君を殺したら
『ココと優』
「あ、すみません。」
揺れる電車で咄嗟に捕まった吊革で触れた彼女の手。
「いえいえ、こちらこそ。」
微笑んでお辞儀をした彼女と目を合わせることはできず、目を逸らした先に彼女の右手に収まっているスマホ画面があった。
映し出されたツイッターアカウント。
〉ココ0906
今日が6月9日だったことと、9月6日が僕の誕生日であることでその数字は一瞬で記憶でき、
ココという変わった名前は僕の頭に残った。
スマホ画面を覗いたことを悟られないように自分のスマホを取り出すそぶりをしながら反対の手で別の吊革に手をかけた。
彼女は次の駅で降車した。
僕は彼女の後ろ姿を見送るとすぐさまツイッターを開いて先程のアカウントを検索。
ココ0906のアカウントでアップされている写真を見る限り、彼女のアカウントであることは間違いない。
僕は自分の裏アカウントの
ユウ0906
でフォローした。
それからの毎日、彼女のアカウントで呟きが更新されることを待つばかり。
呟きと合わせて写真がアップされれば最高の日。写真を通して見る彼女の私生活は僕を満たしてくれた。
仕事が上手くいかなかった日も、身体の調子が悪い日も、僕は彼女のアカウントを知っていることだけで心にゆとりがある気がした。
「お前、最近明るいけど、いいことあった?」
同僚に言われたけど、
「別になんにも。」
と嘘をついて誤魔化した。けれど、ニヤついた表情は隠しきれていなかったと思う。
三ヶ月が経過し、僕の誕生日がやってきた。そして彼女の誕生日でもある。
彼女のアカウントで呟かれた内容を確認して僕は家を出た。
〉今日は友達にカフェでお祝いしてもらいます
その呟きと共にアップされた写真に写っている近所のカフェに向かう。運動不足の身体でも自然と足が軽やかに動いた。
カフェに着くと、美しい笑顔の彼女がいた。
三人の女友達に囲われて祝われている。
僕は彼女の後ろの席に背中合わせになるように座った。
「ハッピバースデイトゥーユー」
彼女に対して発せられる言葉が僕にも言われているような感じがした。
ありがとう。
ふー、っとケーキのロウソクを吹き消す
彼女の息の音と合わせて
ホットコーヒーを
ふー、っと冷やす。
後ろに座っている彼女への拍手の音を聞きながら、口に含んだホットコーヒーはまだ熱かった。
猫舌の僕が時間をかけてホットコーヒーを飲み干した頃、彼女達はカフェを後にしようとしていた。
僕は自分のスマホを彼女のカバンに忍ばせた。
彼女は気づかず、カフェを後にする。
それから数分して僕もカフェを後にした。
家の近くのテレフォンボックスに入り、事前に準備しておいたテレフォンカードで自分のスマホへ電話をかける。
数コールした後に電話が繋がり、戸惑いの声が聞こえてきた。
「あの、もしもし…」
彼女の声だ。
「あ、もしもし、僕のスマホ拾ってくれたんですか?」
少しわざとらしかったかもしれない。
「いや、あの…、」
「ありがとうございます!」
戸惑う彼女の声に被せるように言う。
「どっかで落としてしまったみたいで、困ってたんです。本当にありがとうございます。」
それから、彼女がスマホを届けてくれるまで話が進んでいった。
昔、先輩に聞いた手法がこんなに上手くいくなんて自分でもびっくりだ。こんな手法を咄嗟に使ってしまう自分にもびっくり。本能ってすごい。失敗すればスマホを失うところだったけど上手くいってよかった。
彼女との待ち合わせは先程のカフェ。
集合時間の数分前に着いた。
「あの、ユウさんですか?」
名前を呼ばれた方向には彼女が立っていた。
「あ、そうです。ココさんですか?」
「あ、はい。あの、これ。」
彼女はスマホを両手で差し出してくれる。
「ありがとうございます。何とお礼を言ったらいいのか。。もしよければここで奢らせて頂けませんか。」
カフェを指差して言う。
「いや、いいです、そんな。私はただスマホを届けただけで…。」
「奢らせてください、僕の気が済まないんです。」
彼女は少し迷った顔をして数秒考えた後、
「そこまでおっしゃるなら…。」
今度も上手くいった。
僕は心の中でガッツポーズをした。
二人でカフェに入り、僕が先程座っていた席に向かい合わせで座った。
先程、別々で出ていった男女が今度は一緒に入ってくるなんて と、店員は不思議に思っていることだろう。
彼女が注文したレモンティーと、僕の注文したアイスコーヒーが届けられた。
レモンティーを口に含む彼女も可愛いし、
今日はいい天気ですね、なんて外は思いっきり曇ってるのに場を取り繕おうとする彼女も可愛い。
「誕生日にスマホを落とすなんて災難です。」
誕生日、という取って置きの言葉を発して彼女の反応を伺う僕は気持ち悪い。
「今日誕生日なんですか?」
「そうなんです。」
「私もです!」
「え、そうなんですか!びっくりですね」
知ってたけど。わざとらしく驚いたフリをした。
「おめでとうございます」
「ココさんも、おめでとうございます」
わざとらしい表情を隠すために一度、コーヒーのグラスを口につける。
意外と話題が広がらなかったのは僕がコミュ障だから。せっかく二人で話せる場を作れたのに。
「あ、あの、そういえば、あの観覧車、来週オープンなんですよね」
彼女の向こう側の窓から遠くに観覧車が見え、苦し紛れに話題を持ちかけた。
「確かそうですよ。あれ日本一の高さらしいですね。」
「そうなんですか。乗ってみたいですね。」
それも知ってたけど、初めて知ったようなリアクションが咄嗟に出てしまう。
「ですよね、私も乗ってみたいです。」
「あ、なら、来週一緒にどうです?」
僕は何を狂ってしまったのだろう。出会って数分の男に観覧車一緒にどう?なんて言われて賛成する人が何処にいる。
「あ、いいですよ。」
あれ、思った返事と違った。
断られて、冗談冗談、で済ますつもりが。
「え、いいんですか。」
「いいですよ、乗りたかったですし来週暇ですし。」
もしかして彼女は僕に気があるのか。
トントン拍子で話が進み、来週、現地集合で観覧車に一緒に乗ることになった。
それから一週間、彼女と観覧車に乗る妄想をするだけであっという間に時間が過ぎた。
「ユウさん。」
「ココさん、こんにちは。」
全体的にふわふわした彼女の服装は妄想通りだった。
「行きましょうか。」
「はい。」
隣に並んで歩く彼女からフローラルな甘い匂いが漂う。
「今日暑いですね〜。」
「そうですね。暑いですね。」
テンプレート的な会話しかする事が出来ないまま、観覧車に到着。
コミュ障のくせに大胆な手法で彼女とのデートまで持ってこれた自分を誇りに思う。
受付前にはすでに大行列が出来ていた。
「やば。人、多いですね。」
「オープン日ですもんね。」
電光表示板に三時間待ちという文字が映し出されていた。
「三時間…。」
彼女の表情が明らかに引き攣ったのを僕は見逃さなかった。
「今日はやめときましょうか。さすがに三時間はしんどいですね。」
僕たちは大人しく観覧車を諦め、近くにある小さな水族館に入った。
「わぁ綺麗!」
大水槽の前でテンションが上がる彼女。
「綺麗ですね、僕、ここ初めて入りました。」
僕は魚ではなく彼女を見ていた。
「私もです。近所だからいつでもいけると思ってずっときた事なかったです。」
「逆に、ですね。ありますよねそれ。」
水槽の中で煌めく無数の魚達を見て目を煌めかせる彼女の横顔は水族館のどの魚よりも綺麗だった。こんなに美しい人と二人で水族館に来る日がくるなんて。
僕は魚をろくに見ないまま、水族館を出た。
「綺麗でしたねー。とくにクラゲ。」
「わかります、クラゲ、めっちゃ綺麗でしたね。」
正直クラゲなんて一瞬しか見ていない。
「どうします、これから?」
彼女は僕の方を見て言った。
僕は思わず顔を逸らしてしまう。
「どうしましょ。観覧車もまだ多いようですし、今日は解散しましょうか。」
「そうですね。」
「あ、でもまたリベンジしにきましょう。絶対。」
「ですね。また誘ってください。」
あっさりと帰ろうとする彼女にもう一押し、言葉が必要な気がした。
「あの、。」
「なんですか?」
「ご飯、どうです?」
彼女は少し間をあけたあとに、
「まだ早いですよ?」
と的確な回答。
「確かに。じゃあ、今日は解散で。そして明日、ご飯どうですか?」
また彼女は間をあけたあとに、
「いいですよ」
と微笑んだ。
次の日。
仕事を定時で切り上げ、すぐに集合場所へ向かった。
彼女は大学生であり、時間には余裕があるとのこと。高卒で社会人になった僕は仕事がいっぱいいっぱいで毎日残業続き。今日は彼女との約束のために仕事をほったらかしにして退社した。
「ココさん、すみません、遅くなって。」
彼女は店の前で待っててくれていた。
「いえいえ、集合時間には間に合ってますよ。」
腕時計を確認しながら言った。
「入りましょうか。」
「はい。」
彼女は今日もふわふわした服装で、いい匂いがした。
店に入ってから僕は失敗に気づいた。
僕の苦手な海鮮料理の店だったのだ。完全なるリサーチ不足。
メニューに目を通すと、かろうじて海鮮料理以外の料理もあるようだ。
「ご注文いかがなさいますか?」
店員が僕達に聞いた。
「ココさん、どれにします?何でもいいですよ僕奢るんで。」
「奢らなくていいですよ。昨日も奢ってもらったんだし。ユウさん、先に頼んでください。」
「わかりました。じゃあ、
…牛丼一つ、お願いします。」
''新鮮なお料理お出しします。''と大きく書かれたメニュー表の中から新鮮という言葉が一番似合わない牛丼を注文するのは思った以上に恥ずかしかった。
横目で彼女の表情を窺うと、口を抑えて笑みを隠している。
かと思いきや、
「私もそれでお願いします。」
僕に合わせてくれた。
店員は二人とも海鮮料理を頼まないことを不可解に思っただろう。
