7
ハリー・ライダー。暗号名・サタンは、皮肉にも自らチューズデイの目の前に姿を現した。だが、それによって彼女の暗殺計画は、すべて水泡に帰した。
両手を上げるチューズデイ。その眼前には、国を裏切った元CIAエージェントがいる。サタンは、さすがにASISへの潜入を許されただけはあるのだろう。抜け目ない男だった。両手を上げさせたチューズデイから、すべての銃を奪い、ナイフまでも奪い、丸腰の状態で伏せるように命じた。脱出の機会をつぶす為だ。
しかしチューズデイとて、それに易々と従うほど阿呆ではない。ボディチェックの後、最後のナイフまで奪われると、彼女は脱出の方法を練るようになった。
「腹這いになれ」
カラシニコフを構えたまま、英語で言うサタン。
しかし、チューズデイはそれには従わなかった。
一瞬、膝をついてうつ伏せになろうとしたが、その瞬間、彼女は右足をバネのように伸ばして跳躍すると、サタンの懐へ飛び込んだ。警戒していた彼も、一瞬の出来事に驚きを隠せないようだった。
一挙に近づき、サタンが驚いている間にすべてを済ます。奇襲は奇襲でしかない。二度目は無いのだ。すべてを一撃でしとめる必要があった。懐へ潜り込ませた体を、ぐんと上へ伸ばす。それに合わせてサタンの腹に一発、アッパーを喰らわせる。胃をつぶされて唾を吐く彼を後目に、チューズデイは流れるような動きでサタンの腕を掴む。そして、カラシニコフのマガジンリリースボタンを押し、弾倉をリリース。撃鉄を引き起こして、薬室内に残った一発を外へ放り出した。この間、二秒とない。
一瞬の出来事だった。ようやく事態を把握したサタンが、サイドアームであるマカロフを抜こうとした。だが、それよりもチューズデイが彼を組み伏せる方が早かった。押し倒され、仰向けになるサタン。チューズデイは勢いそのまま、コンクリート片が散らばる床の上を滑る。そして、投げ捨てられた自分の愛銃、スターム・ルガーMkⅢを拾い上げた。
組み伏せたまま、銃口をサタンのこめかみへ押しつける。
「コードネーム・サタン。いや、ハリー・ライダーだな」
「……どうして俺のことを……」
「私の狙いは、お前だからだ」
「なるほど、CIAの殺し屋か。いずれ来るとは思っていたよ。まったく、祖国に裏切られた男は辛いね」
「裏切ったのはお前だ、サタン。私の目的は、裏切り者を殺すことだ」
チューズデイがそういうと、しばらく沈黙が続いた。やがて朝日が昇り始め、礼拝客がぞろぞろと現れ始めた。
沈黙を先に破ったのは、サタンだった。
「……待ってくれ、あんた、その声はボンド……いや、ルビー・チューズデイか?」
「……私のことはどうでもいい。お前は、ここで死ぬのだから」
「待ってくれ。あんたは、ルビー・チューズデイだ。あのとき、俺を逃がしてくれたエージェントだろう?」
そのとき、チューズデイの脳内で、いま再びニューロンが激しく動き始めた。電気信号が脳内でざわめきあう。そして、消されたはずの記憶のピースが、徐々にその姿を現し始めた。
「……お前を殺す前に、一つ問いたいことがある」チューズデイは、偏頭痛のような痛みに耐えながら言った。「私は、何故お前を逃がした?」
「忘れたのか……?」
不安そうにサタンが言った。
彼は、その浅黒い肌を青くさせ、何か強大なモノを恐れているかのようだった。それこそ神への畏敬の念近い。しかし彼が恐れていたモノは、神よりも物質的で、現実的な効力を持つ、凶悪な存在だった。
「核だよ。ASISは、核兵器を持っているんだ。俺は核について調べる為に、ASISに深く潜入する必要があったんだ」
ASISは核を保有している。
その言葉に、チューズデイも恐れを抱かずにはいられなかった。MkⅢを持つ腕も、微かに震えている。
「……だが、ASISが核を持っているとして、どうしてCIAを裏切る必要があった」
