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悪魔を憐れむ女  作者: 機乃 遙
悪魔を憐れむ女
10/12

 サタンが言ったとおり、チューズデイの捕らえられていた部屋は、ミサイルサイロの一部だった。だが、より厳密に言うならば、サイロとASISの地下基地とは、無理矢理につなげられたものであり、もとは別の建造物であるようだった。つまり、アフマドがシェルターとしていた地下基地と、その後建造されたミサイルサイロは、直線距離にして八〇〇ートルほど離れており、その間には巨大な一直線の通路があるのだった。サイロに近いことは幸運だったが、問題はその通路である。

 拷問部屋から飛び出すと、二人は厳重な扉を開けて、さらにその先の通路へと向かった。そこにはまた巨大な扉が一つあり、そこが問題の通路だった。

 サタンは扉を開ける前に、壁に背中を預けて、残弾の確認をした。サタンのカラシニコフには、ざっと見積もって二〇発前後。予備の弾倉が一つあったが、それだけだ。併せて五〇発といったところだろう。一方、チューズデイがムミートから奪ったAKには三〇発プラス一発がフルに装填されていた。だが予備弾倉はない。AKの残弾が尽きたら、あとは素手で戦うしかない。スターム・ルガーの特注モデルも、いまやアフマドに取り上げられてしまった。

 残弾を確認すると、サタンはチューズデイと目を合わせた。

「いいか、ルビー・チューズデイ。このさき、広い一直線の通路が続いている。遮蔽物は何一つないと考えていい。相手が待ち伏せしていたら、終わりだ」

「警報が鳴る前に駆け抜けるしかないか」

 チューズデイがそう言った瞬間だ。

 けたたましい警報音が鳴り響き、同時、周囲に回転灯の赤い光が現れたのである。これには思わずため息が出た。

「どうする?」とチューズデイ。

「とりあえず、様子を見るしかない」

 サタンはそう言うと、ゆっくりと扉を開けた。巨大な鉄製の扉を、肩で押しこくって開く。

 刹那、扉に何かがぶつかり、火花が散った。敵からの銃撃であるとは、一瞬で分かった。

「だめだ、もう待ち伏せされている」

「他に通路は?」

「ない」

「くそ、まるで中世の城壁だな」

 チューズデイはそう言って、ドアから身を離した。銃火の音はまだ響いており、鉛が鉄にぶつかる音が断続的に鳴り響いている。時折、金色の火花の明かりがドアの隙間から漏れた。

 サタンは、通路へとつながるこの空間を見回した。彼らがいまいるのは、ある種の踊り場のような場所だ。開けたこの空間から、ほかの通路、階下へつながる階段へと続いている。ただの中継地点だ。それ以外の何者でもない。

 しかしそのとき、サタンは思い出したかのように笑ったのだ。そして、彼はチューズデイの方を見た。

「ルビー・チューズデイ、お前、運転に自信はあるか?」


「幹部がこの通路を行き来するとき、決まって徒歩ではなく、電気自動車を使うんだ」

 そう言うサタンは、片っ端からドアを確認しながら言った。その途中、何度か銃撃戦に見回れたが、戦力の多くは通路に集中しているのだろう。ASISは、二人を消耗戦に持ち込むつもりでいるようだった。

 それから少しして、サタンがあるものを引っ張り出してきた。それは、空港などで使われる電動の貨物輸送車だ。荷台は人が乗れるように改造されている。

「これで突撃しよう。俺は荷台に隠れながら、敵を撃つ。あんたは伏せながら運転してくれ。どうせ一本道だ」

「馬鹿な考えだけど、それしか方法はないか」

 白と黒のツートンカラーの電気自動車。そのモーターを作動させ、チューズデイは運転席へ。アクセルペダルに足を置き、ハンドルを握って、車体を通路の方へ向かせた。荷台には仰向けにサタンが構えている。彼はカラシニコフを携え、いつでも撃てるようになっていた。

「これで行くしかない。早くしないと応援がくる。行くぞ」

「分かった」

 チューズデイ、アクセルを思い切り踏みつける。

 静かなモーターの駆動音と共に、電動貨物車は発進。一瞬で加速し、その勢いで扉を開け放った。

 瞬間、驚いたASIS兵が、たじろぎながらもトリガーを絞った。激しい銃撃。チューズデイは風防の下に身を屈ませる。もはや一直線、ハンドルをろくに操作する必要もない。彼女はアクセル全開。カラシニコフを伏せた体勢で発砲する。

 荷台では、サタンが射撃を続けていた。加速する車両の上で、彼は腹筋をするような体勢でトリガーを引く。彼の射撃は、流石テロ対策の諜報員に選ばれただけのことはあるのだろう。訓練を受けているとはいえ、寄せ集めのテロ組織とは腕が違う。高速で動く車両の上、はるか数百メートル先の歩哨。その頭部を確実に貫いていく。まったく隙のない射撃。裏切り者として処刑をするには、惜しい腕だった。