「かしこまりました。」
無表情のまま去っていった。
「僕に合わせなくていいですよ。好きなの頼んでよかったのに。」
「私、海鮮料理苦手なんです。」
「あ、そうなんですか。僕もです。」
「ですよね。ユウさんが牛丼頼んで、一緒だ、と思って笑っちゃいました。」
「海鮮系の店で牛丼頼む人、きっと僕らしかいないですよ。」
「ですね。何でこの店選んだんですか。」
「知らなかったんです。外見だけで選びました。」
彼女意外な共通点を見つけることができた。リサーチ不足でも、結果オーライだ。
「海鮮のどこがダメなんですか?」
「どこがって言われても…、生臭いところかなぁ」
「私も同じです。飲み込んだ後も口に残る匂いがダメです。」
「ですよねー。高級なやつだったら食べれるんですけど、好んでは食べないです。」
「全く同じ。ここのお店のだったら食べれたかもですけど、牛丼があったらやっぱ牛丼ですよね。」
「間違いないです。」
僕達は牛丼を美味しくいただいた。
彼女の食べる牛丼は僕のと違って上品に見える。
もしも、僕と彼女が結婚することがあれば、食卓に魚が並ぶことはないだろう。毎日、鳥か豚、ときどき牛かな。彼女を前にしていると妄想が具体的に膨らんでいった。
「美味しかったですね。」
最後の一口を彼女が飲み込んだのを確認してから言った。
「さすが新鮮さを売りにしてるだけありますね。」
「牛丼に新鮮さ関係あるかなー。」
「冗談ですよ。」
「あ、ごめんなさい。」
彼女は冗談を言うような人ではないと思っていたので、完全に油断してしまっていた。コミュ障な僕に唐突な冗談を上手く返すスキルは備わっていない。
「ユウさんって意外と真面目ですよね。」
「意外じゃなくて、真面目ですよ。」
何言ってんだか。真面目な奴があんな手法で女の子に近づこうとするわけ無いだろ、と自分で自分にツッコミそうになった。
「真面目な人は自分のこと真面目なんて言わないでしょ。」
「間違いないです。」
「じゃあ、また。」
「はい、また週末に。」
今週末、観覧車にリベンジする約束をして僕達は手を振り合い解散した。
今回は絶対に観覧車に乗るため集合時間を朝に設定。さらに僕は集合時間よりも早く着き、受付を済ませてチケットを大人二人分受け取っておいた。これで間違いなく乗れるはず。
「ユウさん、こんにちは。」
程なくして彼女はやってきた。
「ココさん早いですね。」
「ユウさんこそ。」
「僕は先に来てチケット取っておこうと思って。」
事前に手に入れておいたチケットをドヤ顔で見せつけて、彼女を観覧車の乗り口まで案内した。
日本一の高さの観覧車は近くで見ると思った以上に迫力がある。
さらに、入車すると中は高級感のある革シートが黒光りしていた。
「緊張してきました。」
彼女がソワソワしながら言った。
表情が怯えているようにも見える。
「もしかして高いところ苦手ですか?」
「…実は。はい。」
「そんな、言ってくれたらよかったのに。無理して乗らなくても。」
「日本一、とか、オープン、とか言葉好きなんです。だからつい。。」
「わからないでもないです。実はそう言う僕も観覧車苦手なんですよね。」
「えー、じゃあなんで誘ってくれたんですか。」
「僕も、新品には目がなかったり、あったり。」
ココさんと会うため、とは言えず嘘をついた。
「同じですね。私たち相性バッチリ。」
「ですね。最高です。」
相性という言葉で一瞬卑猥なことをイメージしてしまった自分が恥ずかしい。
「もうすぐ頂上ですよ。」
彼女の声で我に返り外を見ると、人が豆粒みたいに小さくなっていた。
「たかい…」
「私は意外と平気かもです。ゴンドラがしっかりしてるからかな。」
「確かに、そう考えると少しマシになるかも。」
でもやっぱり怖い。外を見るのをやめて彼女を見ることにしよう。
すると、彼女も体を僕の方に向けて座り直した。
「ユウさん、変な話していいですか?」
さっきまで明るかった彼女の声のトーンが一つ下がった。
「怖い話ですか?」
「いいえ。すみません、やっぱり変な話じゃないです。ロマンティックな話です。」
「どうぞ、いいですよ。」
彼女はコホンと一度咳払いをして話し始めた。
「ユウさんは運命って信じますか?」
「うーん、どうだろ、考えたことないですね。」
「私、最近、運命の人に出会ってしまったかもしれないです。」
高いところに来たせいで気持ちが高ぶってしまっているのだろうか。それは僕にする話なのか。
「どこでですか?」
取り敢えず相槌を打っておくことにする。
「最初は電車でした。
同じ吊革を持とうとして、手がぶつかってしまったんです。その時は全く何とも思っていませんでしたが、何ヶ月後かの私の誕生日、たまたまその人のスマホを拾ってしまうんです。」
あれ?、…。。
「スマホを届けた時に、この人どっかで見たことあるような、と思いました。どこで会ったのか直ぐには思い出せず、彼がスマホを届けてくれたお礼にとカフェでご馳走してくれている時に気づきました。あ、この人、電車で会った人だ、って。誕生日って素敵な出会いを運んでくれるのかなって思ってたらなんとその人も誕生日でした。
運命だと思いました。
しかも何度か会ううちに、嫌いな食べ物も一緒で高いところが苦手なのも一緒という共通点も次々に見つかるんです。きっとこの人と一緒にいたらもっと共通点が見つかっていろんなことを共有できて楽しいんだろうなーって思ってます。
まさに運命の人です。」
「へ、へー。運命、ですね。」
僕は彼女が運命を口に出す度に胸が締め付けられるように痛んだ。
あのスマホは彼女と近づくために偶然を装って鞄に忍び込ませた。
運命、なんてロマンティックなものではない。
「ですよね。」
彼女は話し終えてまた外を眺め始めた。
ゴンドラの中は急に静かになり、
僕は何か話さなければと思った。
「…その、運命の人もココさんのこと、気になってます。
…と、思います。
付き合ったらきっと上手くいくと思います。」
運命という嘘をこれ以上使いたくなかったけど、自分の気持ちが口から溢れた。
「嬉しいです。」
彼女の笑顔を見ると、本当の運命の出会いだったらよかったのにと悔しかった。
「ココさん…」
「…はい?。」
「…付き合いましょう。」
「はい。」
僕は心にシコリを残したまま、彼女と付き合うことになった。嬉しいはずなのに、素直に喜べない自分がいた。あの時、スマホを鞄に忍ばせた僕はどういう結末を望んでいたのだろうか。
観覧車を降りて僕達は並んで歩いた。
「観覧車、すごい高かったですね。」
「高かったですね。」
付き合ってることを意識するとなかなか会話が覚束ない。
おまけに相変わらずの敬語。
「ココさん、敬語やめます?」
僕がそう言うと彼女は
うーん
と考えた。
「私はまだしばらく敬語のままがいいです。」
「どうしてですか?」
「敬語ってやっぱ新鮮じゃないですか。まだしばらく新鮮な気持ちを忘れないでいたいっていうか。。」
「なるほど、わかりました。ココさんがそう言うなら、そうしましょう。」
「こないだのお店に負けないくらい新鮮でいましょ。」
「それが言いたかっただけですか?」
「違いますよ。」
僕達は二人で笑った。
カップルってこんな感じだったんだなと実感した。
「あれ、ココじゃん、何してんのこんなとこで。」
振り返るとチャラチャラした茶髪の男が立っていた。
「あ、カイくん。」
ココさんはその男をカイくんと呼んだ。どうやら知り合いらしい。
「ユウさん、こちら、大学の友達のカイくんです。」
「どうも。カイっていいます。」
男は浅く頭を下げてきた。
「あ、どうも。ユウです。」
ココさんといい感じの時に邪魔が入ったので作り笑顔が上手くできなかった。
「ココ、いつもよりお洒落してるじゃん、どしたん?」
「うるさいなー。」
「さては彼氏だな。」
「さぁどうだろう。想像に任せるよ。」
男は僕を改めて舐め回すように見た。
「君も、ココを彼女にするなんて、やったじゃん。」
何故この人は初対面の僕にこんなにも馴れ馴れしく、上から目線で喋れるのだろう。
「ありがとうございます。」
「ココとは何処で出会ったの?もしかして高校の同級生とか?」
「えっと、スマホを拾ってくれて。」
「まじか!運命的な出会いってやつ?すげー。」
「…まぁ。」
「ココ、大学で人気だからなー。取られないように注意しなよ。」
「そうなんですね。」
「もうね、ファンクラブできるかできないかくらいすごいよ。」
「できてはないんですね。」
「お、ナイスツッコミ。」
同い年くらいだと思うけどここまでタメ口で喋られるともしかして年上なんじゃないかと錯覚してくる。
「カイくん、私たち見ての通り忙しいから、また明日ね。」
「どこをどう見たら忙しく見えるのかわからないけど。察するよ。」
「察して。」
彼女が一方的に男を帰らそうとする。
「ごめんごめん。じゃあまたっ。」
男は手を振りながら去っていった。ついでに僕の方にも振ってきていたので僕も程々に振り返した。
特に内容のある会話をする事なく僕達に気を遣って去ってくれたので悪い人ではないだろう。嵐のように去っていった。
「よかったんですか、素っ気なく返してしまって。」
「いいんです。カイくんは見飽きるほど顔を見てますんで。」
さっきのカイくんと呼ばれる男に対してはタメ口だったが僕に対してはしっかりと敬語。
新鮮さを忘れないため、か。
僕は敬語のココさんより、タメ口のココさんの方が新鮮に感じた。
この夜。
綺麗な満月が夜空に浮かんだ。
いつもより存在感が薄い星。風がなく、行き場を無くしたように漂う雲。
遠くに小さく見える日本一の観覧車より高く浮かぶ満月。
今日の満月は忘れないだろう。特別な日。ココさんと付き合った日。
スマホで写真を撮ってみたが、全く綺麗に映らない。黄色い点が画面中央にあるだけ。
