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悪魔を憐れむ女  作者: 機乃 遙
悪魔を憐れむ女
3/12

 アメリカとカナダの国境沿い。ニューヨーク州のはずれ。五大湖の一つでもあるオンタリオ湖の近くに小さな家屋があった。白塗りの古ぼけた家には、同じように古ぼけたガレージがあり、中にはまた何十年と使われているのであろうトヨタ・ハイラックスが駐車されている。

 CIAの拘束から脱した、およそ三日後。チューズデイという女は、そこにいた。国境沿いの街の、どちらかと言えばカナダ側。鬱蒼と茂る針葉樹林と、黄色く模様替えをした木々。自然あふれる場所であったが、しかし彼女の心は晴れず、暗澹とした感情が残るのみだった。

 彼女はセーフハウスのウッドデッキに出て、庭を見ながらコーヒーを嗜んでいた。庭といっても大したものではなく、雑草も茫々と繁っている。カエデの木も植えてあるには植えてあったが、赤く染まった木の葉の大部分は枯れ落ち、庭の端へ追いやられて、後は燃やされるのを待つのみとなっていた。

 ルビー・チューズデイは、デッキチェアに腰掛け、マグカップ片手に資料に目を通していた。それはすべて、彼女の記録だ。ルビー・チューズデイという女の記録は、この世界より抹消されている。だが、彼女がやった仕事の記録――といっても間接的なもので、結果しか報じられていない。たとえば、イスラエルの核査察であるとか、そういう件だ――または、彼女の偽の身分証明書だとかだ。

 古新聞を読みながら、彼女は偽造されたIDを見た。そこには「ジェイミー・ボンド」という偽名と、彼女の顔写真とが印刷されている。青い瞳に白い肌。肩より短いブロンド髪は、生来のものだ。彼女は、イギリス系移民の血を引いている。といっても、今の彼女は容貌を変える為、焦げ茶色に髪を染めて、ゆるいパーマもかけていた。

 彼女がIDをサイドテーブルに置き、コーヒーを飲み干すと、庭の裏側から一人の男が現れた。髪の白い初老の男は、顔じゅうに皺を寄せてチューズデイの方へとやってくる。

 庭の裏手は、作業部屋。倉庫と工具、作業台が一緒くたになった小屋がある。その男――名前をアーネスト・バーンズという――は、軍手にオリーブドラブの作業着という出で立ちで、作業部屋から出てきた。彼こそ、昨日モーテルに押し入った男だ。そしてこのセーフハウスの持ち主でもある。

「どうだ、何か思い出したか」とバーンズ。

「申し訳ないけど、まだ完全には思い出せない」

「この俺のことも思い出せんか」

 バーンズはそう言うと、軍手を外し、デッキに腰掛けた。彼は重いため息をつく。

 バーンズのことは、初めて会ったときに聞いていた。初めて、というのは、記憶が混濁した状態では初めて、ということなのだが。

 アーネスト・バーンズ。かつて、ジェイクという暗号名(コードネーム)を与えられたこの男は、CIAの資産(アセット)であり、特殊工作員(スパイ)だった――そう彼は語った。しかし、今や愛する合衆国を追い出され隠居生活の身だ。なぜ国を追い出されたのか、それを彼は語らなかったが、しかし彼は元諜報員という経歴と、国を追い出された爪弾き者という境遇から、チューズデイの支援をするようになった。というよりも、彼曰く、一介の傭兵に過ぎなかったチューズデイをフリーランスの特殊工作員という特殊な地位に登り詰めさせたのは、アーネスト・バーンズ、まさに彼らしいのだ。

 彼はチューズデイに好意的だった。偽造書類と、彼女がCIAに残したデータの削除をしたのも彼であるし、何よりこのセーフハウスを提供してくれた。療養にはちょうどいい家だ。

「まあいい。俺もこの手の薬を飲まされたことはある。何十年も前の話だがな。まあ、もう二、三日もすれば効果も消えるはずだ。後遺症に関しては何とも言えんが」

「そうなったときは、また自分で記憶を探る」

「殊勝な心がけだが、それでまた別の人格を植え付けられそうになったらどうする? CIAは、お前の記憶を混濁させ、目標である『裏切り者』の記憶のみをお前の夢に表出。それ以外を消し去って、チューズデイって厄介者に蓋をしようとした。記憶操作、催眠……MKウルトラ計画の遺物だな」

