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悪魔を憐れむ女  作者: 機乃 遙
悪魔を憐れむ女
5/12

 翌朝、チャリティパーティが開かれたホテルより、中心街の外れに行った方のホテルにチューズデイは宿泊していた。五階の五二〇号室。角部屋で、バルコニーがあり、見通しも良い。非常口も廊下を出たすぐのところにあり、いつ敵に襲われても脱出、あるいは迎撃が出来た。

 チューズデイは、カーテンを閉め切った部屋の中で、サイドテーブルにラップトップを開き、ディスプレイを睨んでいた。先日、ギャッツから盗んだ情報は、USBに保存。すでにバーンズに送信済みだ。あとは彼の解析結果を待つだけだった。

 一人掛けのソファーに座り、モーニングコーヒーを飲みながら返信を待つ。昨日のスイートルームほど豪奢では無かったが、しかしなかなか良い雰囲気のホテルだった。

 彼女はいつもブラックコーヒーだ。特に目が醒めるようなきついブラックがいい。それぐらいが彼女にはちょうど良い。甘さはいらない。

 コーヒーを飲み干し、ソーサーに戻すと、ちょうどバーンズから通信があった。チューズデイはそれに受け応える。

「何かわかった?」

「ああ、怪しげな会社は見つけた。お前も気にしていたみたいだが、模造銃とその弾丸を大量発注した会社がある。調べてみたが、新興の会社なのか、ろくな情報が出てこない。一応のホームページもあったが、まるで五分で作りあげたようなやっつけ具合だ」

「ASISが武器取引をするためのペーパーカンパニーか」

「その可能性が高い。サタンとかいうCIAの資産(アセット)は、それを糸口にASISに接触したのかもな。……だが、どうしてCIAはその情報を消した?」

 その言葉を聞いて、チューズデイはしばらく思案した。

 シンジケート、とギャッツは言っていた。彼はそれのおかげで儲けている、と。チューズデイは、それはASISを指す隠語だと考えていたが、もしかしたら違うのかもしれない。もっと、何か深い闇が関わっているのかも……。

「シンジケート、とギャッツは言っていた」

組織(シンジケート)? なんだそりゃ?」

「私にもわからない。ASISを指す隠語か何かだと思うけれど……。ともかく、問題の企業を調べてみる」

「頼んだ。住所は送っておく。またニューヨークへトンボ返りだ」

「やれやれ、ね」

 言って、チューズデイは通信を切った。

 まもなくして、ラップトップとPDA共同のメールアドレスが住所だけのメールを受信した。場所はマンハッタンの外れ。そこにある映画演劇道具の貸し出し会社だ。

「ハリウッドでないだけマシか」

 PDAとラップトップをしまい、チェックアウトの用意をする。今夜にはマンハッタンに着いていたい。


 自動運転がついているだけで、ずいぶん旅は楽になった。はじめオンタリオへと向かう遙かなトラックの旅よりは、ずっと楽で、ずっと快適だった。

 NYへ戻る途中、チューズデイはi8のフロントウィンドウに、バーンズから送信されたデータを投影させていた。例の映画演劇道具の貸し出し会社だ。撮影用のプロップガン、ブランクガンから、車や、タバコと言った小道具。ほかにも、特注で何か特殊な道具を作っていたりもするらしい。だが、バーンズが調べたその会社の概要というのも、実に簡素で、実際に存在しているかも怪しいところだった。

 チューズデイは、そんな情報に目を通しつつ、一方で自分のことも考えていた。記憶のことだ。

 彼女の記憶は、もうずいぶん回復していた。当初は、自分がフリーの傭兵などという大ホラは、信じてたまるかという具合だったが、いまでは自信を持って言える。自分がルビー・チューズデイだと。かつての任務も覚えているし、自分のスイス銀行の口座番号も記憶している。体に染み着いていた慣れから、かつての思い出が引き起こされるようだった。だが、どうしても、未だに思い出せないことが一つあるのだ。それは、コードネーム・サタン。つまり今の標的、ハリー・ライダーのことだ。いまのサタンには、CIAの裏切った売国奴として目撃しだい射殺シュート・オン・サイト命令が出ている。だが、チューズデイはなぜあのとき――夢に何度も出てきた、サタンが敵のバンに乗って逃げていくとき――彼を止めなかったのか。それだけが分からないのだ。

