兄弟は似ている
憂い。
私は初めて仕事をさぼった。高校時代から無遅刻無欠勤だった私が、ついに欠勤の枠に印を付けた。
それが一日だけならいいのだけれど、無断欠勤も今日で三日になる。元々訳ありの会社なので、欠勤自体は問題ない。個人主義、出来高報酬なので、会社の利益にさほど影響は出ないし、長い間、大体一週間ぐらいだろうか。それだけ連続で休まなければ、ほぼ解雇にはならない。
だからといって、休み続ける人はいない。家で仕事して、出来上がったものを会社の持ってくる人はいるけれど。
罪悪感は、少なからずあった。ただ、彼女の打ち明けてくれたことがどうも喉の奥につっかえてしまったようで、身動きが取れなくなっていた。まさに苛まれていた。
家の中にいても落ち着かないし、だいたい彼女のことを考えている。川に一緒に入りに行っても直視できなくなった。彼女は笑顔だった。なのに私は楽しそうじゃなく、不満そうな顔をしているからって、何回か頭を小突かれた。
だから私は、気分転換を兼ねて東京のアパートに戻った。だったら会社行け! と思うかもしれないが、気分転換だけのためだけにわざわざ東京まで戻ってくる訳がない。
久しぶりに聞いたインターホンの音の大きさに驚きながら、玄関に行った。
「あ、どうぞ」
「お邪魔しまーす」
乃杏がこの家に来る時間は、午後の一時というふうに約束しておいた。私は仕事が終わった後の夜でもよかったのだが、「私も休むんで」と言ってこの時間になった。
あらかじめ早く来て、部屋の掃除をして、買い物に行き、パスタを茹でて昼飯を済ませた。
「あれ、お昼食べちゃいました?」
「ああ、ごめん。約束が一時だったから食べてくるのかと思って」
乃杏は、ざるに上げられた残りのパスタを覗いていた。
「あ、食べたい?」
「あ、いいですか?」
皿を一枚出し、菜箸で乗せる。
私はコンソメをふりかけただけだったが、さすがに来客にそれを差し出すわけにもいかない。インスタントのコーヒーやスープがまとめられた箱に、ツナマヨのソースがあったはず。
箱の底の方から取り出し、いつ買ったかも忘れたようなソースを来客用にかけた。
「で、何?」
「で、何? じゃないですよ。全然会社来ないから心配するじゃないですか」
「まあいろいろあってなあ。乃杏はちゃんと行ってるんでしょ?」
「名前で呼ばれるとやっぱうれしいですねえ」
「もうそれはいいから!」
「ごめんなさいごめんなさい。はい、ちゃんと行ってますよ。誰とも話さない陰湿な空間でしっかりと作業こなしてます」
勝手な偏見だけれど、彼女は仕事ができそうな雰囲気を醸し出していた。なのに、いろいろと愚痴を垂らす。この会社なんて、ほとんどが好んで入って来る人だというのに、そこまで嫌がるのに彼女はなぜここに入ったのか。
「嫌ならやめればいいんじゃない? そこまでする必要もないと思うし」
「先輩までそんなこと言うんですか」
空気が淀んだ気がした。地雷を踏んだときのやつだ。
「あ、ごめん。いろいろ事情があるよね。俺みたいなクズの言うことは全然気にしなくていいから」
「先輩はクズじゃないと思います」
「いやいや、これがさあ。大学までは絶対に働きたくないって思っててさ。親からも見放されるくらい自分勝手で、どうしようもないクズなんだわ」
自分を卑下したというよりは、思ってることを言った。今振り返ってもどうしようもない人間だと思う。当時は気づかなかったのも確かだが、何かが過ぎ去ってから気づくっていうのはよくあることだろう? 私は親にも、姉にも迷惑をかけた。
ああ姉ちゃんか。今なにしてるんだろう。そう思っていたら、乃杏が呟いた。
「私、ここの会社しか就職できなかったんです」
「そ、」
そ? そってなんだ。「そうかー」って相槌を打つのか? それとも、「それは自業自得だ」なんて現実を見せるのか?
迷った末に……。
「それは、逆に、乃杏の良さを他の人たちがわかってないだけだよ」
ああ、やってしまった。
「この間、ちょっとだけ乃杏のデスク覗いちゃったんだけど、俺と比べたら月とスッポンかってくらい仕事できてたし」
もう。止まらない。
「愚痴溢すくらい嫌なのにちゃんと仕事してるし、今だって俺のこと心配して家にまで来てくれてるし」
勝手な作り話を端から並べて、慰めて、現実を見ようとしないで、先伸ばしにして。事実を曖昧にしながら馴れ合いながら関係を作っていく。まあデスクの話は事実なのだが。
「この人だけは」って思う人にさえ、本当の自分を伝えられないのだから、人間関係っていうのは、必ずしも自分の本性を明かさなければならないって訳でもないのかもしれない。というか、そんなだったら結婚なんてみんなしないと思うし。
「これが好き」っていう想いよりも、「これなら許せる」って想いの方が断然、質が高い気がする。
乃杏は、恥ずかしげもなく私の目を見て言った。
「そういうこと言ってくれるの、先輩だけですよ」
「いや、そんな……」
私がそこで黙ったのは正解だった。乃杏の言葉を自意識過剰に受け取ったにすぎなかったからだ。
「他の友達、話してさえくれないですもん」
パスタを口に運んでいた。啜るのではなく、箸で掴んでは口に運んで。その顔は、笑ったようにも無表情にも見える独特な光景だった。
どこかにもこんな奴がいた気がする。
「いきなり警察が来て、妹が事件に絡んでるとか何とかで、居場所知ってるんじゃないかって毎日アパートの前に人がいっぱいいて。近所の人からは迷惑な目で見られるし、そのせいで付き合ってた彼氏とも別れて、友達も相談に乗ってくれなくて、みんな自分から離れてって……」
「妹さんいたんだ……」
唇を合わせながら頷いた。
「本当は、付けが回って来たんだと思います。毎日のように祖母に叩かれていた妹を、私は助けてあげなかった。悪いのは私じゃなくて、祖母や父親だってずっと思っちゃってたんです」
突然の告白と、今度は疑いようのない涙。これらを感じて思い出されるのは古き記憶。そこに出てくる女の子と彼女の泣く姿が、多少の違いはあれども重なって見えた。
あの日の私は何を思ったのか。人生を変えてしまったかのような出会い。光景。記憶。それらを植え付けられてしまった人間は、どうやって忘れようとする? 一度忘れたって、また何かの拍子に思い出す。世界中の誰もが知らなかったとしても、自分だけは思い出せる。そういう閉じ込めておいた記憶に怯えながら毎日を過ごし、楽しんで、ああこんなことをしていては駄目だと我に返り、地の底の砂の上を歩き続けているかのような日々が永遠と繰り返される。
その泣き顔。パスタ。崩れた髪の毛。それをかき消そうとする外からの電車の音でさえ、これから私の忘れられない記憶のひとつになってしまうのだろうか。
忘れられないのだろうか。苦しめないだろうか。締め上げないだろうか。
ああ、写真だったらいくらでも消せるのに。どこかのバンドたちが集うフェスに行って、スマホで動画を撮ればいい。きっと動画を削除すればなくなってしまうフェスの記憶。
小さな蟠りが、大きくなろうとも小さくなろうともせず、ひたすらに先へ先へと手を伸ばしている。
いくら考えようと、後の祭りだった。