「そうなれば、そいつを殺すまでよ」

「その対象には俺も入るか?」

「むろん」

「合格だ。そうでなければ、ルビー・チューズデイではない」

 バーンズはそう言って、鼻で笑った。

 そうして彼は再び作業小屋に戻ろうとした。だがそのとき、家の中の電話が鳴ったのだ。電子音がけたたましく鳴り響く。チューズデイは電話に出なかった。自分が出てはまずいと、それぐらい分かっていたからだ。

 間もなくして、作業小屋から踵を返して、バーンズが受話器を取った。彼はその電話をとるや、急に顔が青ざめ、そしてチューズデイを見た。

「お前に電話だ」

 バーンズの手は、ふるえていた。


「もしもし」と決まりきった文句と共にチューズデイは電話に出た。

 電話の主は、ボイスチェンジャーを使っているのだろう。甲高い声で答えた。

「やあ、ルビー・チューズデイ。久しぶりだね」

「何者だ」

「CIA上層部、その機密部門とだけ言っておこう。君と同じ、どこにも属さず、どこにも干渉されないトップシークレットセクション……。僕の名前はMだ。よろしく」

「CIAなのにM、ね」

「まあ良いじゃないか。僕のイニシャルから来ているんだ」

「ではミスタM、私に何の用」

「依頼だともさ。仕事の依頼だ、ミス・チューズデイ。君が逃がした我々の資産(アセット)……いや、元資産と言おうか。コードネーム・サタンは覚えているかな?」

「……私の記憶を混濁させたのは、あなたたちだと思うけど」

「それに関しては僕からも陳謝しよう。君のような逸材の利用価値を分からないバカタレがいてね。本当にすまない。そういうバカどもは、僕がみんな口を塞いでおいたから、安心してくれたまえ。まったく……。君はどの国家や宗教、組織の利益、イデオロギーにも関わりなく、提示された金額で動く女だ。国家間の政治的事情も関係なく、非合法な作戦だって完遂出来る。それは各国にとってメリットでもあり、デメリットでもある。牽制材料になるんだよ、君は。我々にも重要な存在さ。……まあ、もっとも諜報員の人生が、莫大な金を使うほど長いものとは思えんがね。ともかくだ、君とサタンは、テロ組織ASISを追っていた。サタンはASIS内部に潜入し、君は極秘裏に彼の支援をしていた。保険というやつだな。君の存在はラングレー内部でもトップシークレット。もちろんサタンにも教えていない」

 ASIS。そしてサタン。

 その名前が出たとき、チューズデイの脳内でニューロンが激しく反応した。記憶の断片がうめき声を上げ、思い出してくれと悲鳴を上げる。そうだ、夢のなかに現れたのは、その男だ。コードネーム、サタン。

 ASIS。それは五年ほど前、米国人ジャーナリストを処刑、その様子を動画サイトにアップロードしたとして一躍有名になったテロ組織だ。その本拠地といえばシリアにあるのだが、彼らは米国の爆撃作戦に反抗し、このようなテロ行為を未だ続けている。血が血を呼ぶとはまさにこのことだ。昨年末にはパリで無差別殺人を起こし、次はニューヨークだと声を荒げていた。サタンというCIAの工作員、そしてチューズデイは、そのNYでのテロを未然に防ぐため、送り込まれたのだ。

 だが、結果はどうだ。チューズデイの記憶の断片がささやく。結果は――

「サタンは十三日、ASISはタイムズスクエアで自爆テロを起こすとリークした。しかし、実際にはD.C.で起きた。官庁街のど真ん中だ。その後、サタンは行方をくらました。つまり裏切ったのさ。ASISにいくら積まれたかは知らんがな。そして、君はよりにもよって彼を逃がした……。これがいま起きていることだ。思い出したかい、ミス・チューズデイ?」

「……断片的ではあるけど」

「結構。では、あらためて我々は、君に依頼したい。安心したまえ、君のスイス番号口座に、君が望むぶんの金を送る用意がある。君への依頼はこうだ……サタンを殺せ。そして、ASISの次の狙いを突き止めろ。以上だ」