〉今日は満月。綺麗ですね。
ココさんからのライン。
写真が一枚、合わせて送られてきており、
開くと画面中央に黄色い点がある。
僕と同じだ。
ココさんも僕と同じ月を見てる。
〉すごい綺麗ですね。
僕の撮った写真もあわせて送信した。
運命…、か。
最初の出会いは僕の偽装だけど、誕生日が一緒で嫌いな食べ物が一緒で高いところが苦手なのは偽装じゃない。今、この写真だってたまたま同じのを撮ってる。
でも、どれを含めて考えても彼女を騙した罪悪感が頭の中に残る。
「ユウさん、どうぞ。」
「ありがとうございます。いただきます。」
ココさんのお母さんから頂いたお茶を一口、口に含む。
「ココをよろしくね。」
「はい。」
僕はココさんの実家に来た。
何故、実家に来る流れになってしまったのか、何処で話題を間違えたのかはわからない。気づいたら来てしまっていた。
家に上がらせてもらい畳の部屋に通され、正座でおよそ二十分。
足が痺れ始めている。
「ユウさん、足、崩したら?」
ココさんが僕に気を遣ってくれているが、僕はそれ以上にココさんのお母さんに気を遣っているため崩すわけにはいかない。
「正座が好きなんで大丈夫です。」
「正座が好きな人なんて初めて見ました。絶対無理してるでしょ。」
ココさんが笑った。
「い、いや、そんな事ないですよー。」
正面を見ると、お母さんも口を隠して笑っていた。笑い方がココさんそっくりだ。
「ユウさんがいい人そうでよかったわ。ココ、いい人見つけたじゃない。」
「でしょ。」
「出会い方も素敵だったらしいじゃない。」
お母さんが僕を見た。
「あ、そうなんです。あの、ココさんが僕のスマホを拾ってくれまして。たまたま。偶然。」
「素敵よね。赤い糸で結ばれてるってこういうことを言うんだね。」
僕はお母さんにまで嘘をついてしまっている。罪悪感は増すばかりだ。
僕が言葉を選んでいると隣に座っているココさんが口を開いた。
「お母さんもお父さんと素敵な出会いしたんでしょ?」
ココさんが仏壇のお父さんの写真に目をやった。
お父さんは二年前に他界したらしい。
「そうねー、私達はサークルの試合でたまたま知り合っただけなんだけど、それをお父さんが大袈裟に言ってただけよ。」
「試合中に何回も目が合ったってお父さんは言ってたよ。しかも同じラケットだったって。」
「そんなわけないでしょう。テニスの試合なんて男女別コートでやってるんだから。」
「そーだったの?お父さんすっごい自慢してたよ。」
「私が打ち損ねたボールが男子コートに入って行っちゃってお父さんが拾っただけよ。」
「いいじゃん、それもロマンチック。」
「テニスしてたらそんなの日常茶飯事よ。そんな事お父さんから言われるまで忘れてたし。」
「確かに。お父さんが勝手に運命感じてただけか。」
ココさんとお母さんは同じような笑い方で笑った。
僕は笑えず、それどころか心が痛かった。
それから暫く他愛ない話をしていたが、ココさんに真実をいつ打ち明けようかと考えることで頭がいっぱいになり内容は覚えてない。
「ユウさん、そろそろ映画の時間ですね。行きましょうか。」
「あ、そうですね。お茶ご馳走様でした。美味しかったです。」
「ユウさんまた来てくださいね。こんなお茶で良かったらいつでも出すから。」
お母さんが丸いお盆に湯呑みを乗せながら言った。
「はい、是非また来させてください。」
僕たちはココさんの実家を出て、映画館に向かった。
徒歩で10分ほどの距離にあるデパートの映画館。
いつも人が多いため、事前にネットでチケットを取っておいた。
「ポップコーン、買います?」
「私あまりお腹すいてないので二人で一つにしましょう。」
「わかりました。ジュースは何にします?」
「カルピスにします。」
「あ、僕もカルピスにしようと思ってました。」
「驚くほど気が合いますねー。」
ポップコーン一つとカルピス二つを抱えてシアターに入った。
映画を見ながらポップコーンへと手を伸ばす時にココさんと手がぶつからないように彼女が手を引っ込めるタイミングを見計らってポップコーンを掴み、口へ運ぶ。一度に二、三個ずつ口に運んだ。
観た映画はラブストーリーの映画。
主人公とヒロインの出会いから物語は始まる。主人公もヒロインも二人共が余命一カ月という設定。
お互い余命一カ月ということを隠したまま付き合い、最後までその事を明かさず死んでいく
という内容。
終盤、ココさんが鼻をすする音が聞こえた。目元をハンカチで拭っている。
僕も涙脆いことをココさんに悟られないように我慢したかったが涙が溢れてしまう。
主人公とヒロインの純粋な恋に自分の荒んだ心が洗われた気がした。
映画が終わると、シアターを退出する人の流れに着いて歩き僕達も退出した。
「すごく感動しましたね。私、後半涙止まりませんでした。」
「僕、映画ではあまり泣かないんですが、これは感動しました。」
「ユウさんも泣いてましたね。」
「これで泣かない人いたらその人はきっと人の心を持ってないです。」
ココさんを騙したまま付き合っている僕も心を持っていない人間の一人であると思う。
「出会い方が良かったですね。静かな図書館でお互い徐々に意識していく感じが。」
「そうですね。」
僕達とは違い純粋な出会い方だったので映画に対して嫉妬した事は隠しておく。
映画館を出ると、夕方になっていた。
昼間には直視できないほどに輝いていた太陽は弱々しく茜色になり、雲の隙間から地球を照らしている。
太陽の進む先には大きな黒い山があり、僕達の歩む黒い道路もその山に向かって伸びている。
ココさんが履いた靴の硬い靴底がアスファルトにぶつかり一定間隔で音をコツコツと響かせる。
僕は歩幅を合わせて、車道側を歩いた。
時折、隣を通り過ぎる車が風を引き連れて僕達を煽った。ココさんの長い髪が風に靡き、甘い香りを放つ。
髪を抑えるココさんの手は細く白い。
その手を握る想像を何度もしては諦める。
右手をココさんの左手に何度も近づけるが空を掴んで元の位置に戻す。
五度ほど繰り返し、
やっとの思いで掴んだココさんの手は暖かく、思ったより柔らかかった。
急に車が通らなくなり辺りは静かになる。僕達も言葉を発する事なく、静かに歩き続けた。
今この世界には僕達二人しかいないのではないかと思った。
電柱のカラスが飛び立ちながら鳴いた。静かな世界に響くカラスの声を追って顔を上げると、飛行機雲が真横に広々と伸びている。
ココさんも空を見上げていた。
「ユウさん、ありがとうございます。」
ココさんが急に言ったお礼の理由は聞かずとも検討がついた。
「こちらこそ。ありがとうございます。」
僕達は道の突き当たりで手を振りあって解散した。
ココさんと反対方向に歩く。
暫く進んだ所で振り返ると、夕陽に照らされるココさんの背中はすでに小さくなっていた。
僕はその背中を見ながら決心した。
明日、ココさんに真実を話す。ココさんが運命だと感じているあの出会いは僕の偽装だった事を。
ココさんの温もりが残る右手を強く握った。
翌日。
僕達はカフェで待ち合わせをした。
「お疲れさまです。」
「ユウさんもお疲れさまです。」
今日一日、仕事は手につかず、真実を知ったココさんはどんな反応をするのかそればかりが気になり他の事は考えられなかった。
「話ってなんですか?」
水の入ったグラスに着いている水滴を指で取りながらココさんは聞いた。
「多分、ココさんは怒ると思います。」
「なんでですか?」
僕は水を一口飲んでから話し始めた。
「実は……。」
何度も頭の中でシミュレーションした言葉が口から出てくれない。あの日、スマホを忍ばせた自分はこうなる事まで考えていなかった。ただココさんと近づきたいという不純な気持ちだけで動いていた自分が憎い。
「実は彼女がいるとか、実は浮気してしまったとかですか?」
ココさんが冷たい表情になる。
「僕達が仲良くなったきっかけ覚えてますか?…」
「もちろん。私がユウさんのスマホを届けたことですよね。」
「はい、それが、その…」
「…」
ココさんは冷たい表情のまま首を傾げる。
「…嘘、なんです。」
「何を言ってるんですか?意味がわからないです。」
「…ココさんと近づくために、自分のスマホをココさんの鞄に忍ばせたんです。」
ココさんは傾げた顔を戻し、コップから手を離した。
それから口をつむり、下を向く。
「…以前から私を知っていたという事ですか?」
下を向いたまま、小さな声で僕に聞いた。
「電車で初めて会った時に偶然ココさんのツイッターを見てしまって、その時にフォローしてました。誕生日の日、このカフェに来ている事を知って僕もここに来ました。…ごめんなさい。」
「そうだったんですか。」
「本当にごめんなさい。」
彼女は下を向いたまま顔を上げようとしない。
数分間の沈黙が続く。
体感的には数十分に感じた。
「…それだけですか?」
「…え?」
「隠している事は本当にそれだけですか?」
「はい。」
「わかりました。」
ゆっくりと顔を上げた彼女の目には涙が溢れ出しそうなほどに溜まっていた。
「じゃあ、私も一つ隠し事を言いますね…。」
「…え、はい。」
「私もうすぐ死ぬ予定でした。自殺する予定でした。だからちょうど良かったです。いい感じの節目です。今日でバイバイしようと思ってた所でした。」
「うそ、ですよね…」
「私もうすぐ死ぬ予定なので今日で別れましょう。私にもう近づかないでください。」
彼女は鞄を持って立ち上がった。
「ココさん、待ってください」
「さようなら。もう一生会わないでしょう。」
立ち去る時に見えた彼女の顔は涙が溢れ出していた。
泣いた彼女の顔を初めて見た僕にそれ以上の言葉は思いつかなかった。
離れていく後ろ姿を見送ることしか。
彼女の言う自殺が嘘だったとしても僕は彼女を止める以外の選択肢はなかったはずなのに。
