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パスバイクローンズ  作者: 面映唯
第4章
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水の泡

 部屋でおにぎりやパンをを食べた後、彼女に別れを告げて、私は実家に帰った。母親が居ようといなかろうと、もう一度だけ言ってから東京に帰るつもりだった。


 玄関の扉の前に来て止まった。この前とは違った空気が匂った。だが私は進む。重いドアノブに手を掛け、ドアを引いた。


 意識しようとしなくても意識してしまう。だって、どう考えても母親がいるはずだから。


 重い脚を騙すように、心臓の音を殺してリビングのドアを開けた。


 誰もいなかった。二日前に来たときとほぼ同じ光景。リモコンの位置こそ変わっているものの、時計は動き、カーテンも閉められたまま。


「鉋?」


 本当にびっくりして、肩を上げてしまった。振り向くと、後ろには母親がいた。


「東京に帰る前に一回寄ろうと思って。寝てた?」

「うん。今起きたところ。何もしてあげられないけど……」


 そう言って、母親は半開きの目のままキッチンに入ろうとした。


「あ、いいっていいって。ただ来ただけだから。ほんとに」

「じゃあ、お茶だけでも」


 そう言って電気ポットに水道水を入れ始めた。


 私は湯飲みだけ食器棚から出して、リビングの椅子に座った。


 母は無言で急須を運んできた。机の上に並べられた二つの湯飲みに、交互に注いでいく。繰り返し。「はい」と差し出された湯飲みを私は受け取った。


 味の薄い玄米茶を体の中に注ぐ。部屋が少し寒いせいか、熱いお茶が食道を上から下へと通っているのが感じられた。お湯に近いお茶だった。


「仕事はどう?」


 母は、急須を机に置きながら聞いて来た。


「それなりにこなせてるよ。まあ、いっぱいいっぱいなのも正直なところだけど、無理ってほどでもないかな」

「ごめんね、大学も卒業させてやれなくて」

「別に母さんのせいじゃないよ。俺から辞めたんだし」


 みんながこの家にいたときにあった穴が、少しずつ塞がっていくようだった。代わりに、新しい穴も開いてしまったのだが。


 恋しいのに届かない。時間ってやつは、進むごとに何かを退化させていく。家族も、身体も年月が経つにつれて、「ああ戻れない。今じゃ遅いんだ」って気づかせてくれる。


 あんなに人間味のなかった母親が息子にお茶を入れてあげるなんて、数年前だったら考えられないことだった。人間を変えさせる一番の特効薬は、「視野を広げる」ってことなんだと思う。


「もう行くね。また来週か再来週も来ると思うから」


 外まで見送ろうとする母を制止して、私は玄関を出た。


 ローカル線の駅までの道は一キロ。川沿いの道をまた歩き出した。


 数十メートルごとに一定の間隔で架けられた橋を左の視界に収めながら、奥に行くにつれて少し上っているアスファルトを眺めていた。


 橋は、どれも個性があった。アスファルトの橋。木の板でできた橋。ガードレールがあるものもあれば、ないものもある。緩やかに上った頂点の横に掛けられた橋は、アスファルトで、白いガードレールがついていた。ガラガラとうるさい音を立てるキャリーバッグ片手に、そのガードレールに手を突いた。


 手を突いてから「あっ」っと咄嗟に手を挙げた。案の定、掌には白い粉がついていた。「あちゃー」と思いつつも、懐かしいものを見つけたので案外悪くなかったのかもしれない。


 木の枝か何かで書かれた二人の名前。


「ももか?」


 片方はそう読めたが、正しいのかはわからない。隣に書いてある名前はほとんど形を残しておらず、読めなかった。


 これを書いた人は卒業する前に机に自分の名前を彫っていくような気持ちだったのだろうか。書いて数日は覚えているのに、数か月後には忘れられる。そして、私みたいなどうでもいいやつに見つけられる。


