8
目を覚ますと、もうそこは破壊された街では無かった。ルビー・チューズデイ目に写るのは、完全な闇だ。頭の上から何かを被され、視界を奪われている。ザラザラとした荒い布が鼻にあたっていた。麻袋だろうか。袋は首もとで少しキツめに縛られており、呼吸がしにくかった。口と鼻とで必至に呼吸する度、ザラザラとした布が肌をこする。鼻の頭が痛い。
両手も後ろで縛られ、椅子に括り付けられていた。試しに手足をジタバタと動かしてみたが、まったく動かせる様子も無かった。完全に拘束されている。どこへ連れ去られたのかは分からないが、自分の身が危ういということだけは、容易に推察出来た。
それからして、チューズデイが目を覚ましたのに気づいたのだろう。誰かが麻袋を縛っていたヒモを解き、それから無理矢理に袋を取り払った。刹那、チューズデイの視界には強烈な光が射し込んだ。目がまだ光に慣れていない。電灯の光がカメラのフラッシュの如く彼女を襲った。目をしばたたき、刺激を軽減させる。
「ようやく目覚めたようだな、CIAの殺し屋」
どこかで声がした。
感覚がまだ上手く戻ってこず、寝起きのような状態だ。そんな中で相手の位置を正確に測るのは難しかった。目も上手く機能しなければ、聴覚もろくな働きをしていない。また薬を盛られたのか、とチューズデイは一瞬思った。
しかし、まだそれだけなら良かっただろう。
次の瞬間、彼女の顔に大量の冷水が浴びせられたのだ。濁流の如く襲いかかる冷えた水。バケツごと一気に浴びせられたそれは、正真正銘、ただの冷水だ。目覚めたばかりの女を無理やり覚醒させるには、ちょうどいいのだろう。
冷水の衝撃で、チューズデイの視界は一挙に晴れた。まつげに大粒の滴が現れたせいで少しだけぼやけてはいるが、しかし先ほどよりはマシだ。無理矢理に脳を覚醒させられた。息が上がり、頭が混乱している。なにが起きているのか、まだ体と頭が理解出来ていない。
そうしてようやく役割を果たし始めた目が、声の主を捉えた。その男は、チューズデイもよく知っている人物だった。ハディア・ハールーン・アフマド。ASISのリーダーにして、各国では極悪人として取り上げられる、希代のテロリスト。その悪名は、全世界に轟いている。いまや世界中の多くの人間が、彼が引き起こすテロ行為に恐怖し、怯えているほどだ。
彼の英語は訛りが強く聞き取りづらかったが、しかしそれでもまだマシな方だった。
拷問部屋、とでも言うべきだろうか。通常、中東のテロリスト集団といえば、廃墟のような砂壁の家を彷彿とさせるものだが、しかしいまチューズデイが拘束されている部屋は、そんなものでは無かった。近代的な、防音が施された部屋だ。壁は黒く、金属で出来ているようだった。中央には簡素な椅子があり、チューズデイはいまそれに括り付けられている。腕には鉄製の手錠。足にも同じく枷がはめられており、まともに歩くことは出来ない。
アフマドとその補佐役らしき男は、窓ガラスを挟んだ向こうの部屋にいた。ガラスは防弾仕様らしく、かなり分厚いものだ。彼らはそのガラスの内側から、マイクを使ってチューズデイに語りかけていた。居場所がよく分からなかったのは、そういうことだ。
「お前が来るのを待っていた。あの男……ジハーディ・ハリーを来させた時からな」
「あなたたちは、あの男をそんな呼び方で呼ぶのね」
寝起き早々、チューズデイは言ってやる。
部屋のすみには、例のムミートが立っていた。彼の隣には水を張った巨大な浴槽と、バケツとが置いてある。先ほどチューズデイに掛けられたのは、それだった。ムミートは目を怒らせながら、手に持った鉈を器用に回している。
「やつを追って、CIAが来ることは分かっていた。あいつがCIAのスパイにせよ、我々に寝返った裏切り者にせよ、どちらにしてもだ。ともかく私には、私の敵となる米国人が必要だった。何故か分かるか?」
「……さあね」
「核攻撃の為の理由だ。私は、CIAが送り込んだ殺し屋によって殺された。そういうことにする。そして、我々は報復として核を撃つ。私は地下に潜り、そして第三次世界大戦が始まるんだ……! かつて二次大戦が暗殺により始まったようにな。お前は、飛んで火にいる夏の虫さ。我々はこれより核を撃つ。お前は、自分の愛する祖国が灰になるのを、指をくわえて眺めているといい」