「上層部にもみ消されたからさ。俺が提出した核に関する資料は、すべて抹消された。まるで、核なんて存在しないとでも言うように。だが、奴らは確実に核兵器を保有していて、それをアメリカに撃つだけの覚悟もあった。連中の目的は、武力によるイデオロギーや、民族主義、革命の達成なんかじゃない。純粋な報復……殺しだ。殺し目的なら、やつらはお構いなしに核を撃つ。NY市内に潜伏するASISと行動を共にしていたとき、『アメリカに核攻撃を仕掛けるため、他のテロ行為は中止せよ』との命令があった」
「……『真の裁き』というやつか」
「あんたも見たようだな。……連中はどこからか劣化ウランを得ていた。出所がわからないが、おそらくイスラエルだと言われている。それに弾道ミサイルもだ。旧式だが、ソ連の遺物を持っている。あとは起爆装置さえあれば、長距離弾道ミサイルに核を積むことが出来た。俺は、その情報をCIA上層部に伝えた。だけどすぐにもみ消されたんだ。核があるのは事実なのに、だ。……それで俺は、独断でASISの最深部へ潜入。核のありかまでたどり着き、それを破壊することを決めた」
「愛国心の塊のような人間だな、お前は。ニード・トゥ・ノウの法則ではないのか?」
「……その台詞は、前にあんたにも言われたよ。金で動くスパイ、ルビー・チューズデイ。……でもあんたは、俺の考えに賛成して、俺を逃がしてくれた」
「……そうらしいな」
チューズデイは相づちを打つと、脳裏に記憶が蘇って来るのを感じた。
ことの顛末は、何とも馬鹿らしいことだった。そうだ、あのとき、チューズデイがテロの実行犯を見つけた時、その場にサタンは居合わせていた。そして、互いに銃を向け合った。しかし、サタンは説明したのだ。自分は祖国の為に孤独な戦いをすると。CIAの上層部は何かを隠している。ASISに核を撃たせるつもりなのだ、と。
チューズデイもそれを了承した。それは何故か? それは、あまりにも情報のもみ消され方が不自然だったからだ。そのうえ、核への対抗策が、同じ核による相互抑止というまま、アメリカの発想は止まっていた。いや、止められていたのだ。……ある組織によって。
そして、チューズデイは自白剤と催眠、記憶混濁による拷問を受けた。しかしそのとき、彼女の深層意識には、「サタンが逃げた理由を話すな」という強い強迫観念があったのだろう。それは、彼に目的を遂げさせるため。あるいは、CIA内部のきな臭いセクションに対して、無知な自分を見せるためだ。多くを知りすぎた人間は、消されるのが常だ。そのために彼女の記憶は、彼女の不可知の内に、サタン逃亡の理由を「知らなかった」ということにしたのだ。
「俺の情報をもみ消した組織は、シンジケートと言った」サタンがぼそぼそと話を続けた。「そして、どうにもASISに武器を与えている組織も、シンジケートと言うらしかった。すべてはリベレーターの社長を糸口に聞いた話だ。その組織が、何か陰謀を企んでいる。俺は……そのために祖国に核が撃たれるのは勘弁だった」
「だからCIAに追われることは覚悟で、ASISの幹部クラスにまで潜入した、と」
「もちろん代償はあった。彼らは、忠誠と信用の証として、核ミサイルの起爆装置を求めた。さもなくば殺すと。情報か死か、だ。そして俺は、要求通りそれを用意した。DARPAのファイルから盗んだんだ。祖国を売った。祖国を守る為に」
「それで、ミサイルの情報は得たのか?」
「ああ。連中がラッカを未だ手放さないのは、それが理由だ。ここから北西へ二〇キロ行ったところの地下にミサイルサイロがある。そこに核がある」
「なるほど。裏切っただけの収穫はあったわけか」
「ああ。……それにしても、行きつけの店の親父から、怪しいやつが俺を探してると聞いて、ついに俺の運もここまでかと思ったが……。よもや、殺し屋はあんただったとは。俺は……俺は不信神者だが、それでも神を信じたくなったね」
あきれた。
眼下で礼拝が行われていたが、その様子と見比べても、サタンという男がひどく滑稽に見えた。底抜けの阿呆な愛国心が、彼をここまで駆り立てた。自らの命をなげうってでも、祖国への核発射を阻止したいという願い。それはかなりリスキーな行為であったが、しかし彼にとっては最高の栄誉であるのだろう。チューズデイには、この男が英雄願望を持った馬鹿に見えていた。そして、その実そうであるようだった。
