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どこまでも広がる荒れ野。クリーム色の岩場が乱立し、その合間を砂が埋め尽くしている。草木は数えるほどしかなく、たまに見かける乾燥した茂みや、死にかけのトカゲがこの大地の過酷さを示していた。
舗装路なら大した時間はかからなかったろう。直線距離にしておよそ五〇キロ。だが、この過酷なオフロードではさらに時間がかかった。ラッカはASISの重要拠点だ。もちろんそこには街があり、彼らが統治しているわけだが、その実そこには地獄のような惨状が広がっている。チューズデイは事前にそのことを知り得ていた。かつてその街は、平和の街とさえ呼ばれていた。資源も潤沢で、日中は市場が賑わいを見せ、人々は穏やかに暮らしていた。だが、すべてはASISが現れてから、変わった。彼らは中東諸国への爆撃を行った米国、ロシア、そしてヨーロッパ諸国に対し、徹底抗戦を謳うテロ活動を行った。無差別殺傷、自爆、乱射事件……その方法は様々だ。しかし彼らにも活動のための拠点が必要になるわけで、そのために選ばれたのが、不運にもこの平和の街だったのだ。ASISは中国からの流れモノ。あるいはロシアからの密輸品である銃火器、爆発物。それから日本製の車両などに乗り込んでは、街を荒らし回り、ついには自治権を獲得した。大昔のヨーロッパにある領土の奪い合いのようだが、それは中東では今なお続いていた。違うのは、武器が鉄剣や槍ではなく、禍々しいカラシニコフや、RPGといった類になったことぐらいだ。
降下から四時間、ようやく街が見えてきた。その間に検問所らしきものはいくつかあったが、それでも厳重な警備とは言い難いものだった。オフロードで迂回路を取れば、何とか切り抜けられるぐらいの検問だ。しかし、これは彼らASISの怠慢から来ているのではなく、純粋な人員不足だろう。おそらく、かつて検問に裂かれていた人員が他に回されたのだ。例えば、比較的空爆の被害の少ない都市の警備だとかに。見ればラッカに続く道には、爆撃の跡が生々しく残っている。ここの検問所、ひいてはこの先にある都市は、ヨーロッパ諸国軍から激烈な攻撃を受けたに違いない。完全な標的だ。ASISとしても、いつまでも動かない的の中央にいたいはずもなく、他の都市へと移っていったのだろう。むろん、情報攪乱の為にいくつかの都市に分かれ、またラッカに残った兵士も幾分いるに違いないのだろうが。
チューズデイは、丘の上にバイクを停めると、双眼鏡を取り出した。そして、街の様子を窺ってみた。街中では、歩哨のような男が数人立ち尽くしていた。が、誰も彼も暇そうにしている。今は朝八時過ぎ。一般的に歩哨の交代というのは、午前二、三時ごろに行われる。今の時間だと、交代から五、六時間経過したぐらいだ。寝起きのまどろみからは覚めているだろうが、しかし多少気のゆるみが出てきたころだ。警備は手薄。それはこの街の住民にとっても、チューズデイにとっても良いことだった。
赤茶けた大地を抜け、チューズデイは砂色の壁が立ち並ぶ街の中へ。クロッチロケットが豪快なエンジン音を上げ、丘から街へと下っていく。
歩哨はほとんど機能しておらず、有事の際の仲裁役のようだった。街に入ってから、それがわかった。
街へ入る検問は無かった。ましてや警備兵も暇そうにしている。まるでこの街はもう用済みだとでも言うように。だがそのおかげで、チューズデイも簡単に中へと入ることが出来た。
街中に入ると、寂れた市場が出迎えてくれた。それに、赤茶けた広場だ。しかしその広場は、決して赤土故に赤いのではない。恐ろしいことに、血で赤く染め上げられているのだ。適当に拭いた痕もあったが、それでは血の汚れなど落ちるはずがない。砂岩でできた地面は、ピンクと赤の混ざり合ったおどろおどろしい広場に変貌していた。そして、何よりその円形をした広場の中央に、一人の男が倒れているのだ。男は両手足を荒縄で縛り付けられ、顔は麻袋で隠されていた。
異様な光景だった。ようやく日が照りつけてきたこの時間、広場に多くの人間が押し寄せている。広場は奇妙な賑わいを見せている。朝の礼拝ということもあるだろうが、それは二の次のように見えた。広場中央にいる拘束された男。おそらく、野次馬たちの目的はこれだ。押し寄せる人の波を、歩哨がライフルを手に威嚇。押さえつけている。