あの日スマホを忍ばせた自分はこんな結末になるなんて思ってもいなかっただろう。
僕は彼女を失ってから自分自身すらも失ってしまった気がして、何のために生きているのか自問自答を繰り返す毎日を送った。彼女が僕の全てだった事を改めて思い知り、何もない自分がこれ以上生きていて意味があるのかすらも疑問に思う。
〉もう一度だけ、会って話しましょう。
僕の送ったラインのメッセージには既読がついたまま、返信はない。
既読がついたということは一先ず自殺はしていないということであり、自殺をする予定だったというのは僕とはもう一生会わないという理由付けのための嘘であったということ。
お前と会うくらいなら死んだ方がマシだ、と裏返して捉えることもできる。
〉謝っても許してもらえるとは思ってないです。けど、もう一度だけチャンスをください。
自分の諦めの悪さには自信がある。
それでも彼女は反応してくれなかった。
〉お願いします。
しつこく送り続けたラインはついに、既読すらも付かなくなった。
気づけばツイッターもブロックされている。
僕は彼女との繋がりを全て失った。
〉本当にすいませんでした。
既読の付かないラインに文字を打ち込む。
通勤時。電車を待つ駅のホーム。電車の中。改札をくぐる人混みの中。
彼女とよく似た髪型を見つければ顔を確認する。
彼女とよく似た甘い香りがするたびに人混みの中に彼女の姿を探している。
〉一度だけ会ってください。
毎日のように彼女にラインを送り続けた。
わざと実家の前を通ったりもした。彼女が家から出てくるところに遭遇することを期待して。
ポストに手紙も入れた。
僕の思いを込めて。
彼女と会う事が出来ないまま、不毛な一週間が過ぎたある日。
たまたまココさんに新しいメッセージを送信しようとしている時に今まで送っていたメッセージに既読がついた。
即座に追加のメッセージを送信。
〉会ってください。
そのメッセージにも既読がついた。
画面を凝視したまま彼女の返信を待つ。
〉18時。カフェに来てください。
彼女から返信が返ってきた。
ありがとうございます。僕にチャンスを与えてくれて。
僕はガッツポーズをした。
約束の時間よりも三十分前にカフェに到着し彼女を待つ。
今日は復縁なんて考えずに許してもらうことだけを考える。
心の中で何度も反復練習した、ごめんなさいをしっかりと伝えればきっとわかってくれるはず。
僕は彼女が来るのを今か今かと待ち続けた。
集合時間。
彼女はまだ来ない。
もしかしたらやっぱり来ないとか。
いや、きっとくると信じて待とう。
彼女が来る姿を妄想しながら待ち、
集合時間から二十分が過ぎた時。
「やあ。」
来たのは男だった。
ココさんにカイくんと呼ばれていたチャラい男。
「こんばんわ。」
ごめんけど君に付き合ってるほど暇じゃないから早く立ち去ってくれと思いながら素っ気なく挨拶を返した。
しかし男は馴れ馴れしく僕の側まで近寄ってきて僕の肩を叩いた。
「ココは来ないよ。」
男が言った言葉を理解できなかった。
「はい?」
「俺はココに頼まれて来たから。」
「どういうことですか?」
男は面倒くさそうに頭を掻きながら僕を見る。
「君、ココに嫌われてんだよ。気持ち悪いって。」
「…」
嫌われてるのは知ってる。だから今日謝りに来たんだ。
「もうココに付きまとうのやめろって。迷惑してんだよ、ココは。」
「いや、あの、違うんです。僕はただ…。」
「違うくないっしょ。君はココに嫌われてる人間。間違いないだろ?。嫌ってる人間がしつこく近づいて来たら君も嫌だろ?」
「僕はココさんに謝ろうと…。」
「ココは君に会うことも拒絶してる。何したか知らないけど、これ以上彼女を悲しませんなよ。」
お前はココさんの何者で、何様だよと思ったが言い返す事は出来なかった。
「もうココに近づくな。」
「でも…」
「でも、じゃねーって。次つきまとったら警察にも協力してもらうから。」
男はもう一度、僕の肩をポンと叩いた。
「わかった?。ココに付きまとうなってことを君に伝えるために俺はわざわざ来てあげたの。君がわかってくれたんなら、もう立ち去るけど?」
わかった、って言いたくなかった。でもココさんのためを思うならそうした方がいいとも思った。
悔しかった。
「…わかりました。」
「男に二言はないからなー。そこんとこよろしく。」
「…はい。」
「わかったならいいや、んじゃ、さいなら。」
男は立ち去った。
残された僕はカフェの前でしばらく立ち尽くした。遠くに見える観覧車がゆっくりと回っている。
ゆっくりと景色が滲み、
上を向いている筈なのに涙が頬を伝った。
一ヶ月後。
僕はココさんを忘れるように仕事に打ち込んだ。
しかしいくら脳みその中を仕事でいっぱいにしても片隅にあるココさんの記憶が消えてくれない。
未だに通勤時、彼女の姿を探している自分が惨めだ。
今日も、懐かしい香りがして、無意識のうちに辺りを見渡した。
もちろん、彼女はいない。
…筈だった。
電車待ちでホームに並ぶ僕の一つ前。
見覚えのある髪型。見覚えのある服装。聞き覚えのある声。
全てが僕の脳みその片隅にある記憶と一致。
この女性はココさんだ。
さらに、ココさんの隣にいる男も僕の知っている人間だった。
「カイくん、今日も一緒帰ろ。」
「もち。」
僕は二人の会話を後ろから耳を立てて聞いた。
「今日の帰りもカラオケ寄ろうよ。」
「いいねー。今日もいつものとこ行っちゃう?」
「うん。あそこが特別だからね。」
「だよなーっ。でも懐かしいよな。あれ一年前だろ?」
「そうそう、もう一年前だねー。」
ココさんの声は僕と一緒にいた時よりも明るく、楽しそうだ。タメ口のココさんの方がやっぱり新鮮だ。
「ココ、あの時なんで合コンなんか来てたんだよ。」
「人数合わせ。」
「だよな。お前モテモテだから合コンなんか必要ないもんな。」
「そんなことない。」
「あの時俺とめっちゃ目が合ったよな。初対面なのに。」
「いやいや、合ってないし。」
「え、まじ?、歌ってる最中も目が合うし俺に気があんのかなーって思ってたんだけど。」
「合ってないし。私ノリ気じゃなかったし、カイくんと目を合わせたのはマイクを取ってもらった時だけだよ。もちろんその時、全く気はなかった。」
「なんだー。そうだったんか。ちょっと残念。」
「でも、あそこが私とカイくんが初めて会った場所で、特別な場所っていうのは変わりないよ。」
「おう。一年間色々あったけど結果してこうやって付き合ってるんだしな。」
''三番乗り場を電車が通過します。危ないですから、黄色い点字ブロックの内側までお下がりください''
「運命、だったのかもね。」
「運命だな。」
''電車が通過します。''
「好きだよ、カイくん。」
「あざっす。俺も。」
''電車が通過します。''
僕の右手が暖かい背中に勢いよく触れた。
暖かい背中は僕の手から離れ、飛んでいく。
男は線路上に肩から着地。
急いでホームによじ登ろうとする。
が、もう間に合わない。
パーーー!
ゴパンッ。
勢いよく男の体は飛び散った。
鮮やかな赤色が僕とココさんに降り注ぐ。
新鮮な血の匂いがした。
「いやぁああああああ!」
ココさんは叫び泣き崩れた。
「カイくん!!カイくんんんんんあああ」
「うぁあああ!」
ホームにいた他の人間も騒めき出す。
男の肉片は遠くまで飛んで行って、頭だけホームに転がっている。
ココさんは自分に着いた男の血を見ながら発狂している。
僕はそっとココさんに近づいた。
後ろからそっと肩に手を回し、ココさんを抱きしめる。
「大丈夫ですか?」
この時、ココさんの温もりを久しぶりに感じた僕は最高に高ぶっていた。
『ココと厳』
「好きなタイプは笑わない人。」
おれがそう言うと正面の髪の長い女が笑った。
「笑わない人って、クールな人ってこと?」
女がおれに聞く。
「クールっていうか、ミステリアスな感じがいい」
「なるほどね」
少なくてもあなたではないので変な期待はしないでくれ、と心の中で思った。
合コンにミステリアスな子が来るわけがなく、この場に出会いを求めて来たおれが間違っているのだが。
「じゃあさ、一番端の子、タイプなんじゃない?」
隣に座っているハルが耳元で囁く。
ハルが言っているのはおれとは対角線の席に座っている女性。
合コンが始まってから一度も口を開いておらず、常に表情が硬い。
確かにミステリアスといえばミステリアスであり、あながちおれのタイプからはハズレていない。
「まあ、ぎり、ありかな」
おれは目の前のポテトを指でつまみながら答えた。
よく見たら顔はモデルみたいで可愛い。
楽しくなさそうな、生気のない表情がおれの興味をそそる。
正面の女は作り笑顔ばかりで嫌いなタイプ。その横の女はロンが狙っている。
おれは消去法で一番端の彼女になる訳だが、まぁ悪い気はしない。
「少しでもありだったらとりあえずキープでもいいからいっといたほうがいいぞ。ってロンが言ってる。」
ハルがまた耳元で囁いた。ハルの反対側に座っているロンを見ると右手親指を突き立てておれにウインクしている。
「あれー?作戦会議ー?」
正面の女が言った。
「みんな可愛いなーって話。ちなみに君の好きなタイプは?」
ロンが上手く返す。
「私〜、うーん、ハルくんみたいに面白い人。」
どうやらハルを狙っているらしい。女は自分が一番面白くないことに気づいていないようだ。ハルは作り笑顔。
「へー、なるほどー、ハル面白いもんな。ところでみんな次何飲む〜?」
ロンも面白くないと思ったらしくすぐ話を逸らした。
「私、カシスウーロン。」
「あ、じゃあ私も。」
「私は、そろそろ帰らないと…。」
帰ろうとしたのは一番端の彼女。
「あ、そうなの?何か用事?」
ロンが彼女に聞いた。
「はい、ちょっと…。」
「そうなんだー、残念。じゃあまた今度ね。」