しかし、それにしても気になる点がいくつもある。まず始めに、シンジケートという組織の存在。チューズデイは、それはASISを指す隠語だと考えていたが、どうにも違うようだった。そのシンジケートとやらは、サタン曰く、CIAの上層部にまで影響力があるらしい。そして彼らは、ASISに武器を与えるだけでなく、ASISにとって有利に運ぶようCIA内部の情報操作までやってのけている。それがASISに内通した組織なのか、それとももっと強大な何かなのか……。それはまだわからないが、正直、恐るべき組織だとチューズデイは思った。もっとも、そのような組織が存在していれば、の話だが。
しかし一つだけ確かなのは、核という目前の脅威が迫っているということだ。
「サタン、ASISがいつ核を撃つつもりか、わかるか?」
「三日後と聞いた。俺が渡した設計図を元に、起爆装置が出来たらしい。それが搭載されたら、もうすぐにでも連中は発射ボタンを押すはずだ。苦しめられた報復だと、そう言って」
狙いはニューヨークか、D.C.か。いや、今更そんなことはどうでもいい。チューズデイは、サタンのこめかみに当てた銃をおろし、彼に言った。
「予定変更だ。お前を殺す前に、先に核をつぶす」
そうでしければ、報酬を支払う連中が蒸発する。
大幅に予定が狂った。何か悪いことが起きる予感はあったが、しかしそれが核兵器だとは、チューズデイも予想だにしていなかった。
二人は早朝、集団礼拝の最中、廃ビルの中で情報交換を続けた。一時休戦とした二人は、互いに向けていた銃口を下ろすことにしたのだ。
サタンは、今までの潜入活動で得た情報のほとんどをチューズデイに教えた。ミサイルサイロの位置。発射されると思しき時刻。そして発射の際、ASISのボスであり、自らを預言者であると名乗った男、アフマドが現れるという情報も。初めはチューズデイの失笑を買った彼の間抜けな正義感も、その本気さが分かってくると、現実味を帯びてきた。
もし、核ミサイルごとアフマドを叩くことが出来れば、それこそサタンは、真の愛国者として祖国へ返り咲けるに違いない。もっとも、彼はすでにCIAではお尋ね者であり、彼を殺すことはチューズデイの中でも確定事項であったのだが。
ミサイルサイロへの侵入は難しく、さらに言えば、シンジケートという謎の組織が一枚噛んでいる可能性もあった。サタン曰く、相当厳重な警備がなされているとのことだ。ここ、ラッカの手薄さは、それによるものらしい。
ASISとシンジケート。その目的が、アメリカ本土への核攻撃であるならば、それは阻止せねばならない。巡航ミサイルは迎撃可能かもしれないが、シンジケートはCIAにまで干渉してきた組織だ。彼らが|北米航空宇宙防衛司令部《NORAD》にまで干渉して、迎撃を止めさせるということも考えられなくはない。
そうなれば、いまここで止めるしかなかった。しかし、それは一筋縄では行かないことだった。
「サイロへたどり着くのは簡単だが、問題はそれが地下にあるということだ。地下への入り口は、定時の歩哨交代の時ぐらいしか開かない。それも、一日に一度だけだ」
サタンは一通り分かっている情報を言ってから、サイロへの潜入の難しさをチューズデイに説いた。そしてその上で、彼は問うたのだ。
「潜入する方法は、もう考えている。だが、俺一人では成功するかどうかも分からない。……協力してもらえるか」
「お前の命と引き替えになら、構わない」
チューズデイは、そう静かに言った。
サタンの顔が青くなる。ルビー・チューズデイ。その本性を、彼は垣間見たのだろう。愛国心や、信仰心などというものは、彼女には無い。彼女が仕事をするのは、ひとえに金のためだ。何故そこまでして金額にこだわるか? それは、チューズデイすらも思い出せない。ただ一つ言えるのは、彼女にとってアメリカとASISが全面核戦争に突入しようがどうしようが、どうでもいいということだ。ただ一つ、報酬が無くならなければ、の話だが。