 男がそう言った直後、砂嵐のような爆音が轟いて、電話は切れた。

 チューズデイは受話器をバーンズに渡す。療養中だが、早々に復帰せねばならなくなった。


「裏切り者の処理とは、何とも雇われらしい仕事だよ」

 バーンズはふてくされ、チューズデイを咎めるような口調で言った。

 CIAを名乗る謎の男。彼からの依頼は、問題の裏切り者『サタン』の処刑にあった。そして、サタンが寝返ったとされるASISの動向をつかむことにもある。

 バーンズはその話を聞くや、「やめておけ」と何度も口にした。曰く、彼にも同じ経験があったのだという。彼の場合逆の立場――つまりCIAを抜けた時、雇われの殺し屋に狙われた――だったが、しかしいずれにせよ面倒なことに違いはない。だから彼は、今すぐにでも高飛びしろと言った。

 だが、チューズデイはそれを断った。サタンに会いに行く必要があると、彼女は言ったのだ。

 理由は一つしかない。なぜ自分はサタンを逃がしたのか。それが気になって仕方ないのだ。ならば当の本人に聞きに行くまで。それに、サタンはチューズデイの正体を知っている可能性もあった。消すに越したことはない存在だ。

 そこまで言うとバーンズも折れ、チューズデイを手伝うと言ってくれた。

 だが、問題はどうやってそのサタンを追うかである。CIAが逃がした相手をどうやって追うことができようか。

 それに関しては、まったく心配は無かったのだが。


 バーンズは、療養中という名目でデッキチェアに座るチューズデイを叩き起こし、作業小屋に案内した。

 作業小屋は、木製の小さなガレージだ。スクラップになりかけた耕運機や、エンジン、作業台には釘打ち機やドリルなどがおいてある。日曜大工よりはマシな設備だった。

「まるで小学校に上がる娘を見ている気分だよ、チューズデイ。ずいぶんと早い復帰には、それなりの装備が必要だろう?」

「装備?」

 彼女がそう問いかけると、バーンズが作業台奥の赤いスイッチを押した。

 直後、小屋の床が割れ始める。地下へと続くコンクリの階段が姿を現した。

「案内する。今のお前には、記憶喪失を補う装備が必要だ」

 割れた床の向こう、薄暗い階段をバーンズは下り始める。チューズデイもそれを追って、地下へと向かった。

 地下室は暗く、ひんやりとしていた。壁面もすべてコンクリートのようで、手探りで暗闇を進む度、手にしたコンクリートが指を凍えさせた。

 やがて夜目が効いてきたころ、バーンズが照明のスイッチを入れた。

 電撃が炸裂するような強烈な音。閃光弾がはじけるように、一瞬で周囲に光が灯された。そして現れたのは、コンクリート打ちっぱなしの壁面だった。そんな壁にかけられたメタルラックには、いくつもの銃や装備が備えられている。そしてその中央には、一台のスポーツカーがあった。

「まずお前には、こいつが必要だろう」

 コンクリートの壁にかけられたメタルラック。そこにかけられたライフルではなく、バーンズはまず腕時計を一つ手に取った。ルミノックスのネイビーシールズだ。

「俺がCIA時代に使っていた端末だ。暗号通信と、麻酔針の発射機構、それからワイヤーの射出機構も備えている。まずは、こいつだ」

 バーンズは言って、それをチューズデイに投げた。

 何とかキャッチして、彼女は時計をはめる。チューズデイの華奢な、しかし筋肉質な腕には、少し大きめに見えた。

 黒に白の文字盤が映える。視認性の高いルミノックスは、米軍や警察特殊部隊でも多く採用されているモデルだ。もちろんその堅牢さから日常的に使っている者も多い。

「ライフルはお前の好みでいい。拳銃はいつものルガーがあるだろう? あとは――こいつだ」

 銃火器の並べられたウェポンラック。その中央に鎮座するひときわ目立つ車。彼は、それ指さした。BMW i8、ハイブリッドスポーツカー。だが、それはただの車では無いようだった。

「今のお前に一番必要なのは、コレだろうな。こいつは昨年、MI6がルビー・チューズデイに友好の証として送りつけてきたシロモノだ。とはいえ連中、発信器(トラッカー)をつけていたがな。今はもちろん外してある。今頃、トラッカーの情報はエジプトの砂漠でも突っ走っているところだ。……さあ、乗ってみろ」

 メタルラックの中から、バーンズは車の鍵を手に取った。そしてまたそれをチューズデイに投げる。今度も彼女は華麗にキャッチし、そのままドアのロックを開けさせた。

 BMW i8。白に青のラインの入ったこの豪奢な車は、電気モーターとガソリンエンジンを備えたスポーツカーだ。だが、MI6が寄越したからには、ただの車ではない。

 チューズデイはエンジンをスタートさせる。すると、メーターのデジタル表記にエンジンやモーター、電子制御といったものとは違う、明らかに異質なシステムが立ち上がった、という報告がなされた。おそらく戦闘用のシステムに違いあるまい。

