5
サタンはシリアにいる。それはもはや確定事項と言えた。
カーチェイスの後、チューズデイはニューヨーク市郊外のモーテルに泊まっていた。彼女の車の色が変わっていようと、モーテルの主人や利用者が気にすることは無かった。
翌朝、彼女は室内で安いシリアルを食べながら、バーンズからの情報を待っていた。というのも、シリアへ向かうための足が必要だったからだ。偽造パスポートはあるが、入国審査はそう簡単に抜けられるものではない。とくに今の中東情勢は並大抵のものではないのだから、なおさらだ。欧米諸国は、特に中東への渡航に関して戒厳令が敷かれている。アラブ系住民の米国内での風当たりも強く、移民排斥を謳う人種差別的な大統領候補まで現れたぐらいだ。米国人が気軽にいけるような場所では、もちろんないのだ。例えば「取材だ」などと記者を騙ったとしても、果たしてそれを米国政府が認めるだろうか。チューズデイのようなフリーランスがそうするには、それこそCIAの後押しが必要だった。ルビー・チューズデイは、まさにそれを待っていた。バーンズはおそらくその手配をしているはずだった。
彼女はシリアルを食べ終えると、そのスキムミルクと食べかすの残ったボウルを机に置き、ソファーに戻った。それから彼女は目を閉じ、体重をソファーに預け、しばし夢を見た。
傭兵が夢を見るのは、本当にわずかな時間だけ。心を許せる時などそうそうない。現に彼女もこうする為に、モーテルの周囲に狙撃や監視に適当な建造物がないか調べ。さらに隣人が殺しの類の関係者ではないか調べ上げ、その上で窓と扉、つまりすべての出入り口を封鎖して、ようやく体を休めることが出来た。むろん、発信器や盗聴器の類もチェック済みだ。
目を閉じると、すぐに眠ることが出来た。人間はわずかな休息でも、それなりの数を休めば、長時間寝たのと変わりない休息を得ることが出来る。チューズデイは、そうして眠ることに慣れていた。どこでそんなことを覚えたのか? いまだはっきりとは思い出せないが、確か訓練学校だ。何の訓練学校? 諜報員のだ。どこの国の? ……どこの国だろうか。
チューズデイの記憶は、決して完全に蘇った訳ではない。断片的に消失している箇所もある。まるで、そこだけ恣意的に消されたように。そんなことが可能なのか、と思うが、しかしCIAならやりかねない。彼らはチューズデイを薬物と拷問とで、じっくりといたぶった。結局、Mという男がそれをやめさせたわけなのだが。
記憶はまだ判然としない。自分がフリーランスのスパイだとは分かった。訓練学校も出た。戦場も経験した。おそらく中東、アフガンだろうか。自分はアメリカの特殊工作員だったのだろうか。そこだけが抜け落ちている。
……いや、それだけではない。
目を閉じると、いつもその光景が浮かび上がる。男が車に乗って、自分から遠ざかっていく光景。男の名前はハリー・ライダー。またの名を、暗号名・悪魔。CIAはなぜ彼にそのような名前を与えたのだろうか。この世界の最大の善、そのように振る舞う偽りの神――アメリカを裏切り、異教の国へと下る悪魔。もしかすると、CIAはすべて折り込み済みだったのではないだろうか。何か巨大な闇を、チューズデイは感じていた。
なぜ自分は、あのときサタンを逃がした。あの一瞬でサタンを殺し、ASISのテロリストを皆殺しにするぐらい、チューズデイには造作もないはずだった。なのに、なぜ……
そうして考えにふけっているとき、左腕にはめたルミノックスがふるえた。バーンズからの暗号通信だった。応答すると、すぐに彼が出た。
「移動用の足は用意した。安心して良いぞ」
「どこから調達した。場所が場所よ。一筋縄では行かなかったはず」
「ああ、だからMに頼んだ。三時間後に、JFK空港、第一ターミナルで落ち合え。すべては向こうが手配してくれている」
「CIAがお膳立てをしてくれたわけか」
「そういうことになる。もっともそうでもしなけりゃ、お前一人でシリアに潜入など出来まい」
「私はずっと一人でやってきた……そう記憶している。ツテはいくらでも使ってきたけれど」
「じゃあ今回もそういうことだ。せいぜいトチってMに殺されるなよ」