アフマドがそういった瞬間、鉄製の黒い壁だと思っていたものが、急に透けたように映像を映しだした。そしてそこには、ミサイルサイロの映像が映し出されていた。巨大な弾道ミサイルが、今にも発射されようとしている。
だが、このアフマドという男は一つ勘違いをしていた。
「……どうぞ、撃ってみなさい。だけど残念ながら、私はCIAの資産ではないの」
「なんだと?」と、アフマドが驚いたように言った。
しかし、すぐに彼は冷静さを取り戻し、
「まあ、どちらでもいい。お前はCIAのスパイ。殺し屋。そういうことにする。そして、お前はこの私を殺した。その報復として、我々は核をアメリカに向けて撃った。そして私は、地下へ潜る」
「それが、シンジケートがお前に示した筋書きか」
「そうだ。彼らはすばらしい組織だ。利害関係の一致というわけだな。私はアメリカに一矢報いたいのだ。そして、その上で自らの安全を確保する。我々の理想の為に。一方のシンジケートは、第三次世界大戦を引き起こしたいのだ。そのための起爆剤として、我々は彼らにとって有用なのだよ」
「なるほど」チューズデイはうなずき、苦笑する。「シンジケートって、どれほどの組織かと思っていたけれど。陰謀論じみたことをいう連中なのね」
「さて、それはどうかな」とアフマド。
彼は嗤いながらマイクから口を離すと、「ムミートあとは任せた。コイツが私を殺したように仕向けろ」とつぶやいた。
「御意」と低い声で、ムミート。
彼は再びバケツを持つと、部屋のすみにある水道から水を入れ、そしてまたチューズデイに投げかけた。
水が彼女の顔を殴りつける。着ていた野戦服はもう完全にはだけ、下着として着ていた黒のタンクトップだけになっていた。耳を打ち付ける冷水。その音が、脳内でガンガン響いている。
「さあ、楽になろうぜ」とアラビア語で、ムミート。「お前が『私がアフマドを殺した』といえばすべてが終わるんだ」
「自白だけで世論が信じるとでも?」
「分かっているとも。だからお前の愛銃は奪わせて貰った。軽狙撃銃に消音拳銃、これだけの装備をしておいて、暗殺以外のなにが目的だというんだ?」
ムミートはバケツを持ち上げ、怪しげに笑った。巨漢の男が、黄色い歯を見せて微笑む。右手には鋭利な鉈。その鏡面が如き刃が、チューズデイの塗れた顔を反射する。
四壁に映し出された映像。埋め込み式のパネルディスプレイとなった部分が、核発射までのカウントダウンを続けている。
「さあ、時間はある。じっくり楽しもうぜ」
巨漢の執行官、ムミート。彼の拷問術は、シンプルだが、しかし効果的なものであった。つまり、水責めだ。よく映画では、電気椅子が用いられ、その電撃と激痛とで拷問をするシーンがある。その方法も、確かに過去に存在しなかったわけではない。一定の効果もあると示されている。だが、その運用にあたるコストを鑑みると、あまり有効な手段とは言えなかった。その一方で、ムミートの手段に使うのは、冷えた水だけだ。
彼の拷問方法は、本当にシンプルだった。縛り付けたチューズデイの後ろに大きな水槽を置くと、彼女の顔を押し倒し、水の中に突っ込んだのだ。顔を上にして着水したチューズデイは、その途端、鼻と口に水が入ってしまった。激痛が喉を走り、ツンとした痛みが脳にまで響く。その痛みのせいで、窒息への恐怖を押さえることが出来なかった。激痛と、目前に迫る窒息死という現実。それが彼女の恐怖を煽る。
チューズデイは、この拷問方法のねらいはそれだと、分かっていた。一般的な外傷を与えるような拷問術。たとえば電気椅子やむち打ちといったものは、確かに痛みは伴うが、「目前に迫る死」というものを演出するには適さない。一方で窒息を狙うこの方法は、そういった死を演出するのに適している。そうして死を回避させる為に、情報を吐くように強要するのだ。もっともこのときは、情報ではなく自白であったのだが。
髪を掴まれ、無理矢理に水の中から引きずり出された。顔に水が張り付いている。水滴が体にボトボトと垂れた。下着の黒のタンクトップまでびしょ濡れだ。そんなことを気にしている余裕は無かったが、だがチューズデイとしては、余計なことに注目することで、死というものから目を反らしたかった。
頬が青ざめ、息も荒くなったチューズデイを見ると、ムミートは得意げな顔をした。
「アムリーキー、お前がボスを殺したんだ。そうだろう? CIAがお前に与えた任務は、アフマド様とジハーディ・ハリーの暗殺だった。違うか?」
「……ハディア・ハールーン・アフマドなら、まだ生きているでしょう?」