 電磁装甲(ERA)起動(ON)の表記。その直後、バーンズが車両の前に立った。彼の手には、四十五口径(フォーティファイヴ)があった。

「いくぞ、チューズデイ」

 刹那、バーンズがi8のボンネットめがけてトリガーを引いた。その瞬間、i8のボディが帯電。放たれた銃弾は、ボディに接触する間際、跳弾。i8ではなく天井の照明を撃ち抜いた。

「何が起きたの?」とチューズデイ。

「電磁装甲だ。ボディが一瞬、強力な電磁石となって銃弾をはじき返す。レールガンの応用だな。他にもこいつは、三種類のナンバープレートを自動交換、ボンネットに七.五六ミリ機関銃を二門格納。車体後部にはスパイクベルトを装備し、さらには車体の色を変えられる」

「車体の色を変える?」

「そうだ。カーナビの下にあるツマミだ」

 言われた通り、チューズデイはツマミを右へ捻った。

するとどうだ、i8は再び電気を帯びたかと思えば、車体が黒く変色したのだ。一瞬の事だった。

「このボディは、電圧に応じて色を変える特殊な合金で出来ている。白、灰、黒になら変更可能だ。それとナンバーの変更を組み合わせれば、容易に敵を欺くことが出来るはずだ」

「MI6もなかなかのモノをくれるじゃない」

「問題は、それに余計なモノをつけていたことさ。……さて、それじゃサタンとかいう奴のあとを追うとしよう」


 バーンズは次に、地下室奥にある部屋に案内した。この地下空間は、もともと倉庫か何かだったようだが、彼が武器庫兼コンピュータルームに改装したようだった。

 武器庫から隔絶された部屋には、青い白いディスプレイの明かりがぼうっと浮かび上がっていた。ディスプレイは三つも四つもあり、その明かりだけで部屋の全貌を見ることさえ出来たほどだ。

 室内には、黒い長方形の箱がいくつも並んでいた。天井にはエアコンがあり、常時室温を低く設定しつづけている。オーバーヒート対策だろう。

 バーンズは、室内に一つだけあるイスに座ると、ディスプレイの前にあるキーボードを手に取った。

「それでチューズデイ、今度のお前のターゲットは誰だ」

「サタン、CIAの資産(アセット)だった男よ」

「サタンか。またひどい暗号名だ」

 バーンズはそう言って、キーボードに何かを打ち込み始める。

 ディスプレイに黒い表記。文字列が並び始め、やがて何らかのログイン画面が現れる。だが彼は、馬鹿正直にログインするのではなく、別のプログラムを立ち上げると、その第一の関門を(クラック)った。むろん非合法な手段である。

 そうして、画面上にはCIAの秘匿情報(クラシファイド・ファイル)が表示された。バーンズはその中から、得意げにサタンの情報を見つけだす。

「お前に連絡を寄越したやつ、何と名乗った」

 バーンズはページをスクロールしながら言った。

「Mと名乗っていた。CIAらしいが……何者?」

「やはりか。そいつは俺の元上司だ。俺も声でしか知らんが。それもボイスチェンジャー有りのな。……ともかく連中は、俺をまだ泳がせ続けている。俺をラングレーには置いておけないが、腕だけは買ってるってことだろう。お前もそうだ、チューズデイ。Mは有用性があるならば、そいつをトコトン活かすやつだ。どの組織にも属さないスパイなんてのは、各国の諜報機関を牽制する材料にもなる……出た、コレだ」

