? 髪は切ってないけどね」

「いや、服服。めっちゃ清楚じゃん。こっちの方が似合ってるよ。前のが駄目って訳じゃないけどさ」


 テーブルの下にはベージュの大きく膨らんだ裾から伸びた脚が、二本そろっていた。とても以前真っ黒なスキニーを履いていた人には見えない。トップスもグレーのタートルネック。適度に膨らむ胸とウエストの細さが際立っていて、私の知っている姉からは想像できないような光景だった。


「そう? ありがとう。たまにはこういうのもいいかなって、鉋と会うから着てきたんだよ?」

「ああ、俺となら服なんてなんでもいいからね。試すにはちょうどいいね」

「ちゃんとわかってるじゃん。でもちゃんと選んできたんだよ?」


 ちゃんと念を押すのを忘れないところが姉らしかった。


「まあ早く座りなよ」


 姉に急かされて、私は向かい側に座る。


 こちらの様子を窺っていたのか、ちょうど店員が現れる。その若い女の店員は、水の入ったグラスを二つ、お手拭きを二つ置いて「ご注文はお決まりでしょうか?」と尋ねてくる。


「カフェラテのホットひとつと……」


 姉が私を見る。つられて店員も。


「同じのを」と私は店員に伝えた。


「ご注文は、カフェラテのホットお二つでよろしいですか?」


 店員は去って行った。


「鉋ってお昼ご飯食べたの?」

「いや、食べてないけど、コーヒー飲んだらお腹いっぱいになっちゃうかなって」


 姉は頷きながら納得していたようだが、コーヒーだけで腹がいっぱいにはならない。少なくとも私は。だから今のは全くの嘘で、本当は昼飯代を払えないくらいにぎりぎりの生活を強いられているからだ。


 座っているのが角の席ということで、私の左側も姉の後ろ側も窓ガラスになっている。このレストランは幹線道路沿いにあるせいか、高床式になっていて、車の行き交う景色を存分に見下ろすことができる。その音も多少は聞こえてくる。


 見下ろさなければ、余計なものは見えない。都会にしては珍しく周りに高層ビルがない。窓はガラス張りだし、余計な窓の淵もファミレスにしては少ない。


 だがらちょっと引いて姉を眺めると、どこかの有名な絵画になりそうだった。それを眺めている私でさえその絵画に仲間入りしてもいいくらいで、そつがない景色だった。勝手に自分の好きな景色に変えて想像してしまうほど。



 姉は絵になるような人物だ。


 どこかで、『本当に魅力のある人間は、そこに立っているだけで他人に深読みさせる人のことだ』と聞いたことがある。


 態度、表情、まなざし、外観。そういった類のものだけで引き寄せられてしまうというのは信じがたい倫理である。


 思い当たる節は何度かあった。


「お待たせいたしましたー。カフェラテのホットでございますー」


 慣れたように声を掛けられる。


 私も姉も、軽くお辞儀をして受け取った。


 白いカップの中に入った茶色い液体を覗き込むと、ミルクの香りがした。きつくない、まろやかな香り。そのまどろみに引き込まれるように私は一口啜った。案の定熱くて飲めたものではなかったのだが、一気に覚めた。コーヒーは飲むものじゃない。香りを楽しむものだ。味は二の次。空きっ腹にそう言い聞かせた。


「姉ちゃんって働いてるんだっけ?」

「いや……」と姉は答えを濁した。


 コップを両手で持つ姉には、少々奥深しい質問だったかもしれない。今こちらを向いたが、その顔が座っていないのだ。


「あ、ごめん。俺ほとんど姉ちゃんの事情とか知らないからさ。結婚式も行かなかったし。あの、ほら。いつもなら愚痴溢してくれるから話題に困らないんだけど、珍しくおとなしいからさ……」


