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悪魔を憐れむ女  作者: 機乃 遙
悪魔を憐れむ女
2/12

 私は夢を見る。

 そうだ、男の夢だ。

 私は、その男を追っていた。たしか始まりはニューヨークだった。それから私は何かを追い、フィラデルフィアを抜け、D.C.までの四時間以上に及ぶ道のりを歩んだ。私は彼を追い続けた。なぜ彼を追っていたかは覚えていないけれど。……だが、きっと彼は仲間だったのだ。彼は私のことを知らなかったが、私は彼を知っていた。私は、彼を手助けするよう言われており、そして彼は何かしら重要な任務を帯びてそこにいた。

 そのはずだった。

 だが、D.C.に爆音が轟いたのを合図にして、彼は突然私たちを裏切った。任務を放棄し、黒塗りのバンに乗って、どこかへ消えてしまった。

 私には、サイドミラーに写る彼の顔を見るしか出来なかった。私は銃を持っていたのに、撃つことすら出来なかった。

 何故撃たなかった?

 何故、彼は私を裏切ったのに、あんなに悲しそうな顔をしていた?


 時折自分が何者であるのか分からなくなるときがある。あのとき、あの瞬間、自分は何を考えていたのだろう。もしかしたら、あの時の自分は、自分では無かったのではないか。そんな疑念が脳裏によぎる。

 彼女は、つい数日前からまさにそのような状態だった。それもこれも薬のせいだ。数日前、とある組織に拘束された彼女は、薬物投与により記憶の混濁を引き起こされた。そして拘束から脱した今でも、その混濁に悩まされていた。いまでは自分が何者かはわかるが、なぜそうであるかがわからない。ルビー・チューズデイ。彼女の事は、誰も知らない。彼女自身さえも。

 彼女は、彼女が借りていたというアパートにいた。ニューヨークの郊外にある安くてボロくて狭苦しい借家。その二階だ。そこには駐車場も無く、車は自宅前の路肩に停めるのが常識だった。しかし道路は狭く、バンなどが停められていると、歩行者がいやそうな顔をして通っていくものだった。

 古ぼけたアパート。その室内は、深緑のカーペットが敷かれ、あとは小さなシングルサイズのベッド。それからキッチンだけがある。寝室とリビングは一緒になっていて、キッチンとユニットバスだけが扉で区切られていた。

 彼女、ルビー・チューズデイは、ベッドに腰を下ろして、クローゼットから見つかったものを広げていた。

 パスポート。社会保障番号の書かれたID。運転免許証。それから銃と、衣服と、車のキーだ。鍵は、どうにもフラットの正面路肩に停められたフォードトラックのものらしかった。その錆びたボロ臭いトラックの姿は、二階の彼女の部屋の窓からも見える。

 このアパートを見つけるまでにもチューズデイは苦労を要したが、しかしここへ来ても彼女は自分の過去を呪わずにはいられなかった。

 彼女がいま、自分自身について分かっていること。それは、ルビー・チューズデイという名前。そして、自分が金で雇われるフリーランスの特殊工作員(スパイ)だということだ。そして、彼女の部屋にあったものは、彼女がスパイであるということを更に保証するものばかりだった。

 クローゼットには、黒のスーツとコートがいくらか掛けられていたが、その奥には隠し扉があり、中に偽造パスポートとIDとがいくつもしまわれていた。名前はどれも違うもので、少なくともチューズデイという名前のものは一つもない。そしていま、彼女が手にとって見ているのは、「ジェイミー・ボンド」という名前のパスポートだった。

 ジェイミー・ボンド。イギリス国籍のその女性は、半年前に合衆国に入国した。そのあと何があったかは、彼女には分からないが。しかし、ジェイミーという女は、チューズデイその人なのだ。顔写真には、肩より短いブロンド髪の女性が写されている。

 チューズデイは、その写真に穴が開くほどじっくり見てから、ベッドに投げ、バスルームへ向かった。そして、鏡に写る自分の顔を見た。間違いない、自分はルビー・チューズデイであり、ジェイミー・ボンドでもあるのだ。