 クリック音が、静謐な地下室に響く。

 かすかなコンピュータの駆動音と共にディスプレイに新たな表示。そこに、一人の男の顔写真と、経歴。そして、彼が過去に提出した報告書などが表示された。

 映し出された顔。それは間違い無かった。チューズデイはイヤと言うほどこの男の顔を見た。それも夢の中で。CIAが追っていた男というのは、まさに彼だ。

「しかし、カンパニーの体制も変わらんな。身内から外に出た違反者(ヴァイオレイター)の相手は、雇われにやらせる。自らの手を汚さないのが真の諜報活動ってか」

「でも、それが私の仕事でしょう」

「そうだな。……まあ、お前は高飛びしても良いと思うがな。無理にMに従う必要はあるまい」

「しかしどのみち、いまの私はCIAに追われる身よ。それなら、向こうの顔色をうかがった方がいい」

 チューズデイがそう言うと、バーンズも「そうだな」と頷いた。

 だが、チューズデイとしての理由はそれだけではない。なぜ自分はサタンを見逃したのか。どうしてもそれだけが思い出せない。それをサタンに問いたいのだ。

 バーンズは一通り経歴を見てから、サタンの提出した報告書をプリントアウトした。

 コードネーム・サタン。その本名はハリー・ライダーと言った。父方はイギリス系移民、そして母方にはメキシコ系の血が混じっているらしく、彼の顔は浅黒くて、眉も太く、彫りも深かった。語学に堪能なようでアラビア語も出来るらしい。そこを買われて、この任務に就けさせられたのだろう。

 しかし、どうしてこの男は、わざわざテロ組織などに寝返った。

 チューズデイはそう自問したが、傭兵である自分に言える話では無かった。金で動く諜報員。そんなものは、この世界にごまんといる。自国の情報を敵国に漏らす密告者を始め、二重スパイだったそうだ。それも提示された額によってどちらへつくかを決める。結局は金だ。

 やがてすべての報告書がプリントアウトされた。ディスプレイの配置されたデスクの脇、複合プリンターから紙が吐き出される。チューズデイはそれを受け取ると、斜め読みした。

 そこには、サタンという男がテロ組織と接触するまでの経緯が細やかに記されていた。しかし最後には、やはりNYでの襲撃が起きるという報告を残し、完全に消えていた。

「Mの言っていたことは、どうにも確からしいな」とバーンズ。「それで、足取りを掴めそうな情報はあるか?」

「待って」

 チューズデイは言って、プリントを再度読み始めた。今度はじっくり、ゆっくりと文字を追う。

 同じくバーンズも、ディスプレイで文字を追い始めた。彼は老眼なのだろう、デスク脇のペン立てにしまい込まれたメガネケースをとると、金縁の老眼鏡をかけた。


 ハリー・ライダーという男は、確かにASISと接触していた。それは書類上でもそうであったし、チューズデイの記憶上でもそうだ。書面上にある事実を読み解く度に記憶が蘇った。波が砂を掻いて、埋没物を表していくように。砂浜に漂着していたボトルメッセージがゆっくりと露わになっていく。

 チューズデイは、サタンとは別のアプローチでASISに接触していた。

 サタンは、志願兵となっていたのだ。金に困窮し、生活の為に戦うことを選んだ哀れな男。彼はそれを演じ続けた。その一方で、チューズデイは武器の密輸会社を演じ、接触を図った。結果と言えば、先に潜入していたサタンが情報を得、チューズデイは彼の監視役となるのだった。しかし結局、サタンのもたらした情報はブラフだった――または彼が裏切った――のだが。

 サタンはまず、ASISの募集係に認められる必要があった。積極的に、しかし作為的には思われぬよう、あらかじめマーキングされていた募集係の男に接触。みごとサタンは、男に「金か銃弾か」と脅迫されたのである。

 ASISに潜入してから分かったことは、テロの実行に伴う実戦部隊はASISリーダーであるアフマドの信奉者が多かったが、しかしその部下は金の為に動く生活困窮者ばかりだったということだ。かつて聖典か死かと唱えた者が似たようなことをしていると言えば、そうかもしれない。しかしもっとも恐るべきことは、ASISにそれだけの経済力があることだった。