 あの頃に戻れたらって、少しは考えるのだ。こんな私でも。


 たった少しの上り坂だったのに、ここからは下に行く道の景色が見える。中間地点とも言えるような、言えないような。ただ下って行くだけで何の変哲もない。


 私みたいだった。



 母親の態度が変わったのには理由がある。そりゃああるだろう。あれだけ大学を卒業しなさいと耳に胼胝ができるほど豪語していたのに、「ごめん」なんて言うもんなら、何かあったとしか考えようがない。何も変化がないのに、態度が変わるはずない。おまけに、私のことなんてどうでもよさそうだったのに、今じゃ、本物の母親みたいじゃないか。まったくをもって今更だけれど。




 大学三年の冬。コンビニの夜勤をしていた私は、母からの連絡に気がつかなかった。休憩時間になって携帯を開いたとき、見慣れない番号、それも同じ番号が画面いっぱいに収まっていたのには驚きを隠せなかった。下の矢印ボタンを押すと、それは数ページに及んでいて、最初に電話してきたのは二十一時前だった。そこから二十四字時までに三十件以上の不在着信が記録されていた。


 何事かと思い、久しぶりの親との会話だろうと緊張することも忘れて、電話のマークを押した。


「もしもし、どうしたの、こんなに電話かけてきて。なんかあったの?」


 なぜか、気が気でなかった私。


「鉋……。あなた、今貯金はいくらあるの?」

「貯金? 通帳最後に見たのいつだったか忘れたから覚えてないよ。何、金が足りないの?」


 数秒の沈黙があった。でも何となく、『貯金はいくらあるの?』という母の声が、荒々しかったので、私にも察することができた。


「……父さんのね、会社が倒産したの……。それも、借金を抱えてて、それもずっと隠してて、もう、どうしたらいいの……」


 話の後半で母は泣き出した。電話口にもかかわらず、大声で。そんなの聞いたことがなかったし、私の母親のイメージは冷徹だったから、不思議な感覚だった。嘘泣きなんじゃないかとさえ思った。だが、泣いてまで何かを頼まれたことなどなかったので、私の心はすでに決まっていた。


「俺の金、あげ、」

「あんたわかってんでしょうね!」


 控室にノイズ交じりの声が響いた。


「これまで好き勝手やらせてあげてきたんだから、親の大変なときくらい手貸しなさいよ! わかってるの? 何のために高校からバイトやらせてきたと思ってるの。普通の家庭なんて、高校生に夜勤なんてやらせるはずないんだから!」


 突然の怒号に私は口が回らなくなっていた。これが絶句というやつなのか。だが、すぐに脳に一つの感情が達した。


「俺が馬鹿だった」一瞬でも情けを掛けようとした私が恥ずかしくなった。急に頭から心臓に向かって冷たい空気が流れ始め、言葉もそれに応じて冷ややかになった。


「わかってるよ……。振込先だけ教えてくれれば、送るよ。多分時間かかるけど。大金だから」

「当たり前でしょう? 親のエゴだとか思わないでよね。何のためのお金よ」


 電話はプッツリ切れた。

 糸もプッツリ。ブチッ、じゃなくて、プッツリ。


「鉋君ー。そろそろ交代ねー」


 無造作に手の甲で目の前を真っ暗にした。


「はーい。今行きまーす」


 私の名前を呼ぶ先輩の声に、温もりを感じた。本当は、親の温もりを感じたかったのに。ありがとうの言葉一つない。あたりまえでしょ? だって。これを人間味って呼ぶのかな? それとも先輩のことを人間味があるっていうのかな? どっちもどっち。感情に左右されているだけ。はまるでない、私。