 そのときの装備では無理だった? 確かに、チューズデイの愛銃であるスターム・ルガーMkⅢは、.22LRという小口径の弾丸を使う。一撃のストッピングパワー低く、その低威力さをバカにするジョークがあるぐらいだ。二十二口径では死にはしない、と。だが、そんなことはない。大口径の銃に比べれば命中率は高く、貫通力も申し分ない。相手の急所に当てれば、一撃でしとめることも容易い。そしてルビー・チューズデイという女には、それだけのことをやってのける技量があった。だが、なぜかあのときは、そうしなかったのだ。いくらでもチャンスはあったというのに、だ。

 なぜだ?

 そう考える度、彼女は余計にサタンを捕まえなければならないという気持ちになった。彼をとらえれば、すべては分かる。埋まらないパズルのピースも、埋まるのだ。


 ニューヨーク市内に入ると、さすがに自動運転は切り、手動に切り替えた。

 到着した頃には夕方で、まだ日は昇っていたが、しかし天気は悪く、薄暗かった。

 そんな中で、バーンズが提示した住所までたどり着いたチューズデイ。そこは、i8を停めるには狭すぎた。左右一車線ずつの細い道路に、その脇をかためるようにしていくつもの建物が建ち並んでいる。だがどれも古ぼけた煉瓦、あるいはコンクリートづくりの細い家ばかりだ。民家らしい家もいくつかあったが、多くは何かしらの事業事務所。あるいは、コンビニエンスストアやら、リカーショップ、タバコ屋などが並んでいる。正直、あまり治安の良い地区とは言えない。そんな場所だ。見れば寂れた駐車場のような空き地には、タバコをふかす青年――少年だろうか――たちがたむろしている。その手にはビールの瓶があり、また上着のポケットには、ナイフらしきものが隠されていた。あからさまに膨らんだポケットに、それを隠すような手。そんなもの、隠している内には入らないとチューズデイは思ったが。

 そんな薄暗い通りの中に、問題の店はあった。寂れたコンクリートづくりの建物は、人がいなくなってから一年ほど経過したような、そんな物寂しさがある。看板の一つもなく、店の前に車が止まる様子も無かった。店内へ通じる扉も、ガラス製ではなく木製で、どうみても商店といった雰囲気ではない。まだ倉庫と言ったほうが納得できる。

 チューズデイはそれからしばらく、その店の周囲を何周かした。偵察の為だ。時折遠くへもいって、不審がられないようにもした。カーナビを操作するふりをして、あたかも道に迷った方向音痴のように振る舞う。念には念を入れた。

 その偵察が功を奏したのか。人気のない裏口からの侵入経路を確認。チューズデイは、日が暮れてから裏口より侵入することにした。


 やがて薄暗闇のニューヨークは、ネオンサインと街頭ディスプレイの灯に照らされるようになった。曇天の夜空は、雲が厚く、月の姿などどこに求めようもない。

 店の裏手にある小さな駐車場にi8を停め、チューズデイは遂に問題の店に入ることにした。

 彼女は念には念を入れ、いくつかの装備を手にしていた。まず一つ、手に持ったアタッシュケースだ。銀に縁取られた黒のケースには、MP5Kが格納されている。むろん、サプレッサー装備だ。加えてケースの取っ手には、金属製の引き金が備えられている。ちょうどチューズデイの人差し指はそこにかけられていた。この引金は、その見た目通りトリガーだ。アタッシュケース内部のシャフトが取っ手の引き金が引かれるのに反応して、内部のMP5のトリガーを引く。つまりこのケースは、ケースと見せかけたままサブマシンガンを撃つことができるのだ。

 彼女がこの装備を持ち出したのは、ひとえに問題の施設の危険性。そして、小口径のスターム・ルガーでは、咄嗟の状況には不向きだと判断したからだ。二十二口径では、如何に射撃に自信のあるチューズデイでも心許ない。

 裏口には鍵がかかっていたが、しかしそれも些末な問題だった。電子的なセキュリティロックではなく、物理的な錠前だったからだ。

 彼女は上着のポケットから薄い金属の板を取り出すと、それを鍵穴へと差し込んだ。それから引き抜くと、金属は鍵の形に変形している。あとはそれを差し込み、鍵穴を回すだけだ。