バーンズがそう言ったところで、通信は切れた。
耳にはめたイヤフォンから手を離す。あと三時間、それまでに出国の準備を整え、JFK空港にまで行かなければならない。
偽造パスポートに、衣類の入った旅行鞄。そして、念のためショルダーホルスターにMkⅢを装備し、チューズデイはJFK空港へ向かった。
チューズデイには、CIAが単純な旅券や航空券を取るだけといった根回しをしてくるとは思えなかった。もっと複雑な手段を取ってくるはずだと考えていた。特にあのMという男だ。記憶をだいぶ取り戻したチューズデイには、あの男の狡猾さが徐々に思い出せてきた。CIAで傭兵仕事の斡旋人といえば、総じてその男、Mだ。彼が傭兵を管理し、ひいては戦場をも管理している。いわば、アメリカという影をチラツかせてはならない非合法な、あるいは国際関係を揺るがすような影の仕事を、彼は管理しているのだ。
そして、いまこのときもそうだ。
チューズデイはJFK空港に着くと、指示された通りに第一ターミナルへ向かった。巨大なターミナルロビーには、種々様々な人種の人間、言語が飛び交っている。ニューヨークまで観光にきたアジア人の一団が、訛りの効いた英語を話すアジア系アメリカ人に連れられ、空港を出ていく。ガイドが振る旗を目印に一列に並んで進む姿は、まるで軍隊の行進のようでもあった。
チューズデイはその様子をベンチに座って見ていた。実を言うとベンチに座るのも一苦労で、次の便を待つ外国人の群れの中でようやく見つけた空席だった。
そうしてベンチに座り、さも自分の便が来るのを待つフリをしていると、隣の席に座っていた男が退いた。それから、ラフな格好をした女性が座ってきた。長い黒髪の、アジア系の女だ。彼女は淡いピンク色のシャツに、一眼レフのカメラを首から下げていた。いかにも観光に来たアジア人という風貌だったが、しかしそうではない。
「あなたがミス・ボンド?」
と、女は目線をそらさずに言った。彼女の目は、発着便の運行状況を示すディスプレイへ向けられている。
「ええ……」
チューズデイはまず、上着のポケットからスマートフォンを取り出す。それからスピーカーを耳に当てると、話を続けた。隣の人間と会話しているとは思われないように。
「……はい、そうです」
「カンパニーの者です。Mが貴女のためにジェット機を用意しました。第一ターミナルのAカウンター、そこにいる黒人の男性職員に話しかけてください。名乗っていただければ、あとは向こうがやってくれます。機はすでに手配されています」
「ありがとう。恩に着るわ」
そしてカンパニーのメッセンジャーは、言いたいことだけ言い終えると、その場から離れていった。
ピンクのシャツの女性は、もう人混みの中に消え去った。目で追おうとしても見つからない。群衆に紛れ込み、姿を消す、目立たない人間。おそらく彼女は、メッセンジャーを中心に何年もやってきた手練れだろう。
チューズデイは立ち上がると、荷物を持ち、言われた通りAカウンターにいる黒人男性にまで向かった。男性の前には何人かの列が出来ていたが、彼はテキパキとチケットを整理し、下手な英語の旅行客も適当にあしらっていた。
そうしてチューズデイの番が来た。カウンターの脇にはベルトコンベアがあり、そこに荷物を負くようになっている。男は受付にあるコンソールに目を落としながら「いらっしゃいませ」と小さく告げた。
「自家用のジェット機が用意してあるの」
「失礼ですが、お名前を教えていただけますか?」
「ボンドです。ジェイミー・ボンド」
懐から偽造パスポートを取り出す。そこにはしっかりとジェイミー・ボンドという偽名が記されていた。
「かしこまりました、ミス・ボンド。確認いたしますので、しばらくあちらの部屋でお待ちください」
受付の男は、そう言ってターミナル奥にある小さなドアを指さした。そこにはスタッフオンリーという小さな立て看板がしてあり、どうみても一般の客が入るような場所では無かった。
だが、きっとそれもCIAが用意したフェイクに違いない。
「ありがとう」
感謝の言葉を述べると、チューズデイはドアの方へ向かった。
言われた通り、スタッフオンリーと書かれたドアの中へ入った。