 そう言いつつも、言わなければよかったとは思わない。だって聞きたいもの。その後ろ楯みたいな壁を崩してでも曖昧にしたいとは思わない。


 それが姉だからなのか、姉という肩書の友人だからなのかは、今の時点では答えを出したくない。そんなことを考えると、不思議と聞いてみたいことが浮かんでくるのだ。


 二つぐらい問い質したいことがあった。遠回しにでも。時間は長い。じっくり。


「結婚式かあ。懐かしいな」


 姉はそんなことを言った。


 姉は結婚して二、三年は経つ。私がまだ大学生活真っ只中の頃に結婚した。当然私が知ったのは結婚式という既成事実を作った後のことである。実家に帰った私がふと見つけた写真。額縁に入れられ、リビングの壁にかけられていたのを見つけたときは思わず見入ってしまった。そのときぐらいは、母親に問わずにはいられなかった。


 とても印象深い写真とは言えなかった。時代に即した真っ黒な凛々しいスーツを着た男が何人も、ウェディングドレス姿の姉と結婚相手らしき白いタキシードを着た男を囲っていた。


 ごく普通の光景だ。違和感などないはずなのだ。だが、私は母親に問うたのだ。


「姉ちゃんの結婚相手ってどいつ?」


 不躾な質問だったと思う。誰がどう見たって姉の隣に居るのが結婚相手だ。それは私にも言えることであるのに、私は受け入れられなかったのだ。ごく普通の、白いタキシード姿という服装を除けば、取り立てて際立つ面も見せない男が姉の結婚相手だということに。


 姉は私に問いかけてきた。


「ねえ、鉋のさ、印象に残る出来事って良いのと悪いのどっち?」

「俺は、そんなこともあったなーぐらいだからどっちかって言われるとなー。強いて言えば、良い方かな」

「私はさ、悪い方なんだ」


 テーブルに置かれたカフェラテの渦を覗くような。そんな感じでコップに触れながら姉は言った。


「いい出来事のことって大抵忘れちゃう。なのに、嫌な出来事はいっつも思い出す。私っておかしいのかもね」

「おかしくはないんじゃない? みんなそんなもんでしょ」


 そう言った私の左の耳からは、車の走る雑音が。右の耳からは楽しそうな家族の会話が。そして見えるのは姉と白いコップ。


 姉は柔らかく首を傾げた。


 姉を前にして私は彼女に引き込まれた。引き込まれていく。家族だからか、血が繋がっているからなのか。血が繋がっていても他の家庭に比べれば関わりが少なかった姉。姉だけじゃない。母親も。父親なんて話した記憶がない。覚えているのは白髪交じりの角刈りと眼鏡だけ。


 血が繋がっているってそんなに大事なことなのだろうか。

 埋もれた才に蓋をしているのは誰なのだ。

 気づいた人間ほど弱く見える。

 気づかない人間は気づいた人間より劣っているはずだが正常に見える。


 一つひとつのふるまいの中にも隠れているものがたくさんある。姉に引き込まれているのは、私が周りから隔絶しているからか? 孤立して見えるからか?


 どこかの言葉の真意までは、まだ届かなかった。


「まあやっぱり人それぞれだし、あんまりこういうこと言いたくないんだけど、それが人間じゃん? 俺は人間嫌いだよ。欲の皮が突っ張ってて、ロボットみたいに動かないから。まあ、機械は人間みたいに言うことを聞かないから嫌いって言ってた人もいるけど」

「じゃあ鉋は私のことも……嫌い?」


 どうなのか。私は逡巡する。嫌いなのだろうか? 家族だから嫌いにならないのだろうか? それを乖離して考えても……わからないな。いや、で私にも嫌いな人はあまりいない。それは興味がないだけなのか。関りが薄いだけなのか。とりあえず……。


「嫌い……ではないかな」

「なんかひどくない?」

「いやいや。これが俺です。嫌なことは嫌ってちゃんといえるタイプだし、第一、嫌いだったら今日だって誘われても断って逃げるし。俺は姉ちゃんみたいに嫌なことから逃げないような強い人間じゃないからさ」