ハルが優しい笑顔で手を振った。
「はい、ごめんなさい。」
彼女は自分の荷物を手に取り、退席。
すると、正面の女とその隣の女の子が話し出した。
「やっぱダメだったねー。」
「うーん、あれは深刻だね。」
どうやら退席したあの子の事を話しているらしい。
「何かあったの?」
ロンが枝豆を摘みながら口を挟む。
「あの子ね、男性恐怖症なの。」
ハルの前に座っている女の子が答えた。
「そうだったんだ。」
「昔ちょっとあってね、それ以来男性の前では笑わなくなっちゃったんだよね。」
「じゃあ今日は無理して来てくれたんだね。」
「こういう場で克服できたらいいと思って私が無理矢理連れて来たんだけど、悪い事しちゃったな。ダメだったみたい。」
「みたいだね。」
だから彼女は一度も笑わなかったのか。
昔何があったのかは知らないが、おれはその話を聞いてさらに彼女のことが気になった。
「ごめんね、せっかく盛り上がってたのに、こっち二人になっちゃって。」
「いや全然いいよー、逆にこっちも減らそうか?こいつとか」
ロンがおれを指差していた。
「こっち指差すなって。」
「冗談冗談。」
正面の女とその横の女の子が笑った。非常に勘に触る笑い方。おれは笑う女が嫌いだ。
正直、好きでもない女と話してこれ以上時間の無駄をするよりは帰った方がマシ。
「でも、ロンが言う通り、そろそろ帰ろうかな。」
そして同時に、先ほど退席した彼女にあわよくば追いつけるかもしれないという期待もある。
「あれ、お前も女性恐怖症だったっけ?」
「ちがうわ。」
下品な女が笑うのでロンも調子に乗る。
「用事があるんでしょ。」
ハルが僕をみて言った。
微笑んでいる。どうやらおれがさっきの子を追いかけようとしているのがバレているようだ。
「そう、ちょっと用事あってさ、」
「行ってきなよ」
ハルは微笑みながら手を振った。
「ありがと、ちょっと行ってくる。」
おれは自分の荷物を持って席を立ち、手を振り返した。
「いってらっしゃい」
「ごめん、また今度」
女性陣に視線を送ったが反応が鈍く、また今度があると思ってるの といった表情だ。
まあ別に気にしてないのだが。
店を出て最寄りの駅に向かって早歩きで歩いた。
駅に着くと、チカチカと満足に点灯しない電灯が控えめに照らす薄暗いホームに彼女は立っていた。
偶然にもおれが乗る予定の電車が来るホームだ。
「やあ、」
後ろから彼女に声をかけると、
彼女の肩がビクンと跳ね上がった。
急に声をかけたので驚かせてしまったようだ。
「どちら様ですか。」
おれを見た彼女は首をかしげる。
「おれの事、わからない?合コンにいたんだけど。」
男性恐怖症にしても顔も覚えられていないのは少しショック。
「ごめんなさい。私、男の人が怖くて」
おれと目を合わせようとせず、本当に怯えている。
しかし、それがおれの心を惹く。
「らしいね。」
何でそうなったのか、聞こうとしたがさすがにデリカシーがないと思ってやめた。
''電車が到着します。黄色い点字ブロックの内側までお下がりください。''
癖のある声で放送が流れ、程なくして電車が目の前に止まった。
彼女の肩が震えている。
「こうやって男が近くにいるだけでも怖い?」
「えっと…、人に、よります」
電車に乗ると並んで立った。
彼女はおれの握ったつり革の二つ隣のつり革を握っている。電車が大きく揺れるたびに、身体も大きく揺れるのだが、おれの方に揺れないようにしっかりと握っていた。
お互いの声が聞こえるギリギリの声で会話をする。遅い時間であり周りに人がいないため気を使わなくてもよいが電車の中にいることでおれは自然と声が小さくなった。
「何駅で降りるの?」
「…七海駅です。」
七海駅はたしか一駅先。
おれはニ駅先の南海駅だから彼女の方が先に電車を降りることになる。
「せっかくだしさ、連絡先、交換しない?」
「ごめんなさい。それは…ちょっと。」
「やっぱ怖いよね、今日会ったばっかりだし。」
「…はい。ごめんなさい。」
「いいよ、無理にとは言わないから。」
「ありがとうございます…。」
彼女の横顔を見ながら喋っていたが、一度視線を正面に戻した。
扉の、暗いガラス窓に自分の顔が写っており、
彼女の顔もガラス窓に写っている。
おれが正面に視線を戻した後、俯いていた彼女も顔を上げた。
ふと、ガラス窓越しに彼女と目が合い、
数秒間、無言のまま目を合わせた後また彼女は俯いた。
「あの、じゃあさ、これ。」
おれはメモ帳に連絡先を書いた。
揺れる電車の中のため書きづらかったが、なるべく丁寧に書き、書いたページを破って彼女に差し出した。
「気が向いたらでいいから連絡してよ。気が向かなかったら別に捨ててもいいから。」
彼女は怯えながら受け取り、
「…わかりました。」
と目を合わせずに返事をした。
''まもなく七海駅に到着します。''
アナウンスが流れ、電車が速度を落とす。
乗ったばかりなのに、もう七海駅だ。
一駅が思った以上にあっという間だった。
「ここで降りるんだよね。」
「はい…。」
''七海駅〜、七海駅です''
「あのさ、そういえば名前なんて言うの?」
彼女は俯いたままホームに降り、
振り向いてゆっくりと僕の方に顔を上げた。
「…ココっていいます。」
やっと直に目を合わせることができた。彼女の表情は相変わらず硬い。
「珍しい名前だね。俺はゲン。よろしく。」
「…はい。」
「じゃあまたね、ココさん」
彼女がお辞儀をしたところで扉が閉まった。
これがおれと彼女の初めての出会いの日だった。
家に帰り、風呂を済ませてから布団に潜ったおれは暗い部屋の中でスマホ画面を眺めているが、彼女からのラインは一向に来る気配はなく時間が刻々と経過していくのを感じている。
こうして一人でいる時に女性の事を考えてしまうのは何年ぶりだろうか。
恐らく十年ぶり。
十年前の出来事はこういう時に頭の中でフィードバックされる。
中学三年の時のあの出来事は忘れられない。
おれの好きなタイプが 笑わない女性 になったきっかけの出来事だ。
スマホの電源を落とし、目を瞑るとあの日の記憶が鮮明に浮き上がった。
「ゲン、ヒオリのこと好きなの?」
「まぁ、。」
「告ったらいいじゃん。」
「いやー、無理だろ。」
「いってみないとわからないって。」
「好きな人いるって聞いたし。」
「それがお前かもよ?」
「いや、ないって。」
「可能性はゼロじゃないだろ。」
「うーん。。」
「俺も協力するから。頑張ってみろよ。」
友人のセイヤの言葉に背を押され勇気を出してヒオリに言った言葉は無残にも打ち崩れた。
暑い日差しがおれをカンカンと照らし、大量の汗を流させた。
滴り落ちた汗は鉄板のように熱くなったアスファルトで一瞬にして蒸発。
その光景を無心で眺め、おれは上を向くことができなかった。
「残念だったな、でもかっこよかったぞ。」
背中を押してくれ、励ましてくれたセイヤの存在が心強かったと思ったのは一瞬だけ。
ヒヨリがセイヤのことを好きだということを知ったのはおれが告白した次の日だった。
学校に行くとすでに噂がクラス中に広まっており、クラスメイト達から励まされているのか馬鹿にされているのかどっちとも取れる言葉をたくさんかけられた。
「ゲン、お前、ヒヨリに告白したらしいじゃん。」
「ゲン、ふられたらしいね。」
「ゲン、どんまい。」
「ヒヨリが好きな人いるって知らなかったの?」
「お前かっこいいな。」
「かっこいいていうか面白いな。」
「ウケる。」
クラスメイト達は笑った。
甲高い笑い声がクラス中に響いておれの耳を劈く。
見渡すと、男も、女もおれを馬鹿にしている。
おれが告白したことをクラスに広めたのがヒヨリ本人であることは察しがついた。クラスの端で隠れるようにヒヨリも笑っていたから。
「ゲン、俺、ヒヨリと付き合うことになった。」
ヒヨリとセイヤが付き合うことになり、二人の笑った顔が目につくようになった。
二人の笑顔はおれの心を酷く痛めつけ、脳裏に焼き付いて離れてくれない。
「幸せになれよ。」
おれがセイヤに言った言葉は本心とかけ離れていた。
ヒヨリとセイヤが一緒にいる時は自然と意識してしまい、イライラした。笑い声が耳につく。
不幸せになれ。
これがおれの本心。
教室中に響くほどの二人の笑い声。
笑い声。笑い声。笑い声。笑い声。笑い声。笑い声。
ジリリリリリリリ。
アラームがなり、悪夢から目を覚ました。
寝落ちしていたようだ。
仕事に行かなければ。
布団から起き上がり、大きく背伸びをした。
電車の中で確認したスマホ画面にはラインの通知が一件。画面中央に堂々と点いていた。
〉今週末、ハルカとシーランド行くけどゲンも来ない?
ハルからのライン。
シーランドというのは水族館と遊園地が複合したレジャーランド。水族館は元からあったが、そこに遊園地が出来たのは最近であり、流行っているため知っていた。
だが、ハルカという人物がわからない。
〉予定ないし行けるけど、ハルカって誰?。
正直に返信するとすぐに反応があった。ハルもどうやら通勤中の時間潰しでスマホを眺めているようだ。
〉昨日の合コンの子だよ。ゲンの前に座ってたじゃん。
ハルがあの女と約束をしていることが意外だった。もしくはハルが強引に誘われたか。どちらにせよ何故そこにおれが呼ばれる必要があるのだろうか。
〉なるほど。おれは邪魔じゃない?
〉ココさんも誘うって言ってたから。
おれがココさんの事を気にしているのを知っていておれを誘ってくれるのは嬉しいが、あの女がいるのがちょっと気が進まない。でも、
〉わかった。行く。
ココさんが来るなら行きたいと思ったのが正直な気持ち。
〉そういえばゲンは昨日どうだったの。
嫌なところを突かれた。
〉これからって感じ。
ラインの返事が返って来ないことは伏せて、濁すように返信すると、
頑張ろう!