「いいや、お前が殺したんだ、そうだろう?」
再びムミートが問うた。高圧的な彼の物言いは、自白を誘う強情な刑事のようだった。
「……アフマドは生きている。そして、核を撃つ気でいる。シンジケートとかいう組織と結託して」
「黙れ、この売女が!」
神も思わず顔をしかめてしまうような、汚い言葉が出た。
ムミートは、再びチューズデイの顔を水の中へ沈めた。だが、今度のチューズデイは先ほどのような失態はとらなかった。息は完全に止め、目も閉じる。水中に無理矢理沈められるも、彼女の頭は平静を保ったまま。ムミートが演出しようとする死を、自らの元へと招き寄せ、一体化する。彼が演出する死など、まやかしだ。
やがて呼吸が続かなくなりそうになったが、ムミートとて窒息死させるわけにはいかない。さすがに苦しくなってくると、ムミートも力を抜き、チューズデイを無理に引き起こした。窒息を間際にすると、酸素が脳に行き渡らず、思考もぼんやりとしてくる。現に冷静さを保とうとしていたチューズデイだが、流石に三分を過ぎると意識が朦朧としてきた。ムミートに何か一言言ってやろうと思っていたが、それも頭が上手く回らず、思い出せなかった。
「答えろ、CIAの女! お前の任務はなんだ!」
「……さあ、何だろうか」
「もう一度問うぞ、お前の任務は何だ」
ムミート、右手に構えた鉈を遂に振りかぶった。その切っ先をチューズデイの首筋へ向ける。だが、それは彼にとって失敗だった。
刃を近づける為に寄ってきたムミート。チューズデイは、彼のその彫りの深い巨大な顔めがけて唾を吐きかけた。彼の眉間に泡だった唾が張り付く。
むろんそれがムミートの怒りを買うとは、チューズデイにも分かっていた。それを承知でやったのだ。チューズデイが思うに、この男は短気で、殺しに飢えている。処刑人としては一級品かもしれないが、しかし拷問官としては三流だ。
怒ったムミートは、明らかにそれと分かる顔でチューズデイを睨みつけた。それから、鉈を持っていた手を下ろして、代わりに足をつきだしたのだ。チューズデイの腹を、思い切り蹴ったのである。
突き飛ばされるチューズデイ。拘束された彼女には、受け身を取ることすら出来ない。ムミートの巨体から繰り出される強烈なキックは、チューズデイだけでなく、後ろの水槽まで吹き飛ばした。
水がこぼれ、モダンな拷問部屋の床をぬらした。黒い床に、鏡面が如く水が流れた。床には排水溝の機能が備わっているようだったが、流れるのが間に合わず、そこかしこに水たまりが出来ていた。水たまりには、ディスプレイの映像が反射していた。核の発射まで、あと二十分。映像の端にあるカウントダウンは、そう告げていた。
水槽を元の位置に戻すと、ムミートはまた再び冷水を入れ始めた。それから、部屋の扉が開いて野戦服の男が入ってくる。男は大量の氷を持っていた。どうにもムミートが持って来させたようだった。
ムミートは、氷の入った水風呂を作ると、チューズデイを起こし、また水槽の前に座らせた。そしてチューズデイの首を掴む。
だが、その前に彼は言ったのだ。
「おい、お前」
その「お前」が指しているのは、チューズデイでは無かった。氷を持ってきた歩哨だ。黒のバラクラバで顔を覆った男は、空になったバケツを手に拷問部屋から出るところだった。
「……何でしょうか」
バケツを持った彼は、痰でも絡んでいるようなしわがれた声で言った。
「別に気にすることはねえぞ」とムミート。「お前が誰か、俺には分かるぜ。ハリー?」
そのとき、バケツ持ちの男の肩がひくついたのを、チューズデイは見逃さなかった。
思えばこの兵士が話すアラビア語には、奇妙なアクセントがあった。自白剤と拷問とで意識が朦朧とするチューズデイだが、ぼんやりとその違和感は聞き取れていた。
まもなく、ジハーディ・ハリーことコードネーム・サタンは、バラクラバを外して、その顔をムミートに見せた。間違いなく、彼だった。
「別にあんたの邪魔をしにきたわけじゃない。ただ、俺を殺しに来たCIAの殺し屋がどんな目にあっているのか、見たかっただけだ」
「なるほど。わかるよ」
ムミートは不敵な笑みを浮かべて、サタンの言葉に応えた。ムミートの顔には、何か「いいこと」でも思いついた時のような、そんな含み笑いがあった。
「俺も処刑人だ。ハリー、お前の気持ちは分かる。長く殺しを続けていると、それが楽しくてたまらなくなるんだ」