「ふーん。私って強いのかあ」


 姉は頷いていた。


「弱いから、いろんなことを卑屈したくなるんだよね、多分」


 姉は頷いていた。


 お世辞で言っている訳ではなく、本当に心から強いと思っている。姉には私にはない我慢強さがある。あれもだめこれもだめ、これは危険だから、あれは人権を害するからって何でもかんでも違反が増えていってしまったら、結局縮こまりながら生きていくしかない。それは私にも当てはまることで、幼少期の将来の夢がいまだに残っているとしたら、私は今でもサッカー選手でも目指していることだろう。


 ルールが必要なのは重々承知しているが、だけど、一部の人のためのルールだったり過半数の人のためのルールなのだから、当然どれもが全国民に当てはまる訳なんてありえない。


 大嫌いな欲に抗えないのだ。


 働かなくていいなら誰も働かないし、社会がこんなじゃなかったら貢献なんてしないし、生まれてこなかったら生きていない。いろんなものを吸収して、知るから、それが核となって、それにいろんな花が刺さって人間という華が、花の集合体となって飾られていく。


 知識は宝石だ。財産だ。

 でもそれが私には飾りにしか見えない。


 本当の私は誰なのだ。装飾を外してしまえば、私は誰なんだ。影響を受けた本も、学者も、音楽も、学問も、すべて取ってしまったら私は誰になる?


 そう考えたときにいつも思い浮かぶのが姉であった。彼女はいつも誰かのために生きていたのだ。


「俺にハンカチくれたの覚えてる?」


 俺がそう聞くと姉は、「覚えてる覚えてる! そんな昔のこと覚えててくれたんだ」と驚いていた。


「正直さ、もらった当時は何とも思わなかったんだよ。うれしいとも嫌とも。でも、今になってじわじわありがたみを感じて来ててさ。今更感がすごい」

「でも、気づいてくれたんだね」


 姉はおもむろに鞄の中を探りだした。そしてスマートフォンを取り出す。


「ほら、これ」


 待ちきれないかのように、指でフリックしながらこちらに見せようとする。見えた画面は、誰かとのメールのやり取りであった。


「これ、俺?」

「そう」


 見せたかっただけなのか、すぐに胸の前に戻っていった。画面を下にスクロールしながら、姉は言う。


「コミュニケーションって難しくない? 相手の気持ちを汲み取って会話すればいいのか、自分の思ったことをそのまま伝えるのか。いつも悩んじゃう」

「汲み取って会話とか、上辺にしか聞こえないな」


 私がそう言うと、「チッチッチ」と舌を鳴らしながら、右の人差し指を振ってきた。


「ところがどっこい、汲み取って会話することにも長所があるんですねえー」

「どこに?」


 答えを決めていたかと思わせたが、姉は口を噤んだ。


 口を尖らせて上を向いたり、下を向いたり。そして口を開けば、


「文字の量とか?」


 なんて頭を掻きながら言うのだ。


「とかって、曖昧だね」

「だって、私にしか当てはまらないもん。鉋もさっき言ってたけど、ルールがどんな人にも当てはまる訳ではないじゃん?」

「まあ確かに」

「伝わらないってやっぱりもどかしいじゃん。やっぱりそんなもんかって思っちゃう。でも、鉋ってそういうの感じさせないから……」


 姉はボブの髪を忙しなさそうに耳に掛けた。同様に、カップを手に取って口をつける。


「会って話すのもいいんだけど、メールって表情とか何も感じさせてくれないから、汲み取りようがなくって楽なんだよね」

「それ話まとまってる?」


 そう言ったら、姉は気がついたかのように口を手で覆った。


「ごめん。なんかいろいろしゃべりすぎちゃったかも。何言ってるかよくわからないよね。私馬鹿だなあ」


 姉は、私にも聞こえる音量で溜息をついた。イメージがないせいか、あざとさは感じない。寧ろこれが彼女の本音なのだろう。


『本当に魅力のある人間は、そこに立っているだけで他人に深読みさせる人のことだ』


 そういう人間ほど埋もれているのかもしれない。輝かしい才を持ち得ていながら、それに自分では気がつけず、「周りと違って自分はおかしいのかな」と頭をぐるぐるぐるぐると悩ませる。誰かが気づいてあげなければ、頭を永遠と必要以上に回転させ続ける。


