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パスバイクローンズ  作者: 面映唯
第五章
13/31

居酒屋

二日で百年過ぎていったかのように、景色は変わった。それだけ田舎に浸っていた。谷川もなく、樹もない。道路こそ広いものの、人々の雑踏や、効果音は鳴りやまない。


 電車に乗り込めば、人に押し込まれ、男も女も関係なく体が触れ合う。こう考えると、痴漢をしたくなる気持ちもわからなくはない。痴漢は男がするものだ、という体裁には違和感があるが、それもしょうがない性なのかもしれない。人権や差別がものを言う世の中になってしまったのだから、それが先人たちの唯一の過ちとして浮き彫りになってしまう。今が昔みたいに男が上の立場に居られる社会だったら、それは過ちにならないのだが、それはそれで女性からしてみれば困る話だ。女性が差別を感じていなかった時代だったのかは、知る由もなかった。


 もうこの際だから、女が上に立つ社会になればいい。頭の片隅で期待している。


揺れる電車。吊革につかまれない人が多いせいか、電車が緩やかに左に曲がるだけで、左の窓付近にいた人物は押しつぶされる。今日は、その役が若いOLだった。窓を向いて立っていたため、蛙みたいに押しつぶされていた。


中年の男性が多くいる、この車両。当然匂いも想像できるだろう。若者の付けた香水の匂いなど、彼らに敵うはずがない。そんなことを考えながら、手は彼女に届く距離にいるのに、遠くから眺めているだけだった。手が届いたところで、すし詰めサウナ状態なのだから、できることなんてなかった。


降りるはずではない主要駅に吐き出され、人の波が終わったところで車両に戻る。まだ人は多いのだが、さっきまですし詰め状態だったせいかとても快適に感じられた。


「ふうー」


 意識していないのに溜息は出た。息がつまる思いだったのだから、吐き出せるものなら吐き出しておきたい。


 自分の溜息を聞いた直後に隣で同じような溜息を聞いたせいで、反射的に目がそれを追ってしまった。すぐに逸らしたつもりだったが、視線を感じるので彼女の方を見ると、案の定こちらを向いていた。


 その長い睫毛と丸い目に見とれながら、なんとなく微笑んで視線は途切れさせた。



 改札を出て、近くのコンビニで買ったサンドイッチで軽く朝食を済ませた。


 車が行き交う大通りとは裏腹に、私が曲がったのは細い路地。高いビルが太陽の光を押え、人も疎ら。そんな路地の一角の階段を上っていく。


「おはようございます」


 ビルの一室に入り、私は挨拶をした。この言葉に反応してくれる人が何人かいる。声には出さなくてもこちらを向いて手を上げてくれたり、視線はデスクトップでも首を曲げてくれたりと、それなりに反応はある。


 この挨拶を終えれば、ほぼ私の一日の発声は終わったようなもの。


 この会社は基本的に個人で作業を行う。一週間に一度会議が行われ、そこで自分のやるべきこと、考えることが伝えられる。それ以降の一週間で作業を終わらせるという仕組みだ。たとえ早く終わったとしても、クオリティをあげることがこの会社のルール。


 有休をとっていたせいでその会議に参加していない。だがこういう場合、大体は自分のデスクに資料が置かれているから問題はない。正直に言うと、会議を開くほどのことではないのだ。メールで伝達してもいいくらいの話であるので、会議の真意は未だつかめないままである。


 周りとの関係をなるべく断ち切った、孤立している会社。印刷会社や一部の企業とは提携しているようだが、そちらの方々と関わるのは部長や社長だけで、我々平社員が関わることはないと断言できる。そういう意味もあり、ここは社員がリストラされないくらいには実績が結びついている。いわばフリーランスの集まりだ。


 会議の資料に目を通し、さっそくワープロに目を置く。いまだに指先を見なければ文字を打つことができない私なので、他の社員と比べて少々手間がかかってしまう。周りより一層時間を凝縮しなければならないのだ。