「チューズデイ! そのまま加速しろ!」

 彼が撃ち続けながら叫んだ。

「これが限界だ!」

 そのとき、風防の強化プラスティックが弾け飛んだ。弾丸がチューズデイの頭を掠める。茶色の頭髪が、風に揺られて飛び去った。カラシニコフが火を噴く。ASISの兵士が、声にも鳴らない音の残滓を残し、消える。

 通路の半分を通過した。だが、敵の銃火は激しく、絶えることが無い。サタンが頭をブチ抜いたそばから、後ろから新手が現れる。隊伍を成す彼らは、さながら密集体型を取る槍手達のようだ。比較的通路は広いはずだが、しかしそれでも一直線の袋小路だ。ここで獲物を迎え撃つため、どれだけの兵力が費やされていることか。

 まもなくして、サタンのカラシニコフが装弾尽きた。予備弾倉を装填。その間彼が無防備になる。

「リロード!」とサタン。

 その間に、チューズデイは残り二〇発ほどしかないカラシニコフを、これでもかというほど連発した。もれなく弾が切れる。限界だ。

 三分の二まで走破。目の前に列を成した歩兵隊が飛び込んでくる。このままでは、倒しきれない。

 再装填を終えたサタンが、再び射撃を開始。だが、このままでは――

「飛び降りるぞ!」不意に、サタンが大声で叫んだ。「このまま車をぶつける!」

「正気か!」

「正気も何も言ってられる状況か!」

 彼の狂ったような怒号。

 その後、サタンは荷台から転げ落ちた。チューズデイも後を追うようにして、舌打ちをしながら車両から飛び降りる。それからサタンは、走っていく車に銃火を浴びせた。まもなく、電気自動車は漏電を開始。爆散。ミサイルサイロの出入り口で痛烈な爆発を巻き起こした。

 歩兵達が焼け焦げ、車の破片が刺さったままくすぶっている。サタンはまだ反撃の余力がある兵士にとどめの一撃を食らわせながら進んだ。

「行くぞ。もう時間はない」


 爆発した電気自動車の衝撃で、ミサイルサイロへ通じる扉は変形し、開いていた。焼け焦げた死体を踏み越えながら、敵のAKを奪いつつ、チューズデイとサタンは先へ進んだ。

 ミサイルサイロ内部には、兵士よりも作業員の数が多かった。鈍色の作業着を着た非戦闘員達が忙しく逃げまどっている。チューズデイにもサタンにも、彼らを撃つつもりは無く、目指すべきはひとつだけだった。

 円筒状に広がる空間。吹き抜けのような天井には、ミサイル射出口の開閉機構が見える。そして、中央に鎮座するのは、長距離弾道ミサイル。ここに、劣化ウランを搭載した弾頭が積まれている。

 発射を中止させる為にも、コントロールルームに向かう必要があった。ここで爆弾を使い、自決覚悟でミサイルを壊す手もある。だが、チューズデイからすれば、それは勘弁だった。

 ミサイルサイロは混沌と混乱の中にあった。逃げる作業員。人の波。兵士もこの混乱の中では下手に動くことが出来ない。

 二人は天井に向かって威嚇射撃。人波をかき分けてコントロールルームへ向かった。問題の部屋は階段を三つほど上がった先にあった。銃声で作業員を威嚇。道を強引に作り、階段を駆け上がる。サイロ内部に警報が鳴り響く。

『発射まで、あと三分です』

 アラビア語のアナウンスが言った。もう時間がない。


 コントロールルームまで駆け上がったところで、待ち受けていたのはアフマドとその補佐官だった。アフマドの手には、チューズデイから奪ったスターム・ルガーMkⅢがある。そして、その隣にいる男――廃墟でチューズデイを拘束した、リーダー格だ――は、カラシニコフを手に、銃口を二人に向けていた。

 部屋に押し入るや、メキシカンスタンドオフの状態になった。互いが互いに銃を向けあう。アフマドが不敵な笑みを浮かべていた。

「残念だったな、アムリーキー。もう核は発射出来る。私がボタンを押せば、すべてが消える」

 アフマドの左手、その人差し指は、コントロールパネルにある赤いスイッチに伸ばされていた。無数のスイッチ群、レバー、ツマミの類の中でも、そのボタンだけはガラスケースに閉じられ、厳重にシールドされていた。

「それにしても、ハリー。お前は敵か味方かずっと判断しかねていた。しかし、これでようやく結果が見えたな」

「……あんたが核を撃つなんて言い出さなければ、ここまでややこしくはならなかった」

「すまんがハリー、文句は『組織(シンジケート)』に言ってくれ。核のお膳立てをしたのは彼らだ。我々は、もとよりアメリカに大戦争をふっかけられるとは思ってもみなかった。そのチャンスをくれたシンジケートこそ、君の青臭い愛国心をぶつける相手じゃないか?」