 まもなく、錠前が開いた。ケースを持ったまま、彼女は内部に入る。薄暗く、明かりは窓から差し込む街灯しかなかった。

 室内に入り込んだとき、まず彼女が感じ取ったのは異臭だ。部屋の中からだけ、妙な香りがするのだ。はじめは香水、あるいは芳香剤か何かのようにも思えたが、しかしそれにしては強烈すぎる。もしかすると、ガスの類かもしれない。

 よもやそんなことは。とは、彼女も思った。もし神経毒だったとしても、あまりにも扱いが雑すぎる。バイオテロを仕掛ける準備をしていたとしても、あまりにもお粗末だ。

 しかし、それでも一応ハンカチを口と鼻にあてた。気休め程度のものだが、ないよりはマシだ。

 しばらく進むと、暗闇の中に木製の欄干のようなものが見えてきた。そして、それに無数の物体が立てかけられている。それらは黒や茶、あるいは迷彩色に塗装されていたが、一貫して変わらないところはあった。その形状。細長い銃口と、バナナのように曲線を描く弾倉。リアサイトにフロントサイト。そうだ、これらはどれもすべて銃だ。無数のライフル銃がそこにはあった。モデルも種々様々だ。ASISのようなテロリストにおなじみなカラシニコフタイプは言わずもがな、M4や、チューズデイが愛用するヘッケラー&コッホ製のライフルまである。

 しかし、どれもそれは模造銃(プロップガン)として作られた実銃だ。近くには弾薬を入れるらしいケースもあり、プラスティックと金属で出来たマガジンに、それら実物のフルメタルジャケットを装填することが出来た。装填機(ローダー)まであるぐらいだ。

 銃の数は数え切れなかった。銃弾など海のようにあった。ここは道具のレンタル業者というよりは、ガンショップと言った方がよほどしっくりくる。

 大量の銃の中には、本当の銃――すなわち、銃として作られた銃――もいくつかあった。どれもテロに使う予定だったのだろう。

 それにしても、なぜASISはこれだけの模造銃を購入したのか。それも、自由の国――いや、銃の国アメリカで、だ。ライセンスさえあれば、この国ではスーパーマーケットでさえ弾薬が手に入る。一家に一丁は当然というような国だ。そんな国で、どうしてこんな回りくどい方法で武器を集めているのか。

 それは、ひとえに彼らの功罪と言えるだろう。パリ、ロンドン、ベルリン、そしてD.C.と彼らは乱射事件、自爆テロを引き起こしてきた。その行為が、逆に彼らの首を絞めたのだ。CIAが血眼になって、テロ組織の銃の購買記録。弾薬の購買記録。そして、その弾丸を使用したという証拠を探しているに違いない。それは、傭兵であるチューズデイにも分かることだった。

 アメリカは、恐怖が購買意欲となる社会だ。かつて英国からの移民が先住民に怯え、武器を求めたように。農園所有の地主が、黒人奴隷の反逆に怯え銃を求めたように。権利を主張する黒人に怯え、銃を求めたように。そして、銃を持つ者に怯え、また銃を求めたように。

 だが、今回ばかりは、そうもならなかった。確かに、パリ、ロンドン、ベルリン、続くD.C.でのテロ事件後、銃の購買量が一挙に上がったことは言うまでもない。だが、同時に政府の監視の目がさらに厳重にもなった。ただでさえ銃規制が叫ばれる昨今だ。いかに取り繕っても、不法入国のムスリムが銃を買おうとすれば、訝るような目で見られることは必至だろう。

 ここに実銃に作り替えられた模造銃が多く揃っているのは、おそらくそういう理由だ。そして彼らは、見事にそれに成功した。

 チューズデイは、銃火器の山を抜けると、一応のオフィスらしき場所にたどり着いた。電気スタンドはあったが、コンセントが断線していて起動しなかった。

 仕方なく、彼女はオフィスにある旧式のコンピュータの電源を入れた。立ち上げに時間がかかる中、彼女はハッキングとデータ転送の用意をする。USBを差し込む。

 暗闇の中で、ディスプレイの灯が怪しげに輝いた。まもなく、画質の荒いロード表示が消え、デスクトップ画面に。その中から、チューズデイはめぼしい情報にアクセスした。

 探したデータは、主にメールや文書ファイルだ。しかし、そのどれもが当たり障りのない内容ばかりで、これが暗号文とも考えられたが、ASISの符号の分からないチューズデイには、何のことだかサッパリだった。