 インターネットとワードの画面を交互に見ながら、昼までキーボードを叩き続ける。十三時になったところで会社を抜け出し、コンビニで買った百円のおにぎりで昼食を済ませる。そしてまた十九時までパソコンと睨めっこ。


 はたはたと帰る者の挨拶が聞こえ出し、私も一応手を上げて応対する。


 十七時になると帰る者も多いのだ。そういう人たちは、文字を打つのが早かったり、想像力に富んでいる人たちだ。私は、打つのも遅ければすぐにいいアイディアが浮かぶことも少ない。本当は、二十一時ぐらいまでやっても足りないくらいなのだが、そこまで仕事を大事にしていないので……。家に帰って飯を食ってからノートパソコンでやるかやらないかは、その日の気分次第だった。


 完全個人主義。そして、一定の額の給料は保証されているものの、それ以外は出来高払いとなる。だから、正直会社に来なくても家でしっかりとこなしていれば問題はない。ただ、それはコンプライアンスだったり、会社の理念に触れるとか何とかで一応は会社で作業することが規則となっている。でも、それも、周りの話が聞こえてしまって知ったことに過ぎないだけなので、本当のところはどうなのか定かではない。


 十九時までやると決めたらそれまでは絶対にやる。会社に残って作業するのは別に規則に触れないので、存分にその規則を使う。最後の人がカードキーと鍵で戸締りをして帰ればいいだけ。戸締りもあいまいで、どこまでもおしとやかな会社であった。それでも、ほぼ毎日私がその役目を果たしているので、鍵をなくしたら大問題だ。戸締りの際だけはより気を引き締める。


 液晶画面から顔を上げると、電気の半分は消えていて、人はいなくなっていた。と思ったら、一人だけいた。いつも大抵十九時までやっていく私だが、最後まで残っている者など久しく見ていないので、少々驚いた。


 人がいようと、この時間に帰ると決めたら私はかえる。それは譲れないので、帰り支度を済ませ、一応彼女に声を掛けようと思った。鍵閉めないまま帰ってしまったら大問題なので。


「あ」

「え?」


 声をかけようと女性の顔を覗き込んだ私だった。見えた顔に見覚えがあったが、それを口には出さなかった。


「俺、先に帰るんで、戸締りお願いしますね」


 そう言って帰ろうとしたが、呼び止められる。


「私ももう帰ります。戸締りの仕方とか知らないんで……」


 その声を聞いて、私は無言で回れ右をした。


 一応、会社の窓が全部締まっているか確認した。彼女も手伝ってくれていたようで、いつもより早く終わった。


 入り口のドアの前に行き、カードキーでロック。扉を閉めて鍵をした。誰言うとなく二人で階段を下りて、あの狭い路地に出る。


「じゃあ、お疲れ様です」


 深々と私が礼をして、起き上がったときに彼女の口は開いた。


「この後暇ですか?」


 田舎臭い街灯に照らされるこのときの彼女の長い髪は、きらびやかに揺れた気がした。






 居酒屋に入ったのは初めてだった。古橋さんにこのことを言ったら、本当に驚いていた。


「居酒屋に入ったことないとか、どんな生き方してきたんですか? もしかして、大学時代友達いなかったとか?」

「ほぼいないも同然だったね」


 酒が回った彼女は酷く饒舌だった。それは酷く。


「ええー? 私だったらそういう人こそ狙っていくのになー。先輩、彼女もいないんですか?」

「友達もいない人に、彼女がいると思う?」


 彼女は私の言葉を聞かずに、ビールの入ったジョッキの淵に口に当てていた。よくもそうがぶがぶと飲めるものだ。


「そういえば先輩、朝一緒の電車でしたよね? 何で助けてくれなかったんですかー? 胡散臭いおやじたちに可愛い女の子が押しつぶされてたんですよー? 可哀想だと思わなかったんですかー?」