 流し台の水で顔をバシャバシャ拭った。白い汚れの付いた鏡に映る顔は。隈。隈。ちゃんと自分の顔を見たのはいつぶりだろう。そう思った。


 一瞬笑ってみる。似合わない。


 ずっとポケットに入れっぱなしだったくしゃくしゃのハンカチで顔を拭く。


「これ、姉ちゃんにもらったんだったっけ」


 人のことを言えなかった。





 数日後、唯一とってあった一日の休みが来た。普段は取らないので運がよかったとしか言いようがない。


 郵便局に行って、振込の手続きをした。


「ええと、本当にこんな大金を振り込んでしまってよろしいですか?」

「あ、はい。親の口座に移すらしいんで」


 でしたら、といろいろ説明してくれたが、ほぼ理解不能だった。ただ、綺麗なお姉さんの顔を眺めていただけ。


 実際にどのくらい金が溜まっていたのかは、曖昧にしておきたい。まあ、三桁は行っていたとだけ言っておく。


 百万を手元に残し、残りはすべて送った。私の高校時代からの夢。大学卒業までに生涯年収を稼いで、家賃のいらない田舎で、食費にだけ稼いだお金を使って貧相に過ごすという夢はもう叶わない。


 元々、そんな夢は叶うはずがなかったのかもしれない。一般に言われる生涯年収は二億円台で、少なくとも一億は超える。計算とか苦手だからそういうのはそっちのけでお金をためられるだけ溜めてきたけれど、もともと無理だったのかもしれない。


 思い返せばいつもそうだった。頭の中で妄想した未来は大抵叶わなかった。だから、想像してしまった時点でもうその妄想は、現実に叶わない。それを知っていたから、やれるところまで来た。とりあえず行けるところまで。


 現実は裏切らない。悪いようにはいつも裏切るのに、いい方へは導いてくれない。寝る間を惜しんで、食費も浮かして、テレビなんか見ないし、エアコンなんて以ての外。携帯は唯一ちょっとお金を払っていたけれど。


 まさに水の泡。泡どころか水だね。儚く消えるというよりは、自分で流したと言った方が妥当なのだし。


 消えるときは一瞬だ。だが、悪い気はしなかった。今日まで自分のために働いて来たが、実は、今日という日のために、両親のために今まで働いていたのかと思うようにすればそれも悪いことではない。大嫌いな就職という壁を上らなければならなくなったが、今更どうしようもない。上らなきゃ、死ぬだけ。それはアホらしい。


 そもそもなぜ働きたくなかったのだろう。バイトはいいのに、就職は嫌だ。そこからアホらしく思えてくる。よくここまで続いたものだ。それだけは褒めて欲しい。


 そう。褒められるのはそこだけだった。私の労力は誰にも認められなかった。楽をして手に入れたお金へと早変わり。


 入金の数日後、母からメールが届いた。


「あんたこんなにお金貯めてたのね。とにかく助かったわ」とそれだけ。


 意地でも、ありがとうと言わないのか、それともたまたまだったのか。


 数日後、また電話がかかってきた。


「今度は何?」

「取られた」

「え?」

「迂闊だった……」

「だから何が?」

「……」

「ねえ、」

「だから逃げられたって言ってんじゃない! あんたの汗水流して働いた金を全部持って逃げられたって言ってんの!」

「だから誰が……。も、もしかして、父さんが?」


 母は電話口でぶつぶつと文句を垂らしていたようだったが、私には内容が理解できるほどちゃんと聞こえなかったし、ちゃんと聞いていなかった。雑音にしか聞こえなくて、何か別のことを考えていたというか、沈んでいたどろっとしたものがきれいさっぱり消えてしまった様だった。


 口は乾き、バイト前に空きっ腹に入れたサイダーの甘い味が、舌の上で感じられた。腹に入ったのは水と少しの炭酸だけで、舌の上にはちゃんと砂糖が残っていた。



 騙されていたと気付いても、それが、そういう存在なのだと認める他ない。


 どう足掻いても、元に戻らない。


 だって、だって、だってさ。他に信じられるものとかないじゃん?




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