チューズデイのその冷めた眼差しは、人殺しのそれ以外の何者でもなかった。過去を失い、記憶を奪われた暗殺者。彼女には、思い出せる過去はない。蘇った記憶は、どれも断片的な殺し屋としての記憶ばかり。その記憶たちは、彼女をルビー・チューズデイとしてあるべき姿に導いていく。すなわち、冷酷無比な殺し屋に。
「……分かった」
少しの沈黙の後、蚊の鳴くような小さな声で、サタンがつぶやいた。
「契約は成立か。……それで、お前の言う潜入方法というのは?」
「簡単だ。方法はシンプルに一つしかない。歩哨の交代の際に、ミサイルサイロに紛れ込む。そして、弾道ミサイルにC4爆薬を設置し、脱出。爆破する。だが問題は、サイロへ侵入する際に必要な電子錠前だ。歩哨たちの持っているIDカードだ。それに関しては、敵から奪うしかない」
「作戦とは言い難いが、それしか方法はないんだろうな」
チューズデイは深くため息をつき、そのむちゃくちゃな潜入方法を頭に書き留めた。
歩哨として潜入することは、出来なくはないかもしれない。チューズデイもASISが使っている野戦服はあるし、紛れ込むことは出来なくもない。彼女も、サタンも、これまで諜報員として何度もそのような人の中に紛れ込み、そして殺しを実行してきた。造作もないことだ。だが問題は、今回のターゲットはあまりにもデカいヤマだ、ということだ。
「一か八かだな。私には、それだけのリスクを負ってまでやることには思えない。……お前を殺して、三日以内に送金させれば話は終わりだな」
言って、チューズデイは腰に差したMkⅢに触れる。同時、サタンも肩から提げたAKのグリップを掴んだ。
「待ってくれ。核攻撃だぞ。実行されたら、アンタの依頼人もろとも蒸発するんだぞ」
「私には、どの国家の利益も関係ない。そういったはず。協力して欲しいなら、もう少しマシな作戦を考えて。あなたは何のためにASISに潜入したの?」
チューズデイは、MkⅢを引き抜こうとした。
だが、そのときだった。
迫り来る軍靴の音。銃が揺れ動く金属音。そして、まもなく崩れかけたビルに、銃を持った男たちが押し寄せてきたのだ。それは、ASISの構成員だった。頭に白い布を巻き、野戦服を着た男たち。手に持ったカラシニコフの銃口を、一斉にチューズデイは向けた。
「動くな!」と、兵士が拙い英語で叫んだ。
チューズデイは、MkⅢから手を離す。そして、両手を上げた。
それからして、一人の男が三階にまで上がってきた。リーダー格らしきその男は、野戦服にターバンという出で立ちでありながら、まとう雰囲気は他の兵士とは違っていた。
「ご苦労、ジハーディ・ハリー。CIAの殺し屋を呼んでくれて感謝するよ。アフマド様も感謝する」
彼は流ちょうな英語で、そういった。
サタンは、目を白黒させてその様子を見ている。彼もこの状況は想定外であったようだ。チューズデイも、まったく考えもしていなかった。
リーダー格らしき男は、片手にリボルバー拳銃を持ち、手持ちぶさたにそれをいじっていた。そうしてチューズデイの前までくると、ホルスターに差していたルガーを抜き去る。
「ハリー、君に良い知らせだ。この米国人は私が預かる。アフマド様は、君の働きを高く買っているよ。それともう一つ、核攻撃は早めることにした。こいつがここにいるということは、CIAも気づいているということだ。早くした方がいいと、シンジケートが通達してきた。アフマド様も今日中には来られる」
「……そう、ですか……」
呆然とした様子で答えるサタン。彼が唖然としているのは、仕方ないことかもしれなかった。
それからまもなくして、軍靴の足音よりも鈍重な、ズシィ……ズシィ……という足音が響いてきた。その足音の正体というのは、昨日の朝、処刑を実行していたムミートであった。
ムミートは、着崩した野戦服に巨大な鉈を持っていた。その巨漢は、そこらの軍人と並べても一目瞭然だ。キングコングばりの図体で、のそのそと近づいてくる。
「ムミート、こいつを運ぶぞ」とリーダー格の男。
「了解」
野太い声でムミートは答えると、鉈の柄でチューズデイの後頭部を叩いた。
直後、ルビー・チューズデイの意識は遠のいていった。