と猫が拳を上げているスタンプが返ってきた。
おれは人間が拳を上げているスタンプを返信し、スマホを閉じた。
「いえーい、とうちゃーく!」
週末の事を考えていると全く仕事に身が入らず、あっという間に一週間が経過。
シーランドに到着し、飛び跳ねるようにはしゃぐハルカの後ろをおれとハルとココさんがついていく。
天気は快晴。風は冷たく涼しい。
外で過ごすには絶好の日和。
「元気だなー、あんなキャラだったっけ。」
おれは俯いて歩くココさんに言った。
ハルカのキャラが合コンの時よりもさらに鬱陶しい気がする。
「…そう、ですね。いつもあんな感じです。」
ココさんもいつもと変わらず、目線を合わせないように喋る感じ。
「…あの、ゲンさん、すみませんでした。」
ココさんがおれに頭を下げたが、
頭を下げられるような事をした心当たりがない。
「ん、何が?」
「…ライン、できなくて。」
おれにラインをしなかったことを気にしていたようだ。この美貌に嫌味のない性格。きっと大学時代の男性恐怖症になる前はモテていただろう。
「いやいや、全然、おれも忘れてたし。」
「すいません。」
「ココさん、ゲンにそんなに頭下げなくていいよー。」
ハルが横から得意の優しい声で言った。
女性に気を使えて優しいハルがモテるのは同性のおれでも何となく納得いく。
だからたまにおれもハルの真似をする。
「そのとおり、ココさん、気にしなくていいよ。」
「おーい、みんなー、はやくー!」
おれのセリフを掻き消すように声が飛んできた方向を見ると、すでに遠くにいるハルカが手を振っていた。
「ハルカさん早いよ、待っててー」
ハルが手をメガホンのようにして声をかけると、
「ハルくんが言うなら待ってるー」
とハルカも手をメガホンのようにして返事をし、その場で立ち止まった。
おれたちはハルカに追いつき、四人で園内マップを広げた。
ハルがマップを持ち、それを囲むようにして覗き込む。おれの右手側がハル、左手側がココさん、正面がハルカ。
ハルカの位置が妙にハルに近いが、気にしないようにしておこう。
「私、これ乗りたいな。」
ハルカが指をさしたのは、シーランドにある乗り物の中で最恐だと言われているジェットコースター。
「いやー、それは、まだ早いんじゃない?」
「あれ、ゲンくん、恐がってる?」
マップを指していた指をおれに向けてバカにした表情をする。こういう表情がおれは大嫌いだ。
「いや、余裕だけど、楽しみは後にとっといたほうがいいだろ。」
ちょっとムキになった口調になってしまった。
「たしかにー!ゲンくんいいこと言うじゃん」
「まあね。」
正直おれは絶叫マシンが苦手。だからまだ最恐に乗る覚悟ができていない。
「じゃあさ、これは?日本一の高さらしいよ」
次にハルカが指を指したのは観覧車。
観覧車だったらおれでも乗れる。
「いいじゃん。」
ハルが賛同した。
「でしょー、ハルくん」
おれも合わせて、
「いいと思う。」
と返事をした。
「ココは?どう?観覧車」
ハルカがココさんの顔を下から覗き込んだ。
ココさんは返事をしない。
よく見ると肩が震えているようだ。
「ココどうしたの?」
ハルカがココさんの肩に手を置いた。
「いや!!」
ハルカの手を弾き落とすココさん。
「ココ?どうしたの?」
数秒間、返事がなく、肩の震えが落ち着いてからゆっくりとハルカの方に顔を上げた。
「ごめん、ハルカ。」
「大丈夫だよ、」
「…観覧車は、ちょっと。。」
「わかった、ならあれだ、ゴーカート行こう。」
「うん、…ごめんね。ハルさんもゲンさんもごめんなさい。」
おれ達はココさんのことを気にしながら静かな雰囲気のままゴーカートへ向かった。
ココさんの過去に何があったのかは知らない。でも、観覧車がその過去の事と何か関係があったのだろう。男性恐怖症になったきっかけの出来事と。
おれもハルも聞こうとはせず、口をつむったまま、ゴーカートへ向かうハルカの後ろを歩いた。
「しゅっぱーつ」
気を取り直して、という言葉が似合う台詞を言ってゴーカートを発進させたハルカ。
隣に乗っているココさんがハルカに手を握られて、無理矢理に握り拳をあげさせられる。
何故この組み合わせで乗ることになったのか。おれとハルは男二人でゴーカートに座った。
乱暴に右往左往しながら進んでいくハルカのゴーカートに後ろからぶつからないように上手く運転しているハル。
おれは隣で手持ち無沙汰な両手を前の手すりに置いていた。
普通は男と女で乗るのではないのだろうか。
「ココさんと乗りたかった。って思ってるでしょ。」
ハルはゴーカートを片手で運転しながらおれに言った。
相変わらず勘の鋭いやつだ。
「大正解。」
「そうなるとあの乱暴なゴーカートに乗ることになっていたのは僕になるから、それはちょっと無理かな。」
ハルが背もたれに背中を深くつけて笑い、ゴーカートが少し左右に揺れた。
「ハルカさん、無邪気だよな。」
煩い、騒がしい、馬鹿、色んな言葉が思い浮かんだが、なるべく優しい言葉を選んで言った。
「そこがハルカさんの可愛らしさであり良いところだと思う。女性らしくていい感じ。」
ハルは彼女を好きなのか、友達として言っているのか、わからない。
「まあ、そうか。」
とりあえず賛同した。
「話変わるけどさ、ココさんって、昔なにがあったんだろう。ゲン、何か聞いた?」
「いや、聞いたらいけない気がして、何も。」
「そっか。さっきの、観覧車の反応、びっくりしたねー。」
「びっくりした。相当恐い出来事なんだろうな。」
「男性恐怖症になるほどだからよっぽどだよ。」
おれ達が乗っているゴーカートがゴールに着くと、先に着いていたハルカが体ごとこちらを向いてドヤ顔でピースしていた。隣に座っていたココさんはこちらに振り向かず、ピースをするハルカを見ている。
表情の硬い横顔は可愛いとは言えないが、儚げに美しく、おれの視界に映る周りの景色を滲ませる。
「ハルカさん早かったねー。」
「でしょー。昔から得意なんだー。」
ハルがゴーカートを降りながらお世辞を言い、調子に乗るように答えるハルカ。
後ろから見ていた限り、決して得意とはかけ離れていたと思う。
「さすが〜」
おれはハルのお世辞の方がさすがだと思う。
ゴーカートを降りたおれ達は次の目的地を決めておらず、とりあえず真っ直ぐ歩いた。
「お腹すいた〜」
ハルカが腹を右手で抑えている。
「早くない?」
「ハルくんが言うなら早いかも。」
ハルが言ったら何でもあり。
死ねって言ったら死ぬ気なのか。
「でも確かに軽くなんか食べるのもありかも。水族館の近くにフライドポテト売ってたとおもうよー。」
ハルがマップを開いて指差す。
「あーここ、ここ。」
「あ、ほんとだお店のマークがある。さすがハルくん。来たことあるの?」
「三年前、まだ遊園地が出来てなくて観覧車だけ先にオープンした時に来たことあって。ポテト食べたのたまたま覚えてた。」
「ハルくん記憶力すごーい、じゃあハルくん先頭でレッツゴー!」
ハルを連れて早々と歩いていくハルカの後ろをおれとココさんは歩いてついていこうとするが徐々に距離を離されていく。
おれは水族館と聞いて怯えたココさんを見逃さなかった。
歩くスピードが先ほどよりも遅くなっていることにも当然気づいた。
「ココさん大丈夫?」
「…はい。大丈夫です。」
「無理しなくていいから、しんどかったらいつでも言って。」
「わかりました。ありがとうございます…。」
言われたところでおれが何かをしてあげられる自信はないが。
とりあえず今は前を行く二人のペースが早すぎる。
「おーい、ハルー」
後ろから声をかけると、
ハルとハルカが二人とも振り返った。
紛らわしい名前だ。
「あ、ハルってハルくんのこと?、私も昔ハルって呼ばれてたから反応しちゃった。」
おれが君の名前をそんなにフランクに呼ぶわけがないだろう。
ハルカの隣でハルが笑っているが、
反対におれはイライラしている。
「苗字何て言うの?」
ハルカに向かって歩きながら聞いた。
「青山でーす」
「じゃあ今からアオで。」
「えー、ださいなー」
「可愛いと思うよアオさん。」
ハルが横からフォローを入れ、
「ハルくんが言うならそれでいいか。」
それを受け入れる単純な女。
「それで?何で呼んだのー?」
「歩くの速いから待ってもらおうとしたけど、追いついたからもういいわ」
「そっか、ごめんねー。」
四人でしばらく歩くと店が見えた。
大きな水族館の横にあるため小さく見える。
一つのフライドポテトを購入し、四人で分けた。
ココさんの様子が気になり、定期的に表情を伺う。常に怯えているような表情。
水族館にも何か嫌な思い出があるのだろうか。
「次どうするー?」
指でつまんだ三本のフライドポテトを口に運びながらアオが言った。
「どうしよか。」
「ハルくん行きたいとこある?」
「うーん、何でもいいよ。アオさんは?」
「私はあのジェットコースターさえ乗れたら満足なんだよねー!、あ、ココは?何乗りたい?」
急に振られたココさんはモグモグとポテトを含む口を隠しながら答えようとしている。
「…えっと、私は、…お化け屋敷いきたい、かな。」
ココさんがお化け屋敷を言うとは意外だった。
「いいじゃんお化け屋敷、決定。ゲンくん、いいよね?」
「うん、別に、いいけど。」
ポテトを食べ終えたおれ達はお化け屋敷に向かった。
病院をモチーフにしたような外観。
心霊病棟と書かれている傾いた看板。
吹き出しでキエエェェと書かれている。
何の鳴き声なのかはわからない。恐怖を煽る演出のつもりなのだろう。
「やば、怖そー。」
アオが大袈裟に言い、
「そうだね。」
と全く怖そうな顔をしていないハルが言う。
怖いと言いながらも何のためらいもなく四人並んで中に入った。
水族館の近くにいる時は震えていたココさんの震えも止まっている。
中に入ると案の定、お化け屋敷というほどお化けは出てこず、ウーという重低音のサイレンがしきりになっているだけで、何の怖さもない。
明らかな人間がワーっと影から出てきて驚いてくださいと言うように脅かしてくるので全員でワーっと大袈裟に驚いてあげた。