 メーラーも見終え、ドキュメントファイルにも一通り目を通した。だが、そのどれもが元から存在したであろうどうでもいいデータか、商店としてのハッタリを効かす為のテロ組織とは何ら関係のないデータだけだった。

 ここはハズレだったのだろうか。

 一瞬、チューズデイはそう思った。だが、先ほどの倉庫らしき部屋に目を寄越せば、そんな甘い考えも失せる。ここはテロ組織の武器庫だ。

 チューズデイはコンピュータの電源を落とし、物理媒体のファイルを探すことにした。確かに、情報データは盗み見られる可能性が高い。特にアメリカは、パリ、ロンドンでの一件以降、特に警戒を強めている。噂のエシュロンを使えば、彼らのメッセージなどは容易に傍受出来る。

 そのために、ASISは多数の暗号を思いついていた。たとえば、オンラインゲームでアバターの行動を使って――手を上げ下げするとか――二進数の暗号を生成するなどだ。そんな手の込んだ計画をする連中だ。もっとアナログな手段に走ることも想像できる。

 そして、その予想は皮肉にもあたったのだ。切手と判子の捺されたエアメール風の郵便物。その中には、アラビア語で綴られた便箋が入っていた。

 便箋を取り上げると、窓際まで持って寄越して、それを読んだ。手紙の内容は、ずいぶんと興味深いものだった。


     *


 NY市での攻撃は中止せよ。我々は、真の裁きを手に入れた。裁きの時を待て。

 そして、例のアメリカ人傭兵はどうしている? 元CIAという男だ。そいつが必要だ。生きているのなら、ラッカに送れ。


     *


 例のアメリカ人傭兵。元CIAの男。それが、サタンを意味しているのだと、チューズデイにはすぐに分かった。

 程なくして、サタン――偽名は、ハリー・マディガンだった――が彼らの仲間になった、という旨の手紙も発見した。おそらくこの手の手紙は、運び屋の手によって人づてに送られたものなのだろう。消印と切手は、どうにもフェイクらしかった。

 この手紙が正しければ、おそらくサタンは、差出人の言うとおりラッカに向かった。ラッカ。それはシリア北部にある、ASISの拠点だ。では、サタンはもう国を出たというのか。

 チューズデイは胸の内で大きな舌打ちをした。国内にいれば、まだ楽だった。着実にサタンには近づいていたが、しかし遠ざかっている気もした。

 そしてもう一つ気になるのは、「真の裁き」というフレーズだ。NYでのテロは、それにより中止になった。真の裁きとはなんだ? 自爆テロか、それともバイオテロでも引き起こすつもりか。

 そう思ったときだった。

 何か赤い光が、チューズデイの視界に現れた。それは街の灯ではない。ライターの光、炎だ。

 そこには、オイルライターを片手にした浅黒い肌の男がいた。アラビア系らしき彼は、はじめチューズデイのことなど気づいてすらいなかったが、まもなく侵入者に気がついた。そして、こちらをみた。彼は黒服に身を包み視認性を下げているようだったが、しかし彼が銃を持っているのを、チューズデイは見逃さなかった。黒いパーカーの下、腰元がやけに膨らんでいる。拳銃だ。奴は武器を持っている。

 胸の内でもう一度舌打ちする。

 そして、そのときチューズデイはようやく気づいたのだ。

 これは芳香剤でも、香水でもない。ガソリンだ。


「誰だ、きさま!」

 訛りのきいた英語で男が叫ぶと、チューズデイはすぐにその場から離れようとした。

 男もそこまでバカではないのだろう。このガソリンまみれの部屋の中で、不用意に銃を撃つことは無かった。だが、彼のその大声で、ほかの敵に見つかったことは言うまでもない。そこかしこで、英語ともアラビア語ともつかない叫びが聞こえた。そして直後、一発の銃声が室内に轟き、それが開戦の狼煙となったのである。

 まもなく、AKであろう七・五六ミリの銃声が断続的に響いた。チューズデイの足下、暗い部屋を照らすようにして火花が散る。そして直後、その内の一発が可燃性のものにぶつかったのだろう。または、あの男がライターを落としたのだろうか、部屋中に一気に火が回り始めた。