「その気持ちは分からないが。……でも、俺を殺そうとした奴が痛い目をみていると思うと、胸がすっとする。人間ってのはそういうものだろう、ムミート?」
「まさしく」
その会話を聞いて、チューズデイは思わず笑ってしまった。彼らには、もはや神の摂理などありはしない。純粋に暴力を楽しんでいる。そこにはもはや、かつての救いの教えはない。あるのは、圧倒的な暴力だけ。本末転倒だ。
嘲笑のような笑みを浮かべるチューズデイに、ムミートが気づいた。
「女、なにがおかしい?」
「何もかもよ」
「……どうやら、お仕置きが足りないらしいな」
彼はそういうと、一歩チューズデイへ近づく。それから「そうだ」と思い出したかのように口にして、今度はまたジハーディ・ハリーの方を向いた。
「ハリー、お前も一回やってみるといいさ。スカッとしたいんだろう?」
「いいのか?」とサタン。
ムミートは黙ってうなずき、チューズデイから数歩下がる。その代わりに、サタンがゆっくりと近づいてきた。彼はチューズデイのすぐそばまでやってくると、首をつかみ、それから耳打ちが出来る距離まで口を近づけた。
彼はチューズデイに囁いた。
「吐くんだ。もう時間は無い。俺が何とかする」
直後、サタンの右腕が一気にチューズデイを押し倒した。
氷の浮かべられた水槽へまっさかさま。痛いほど冷たくなった水が、チューズデイを死へ誘う。目前に迫る死の恐怖。だが、これはあくまで演技だと、チューズデイには分かっていた。今のサタンは敵ではない。何かしら作戦を考えて、ここまで来たに違いない。
しばらくして、サタンはチューズデイを引き起こした。限界まで水に漬けられていたせいで、彼女の息はあがっていた。氷のせいで顔が赤く染まっている。
「どうだ、もう吐く気になったか、雇われ?」サタンが言う。
チューズデイは、しばらくのあいだ呼吸を整えてから、サタンを見た。彼の瞳は、「いいから吐くんだ」と彼女に語っている。
息を整え、ようやく喉から言葉を出せるようになった。
「……私が、アフマドを殺した」
ぼそり、と囁くチューズデイ。
部屋の奥でムミートが微笑んだ。彼は仕事を完遂して満足しているようだった。
「なかなかスジがいいじゃないか、ハリー」
「そりゃどうも。……ところでムミート、この女はもう用無しだろう?」
「ああ、そうだが……。なるほど」
訳知り顔で、ムミートはまた笑う。そして、彼は右手に持った鉈を差し出したのだ。
「いいだろう。お前が殺すといい」
「ありがとう、ムミート。恩に着るよ」
言って、サタンはムミートから鉈を受け取った。そして、チューズデイの方へと振り向こうとした――その時だった。
瞬間、サタンは踵を返し、ムミートに振り向く。同時、ムミートの首に狙いをすませ、鉈を横に薙いだのだ。鮮血がほとばしった。真紅の液体がムミートの野戦服、それからサタンを濡らす。首を切り裂かれたムミートは、呆気なくその巨体を地面に倒した。まもなく床には血溜まりが出来て、そこにまたディスプレイの映像が反射した。核発射までのカウントダウン。残り一〇分。
ムミートを殺したサタンは、手に持った鉈でチューズデイの手錠、足かせを破った。
「急ぐぞ。もう時間はない! 核発射まで一〇分しかないんだ!」
「だが、ミサイルサイロまでどうやって潜入する?」
チューズデイは、壊れた手錠を外し、ムミートが持っていたカラシニコフを取り上げる。
拘束は脱した。だが、いまから間に合うというのか。ディスプレイでは、もう核発射の準備はほとんど整ったとある。俯瞰で撮られたミサイルの映像には、せわしく準備をする作業員の姿が見えた。
「どうもこうも、アフマドは最大の失態をしたんだ」
「最大の失態だって?」
「ああ、そうさ」
サタンはカラシニコフを持ち、拷問部屋の扉に手をかける。
「潜入も何も、ここがASISの地下秘密基地。ミサイルサイロだ。アフマドの失敗は、CIAの諜報員に、祖国に向けてミサイルが撃たれる瞬間を間近で見せようとしたことさ。まあ、アンタは雇われだけどな」
ドアを蹴破り、サタンは外へ出る。
拷問部屋の先、廊下もまたグレーのモダンな作りだった。五〇メートル以上は続いているであろう長い廊下。その先には、水密扉のような厳重なドアが見えた。
「ミサイルサイロはこの先だ。行くぞ」
サタンが先陣を切る。
こうなっては、後戻りも出来ない。チューズデイはうなずくと、殿をつとめた。