恐らく、お化けが苦手な人にとっては怖いだろう。しかし、面白げもなく四人とも平気だったため盛り上がりに欠けた。
驚かす側のお化けに取っては嫌な客だ。
「めっちゃ面白かったんだけど」
外に出るとアオが笑いながら言った。
「面白かったね、全く怖くないところが。」
ハルは満足げな表情。
「それね、ウケる。」
ははは、
とアオが馬鹿笑いをする表情が昔のあいつと重なって嫌な気持ちがした。
笑う女は大嫌いだ。
「ゲンくん大丈夫だった?怖くなかった?」
どこまでも勘に触る女。
「余裕だよ。バカにすんな」
「じょーだんだよー。ココはー?楽しかった?」
「うん。」
俯いたまま深く頷いた。
「それならよかった。」
ココさんの横顔はいつもより柔らかい表情を作っていた。
よく見ると微笑んでいる。
ココさんもこう言う表情するのか。
おれは笑う女が嫌い。
どちらかというと無表情な子の方がいい。
だから笑わないココさんが好き。
そう思っていたけれど、何故だろう。
ココさんの笑顔はおれに不快感を与えない。むしろ、安心感に近い。
他人の笑顔を見て初めての感覚。
おれは心のどこかで、あまりにも儚げなココさんに対して、笑顔になってほしいと思ってしまっていたのかもしれない。
「つぎいこーー」
それからも、アオの仕切りで次々とアトラクションを回った。
しかしアトラクションを楽しむことよりココさんの表情ばかりが気になる。殆どが無表情。時折見せる柔らかい表情。
コーヒーカップに乗っていてもジェットコースターに乗っていてもココさんの感情を気にしてしまう。
ココさんの笑顔を見て得た安心感。
おれはそれをもう一度、求めている。
「最後、ついに、最恐のジェットコースター!」
今日一番のハイテンションのアオ。
隣のココさんが優しい笑顔をしていたため思わず凝視してしまう。
すると、こちらを向いたココさんと目が合ってしまい、
おれは咄嗟に目を逸らした。
逸らした先に聳え立つ最恐ジェットコースターはあり得ない角度にレールが落ちている。
「これやばいな。」
ココさんと目が合ったことを紛らすために思わず本音が口から溢れてしまった。
「あ、ゲンくんやっぱビビってんじゃん。」
アオにたまたま聞かれていた。
「いや、楽しそうだなって意味な。」
「強がってるー。」
「強がってないわ。」
正直に言うとビビっている。
だがアオに馬鹿にされるくらいなら乗る方がマシ。
「しゅっぱーつ」
前の席にアオとココさん。
その後ろにおれとハル。
腹をくくって乗った最恐ジェットコースターは思ってた以上に最恐で、今日乗ったアトラクションのどれとも比較にならないほどの絶叫をしてしまった。
レールを見てコースターが次にどんな動きをするのか把握すれば対して怖くない、というおれの対策も無残に撃ち砕けるほどにあり得ない方向に曲がっているレール。
先なんて見えやしない。
落ちたり回転したり振り回されたり、
予想外の動きをするコースターに殺されるかと思った。
変な声が出てしまうおれとは対照的に隣のハルは涼しげな表情で楽しんでいた。
「めっちゃ楽しかったねー、もう満足。」
「すごい楽しかったね。」
「ハルくんの声ぜんぜん聞こえなかったけど、ゲンくんらしき絶叫はめっちゃ聞こえた。」
「ゲンは隣で絶叫してたよ。」
「やっぱり。キエエェェって言ってたよね。」
アオがニヤニヤしながら馬鹿にしてくる。腹立つ顔だ。
「キエエェェは言ってねーよ。それはお化け屋敷の看板だろ。」
「ナイスツッコミ。」
ナイスかどうかは置いといて、馬鹿にするのもいい加減にしろと思う。
「水族館、どうする?」
ハルは満足げな顔をして聞いた。水族館は行かなくていいんじゃないかと思っているようだ。
確かに、アトラクションで散々遊び尽くした後に今さらシットリと水族館で魚を眺めるという気分ではない。
「もう遊び尽くした感あるから私はどっちでもいいよ。」
「だよね。もう時間もいい頃だし。ゲンとココさんは?」
「おれも水族館は行かなくていいかなー、」
「…私も、行かなくていいです。」
「じゃあ、決定で。」
おれ達は水族館に行くことなくシーランドを後にし帰途についた。
ジェットコースターに必死になっていたせいで気づかなかったが、太陽の光がすでに茜色になり始めている。気温も肌で涼しく感じるほどに下がって居心地がいい。
茜色で照らされるココさんの無表情な顔はどことなくホッとしているように思えた。
今日一日でココさんの事を沢山知れた気がする。
「楽しかったね。」
ココさんとアオと別れ、ハルと二人で帰りの電車を待っている。
「うん。」
ハルは楽しかったねと言うが、おれは終始アオにイライラしていた。
「ココさん可愛らしいじゃん。」
「知ってるよ。ハルはどうなの?アオのこと気に入ってる感じ?」
「うん、そうだね。僕の事を純粋に好きでいてくれてるのが可愛いと思ってる。」
「なるほど。おれ正直、合コンでの出会いは妥協だと思ってたけどそうでもないな。」
「自分が妥協だと思ってしまったらそこまでなんだよねー。恋はさ、好きかも、から始まるんだよ。妥協からは何も始まらない。」
「何、名言みたいなこと言ってんだよ。ハルが言ったらそれっぽいわ。」
「でしょ。」
ハルは照れもなく、恥ずかしいことをサラッと言う。ハルのこの性格がすごく羨ましい。おれには真似をしようとしてもできないし、おれが真似したところで気持ちが悪いのが目に見えてしまう。
「そういえば、今日ロンは?誘わなかった?」
「ゲンしか声かけてないよ。」
「おれがココさん狙ってるから気を使ってくれた?」
「来るのがココさんじゃなかったとしても、ゲンにしか声かけないよ。」
「なんで?」
「ロン、すごいがっつくじゃん。女の子がひいちゃうくらい。女の子に申し訳なくなっちゃうから。」
「確かに。」
「ゲン呼んで正解だったよ。アオともボケとツッコミで上手く噛み合ってたし。」
「噛み合ってないわ。」
ハルは はは っと笑った。
おれは頭を掻きむしった。
太陽の光は弱々しくなり、駅のホームまでは光が届かなくなってきている。ホームのボロ屋根の白い電灯が点灯した。
夜がくる。夜が終わると朝がくる。
すると仕事が始まり、また一週間が始まる。
休みが終わっていく今の時間帯はおれを憂鬱な気持ちにさせるから嫌いだ。
「あれ、ゲン?」
ハルがいる方向と逆方向から聞こえた声はおれの名前を呼んだ。聞き覚えのあるその声はおれに一気に不快感を与える。声の主に何となく見当がつき、振り返ればきっと不快感は増すだろうからなるべく振り返りたくない。
しかし、
「ゲンだろ?」
おれの思いとは反して声の主は顔の目の前に覗き込んできた。
「やっぱりゲンじゃん久しぶり!」
憎たらしい声。憎たらしい表情。昔と違って髪の毛がくるくるしているが、そいつは紛れもなくセイヤだった。ただでさえ憂鬱だった気持ちに追い討ちをかけるように現れた。
「お、おお、セイヤじゃん。」
驚いた様子で返事をするつもりが、上手く顔を作れず引きつってしまう。
「久しぶりー!何年ぶり?五年くらい?」
「中学卒業以来あってないから十年くらい。」
「そっかそっか、もうそんなかー。ぜんぜん久しぶりな感じせんなー。ゲン変わってないな。横顔ですぐわかったわ。」
「セイヤもな。」
何度もおれを憂鬱にさせた脳裏にこびり付いているセイヤの顔は十年経った今でも変わりなく、おれを憂鬱にさせる。最後にあったのが十年前だという事を気にもせず、一方的に馴れ馴れしく喋ってくる所が昔よりも鬱陶しい。
「ゲンくん、久しぶり。」
セイヤの方向に上体を向けると、視界の隅に女性が映った。
その女性も、雑音のように耳に入ってくる声だ。
「あ、久しぶり。」
長い髪。鼻を刺激する強い匂い。
こちらに振る右手よりも小さく見える顔。丸い目。左右に広がった大きい口。くっきりと見える白い歯。
どこを取っても昔と変わらない、ヒヨリだった。
「ヒヨリも変わらないだろ?」
セイヤがヒヨリの頭をポンポンと叩いた。
「やめてよ、セイヤ。私は大人っぽくなったでしょう。」
「どこがだよ。」
「顔」
「子供のままじゃん。」
「そんなこというけど、セイヤだって子供だからねー。」
「俺は別に子供でいいし」
「素直じゃないなー。そゆとこ子供だよね。」
「うるさいな。」
おれは何を見せられているのだろう。子供だとか子供じゃないとかどうでもいいから早くどこかに行ってくれないかとひたすらに思う。
お前たちの憎たらしい笑顔がおれは大嫌いなんだ。いっそのことこのまま線路に落としてしまおうか。
「あ、ごめんごめん、ヒヨリと話してると周り見えなくなっちゃうんだよね。で、何言おうとしたっけなー。」
セイヤがおれを改めて見て、ない話題を無理に引き出そうとする。
「まだ付き合ってたんだ。」
おれは思わず皮肉っぽく言ってしまった。
「うん、そうそう、意外と長いんだよね。ゲンは?最近どう?」
セイヤが皮肉を返してくる。
本人は皮肉と思っていないところが苛立たしい。
「まあ普通」
「普通ってなんだよー。普通って言ったら俺らも普通だよ。な、ヒヨリ。」
「私達は普通じゃなくて幸せだよー。」
「そうだな。ゲンも幸せになれよ。俺、応援するわ。」
「私も応援してあげる。」
セイヤが笑い、
ヒヨリも笑う。
その顔だ。人を馬鹿にするブサイクな笑顔。
おれを蔑んだような笑顔。
歯を見せるな。
口を閉じろ。息をするな。
目を開けるな。おれの前に立つな。
今すぐ消えろ。
今すぐ殴りたくなる。殺したくなる。
思い切り握った右手の拳。
顔面にぶつけてやろう。
「ゲン、僕忘れ物したからついてきてくれない?」
おれの怒りを冷ましてくれたのはハルだった。
「え、ああ」
「ちょっとついてきてよ。」
「あ、うん。わかった。」
ハルはおれの表情を見て気を使ってくれたのだろう。相変わらず心を読むのがうまい。今にでも殴りかかりそうだったおれを助けてくれた。
ここで殴りかかってたらおれが一番子供じゃないか。
「あ、友達いたんだ。こんにちわ。」