 すぐに煙が回ってきた。肺の中にどす黒い煙が入ってくる。

「クソッ!」とチューズデイはむせながら叫ぶ。だが、彼女は冷静だった。

自動運転(オートパイロット)回収(ピックアップ)!」

 そう叫ぶや否や、左腕のルミノックス・ネイビーシールズが反応。この暗く、しかし赤く燃える部屋の中で、文字盤のインディグロナイトライトが青白く光った。

 i8が自動運転を開始。裏口に停めたハイブリッド・スポーツがエンジンを始動させる。ネイビーシールズが発するGPS反応を頼りに、i8はチューズデイの元へ回収に向かう。

 その間にチューズデイは、この部屋から脱出する方法を考えた。だが、おちおち考えている暇もない。今すぐにでも脱出しなければ、火の手がすべてを灰燼に帰す。そうなってはどうしようもない。

 ジャケットに手紙をねじ込んだまま、チューズデイは駆ける。革製のタクティカルブーツがオイルを踏みつける。

 くそ、これで火が強まってきたら、一巻の終わりだ。

 まもなく、カラシニコフの銃声がさらに強まった。連中は完全にチューズデイを殺すつもりだ。証拠を消すことが、彼らの目的だったのだろう。だからガソリンを撒き、放火したに違いない。

 窓を見つけた。暗い内に、ネオンの光が飛び込んでくる。幸いにもそこに待ちかまえる敵はいなかった。だが一瞬間の後、そこに男が一人飛び込んできた。待ち伏せではなく、相手も完全な出会い頭だ。突然の戦闘。男は咄嗟にカラシニコフを腰だめで撃とうとする。

 だが、それよりもチューズデイの方が早かった。彼女はアタッシュケースを軽く持ち上げ、持ち手のトリガーを引いた。内部にあるMP5のトリガーが連動、サプレッサーに抑えられた銃声が轟く。鈍い銃声と共に、男の肢体が揺れた。銃撃を受けて体がくねる。声にならない断末魔がそこに残り、男はその場に力なく倒れた。チューズデイはマガジンが切れるまで撃ち続けた。窓ガラスが割れる。そして彼女は、ケースを盾にして窓の外へと飛び込んだ。

 ガラスの破片のせいでジャケットが裂けた。さらに銃弾が肩を掠める。後方から迫るテロリストたちがカラシニコフを手に、引き続き襲ってきていた。

 だが、もうそれも終わりだ。

 飛び込んだ先、そこには白のスポーツカーが控えていた。BMWi8。チューズデイの乗車を待ちかまえるように、ドアが開いた。

 滑り込むように運転席に飛び乗り、そしてすぐさまドアを閉じた。

 カラシニコフが再び轟く。模造品か実銃か……どちらでもいい。七・五六ミリが飛んでくることに変わりはない。

 すぐにエンジンをスタートさせると、同時に電磁装甲を起動させる。

 情報は手に入れた。もうここに用はない。アクセルを踏みつけ、その場を去る。


 まもなく黒のSUVが三台、i8を追ってきた。スピードではおよそi8にかなうはずもないが、しかし恐るべきは数と、武装だった。彼らには、もはや命など、社会的生命など惜しくはないのだろうか。自爆すらやってのける連中だ。実行までの手順は複雑でも、実行後はシンプルなのだろう。彼らは窓から身を乗り出すと、カラシニコフの銃口をi8に定め、なりふり構わず発砲してきた。周囲に一般人がいようが関係ない。チューズデイが殺せればいいのだろう。情報を奪われた、そのことが憎いのだ。

 i8の電磁装甲(ERA)は実に効果的な装備だった。SUVに乗った、およそ四人×三台からの銃撃。防弾仕様の車両といえど、装甲車両ではない。それだけの銃撃を継続的に食らえば、いずれは貫通するか、蓄積したダメージが致命傷へと変化するはずだ。だが、ERAは銃弾を弾き返す。運動エネルギーを最大限そぎ落とすことで、それは銃弾の威力を極限まで下げることが可能なのだ。i8の通った後には、黄金色の銃弾が散乱している。どれもERAによって弾かれたものだ。