そこは、本当に従業員室と言った感じだった。清掃用具があるだけの寂しい部屋だ。狭苦しく、どこかかび臭くもある。
しかし、その奥には確かにプライベートジェットへ通じる道があった。倉庫のような部屋の奥、鉄製の大きな扉がある。チューズデイは掃除機やモップの間をかき分け、そのドアの前までたどり着いた。そしてそれを開けると、そこには巨大な格納庫があったのだ。
四壁を黒の壁に覆われた格納庫。その中央に、白塗りのプライベートジェットが一機、用意されていた。それがMの用意した機に違いなかった。
ジェット機の扉はすでに開いていた。パイロットも乗り込んでおり、いつでも離陸の準備が整っているようだ。
チューズデイは、指示通りそのプライベートジェットに乗り込んだ。豪奢な機内は、まさしくファーストクラスだ。席は二つだけあり、片方にはスコッチウィスキーの瓶とグラス、それからロックアイスが用意してある。そして反対側の机には、白く小さなスピーカーがおいてあった。
「やあ、チューズデイ」と、スピーカーが声を発した。ねじ曲げられた合成音声だ。「僕だよ、Mだ。ようこそ、僕のプライベートジェットへ」
「機体を用意してくれたことは、素直に感謝するわ。ありがとう」
「それはどうも。さあ、かけたまえ。僕からのささやかなプレゼントだ」
チューズデイは促され、座席に座った。そして、机上のスコッチを手に取る。ジョニーウォーカーのブルーラベル。それなりに値が張る品だ。
しかし、睡眠薬の類が入っていることを恐れて、チューズデイはそれをグラスには注がなかった。
「ありがとう。でも、いまはやめておくわ」
「薬は入れてないよ、ルビー・チューズデイ。なんなら、機長のアンダーソンくんに飲ませてみるかい?」
Mがそう言うと、コクピットから制帽をした機長が顔だけ覗かせた。髭面の壮年の男性だった。
「酒酔い運転は勘弁ね」
「それもそうだな。……戻ってくれたまえ、アンダーソンくん。それよりも早く機を出してくれ」
アンダーソン機長は小さく会釈し、コクピットに戻る。
まもなくジェット機はタキシングを開始。滑走路に出た。チューズデイはベルトを締め、離陸に備える。
「そろそろ離陸だ。長いフライトを楽しもうじゃないか、チューズデイ」
まもなく、ジェット機は離陸に入った。
離陸後、Mは執拗にチューズデイに話しかけてきた。この際、諜報員としてはあまり素性が悟られないように多くは語らず、体裁を保つのが常であるのだが、しかしMとチューズデイはお互いの身分を知っている。故に、お互いその本当の素性というのは隠しているが、当たり障りのない日常会話程度なら出来る。もっとも、CIAの上役なぞと会話を楽しむのは、チューズデイの趣味では無かったが。
Mは、なかなかスコッチを飲まないチューズデイを気にしていた。どうにも彼のもてなしを拒絶しているのが気にくわないらしい。
「安心したまえ、ミス・チューズデイ。睡眠薬などは入っていないよ。これから任務に就いてもらう傭兵を眠らせてどうするっていうんだい? ……ああ、それともスコッチはイヤだったかい? 君は確か、ワインが好きだったな。そうだ、ロゼだ。機内には軽いワインセラーもある。そこから取ってこさせよう。こちらも上物だ。さあ――」
「いや、いいわ。これでいい」
言って、チューズデイはようやくスコッチに手を出した。すでに氷は溶け始めていたが、まだ大粒のものがごろごろと残っていた。彼女はその一つをグラスに落とすと、スコッチを注いだ。あまり飲む気はしなかったので、そんな量は注がなかった。
「それで、ラッカにはどうやって向かう。あそこは、ASISの根城。仏露の爆撃で人員はだいぶ分散したらしいけど、それでも毎日のように処刑が行われている。潜入するのは造作もない。しかし、そこで長々とサタンを捜しているわけにはいかない」
「まあ、仕事の話は後でゆっくりしようじゃないか。手はずは整っている。安心したまえ」
Mのその飄々とした態度に、チューズデイは少し顔をしかめて見せた。
しかし、Mという男は図々しく、再び世間話なぞを始めたのだ。