するとそのうち、ニカーブ――目元だけ露出した漆黒の民族衣装だ――を着た女性が広場に躍り出た。彼女は泣きじゃくりながら何かを叫んでいる。チューズデイにはうまく聞き取れなかった。アラビア語は一応出来るが、こうも騒がしいとさすがに聞き取ることも出来ない。ただ、件の女性が繰り返し叫んでいる言葉は、どうにも男の名前らしいことはわかった。おそらく広場に寝かせられている男の名前だろう。
まもなく、外にいた歩哨たちがやってきて、ニカーブ姿の女性を組み伏せた。
それから今度は黒服の恰幅のいい男が人混みをかき分けてやってくる。広場は野次馬で埋め尽くされていたが、その男が現れるや否や、急に静まりかえった。
男の為に作られた花道は、広場の中央へ通じていた。そして、その中央にいるのは、縛り付けられた男性だ。彼は麻袋の中で必死に何か叫びながら、両手足を動かそうともがき続けていた。
しかし、まもなくそれも徒労に終わった。
「これより、この男の処刑を開始する!」
黒服の巨漢が叫んだ。彼は手に持った大きな鉈を振り上げ、観衆に向かってパフォーマンス。さながらプロレスラーのようだった。
野次馬の反応は微妙だった。奇声を発して両腕を突き上げる者もいれば、いやいやそれに従っているような者さえいる。カラシニコフを持った歩哨たちは、こぞって雄叫びをあげていた。
「この男、アズハルは異端者である! 昨晩この者の家からアメリカ人とやりとりをした記録が見つかった。この者は、戦士としての運命から逃れただけでなく、異教徒の手助けもしたのだ! この者の野戦服、銃、そのすべてがアメリカの手に渡ったとある。これは我らが同胞アフマド。そしてなにより神への背信行為である!」
歓声があがる。
聴衆が大声で叫んだ。「ムミート! ムミート!」と。ムミートとは、アラビア語で「死を授ける者」という意味だ。それが彼の本名なのか、それともリングネームなのかは知らないが、少なくともそのムミートが死刑執行人ということだけはわかった。
そのとき、歩哨の何人かが観衆を威嚇するように、虚空へ向かって銃を撃った。火薬の音が騒ぎを盛り上げる。調子に乗ったムミートは、鉈を振り上げ、そしてその切っ先をついに男へと向けた。
歓声が最高潮に達した。目を覆う者もいる。特に先ほど割り込んできた女性は、歩哨に組み伏せられたまま顔を伏せていた。いや、伏せているのではない。先ほどの銃声騒ぎでわからなかったが、その間に撃ち殺されていたのだ。おそらく、夫を助けようとして暴れたのだろう。その結果、額に銃弾を喰らった。黒い布に、さらに黒々とした染みが出来ている。血に違いない。
「神を冒涜した背信者に裁きを!」
ムミートが叫んだ。
歓声と銃声とが、彼のアドレナリンを最高潮まで引き上げる。そして、その興奮のさなか、ついに血飛沫が舞ったのだ。まるで、真っ赤に彩られた噴水のように。
「神は偉大なり!」
ムミートの雄叫び。それに連なり、戦意を鼓舞するような無意味な乱射音が轟く。蒼空めがけて放たれる七・五六ミリ。それはまるで神を喝采する祝砲のようだった。
広場に広がる真紅の水たまり。生首がそこへ転げ落ちた。男の死体は、ムミートによって繕われた。小汚いTシャツを着ていた男は、もうそこにはいない。両腕を胸元で交差させ、腹の上に生首が置かれた。処刑は、これにて終了だ。
街に入って早々、この事態だ。こんな朝っぱらからこの騒ぎ。処刑は毎日のように行われていると聞いていたが、しかしいきなり遭遇するとは思わなかった。緊急性を要する、住民を威圧する為のものだろう。ゲリラ的に行い、それにより恐怖を煽る。次の朝、広場に縛られて目が覚めるのはお前かもしれない……と。ASISはこの街から撤退していく一方で、住民たちをここに縛り付けようとしている。恐怖と興奮によって。それは、自らの領地を、敵に奪われないため……だが、手段が前時代的で、あまりにお粗末過ぎる。
先行きが危ぶまれた。自分も見つかって正体を見破られれば、きっとあの男のようにされる。異教徒だと罵られ、首を切り落とされるのだ。
もうここに平和は無い。鉈の矛先が自分に向けられる前に、早くサタンを見つけださねば。
チューズデイは任務を再確認すると、アズハルという男に黙祷を捧げた。