 しかし、それにも限界はあった。いくら銃弾は弾き返すことは出来るとしても、それも無限ではない。まもなくメーターに《エネルギー不足》との警告が現れた。

「くっ……!」

 チューズデイは舌打ちし、ブレーキを強く踏みつける。パドルシフトでギアを落とし、減速。ステアリングを大きく右へ回した。

 寂れた二車線道路から、更に狭い路地へと入る。車両一台通るのがやっとという道で、本来車は通るところですらない。赤煉瓦造りの古くさい家の合間、ゴミ箱と猫と浮浪者とがたむろす間を、i8は再び急加速して直進する。その急激な方向転換に、一台のSUVが遅れをとった。

「まずは一台」

 チューズデイは独り言ち、そのまま加速を続ける。ゴミ箱から出てきた猫がニャアッ! と声を上げて飛んできたが、それも構わず逃走を続けた。

 いくら防弾仕様とて、やはりERAなしでは限界があった。後方、ようやく追いついた二台のSUVが列をなし、そして窓からはRPGを構えた男が姿を見せた。七・五六ミリ程度ならまだ防げるかもしれない。だが、対戦車携行ロケットを防げるだけの剛性は、さすがにない。それこそ爆発反応装甲でも必要な威力だ。

 ならば手は一つしかない。攻撃は最大の防御とはよく言ったもので、今まさに彼女が使おうとしているそれは、現状出来うる最大の攻撃だった。

 パドルシフトの脇にあるトリガーを引く。それはシフトチェンジをするための装置ではなく、スパイクベルトを投下するためのスイッチだった。まもなく、車体後方、マフラー付近より黒い板状のものが落下。それが地面に転がり落ちると、SUVは大きくハンドルを切ろうとした。だが、この狭い路地に逃げ場はない。

 先頭のSUVがスパイクベルトを踏みつぶした。途端、前輪に噛みついた牙がタイヤを噛み潰す。破裂したゴムタイヤは、なんら対策も施されていないごくふつうのタイヤだ。破裂したゴムは、リムからでろんと飛び出し、タイヤが空転する度に奇妙な軌跡を残す。リムがアスファルトに接地し、火花を散らした。もはや前輪は地面にグリップせず、車体を大きく滑らせた。狭い道路の中で、剛健な黒のSUVが壁に激突。ボンネットを歪ませ、車体を大きく縮こませ、ようやく停車した。

 路地は停車したSUVで、完全に封鎖された。激突した先にあったゴミ箱が散乱、猫がわめく。その後方では、もう一台のSUVが立ち往生。男たちは車から出ようとしていたが、しかしドアが歪んでうまく開かないようだった。

 その間にi8は、狭い路地を抜けた。目の前にはネオンきらめく大通り。チューズデイはサイドブレーキをかけ、車体を滑らせながらハンドルを右へ大きく切る。それからカウンターステア。右へドリフトしたi8は、四車線道路へと滑り込んだ。

 あとはこのまま逃げ切るだけだった。

 ごく自然と車線に飛び込んだi8。隣の車線を走るミニバンの後部座席、少年たちがソフビ人形で遊んでいた手を止め、チューズデイをまじまじ戸見ている。ファンサービスと言わんばかりに、チューズデイはウィンク。しかし子供たちはなおも放心状態。

 だが、そんな余裕はないようだった。

 前方、二つ先の交差点。反対車線を黒のSUVが走っている。おそらく、途中で右折出来なかったヤツだ。それが今頃になって反対車線に現れた。

これから右折なり左折なりして逃げるのもいいだろう。しかし不運なことに、目の前の信号が突然赤に変わったのだ。一方で、その先の信号――つまり黒のSUVがいるところだ――は青のままなのだ。

 このままでは接触する。またカーチェイスをするハメになる。それだけは避けたかった。

 ……避ける手だてなら、この車に装備されていた。

 カーナビの下、エアコンの送風口脇にあるつまみ。チューズデイは、それを少しだけ捻った。加えて、そのさらに下にある三段スイッチを、パチンと下へ落とす。

 その刹那、白のi8のボディは、電流をまといながら黒に変色した。同時、ナンバープレートが回転し、先ほどとは違う番号へ。

 例のミニバンの子供たちが、あんぐりと口をあげてi8を見ていた。一方、間抜けなテロリストは、チューズデイに気づかぬまま交差点を抜けていく。反対車線を走っているのが彼女だとは気づかずに。

 チューズデイは、改めて子供たちにウィンクした。


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