「いや、まああの程度は我慢しないと」

「あそこで私の前にスッと入り込んで、えっ誰って見つめ合ってたら車体が傾いて、壁ドンされてたら、ガードが堅い私でも完全に落ちてたのになあ、ぐふ」


 とんでもない妄想を口にしながら、べろべろに酔っている彼女の顔は赤くなっていた。座っているのだが横にフラフラし始め、「ちょっと寝ますねー」なんて言うので、そろそろ帰らねばならない。明日も仕事があるのだし。


「寝るなら家にしなよ。こんなとこ居たら、君の大嫌いな胡散臭いおやじに声かけられちゃうんじゃない?」

「だったら、家に送ってってくださいよー」


 面倒臭い。本当に面倒臭い。酒に酔うと人は多種多様な人格になると聞いたことがあったが、このことだろうか。第一印象は完全に崩れ落ち、彼女の顔を見たら「面倒臭い」しか思い浮かばないところまで来ようとしている。


「いや、そこまではねえ。第一君の家知らないし」

「こっから二駅ー。あと、君って言うなあー。乃杏って呼べー」


 もはや上下関係はない。ただのパシリだ。こういうのは一回許してしまうと、今後もせがまれることが多くなるのであまり許したくもないのだが、元はといえば、まっすぐ帰らず居酒屋に入ってしまった私にも否があるので、しょうがなく連れていくことにした。


 居酒屋のドアを開けると、騒がしさは消えてスッと落ちる雪が街灯に照らされていた。雨に近い、水を含んだ雪だそうで、舞っているときの美しさはない。彼らも、重い何かを背負っているのだろうか。今の私みたいに。


 羞恥を捨て、街灯が光る裏道を歩いた。雪はすぐに止み、アスファルトに丸い跡が少し残っただけだった。


大通りに出ると、人はぐんと増えた。スーツ姿のサラリーマンとすれ違うたびに、幾人かの視線を感じたが、それに耐える。スラックスの上からとはいえ、自分の両手が女性の太ももに触れているのはどうも落ち着かない。むず痒い。スカートだったらどうなっていたかと想像するだけで虫唾が走る。もちろんいい意味で。見ているだけなら何も思わないのに、触れるのは本当に無理だった。


改札まで行くと、さすがに下ろしたくなった。彼女の鞄と自分の鞄を持ちながらだったので、さすがに手が堪えた。


帰宅するサラリーマンや若者が流れを作っている中で、それを外れ、近くの壁に彼女を下ろした。半分寝ていた彼女を何度も揺すり、手を引っ張って、周りに迷惑を掛けながらなんとか改札を抜けた。抜けた後で気がついたが、その隣の改札口で若い学生が嘔吐していたのを見て、まだこのぐらいはいいのかもなと比較してしまった。


電車に乗ると、一つだけ空いた席に彼女を座らせた。隣の人に寄り掛かってしまうのではないかと不安になったが、その点はあまり気にしてはいなかった。根拠はないけどそんな気がしていたのだ。


車窓に、吊革につかまる自分が見えた。

誰かはこれをどんな姿だと比喩するだろう。

情けない。陳腐。斬新。


おそらく棚の一番奥にいる陳腐なぬいぐるみだろう。自分が買われる前に、新しく入荷されたぬいぐるみが前に入って来るから、いつ買ってもらえるかもわからないような――。


下から視線を感じたか感じなかったか、彼女は目を閉じたままであった。


少し傾いていた彼女をまっすぐに起こし、列車を出て、改札を出た。いい加減彼女もちゃんと歩いてくれたのでその点は助かった。このまま一人で帰ってくれるかも、なんて都合のいい未来はそうそう訪れるものではない。


 言われるがままについていき、彼女のアパートの玄関先で別れた。酔いが覚めたのか、何も言わずに家の中に入っていった。それを確認して、私は扉を閉めた。




 おぼろげな三日月を片目に、酒臭さと、背中と手の感触が離れないまま歩き続けた。初めて体感したあの騒がしさ、笑い声、顔を真っ赤にしたスーツの男。胸元が大きく開いた女性。煙草。それが居酒屋。


 悪くなかった。





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