昼過ぎまでは情報収集に徹した。降下前にラッカの地図は頭に入れてきたが、しかしそれでも地図上の出来事と実際の地理状況は異なる。特に、このようなゲリラ集団が統治している街など、まじめに測量が為されるはずもない。情報は耳にしていたが、それでも実際に目にする地獄は、その予想を上回っていた。
朝の市場は、どこかよそよそしさがあった。本当は朝から活気づき、昼過ぎにようやく盛りが過ぎていくような賑やかな場所であるはずなのに。食料品は並んでいたが、それを手に取ろうとする客たちも、売ろうとする店主たちも、縮こまって静かにしていた。理由は言うまでもない。今朝方、この市場近くの広場であった処刑のせいだ。みんな怯えているのだ。この、地獄の街に。
そのような微妙なよそよそしさが、この街を支配していた。市場は先にも言ったとおりだが、小さなホテル――というより民宿――もあまり穏やかな様子では無かった。元々この街は観光都市であったため、こうしてテロリストに統治された今でもホテルが多い。多くはASISに奪われるか、あるいはチューズデイのような傭兵の寝床になっているようだった。それはとても好都合で、チューズデイも容易に拠点をこしらえることが出来た。といっても、店主に怪しまれたことは言うまでもない。チューズデイは自分を傭兵だと名乗ったが、店主の男はあまりいい顔をしていなかった。口では「金持ちの傭兵は大歓迎です。特に、アフマド様の為に戦ってくれる偉大な戦士はね」と言っていたが、その実、女のチューズデイに疑念を抱いていたことだろう。古くからの信仰が根付くASIS社会は、男尊女卑の傾向にある。流れの傭兵で、今はASISに付いているとはいえど、それでも女傭兵など信用に足りないと思ったことだろう。この寝床も、長くは持つまい。チューズデイはそう思った。
そうして得た寝床は、実に簡素なものだった。ベッドとデスク、それから木製の座りの悪い椅子があるだけだ。シャワールームもない。水浴びをしたいなら、共有のシャワールームに行けとある。それほど安い、場末のホテルだ。しかし戦場を転々とする傭兵稼業にしてみれば、これでもまだマシな方。むしろ天国とさえいえる。
チューズデイは、バイクに括り付けていた荷袋を担ぐと、それから部屋へ入っていった。銃の規制は、ここではあるようでない。あるのは武力による圧制だけで、それ以外は何もないのだ。
荷袋に積められた七・五六ミリ、それから軽狙撃銃。装備を確認した後、もう一度しまい直す。それからベッドの下に隠して、彼女は外へ出ることにした。武器は腰に吊したルガーと、サバイバルナイフだけだ。おおっぴらにカラシニコフを提げていては、ASISのゲリラ連中に目をつけられることは必至だった。
外へ出ると、もう日が傾きかけていた。地図と実際の土地とを見比べてにらめっこするだけでも、それなりの時間を要する。その間にもチューズデイは、ASISの何者かに尾行されていないか確認も続けていた。それがさらに時間をかけさせたに違いない。
しばらく街を歩いたところで、彼女は情報収集のためにある店に入った。店先の扉には、黒地に白のマークが記されていた。ASISが掲げる旗と同じ印だ。歪な形をした円の中央には、黒い文字で「神は偉大なり」と書かれている。このマークが描かれている店は、ASISに対し一定の税金を支払っている。つまりこの街では、比較的安全な、それなりの地位のある店、ということだった。
そこは飲食店ということだったが、しかし実体はゲリラの集会所と化していた。室内はタバコの煙が充満している。他国から流れた巻きタバコもあれば、呑気に水タバコを吹かしている者もいた。彼らの教義では、飲酒は厳格に規制されているが、タバコはその例外にあった。聞くところによれば、タバコを通貨にして少女の体が売買するというような、半ば刑務所じみたことまで横行しているぐらいだ。
タバコの臭いは気にならなかった。チューズデイも吸うことはある。常飲しているわけではないが、毛嫌いするほどでもない。
店内は、夕食を取りに来たであろう男女や、騒ぎに来た兵士でごった返していた。この独特の雰囲気が、いつもの地獄のような印象を和らげている。だが、それも所詮は集団幻想を見ているだけだ。この街は、紛うことなきテロリストに占拠された地獄だ。