「で、どうだい。バーンズとの関係は。彼はいいエージェントだろう。特に君のような才能のある殺し屋とは、いいコンビになる」
「あなたがそうなるようにし向けたんじゃなくて。CIAのM?」
「まさか」合成音声の彼は笑い、「確かに、僕は彼の元上官だ。イラク、アフガン、南ア……彼は様々な戦場を転々とし、数々の暗殺を成功させてきた。特に彼は情報収集の能力に長けていてね。老いた今でもそれは健在だろう? 彼はね、世渡りが上手いんだ。だから国家の裏切り者とされた今でも、この僕に泣きつく方法が分かっている。その点、パワーはあるが世渡りの下手な君とは違う。そこがいいんだろう」
「私が、世渡りが下手、ね」
「そうでなければCIAに捕まって記憶の混濁などさせられてないだろう? もっとも、あれは僕が部下を暴走させたのがいけなかった。ルビー・チューズデイという女の正体を、彼らは知らないんだ。その価値もね。彼らはすぐに僕が然るべき処置をしたよ。君の素性は、CIAでもごく一部の人間しか知らない」
然るべき処置。
それが何なのか、チューズデイは深く詮索しなかった。いや、聞かずとも分かった。殺したに違いない。
「それで、記憶のほうはどうだい? だいぶ良くなったかな?」
「おかげさまで」と皮肉たっぷりに、チューズデイ。
「そいつは良かった。君が君でなくなったら、僕はこんな非合法で国際関係を悪化させるようなリスキーな任務を誰に頼めばいいんだか」
彼は苦笑した。だが、その笑みの向こうには、計算高い狡猾な狐が潜んでいる。
「でも、まだ一部の記憶が戻らない」
「ほう、というと?」
「その子細を言う必要はない」
「確かに。……まあ、我々にとっても君は謎の多い存在だ。もしや君自身にとっても、君とは謎多き存在なのやもしれんな」
彼がそう言ったところで、機内にあった赤いランプが消えた。シートベルトを外してもいい、という表示だ。
「さて、それでは君のお待ちかねだ。作戦の概要を説明しよう」
安定飛行に入ってからしらばくして、Mは機体後方にある格納部に案内した。案内といってもMはスピーカーしかいないので、声だけでチューズデイに指示した。
機体後方、黒いドアに隔てられた収納スペースには、壁じゅう銃火器が掛けられていた。ウェポンラックには、ハンドガンからライフル、マシンガン、携行ロケットまで何でもありだ。だが、チューズデイの目を一番引いたのは、そのようなありふれた銃火器ではなく、一台のバイクだった。
スズキのクロッチロケット。クリーム色をしたフルカウルは、その後部に大荷物を提げていた。左右には、おそらく弾薬を入れるのであろうケブラー製の荷袋が。中央には、砂色をした大きめの袋が乗せられていた。
チューズデイはそのバイクを撫でるように触れ、そしてハンドルを握った。悪くないバイクだ。
「君はそれに乗って、ラッカの南西、五〇キロの位置に降下してもらう。知っての通り、現在シリアのラッカは、仏露の空爆によって大打撃を受けている。爆撃は一時中止となったが、ASISもいいかげん危険性を悟ったのだろうな。都市機能を他の場所へ分散させた。現在ラッカは、一応の都市として機能しているが、しかし警備は以前より手薄だ。無人機を確認に行かせたが、君なら問題なくすり抜けられるだろう。……装備はこちらで用意してある。君は、ASISの戦士のフリをして、ラッカに潜入してもらう。そこで君はサタンを捜し、殺害してくれ。任務が終了次第、僕らのヘリが君を回収にいく。回収機への信号は、発信器を使ってくれ。発信器は、戦闘服のポケットに入っている」
彼が言った戦闘服というのは、ずいぶんやつれた野戦服のことだった。オリーブドラブの野戦服は、くたびれ、ぼろぼろになっている。その右ポケットに黒いボタン式のスイッチが入っていた。
「それが発信器だ。おわかりいただけたかな?」
「それじゃあ、私はこのバイクで、ここから降りるの?」
「そうだ」
Mはずいぶんと簡単に言った。だが、そう簡単なものでもない。
しかし、それ以外にサタンを殺す術も無かった。
「了解した。先に着替えておく」
チューズデイは野戦服に手をかける。
だがMは、「もう少しフライトを楽しもうじゃないか」と終始のんびりとした様子だった。
