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悪魔を憐れむ女  作者: 機乃 遙
悪魔を憐れむ女
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 ワシントンD.C.からポトマック川を渡った先、ヴァージニア州、アーリントン。そこには、独立戦争以来の戦没者が埋葬される墓地がある。アーリントン国立墓地。近年では、戦時の国家功労者だけでなく、テロの被害者も埋葬されるようになった。そんな巨大な墓地で、ある雨の日、悪魔と罵られた男の葬儀が行われていた。

 その葬儀はとても静かで、冷たく、そして寂しいものだった。さんさんと降る雨は、片手で数えられるほどの参列者の肩を叩く。黒い雨傘を伝って、大粒の滴が草地へと流れた。土壌には濁流のような水の流れが起きており、その混沌とした様子は、喪主の女性の心境を表すようだった。

 その日、埋葬された男の名は、ハリー・ライダー。CIAのエージェントであり、シリアで死んだ彼の遺体は、遺族の元へ帰ることは無かった。ましてや、彼はテロリストの本拠地まで潜入し、あまつさえ世界を核戦争の危機から救い、そして死んだということも、決して知らされることは無かったのだ。

 喪主の女性。ハリー・ライダーの妻、カーラ・ライダー。彼女は、夫が埋葬された墓をじっと見つめ続けていた。彼の亡骸も入っていない土の上に建てられた、質素な石造りの墓標。そこに刻まれた名前。彼女はその名前を、彼が生きた時を、その目に焼き付けるように、食い入るように見続けていた。参列者の多くが帰っても、彼女はそこに居続けた。寺男がお辞儀をし、彼女の前から去ってもなお、カーラ・ライダーは墓標を凝視し続けていた。

 カーラが差す雨傘は、彼女を苦しみから守るにはあまりに小さすぎた。喪服の裾が濡れて黒くにじんでいる。たおやかな黒髪も、湿ってすっかり魅力を失っている。しかし彼女はそれを気にするふうもなく、ただじっと、墓標を見続けていた。

 そんな悲しみに打ちひしがれる女のもとに、ある女性が歩み寄った。その女は、ブラックスーツに黒のトレンチコート。右手で雨傘を差し、そして左手には黒のルミノックス・ネイビーシールズをはめていた。焦げ茶色のセミロングの髪を揺らしながら、その女性はカーラの横へ立つ。だがカーラは、そんな女のことなど視界に入らないようだった。

 やがて、隣に立った女が口を開いた。

「失礼、ミスライダーでいらっしゃいますか?」

 小首を傾げて女は問うた。

 その呼びかけに、カーラもようやく気づいたのだろう。はっと顔を上げて、隣に立つ女の姿を見た。

「……はい、そうですが……あなたは……?」

「ボンドです。ジェイミー・ボンド。ミスタライダーとは、生前に色々と」

「夫のハイスクール時代のご学友でしょうか……?」

「いえ、彼とは同僚でした」

 ボンドという女がそう口にした途端、カーラは思わず口を開けた。驚きのあまり、目を見開く。

「同僚というと、国防関係の……」

「ええ、そんなところです。それで、生前の彼から、奥様によろしく伝えておいてくれと」

 ボンドと名乗ったその女。ルビー・チューズデイ。彼女は、右手に持っていたアタッシュケースをカーラに手渡した。雨のせいで、鞄は少しだけ濡れていた。

「それから、これも」

 チューズデイは言って、コートの胸ポケットから銀色の輪っかを取り出した。それは、ハリー・ライダーがはめていたエンゲージリングだった。

 カーラは、まさかのことに目をしばたたいた。ハリーは遠い異国の地で死に、遺体も回収出来なかった。彼の遺品など、わずかに祖国へ遺されただけ。よもやハリーが肌身離さず持ち歩いていたエンゲージリングが、自分の目の前に現れるなど。カーラは、まったく予想だにしていなかったのだ。

 カーラは、チューズデイの手の平から、その指輪を取った。そして、じっと見つめた。確かに、これはハリーの指輪だ。輪の内側に「ハリーとカーラ、永遠に」と刻まれている。そしていまも、カーラはその指輪を薬指にはめていた。彼と同じ、今手にしているものと同じ指輪を。

「あなた、これをどこで……?」

 カーラは指輪から顔を上げ、同僚を名乗った女の方を見た。

 だが、彼女が顔を上げたときには、もうその女はいなかった。ジェイミー・ボンドと名乗った彼女は、すでにアーリントンの出入り口へと歩いている。雨の中で、黒服の人混みの中に消えていった。もう、その女の姿はどこにも見えない。どこから来たのかも、どこへ行ってしまったのかも。いまやカーラには分からなかった。


 ルビー・チューズデイは、i8に乗ってアーリントンからワシントンD.C.へ向かう途中だった。雨の中、ワイパーが忙しく動くのを通し、外を見る。しんしんと降りしきるこの雨の中、コードネーム・サタンの葬儀は執り行われた。誰も知らぬ間に、誰も知らない真の愛国者は埋葬された。

 そんな珍しく哀愁にふけるチューズデイ。彼女のもとに、通信が入る。アーネスト・バーンズからだった。

「なあチューズデイ、本当によかったのか?」と車内に響く、しゃがれた男の声。

「何が?」

「報酬のことだ。CIAの連中、珍しくたんまり追加報酬をくれたというのに。お前と来たら、なんでその追加報酬を、見ず知らずの一般人なんぞにあげちまうんだ?」

「それが、しかるべき金の使い方だと私が判断した。それだけよ。その追加報酬は、私ひとりのものじゃない。彼女に与えるべきものよ」

「だが、お前はあの女の夫を殺したんだぞ」

「でも、彼女には一生分からないでしょうね。あの時の女が、夫の仇なんて。しかも夫が自ら死を望んでまで、国を守ろうとしたなんて」

「そいつはそうかもしれんがな……」

 バーンズが渋い声を出した。

 そして、チューズデイは車を出す。黒く変色したBMWi8。そのドライバーが誰なのか。夫の同僚だと名乗った女は誰なのか、カーラには一生分からないだろう。だが、彼女は夫への誇りとともに過ごしていけるはずだ。

 大粒の雨が降りしきる。この平和な喧噪の中で、天は泣いていたのだ。


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