店内はコンクリート剥き出しの簡素な造りで、所々にプラスティック製の机と椅子が点在していた。ヘヴィスモーカーたちは、どこであろうとお構いなしに座り、煙を呑む。チューズデイは、その喫煙者の群をかき分けて、カウンター席に座った。
ここでチューズデイは一言、ワインをと頼みたいところだった。だが、彼らが飲酒を禁ずる民族であったと思いだし、喉奥まで言葉を引っ込ませた。
「まずは水をくれ。それとタバコを」
彼女は代わりにそう言った。
店主の男は、白い布を頭に被った、浅黒い肌の男だった。衣服はやけに小綺麗だ。それだけのものを買う金はあるのだろう。どれだけASISに金を掴まされていることか。
「アンタ、外国人……それも女か?」
チューズデイの微妙なアクセントを聞き分けたのだろう。店主はカウンターにコップ一杯の水と、萎びたケースに入ったタバコをを置くと、言った。
完璧なアラビア語を話すのは難しい。特に、相手がネイティブならなおさらだ。
「ああ。流れの傭兵だ」
「そうか。よくもこんなとこまで、ご苦労なことだ」
チューズデイは水を呑んだ。砂漠の荒地が如き喉に、水が滑らかに滑りこんだ。生ぬるい水だったが、喉を潤すには充分だった。
「安心しろ。少なくともあなたの敵にはならない。ここにいる連中の敵にも」
言って、彼女は肩を動かし、後ろにたむろすASISのゲリラたちを指した。彼らはくたびれた野戦服姿で、タバコを呑んでいた。チューズデイも頼んだタバコを手にすると、一本取り出して口にくわえる。店主の男がさっとオイルライターを出して、火をつけてくれた。チューズデイは軽く会釈する。
「ならいいんだが……。で、こんなとこまで遙々何の用だい。金儲けの為の聖戦か? ……何か頼むかい?」
「そんなところね……。男を捜している。米国人」
そう言って、チューズデイは懐から一枚の写真を撮りだした。コードネーム・サタン。ハリー・ライダーの写真だ。
その写真を見て、店主はしばらく首を捻った。素性も知らぬ外国人の為によくしてくれるものだ、とチューズデイは思った。しばらくして、男は言った。
「見たことがあるかもしれん。ASISのゲリラ兵と、ときおり行動を共にしていることがある」
「この店にも来る?」
「いや。俺が見たのは、モスクの近くでの話だ。たぶんこの米国人、幹部連中と一緒にいたと思うが。……しかしなんでコイツを探している? 改宗した連中の一人だろうよ」
「上層部からの極秘命令だ。あなたが知る必要はない。ただ街のことを知るには、こういう店が一番だと思った。それだけの話……。どうにもこういう汚れ仕事は、アメリカでもこっちでも雇われの手練れにやらせるらしいわね」
チューズデイは適当なことを言って、その場をやり過ごした。
幹部と行動をともにしている。
サタンはCIAだ。アメリカの情報を売れば、ASISはそれだけサタンを高く買うだろう。もしかしたら、ASISが彼を重用しているのはそういう理由からかもしれない。
だが、なぜシリアまで呼び寄せた……?
瞬間、記憶の断片がチューズデイのニューロンで弾けた。黒のバンに乗り込むサタン。それを逃がすチューズデイ。なぜ逃がした。なぜ、このとき撃たなかった……?
後悔の念がチューズデイに囁く。あいつに問え。あいつを殺せ、と。
チューズデイは水を飲み干すと、タバコをポケットにねじ込み、そして紙幣を置いてその場を去った。店主は「お釣りは?」と問うたが、彼女は「情報量だ。貰ってけ」と言いつけた。
ハリー・ライダー。コードネーム・サタンは、幹部と行動をともにしている。それだけでも大きな進歩といえた。米軍、CIAは、かねてよりASIS幹部を付け狙っている。このラッカにも何度か暗殺作戦を実行しようと考えていたが、しかし一般市民の多さから控えていたところだ。
チューズデイがこの作戦に選ばれたのは、そういう理由もある。何もこのラッカの住人すべてがASISの同類というわけではなく、むしろ彼らの犠牲者とさえいえる者たちも多くいる。そうした一般市民を巻き込んでしまう可能性は、ゼロではない。むしろ、必ずそのような犠牲は計算の内に入ってくる。だが、そのような正当な理由無き殺人を犯してしまえば、国際世論に糾弾されるだけでなく、ASISが米国を非難・攻撃する真っ当な理由を与えてしまうことになる。
しかし、それが流れの傭兵ならば?