眼下に陸地が見えるようになってからしばらくして、降下の合図がなされた。そのときにはもうチューズデイは着替え終わっており、どこからどうみてもASISの戦士となっていた。くたびれたオリーブドラブの野戦服に、紺色のスカーフで顔を隠す。バイクの荷袋には、右にカラシニコフと七・五六ミリ。左には、ネメシスアームズ社製のヴァンクイッシュ軽量狙撃銃がしまわれていた。カラシニコフはASISに紛れる為のもので、ヴァンクイッシュはあくまでサタン暗殺の為の武器だ。加えて、野戦服のヒップホルスターには、スターム・ルガーMkⅢを備えていた。
準備は整った。あとはバイクで飛び出し、パラシュートを開くだけだ。念のためパラシュートは、バイクの後部とチューズデイの背中とに二つ装備されている。バイク後部のを開いたら、もれなく地上には前輪からすっ飛んでいくだろう。だが、万が一には備える必要があった。
チューズデイは、客室までバイクを運び出した。座席には、スピーカーがまだ残っている。Mがまだこちらを伺っていた。
「ふむ、いいじゃないか。作戦は上手く行きそうだ」と彼。
ずいぶんと軽そうだった。それがMという男の恐ろしさなのかもしれない。飄々としていながらも、使えるものは最後まで使い倒す。狡猾な男。
「まもなく降下地点です」
と、パイロットが声をかけた。
チューズデイはうなずき、バイクに手をかける。
まもなく、飛びすさぶジェット機の出入り口が勢いよく開け放たれた。いまは現地時間で早朝四時前。開かれた扉の向こうには、明け方の青黒い空が広がっている。中東といえど、空の空気は寒いことこの上なかった。雲の上の冷気が一挙に入り込んでくる。穏やかな客室のイメージは失せ、机上のスコッチとスピーカーが飛んでいった。高い酒が台無しだ。
宙を舞うスピーカーは、コードに引っ張られて空中で静止した。空を切る音で声が上手く聞き取れなかったが、Mは大声で叫んでいるようだった。
「よい旅を、ルビー・チューズデイ!」
刹那、バイクにまたがったチューズデイはエンジンを開け、虚空へと飛び込んでいった。
降下開始。激しいエンジン音を響かせたバイクは、勢いよく空の旅へと出ていった。バイクが空を飛ぶはずはないが、しかしこのときばかりは例外だった。
虚空にその身を投げ出すや、チューズデイとバイクは縦回転を開始。前方へ向けてグルグルと回り始める。その速度は速く、天と地が一秒おきに現れては消えていった。
チューズデイはハンドルを持ったまま、バランスを取るように心がけた。空中挺進は何度も経験していたが、しかしバイクと一緒というのは、なかなか経験がない。空挺車両と行動を共にした記憶はあったが、よもや自分が降下する側になるとは思わなかった。
しばらく前輪を持ち上げ、ウィリーでもするような体勢を保っていると、車体も安定を始めた。眼下にはクリーム色をした大地がどこまでも広がっている。完全な砂漠だ。バイクはオフロード仕様のスポーツタイプだったが、それでもこの荒れ地を走破するには時間がいるだろう。
ステアリングを握りしめていた右手を、背中のパラシュートへと移した。もう着陸が近い。ふつうの降下作戦ならまだパラシュートを開かなくてもいいが、いまはバイクの重量がある。そのぶん早めに開く必要があった。背中から胸のあたりへ伸びた赤いロープ。チューズデイはそれをつかむや、勢いよく引き抜いた。
刹那、腕に強烈な衝撃が走った。体が急減速するも、バイクがそれに追いついていないのだ。大急ぎで右手をステアリングに戻し、バイク共々減速させる。握りしめるとアクセルが開いて、馬のいななきのような轟音が響いた。空を切る音にも負けない、威勢のいい鳴き声だ。
減速は徐々にだがされていた。さすがに単身降下の時よりも減速は鈍く、いつまで立っても落ちていかない速度にチューズデイは苛立っていたが、しかし見えてくる砂の大地には間に合いそうだった。
そうして遂に、チューズデイを乗せたクロッチロケットは、砂漠にふんわりと着地した。そして、これからが作戦開始だ。
左腕のルミノックスをみた。GPS機能で方位を確認。サタンがいるラッカは、ここから北へ五〇キロだ。