セイヤが白々しく挨拶をし、隣でヒヨリが浅くお辞儀をする。
「こんにちわ、ちょっと悪いけど僕たち行くから。」
ハルはセイヤたちにあっさりと挨拶を交わし、おれを階段へと誘導した。
「ゲン、またな。」
また、があるわけないだろう。
今日は奇跡。
また次に奇跡が起きたとしてもおれはお前達を相手にしない。
「じゃあな。」
セイヤ達から離れたおれはハルに改札前まで連れてこられた。
「ゲン、君はわかりやすいね。」
きっとセイヤとヒヨリに対するおれの嫌悪感は表情に出ていたと思う。
「バレた?」
「バレバレ。ゲンがさ、笑う女が嫌いになった原因ってあの人でしょ。」
ハルの勘の鋭さと観察力は時に恐ろしく思う。今のやりとりだけでそこまで見通されたのか。
「正解、よくわかったな」
おれは嘘はつかなかった。
「何があったかまではわからないけどさ、何となくわかるよ。僕も苦手だなー、ああいう、人を貶して自分達は優越感に浸る感じ。」
さすがハル。人の品定めが一瞬で的確。
「だろ。人が笑ってるの見てるとあれを思い出してイライラするんだよね。」
おれがそう言うと、ハルは頭をぽりぽりと掻いて、うーん、と言った。
「あれは確かにイライラするよ。」
「忘れられない憎たらしい笑顔だろ。」
「イライラする、だからこそやっぱり他の人の笑顔をあれに重ねたらダメだっては思うけどね。」
「それはわかってんだけどさ、勝手に出てくるんだよあいつら。」
「宇宙人だから。あの人達は宇宙人。僕たちは人間。別の生物って思ったらいいよ。」
おれはハルが何を言いだしているのかわからなかった。
「…うーん、むずいな」
「あの人達はあの人達。僕達は僕達。あんなに視野の狭い人達を重ね合わせて自分の視野まで狭くしない方がいいよー。」
ハルは恥ずかしげもなく名言らしい事を言う。
それが今回も的を射ていると思った。
「確かにハルの言う通りかもしれないけど。」
今更、言われて忘れられるとは思わない。この十年、あの日のことを忘れた事はないから。
「別に深く考えなくてから、気楽に聞き流して。僕はカッコつけたいだけ。」
「ありがとう、ハル。」
「どういたしまして。今日初めてあの人達に会って思ったけど、あれは宇宙人だよ。」
「ハルが言うなら間違いないわ。」
おれは思わず、アオみたいな言葉を言ってしまったが、
恥ずかしくはなかった。
心から信頼できるハルの言葉は、それ程におれの中で重みがあったから。
「ハル、ありがとうな。」
「二回目だよ。」
ハルはいつもの優しい表情で笑った。
おれも、つられて笑った。
久しぶりに笑った気がする。
たまには笑うのも悪くない。
おれのことを心配して助言してくれるいい友人を持てておれは幸せ者だ。
次の日。
おれの前には野菜をふんだんに使った豪華なディナーと、ココさんがいる。
どうしてこうなったか。
それは遡ること二十時間ほど前。
ハルと別れて帰宅したおれはスマホにラインが来ていることに気がついた。
〉今日はありがとうございました。ココ
ココさんがラインしてきてくれたのだ。
おれは即座に返信した。
〉こちらこそ。楽しかった。また遊ぼう。
するとココさんからもすぐに返信があった。
〉私も楽しかったです。私、男性恐怖症なんですけど、ゲンさんとは不思議と目が合わせられるんです。不思議です。
対面しているとなかなか話さないが、ラインだと饒舌になるココさん。
おれはココさんが心を少しずつ開いてくれているのだとわかり嬉しかった。
〉嬉しいな。実はおれも笑う女性嫌いだったんだけどココさんの笑顔は大丈夫だった。不思議と。
返信を打って、ハルの言葉を思い出した。
自分の視野まで狭くしないほうがいいよ。
ココさんのおかげでおれの視野は少し広がっているのかもしれない。
〉嬉しいです。もしよければ今度二人で何処か行きませんか。ゲンさんといたら男性恐怖症治るような気がするんです。
ココさんからのお誘い。
これほど嬉しいことはなく
もちろん断る理由はない。
〉ぜひ。行こう。なんなら明日、仕事後でも。
ダメ元でいったつもりだったが、
〉はい。明日、大丈夫です。
思ったよりうまくことが進んで、本当にラインの相手がココさんなのだろうかと疑うほどだった。
それから今に至るわけだが、
前に座っているのは、間違いなくココさんだ。
「これ、うまいね。」
滅多にこないオシャレな店。
ココさんの前でカッコつけようと思ってこの店を予約した。
滅多に食べないような料理。
食べ方に迷いながら口に入れると間違いなく美味しかった。
「…はい。美味しい、ですね。…予約してくれて、ありがとうございます。」
やっぱり面と向かって喋るとまだ少し言葉が詰まってしまうココさん。
「いえいえ。ココさんが気に入ってくれたなら良かった。」
ココさんが大きめのナスをナイフで一口大に切り、フォークで刺して口に運ぶ。
ちょうどいい大きさのナスは唇にあたることなく吸い込まれるように口の中に入った。
おれはというと、豚肉に添えられている野菜はぐちゃぐちゃに混ざり合っており、出てきた時と同じ料理だとは思えないほどの散らかり様。
「ココさん食べるのうまいなー。」
「…ありがとうございます。」
丁寧な手つきでナイフを扱い、上品にフォークで口に運ぶ。
おれの食べる料理より、ココさんの食べる料理の方が美味しそうに見えた。
「ゲンさん、私、ゲンさんなら話せる気がします。」
ココさんが料理を口に運ぶ手を止めて顔を上げ、おれと目を合わせた。
「ん、何を?」
おれも手に持っていたフォークとナイフを一度置き、ココさんをじっと見る。
初めて会った日より目におどおどした感じがなく、堂々とおれと目を合わせられている。見れば見るほど吸い込まれて行きそうな気がしておれの方が目を逸らしてしまいそう。
「…私の、昔のこと。」
今までの声のトーンより少し下がって、眉も少し下がった。
「無理、しなくていいよ。」
「いいえ…。無理じゃないんです。ゲンさんに知ってほしいんです。…迷惑、ですか?」
ココさんが男性恐怖症になったきっかけの出来事だろう。彼女がおれをどう思ってくれているのかはわからない。おれに話したら気が少しでも楽になるなら、おれに何かできるなら、聞いてあげたい。
「聞かせてくれる?」
「はい。」
水を一口飲んでココさんがゆっくりと話した内容はおれの想像を超えて、衝撃的な内容だった。
「…私、彼氏が元彼に殺されたんです。」
「え、」
言葉が出てこなかった。何と言ったらいいのかわからない。
「元彼は、怖い人でした。私に近づくために、私の鞄にスマホを忍ばせてくるような人でした。…私は、それを、知らずに、付き合って…」
彼女の肩が震える。
話すのをやめて、一度、水を飲んだ。
「辛かったら、話さなくていいから。」
彼女は首を横に振って続きを話し出した。
「その人と、別れた後、違う人と付き合ってました。友達のように接してくれる、一緒にいて過ごしやすい人でした。あの日も、いつものように、笑ってて。そしたら、…」
思い切り握りしめる拳がテーブルの上で震えている。
次の言葉を発するのに時間がかかり、詰まったものを吐き出すように続きを吐いた。
「…駅のホームで…電車が来る瞬間に、落とされたの。カイくんが…。彼氏が。」
ココさんは今まで堪えていた大粒の涙を抑えることができなくなって溢した。
拭っても拭ってもぬぐいきれない涙が彼女の目から溢れていく。
おれはかける言葉が見つからないまま、ただ彼女の流す涙を止めようとハンカチを渡すことしかできなかった。
「ごめんなさい。」
彼女が謝り、おれは胸が締め付けられた。
おれはここで何か言わなければいけないと思った。彼女を絶望から救える言葉。けれど、
「大丈夫、これからはおれがいるし、おれが守るから。」
おれの口から出たのは何の自信もない軽い言葉だった。
「…ありがとうございます。」
涙を流しながら見せた彼女の不器用な笑顔は、おれをまた笑顔嫌いにさせそうな儚い表情だった。
料理は食べきれずに店を出た。
二人で駅のホームで電車を待っている。
暗く、寂しく、頼りない電灯がたまにチカチカと点灯しながら、おれとココさんだけを照らしている。
電灯の光にぶつかっては離れ、ぶつかっては離れてを繰り返す細かい虫のように、おれの喉元まで出てきてはもどっていく言葉達がなかなか口から出てきてくれない。
ココさんとおれの沈黙を破ってくれたのは駅のアナウンスだった。
''電車が通過します。危ないですから黄色い線の内側までお下がりください。''
「ココさん。」
アナウンスの声に押されるようにやっと声をかけた。
「…どうしたんですか?」
次の言葉は決めていた。この流れでそのまま口からださなければ。
「あのさ、おれ、ココさんが好きだ。」
言った後に恥ずかしさが込み上げてきて、ココさんの顔を見れず、そのまま下を向いてしまう。
「ゲンさん、嬉しいです。」
顔を上げて恐る恐るココさんを見ると、微笑んでいた。
まっすぐ、おれを見て、歯を見せて微笑んでいる。
おれは、好きだ。
ココさんの、その笑顔が。
ココさんの笑顔のおかげでおれはやっと、セイヤ達を忘れられそうだ。
やっと、笑顔を見て笑顔で生きていけそうだ。
「ありがとう、ココさん。」
あれ?
ココさんが一瞬にしておれの視界の中から横へ飛んでいった。
さっきまでココさんが立っていたはずの位置に手を突き出した男が現れる。
「ゲンさん!」
「ココさん!」
駆け寄って手を伸ばそうとした時には既に遅く、
スピードに乗った鉄の塊がけたたましい音を引き連れて彼女にぶち当たった。
ゴパン。
鈍い音がし、ココがバラける。
ホームにいた人間が叫び声をあげる。
おれは振り返り、手を伸ばしたまま立ち止まっている男を見た。
男は和やかな表情でこう呟いた。
「最初からこっち落としとけばよかった。これでもう誰にも盗られない。」
「ああああああ!」
おれは男を殴り倒し、首を絞めた。
抵抗することなく大人しくおれに首を絞められる男は笑みを浮かべ、
白目を向いて死んでいった。
おれは一生、その笑顔を忘れないだろう。