 彼女は今再び部屋に戻り、ベッドに広げたものを見回した。その内の一つには、小さなメモ帳があった。

 彼女はそれを広げてみた。メモ書きの大半はページごと破り捨てられていたが、一部だけは残されていた。とはいえほとんどが白紙で、唯一書いてあるのは、電話番号らしき数字の羅列のみだった。

 この中に、もしかしたら自分を助けてくれる人がいるのかもしれない。

 彼女はそう思った。

 ルビー・チューズデイ。それはかつて、フリーランスの諜報員だった。だが、今の彼女は、記憶を失っただけの女に過ぎない。体はかつての出来事を覚えていたが、しかし脳は何も覚えていない。この番号がなんなのかも。一体誰の何の仕事を請け、こんな事態に陥ったのかも。いまの彼女は覚えていないのだ。

 とにかく、今は過去の自分を追うしかなかった。たとえそれが危険をはらんだ行為だとしても、そうしなければ先に一歩踏み出すことは出来ないのだから。

 かといって、ただ単に番号を入力して電話を掛けることがマズいとは、この記憶喪失の諜報員とて理解していた。彼女は、つい先日までCIAに囚われていたのだ。逃げ出した彼女をラングレーが躍起になって捜索する様は、容易に想像が出来る。使うなら公衆電話か、あるいはプリペイド携帯か。

 フラットの窓から外を見てみる。公衆電話はすぐそこにあった。

 チューズデイは取りあえず、散らかしたものを元の場所、ワードローブの奥に片づけた。それから髪の毛を一、二本抜くと、戸棚と出入り口とに挟んでおく。鍵を閉めて、財布を片手に外へ出る。髪を挟んで置けば、侵入者の有無を調べることが出来る。

 使い古された緑色の絨毯を踏みつけ、チューズデイは外へと出た。公衆電話など、最近では携帯にとって変わられたと思いがちだが、意外とあるものだ。いや、むしろ記憶が混濁する前のチューズデイは、それを考慮した上で、このセーフハウスを借りていたのやもしれない。

 電話の前に立つと、少しだけ目を左右にやった。尾行している者がいないか、ここまで来る間にも定期的に確認していたが、ここでもそれを怠らない。

 危険性がないと判断すると、彼女はメモ帳を見、その上段にある番号をまず打ち込んだ。

 受話器を取ってコール音を聞く。だが、間もなく音は冗長で単調なビープ音に変わり、さらに程なくして「おかけになった番号は、現在使われておりません」という決まり文句を吐いてきた。

 さすがにそううまく行かないとは、彼女自身も分かっていた。

 それから二つ三つ入力してみたが、どれも結果は同じだった。ビープ音が鳴り、それから「おかけになった番号は……」というアレだ。

 しかし、四つ目は違った。彼女が入力してしばらくすると、男が出た。男は低くしゃがれた声で言った。

「はい、こちらはユニバーサル貿易」

 ユニバーサル貿易。

 男の口にしたその社名に、チューズデイは心当たりがあった。その社名、混濁した記憶の中にある。それは、かつてチューズデイが働いていた企業――いや、それは書面上の企業(ペーパーカンパニー)というやつだ。彼女の素性を隠匿する隠れ蓑の一つ。そうに違いあるまい。

 そこでチューズデイは、ひとつ彼女の偽名を言ってやった。カマをかけてみたのである。

「もしもし、ジェイミー・ボンドといいます。ユニバーサル貿易さんでよろしいでしょうか?」

 すると、受話器越しに男の態度が変わったのが、チューズデイには如実に感ぜられた。

「……すみません、ミス・ボンド。顧客担当者から折り返しお電話をいたしますので、そちらの番号を教えてくださいますか?」

「ええ、×××―×××―××××です」

「かしこまりました。少々お待ちください」

 そうして、電話が切れた。

 チューズデイはいったん受話器を置こうとしたが、しかしそうする間もなく、電話がかかってきた。

 スピーカーを耳に当てるや、男の罵声が聞こえてきた。

「おい、いま何してる。番号から察するにニューヨークか?」

「……D.C.だ。いや、デンヴァーだったかな。それともシアトルか。違う、アラスカだ」チューズデイは出任せを言う。盗聴対策……といっても大したものにはならない。「どちらでもいいでしょう、ミスタ。……困っている、助けてほしい」