たとえ余計な被害者をだし、あまつさえ暗殺後に正体がバレたとしてもトカゲの尻尾切りが出来る。アメリカが関わっていると言われても、CIAは「知らん。狂った傭兵が勝手にやったことだ」と言えばすべてが済む。CIA、特にあのMという男が狡猾だと言われるのは、つまりそういうことだ。
チューズデイには、すでに暗殺の計画が頭に浮かんでいた。店主の男が言うには、アメリカ人ならモスクで見たという。サタンが改宗したかどうかは知らないが、そこにいることは間違いなかった。ならば、礼拝の時間を狙うまでだ。少なくとも金曜、ここの人間はモスクに訪れて礼拝を行う。早朝から日没までだ。そこに幹部が現れるかどうかは定かではないが、しかしサタンが現れるとしたらその機会だけだ。ならば、そこを狙撃するまで。
そうと決まれば、チューズデイは狙撃地点を捜しに行った。ポイントを確認すれば、あとは明日の早朝、そこからじっと構え続けるだけだ。
その晩、日が昇る前の朝三時までチューズデイは眠り続けた。だが、東の空にゆっくりと光が射し込み始めると、彼女は闇の中、軽狙撃銃とカラシニコフを提げ、街の中央にあるモスクへと向かった。
モスクの向かいには、小高いビルがあった。しかし戦火で崩れたビルは、もはやコンクリート片の転がる廃墟と化している。かつては雑居ビルとして成り立っていた場所だが、今では人気もまったくない。それは暗殺を狙うチューズデイにとって、好都合であることこの上無かった。
ビルの三階は、特に損傷が激しかった。もう一つ階段を上がれば屋上なのだが、もうそれは存在しない。屋上と呼ばれていた床板は、もはや半分野ざらしで、もう半分はどこかに消えていた。主に三階の床に散らばっている木片、コンクリート片がそうだろう。誰もこれを片づけようとはしない。片づける気もないのだろう。金のある、ASISに頭を下げるのが上手い商人――例えば昨晩の飲食店の店主――が現れるまでは、きっとここは廃墟のままだ。
チューズデイは三階に陣取った。薄暗闇の中、彼女は唯一壁の残った部屋に居を構えた。ちょうど窓枠であったであろう四角い穴があり、そこから銃を出すと、真向かいがモスクだった。狙撃にはちょうどいい。ここでサタンが現れるまで、じっと待ち続ける。
息を殺す用意はできていた。チューズデイは、肩から提げていた荷袋を下ろし、そこからヴァンクイッシュ軽狙撃銃を取り出す。反対の肩に掛けていたカラシニコフは壁にかけ、万が一の為のルガーは腰のホルスターに。
ネメシスアームズ社製の、この特異な狙撃銃ヴァンクイッシュは、分解と組立が容易な軽狙撃銃だ。ストックやバイポッドはレシーバーと一体化しており、華奢な見た目をしているが、七・六二ミリNTAO弾を扱うれっきとした狙撃銃である。もしもこれで頭蓋に弾丸を叩き込まれたのなら、もれなく目標の頭骨は破裂するとみて間違いない。
チューズデイはそれを三〇秒ほどで組み上げると、すぐさま構えた。窓枠にバイポッドを合わせ、ライフルスコープで覗く。問題ない。
早朝のモスクには、まだ人は集まっていなかった。まだ薄暗く、日もようやく昇り始めたころだ。
いったんライフルを隠して、今度は双眼鏡で周囲を見回した。目標となる人物らしき影は、まだ見あたらない。もしかしたら、ここで一日中粘ることにかもしれない。いや、一日どころで済んだらいい方だ。下手をしたら、数日間ここで待ち続けることになるやもしれない。それだけは御免だ。チューズデイには、ASISもアメリカも関係ない。ただ、サタンという男を捕らえ、失った記憶のピースを得て、そして彼を殺せればそれで十分だった。
だから早くことを済ませたい。こんな地獄には長居していられない。
チューズデイがそう思った時、彼女の耳元で悪魔が囁いた。それは、彼女をさらに地獄の底へと突き落とす一言だった。
「動くな。貴様、そこで何をしている」
彼女の後方。銃を突きつけられる冷めた鉄の音とともに、男の声が響いた。それは小声だったが、しかし殺意に満ちた声だった。
チューズデイは、その男が現地の人間ではないとすぐにわかった。自分のように、英語訛りのあるアラビア語だったからだ。確かにきれいな発音だったが、しかしネイティブとは明らかに違うアクセントがある。それに、あまりにもきれいすぎるのだ。言葉として、常日頃使っている人間の手癖のようなものが感じられない。そういった言語の壁というのは、どう足掻いても拭いきれないものがある。
失敗した。
チューズデイは自分の早計さを悔やみながらも、ゆっくりと男の方へと振り返った。そして同時、「英語でも構わない」と言った。
そして、チューズデイは男の顔を見て驚いた。彼が誰なのか、チューズデイにはすぐにわかったからだ。浅黒い肌。黒に近い焦げ茶色の頭髪。彫りの深い顔立ち。どことなくラテン系の血の入った白人の男。迷彩柄の帽子を目深に被っていたが、彼で間違いなかった。
そうだ、サタンだ。