 そうして潜入したサタンは、タイムズスクエアでのテロ発生をリークし、姿を消した。D.C.での大量虐殺と共に。


 しかし、一連の報告書の中にあやしい記述が一つだけあった。

「おい、なんだこれ」

 バーンズがPDFデータをスクロールさせながら言った。

 カーソルをぐるぐると回し、一部の記述を指し示す。チューズデイも同じところを気にしていた。

 そこには確かに記述があったのだが、一部文章が抜けているような感じがあったのだ。CIAが隠したのか。それとも、サタンが意図的に書かなかったのか。

「サタンはどうやら、デトロイトにある『リベレーター』って企業に接触していたらしい。ASISと関わりがあるために接触したとあるが、その詳細は書かれていない」

「機密情報か?」

 チューズデイは問うたが、バーンズは首を横に振った。

「そもそも存在しない。データごとごっそりだ。原文を確認するしか無いだろう。それこそラングレーに潜り込まんと分からん。だが、さすがにそれは無理だ」

「だったらデトロイトに行こう。そこに手がかりがあるかもしれない。サタンが失踪した理由が」

「おいおい、正気か?」

「正気よ」

 そう言って、チューズデイは部屋を出て、ウェポンラックのある倉庫に戻る。

 装備を整える必要があった。どのみちCIAに追われる身なのだ。ならば、奴らの言いなりになるフリをして、自らの記憶を奪い返しにいくまでだ。


 チューズデイの療養は一日で終わった。まだ彼女の自己同一性は完全に回復したわけでは無かったが、しかし自分がどの機関にも所属しない諜報員〈ルビー・チューズデイ〉である確信は持ててきていた。

 だが、問題はこれからだ。

 チューズデイはデトロイトに行く必要があった。

 黒のパンツスーツを着た彼女。チューズデイは愛銃であるスターム・ルガーMKⅢをジャケットの下、ショルダーホルスターに隠した。更に車のトランクにはHK416アサルトライフルと、MP5Kのフォアグリップとサプレッサー装備を押し込み、潜入用の特殊インナースーツ。また着替えとして、黒のドレスとスーツを用意した。

 準備を整えると、翌朝、彼女はデトロイトへ向けて出発した。時間にしておよそ四時間以上のドライブだ。だが、今度はニューヨークシティからオンタリオまでほど辛くは無かった。なぜなら、MI6特注のBMW i8には自動運転機能が装備されていたからだ。車に乗ったチューズデイがすることと言えば、カーナビに目的地であるデトロイトを設定し、あとは待つのみだった。

 車内通信機では、バーンズの声が響いていた。そして、彼がコンピュータから出力した映像がi8のフロントガラスにも投影されている。ちょうど内側からは映像が見えるが、外からはただの窓ガラスに見える仕組みになっていた。

「調べてみたが、リベレーターという会社は、最近出来たばかりのベンチャー企業らしい。社長であるジェローム・ギャッツは、デトロイト出身で、元は貧しい肉体労働者(ブルーカラー)だったらしい」

「デトロイトらしいといえば、らしいけど」

 フロントガラスに三十代後半ぐらいの顔つきをした白人が映る。続けて名前、生年月日、性別、職業……と情報が表示されていく。

 デトロイトと言えば、犯罪都市として名高い。そこで一応の成功を収めているのだから、それなりの理由があるに違いない。アメリカン・ドリームといえば確かにそうだが、しかし暗く陰のある、皺の多いギャッツの顔には、何か裏があるように見えた。

「それで、リベレーター社というのは?」

「そうれがだな、ちょっと胡散臭い会社でだな」

 フロントガラスに映る映像が切り替わる。今度は会社の情報だ。デトロイトにある本社ビルが映し出された。

「元は玩具メーカーだったらしい。といっても、リベレーターが出来る前、ギャッツの祖父の時代だ。ブリキ玩具を作っていた会社があったらしいが、祖父一代で倒産。だが、そのときの遺産がいくらか残っていたらしく、それを元手にして、あるものを作り始めた」

「あるもの、というと?」

「銃だよ。安価な銃だ。3Dプリンターを使って護身用の銃を作り始めたらしい」

「だが、そうは書いてない」

 チューズデイはガラスに映る情報を見て言った。

 リベレーターは玩具メーカーであると書いてある。トイガンや、映画撮影用のいわゆるブランクガン、プロップガンはその中に含まれていたが、しかし人殺しの武器に関しては一文字も触れられていない。

「むろん、裏でやっているんだろうさ。安価で使える銃を犯罪組織に売りさばく。玩具を売るついでにな。撃ち出す機構に変わりはない。問題は火薬式かガス式か、プラスティックか鉛かってことだ」

「それで。問題はどう接触するか……」

「それなら問題ない」

 再び映像が切り変わる。スケジュール帳だった。

「明日、リベレーターは貧しい子供への寄付金を募るチャリティーパーティーを開く。新興成金ほど、こういうパーティが好きなものだ。お前はここに潜入して、何とかギャッツから情報を手に入れろ。女の武器を活かせ」

「了解した。デトロイトに着きしだい連絡する」

 通信が切れる。映し出されていた映像は失せ、幹線道路が視界いっぱいに広がった。

 今日中にはデトロイトにつく。チューズデイは独りでに動くステアリングを見ながら、大きく息をついた。


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