「何が起きたか教えろ、ジェイミー。何があった」

「薬を盛られた。記憶が混濁している……。教えて欲しい、あなたは何者?」

「それをここで口にする訳にはいかない。いいかジェイミー、オンタリオ湖近くまで来い。カナダとの国境沿いだ。助けて欲しければな。……逆探知される。盗聴もされているかもしれん。切るぞ」

 男の言った通り、そこで電話は切れた。

 受話器を戻すと、チューズデイは当たりを見渡した。追っ手は見あたらなかった。

 

 その晩、チューズデイは荷物をまとめると、フォードトラックに乗り、オンタリオまで急いだ。五大湖の一つであるオンタリオ湖は、五つの湖の中では小さいが、しかし広いことに変わりはなかった。そのどこに彼がいるのかは不明だが、しかし国境沿いにいることだけは明白だった。

 彼女の行くべき場所は、もう決まった。アメリカとカナダの国境沿い。そこに、雇われのスパイ〈ルビー・チューズデイ〉を支援してくれる男がいる。罠かもしれないが、今はそれにすがるより無かった。もしそれが罠であって、チューズデイを殺す為の策であったとしたら――そのときは、その相手を消すだけだ。

 彼女はトラックの運転席に座ると、シフトレバーの脇に銃を置いた。スターム・ルガーMkⅢ。いざとなれば、こいつを眉間と心臓とに喰らわせる。

 記憶は失っても、やりかたは覚えていた。身体に染み着いた慣れが、初々しい記憶喪失の行動を導いていくようだった。


 カナダへと続く地下トンネル。国境が曖昧な湖は、百年以上も前から密輸に使われてきた。黒人奴隷を自由州へ逃がしたのも、禁酒法時代に酒を与えたのも国境だ。そしてそれは、今なお武器と麻薬の密輸に利用されている。傭兵の支援者がそのような場所にいるのは、確かに分からないでもない話だった。

 ニューヨークからオンタリオまでの遥かな旅は、およそ半日以上を要した。ほぼ一日かかったとさえいえる。カナダ側のオンタリオ州は、ニューヨーク州と隣接している。だが、ニューヨークシティからオンタリオまでは、それなりの距離がある。ビッグアップルから寂れた湖畔のセーフハウスまでは、遥かな旅が必要だった。

 途中休憩も入れつつ、チューズデイは朝から十時間ほど車を走らせていた。その最中にも、彼女は周囲の確認を怠らなかった。尾行されている可能性は、ゼロではない。CIAは、あの男の捜索に躍起になっていた。その理由は、それこそ記憶を失ったチューズデイの知るところではないが。

 ともかく彼女は、必要以上にミラーを注視し、尾行している車両がないか。あるいは、徒歩で移動する際には、定期的に店のショウウィンドウを見るフリをしてガラスの反射で尾行者を探った。幸いにも尾けられてはいないようだったが、しかし用心するに越したことはなかったし、彼女の慣れがそうするように命じていた。

 それだけのことをしながら、十二時間以上の旅を続けたのだ。チューズデイは、そのようなことを何日も続ける訓練を受けてきたが――どこで覚えたかは思い出せないが、身体は記憶している――しかし寝起きの状態のような今の彼女では、限界というものが訪れ始めていた。

 そろそろオンタリオの看板が見え始めてきたところで、チューズデイはモーテルに入ることにした。そのときにはもう六時過ぎで、あたりはすっかり暗くなっていた。

 彼女が選んだのは、国道沿いの簡素なモーテルだった。近くにはガソリンスタンドもあり、見通しも良い。チューズデイは入り口近くに車を停めると、ボストンバッグにひとまとめにした荷物を担いで、受付へと向かった。