 それこそが才能だと私は思う。


 我慢は才能だ。スキルなんかじゃない。取って付けたものなんて、いつか剥がれる。それを剥がれないようにするのが、技術。


 味気ない環境の中でも、一つのことを疎かにしてしまったらそこまでの人間だったということになるらしい。一度溺れてしまった人間が助かるには、自力で這い上がるか誰かに救助を求めるしかない。


 もし沈みかかって諦めようとしたときに、手を差し伸べてくれる人がいたとしたら、その手を握ってしまうだろうか。


 私は倦厭する。


「姉ちゃんって、好きな人いるの?」


 いぶかしげな表情だが、姉は心を読ませない。


「いるよ」


 凛々しい顔つきに飲み込まれてしまった。ああ、騙されるってこんな感じなのかなと。


 気づいて欲しいにもかかわらず、身体は対極の行動を成す。無意識にやっているのならまだしも、意図的にやっているとしたら役者並みの完成度だ。恐れ入ってしまう。


「誰かは聞かないでおくね」


 時には曖昧さだって重要。一時どころか、世の中曖昧なことだらけだが、今はそういうことにしておく。


 寧ろ曖昧さを残した方が生きやすいのが事実だった。



 一挙手一投足が気になる。落ち着かない。腑に落ちない。そういうものの正体はどこかでつながっている。心に響いた音楽たちも、共通するものがある。


 姉のオーラの答えにはまだたどり着けない。でも、曖昧だからこそ立ち向かっていける。白黒はっきりしていたら前にしか進めない。うねりながら、時には斜めに進む方がやりやすかったりするときもあるのだ。


「そろそろ出る?」

「うん」


 私はほとんど口をつけていなかったカフェラテを一気に飲みほした。ぬるいからちゃんと飲み干せたのだが、熱かったらとてもできない。


 ファミレスに来て、ワンドリンクはこの店では珍しいみたいだった。皆、ドリンクバーを頼んでしまうようだ。そのせいではないと思うが、会計で店員が戸惑っていた。新入りのアルバイトだろうか。そう思っていたら、男の店員が出てきて何やら話しかけている。


 この程度なら私にも払えるので、千円札を一枚出し、丁寧にお釣りをもらって無事に会計は終わった。


「俺にもバイト初日があったんだよなあ。懐かしい」

「最初はミスしちゃったりね」


 そう言ったので、姉がバイトしている姿を想像する。いかがわしい想像しかできない。私は本当におかしい。


「駅行く?」

「あ、私はちょっと用事があるから」

「姉ちゃんの好きな人だったら、ここで『送ってくよ』とか言うんだろうね」

「言わないの?」

「言えないよ。彼氏でもないのに」

「兄弟じゃん」

「それはどういう意味?」

「まあ、彼氏も兄弟も、同じくらい大切……みたいな?」

「ああー。まあ、姉ちゃんと血が繋がってなかったら、隣に居たいとは思うかも」

「それはちょっと冗談でも気持ち悪いかな」


 本気で引いていたらあれだけど、笑いながら言ってくれたのが救いだった。その笑顔の像を残したまま、彼女はタクシーの中へと消えていった。


 その去り際の横顔こそが本当のあなたなんだろう。




――私みたいに、誰かたちに作られた人間になっちゃダメだよ? もし私みたいな人がいたら、気づいてあげてね。内心に――




 そんなことを言われた気がした。



 そんなのできない。あなたのことも知らないのにできるわけがない。過去の自分も隠してることもそのままでいい。だから、正面から向き合ってくれ。


 想いを雑踏の中に埋もれさせる。

 想いを高層ビルの間に投げつける。


 また一人になった。こんなにも世界は人と物で溢れているのに。




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