 受付に人はいなかったが、ベルを鳴らしてしばらくすると、おそらく夕飯を食べていたのであろうヒスパニック系の男が現れた。口にピザを押し込んで、ビール臭いゲップを吐く。

「一晩泊まりたい。いくら?」とチューズデイ。

「へえ、デポジットも含めて五〇ドルになります」

 男は面倒くさそうに答えた。くたびれたシャツにジーンズ姿の男は、いかにも場末のモーテルの店主といったようだ。シャツのポケットには吸い尽くしたキャメルがあり、ケースがスカスカになっているにも関わらず、男は執拗にそれを気にしていた。

 チューズデイはパンツのポケットから札入れを取り出すと、五〇ドルちょうど男に渡した。クレジットは足が着くので、使いたくなかった。

 それから身分証明証の提示と、サインも求められた。チューズデイは、「ジェイミー・ボンド」の偽造パスポートではなく、「ジャクリーン・フェルプス」という名前の運転免許証を渡した。ジェイミーのパスポートはイギリス国籍だったが、こちらはニューヨーク出身だ。場末の安モーテルに泊まるには、そちらの方が怪しまれまい。

 サインをしてから、チューズデイは鍵を受け取った。渡された五号室の鍵は、ピンクの日に焼けたキーホルダーがついていた。


 可もなく不可もなく、安モーテルの一室は、実に簡素は寝床だった。

 チューズデイは、窓から周囲を見回すと、追っ手がいないと判断した。他に盗聴器を調べることも出来たが、しかし彼女は、もしその道のプロが仕掛けた者ならば、機材がなければ確実に見つけられないものだと知っていた。電話に仕掛けられた盗聴器を探すため、分解するのも手だったが、しかし記憶という名の自信が蘇らない今では、チューズデイも電話を分解する気にはなれなかった。それなら黙りを決め込んでいる方が楽だし、確実だ。

 彼女は黙り込んだまま、銃と荷物とを入れたボストンバッグをベッドの上に置いた。それからシャワールームに向かい、汗を流すことにした。今日一日で、彼女は冷や汗を何度もかいていた。


 異変は、そのときに訪れた。熱いシャワーで汗を流すと、ゴワゴワしたタオルで身体を包んだ。そうして髪についた水滴を拭いているとき、ドアベルが鳴ったのだ。

「すみません、ミスフェルプス」と気の抜けた男の声。

 ホテルなら、そこのスタッフかもしれないと思える。だが、ここは安モーテルだ。好き好んで他人の部屋に入ってくる店員がいるだろうか。

 チューズデイはタオル姿のまま、ボストンバッグからスターム・ルガーMkⅢを取り出した。そして、それを背中側に隠し、ゆっくりと左手でドアノブをつかんだ。

 脱走したチューズデイを追うために送られた刺客かもしれなかった。彼女はドアのかんぬきを引くと、おそるおそる扉を開けた。

 そこには背の高い初老の男が立っていた。体つきはわりとがっしりとした白人だが、しかしだいぶ老いぼれいる。頭には白いものが目立った。

 扉を開けた当初、男は微笑んでいたが、しかしチューズデイと目を合わせるや、とたんに顔をしかめた。

「後ろに隠した銃をおろせ。俺はお前の手口ぐらい知っている。お前ならだいたいこの辺に泊まるだろうとも分かってた。なんせお前に戦い方をたたき込んだのは、この俺だからな」

 そういう男の声に、チューズデイは聞き覚えがあった。そうだ、この男『ユニバーサル貿易』を名乗った男だ。

「なら、その腰に差したガバメントを置け」

 彼女はMkⅢを隠したまま反論した。

 男は「さすがはよくお分かりで」と軽口を叩いて、ジーンズと腰の間に隠した銃をとる。

「これでいいか」と、男は床に銃をおくと、さらにそれをベッドの方へ蹴飛ばした。

「まったく、俺がお前を襲うとでも思ったか。俺は不能だぞ」

「……あなたは何者?」

 言って、チューズデイは同じくベッドにMkⅢを置いた。

「それを話すのは、この安モーテルを離れてからだ」


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