 アフマド、MkⅢを構えたまま、たしなめるように。その言葉は、サタン=ジハーディ・ハリーをあげつらうものだった。

 サタンはその言葉に歯噛みしたが、チューズデイは横着しなかった。

「お前を殺す前に一つ聞きたい、ハディア・ハールーン・アフマド。シンジケートとは、いったい何だ?」

「殺す前に一つ教えてやろう、CIAの犬。シンジケート、その正体は私も知らん。だが、奴らの目的は戦争だ。奴らはお前達CIAの裏にも、我々ASISの裏にも暗躍している。奴らにとって、どちらが時代の勝利者になろうが、どちらが死のうが関係ない。ただ、戦争を起こすことが目的だ。私はそれを利用した。ただ、それだけの話だ」

「なぜ戦争を起こす?」

「さあな。それこそ、連中に聞くがいい。もっとも、死んでは問うこともできんがな」

 そのとき、アフマドがMkⅢのトリガーを引こうとした。銃口の向けられた先は、チューズデイの脳天。いかに二二口径という小口径の弾丸であっても、この距離では急所を外されることはない。

 チューズデイもまた、カラシニコフの引き金に手をかける。だが、そう簡単に引くことは出来なかった。アフマドは、核のトリガーも持っているからだ。

『発射まで、あと一分です』

 時間がない。

 どちらかを決めなければ、すべてを失うことになる。

 チューズデイは決心した。

 そして、銃声が轟いたのである。


 衝撃的なことが起きた。銃声は、確かに轟いた。しかし、もしアフマドがMkⅢを放ったとしたら、絶対にするはずがない音が響いたのだ。炸薬が弾ける痛烈な音。それは、二十二口径に亜音速(サブソニック)内蔵型(インテグラル)サプレッサーによって鎮められた音ではない。太いバレルから硝煙と共に発せられた、七・五六ミリの音色だ。

 引かれたトリガーは、アフマドのものでも、チューズデイのものでも無かった。ましてや、サタンのものでも。引き金を引いたのは、意外なことにアフマドの部下だったのだ。

 頭巾に砂漠迷彩の野戦服を着た彼は、AK47の銃口をアフマドの胸へ向けていた。そして射線上、胸に大きな穴を穿った男が見える。ハディア・ハールーン・アフマド。ASISの首領。世界各国から極悪人とされる男は、皮肉にもその部下に撃たれたのだ。

「む、ムスタファ……お前……?」

 アフマドは、目を白黒させて男を見た。ムスタファと呼ばれた彼もまた、驚いたように目をしばたたいていた。

 そしてまもなくアフマドは倒れた。心臓から大量の血を流す彼には、もはや核発射のスイッチを押すだけの力は残されていなかった。袖口に沿って血が垂れ、それが発射スイッチのカバーから床へと軌跡を残した。

 自らを預言者とした男。その亡骸の前に、ムスタファは躍り出た。彼はその手からカラシニコフを離すと、ひざまずいて両手を上げた。

「おっ、俺だけは助けてくれ! 核の発射阻止方法も教える。だから、命だけは助けてくれ!」

 なんと醜い。

 チューズデイは、蔑んだ目でムスタファを見つめた。彼女は、AKを突きつけながら、MkⅢを回収。コントロールパネルを見る。

「教えろ。どうやって止める? それを教えたら助けてやる」

 残り時間、三〇秒。電子音声のアナウンスが秒読みを開始。

 サタンが操作卓に向かい、ボタンに触れようとした。ムスタファがそれに指示した。

「上にあるキーを回して抜け。それで、強制的に時限発射装置は切れる」

 チューズデイは、サタンとアイコンタクト。彼は言われた通り、操作卓上部にあるキーを回す。直後、発射時間を予告するアナウンスが止まった。読み上げは、一〇秒前で停止した。間一髪だった。

「ありがとう、お前のおかげでアメリカの危機は救われた」

 チューズデイは、完全停止したミサイルから、改めてムスタファに目を移した。彼女の視線は、構えたMkⅢとカラシニコフ越しにあった。そして直後、彼女は引き金を引いた。ムスタファが言ったことなど、気にせずに。今度こそスターム・ルガーMkⅢの音が響いた。男の肉を切り裂く鈍い音。ムスタファの右目めがけて、二十二口径弾が発射。彼の眼球は、赤く染まった。

 その間に、サタンはC4プラスティック爆薬を設置していた。コントロールパネルに設置し、同時に彼は、ミサイルサイロへも投げ込む。すでに無線操作の遠隔起爆装置は設置済みであり、残すところは彼が起爆スイッチを押すだけだった。

 すべては終わるのだ。残すこの一撃で。

 二人のシリア人の亡骸を踏み越え、二人はコントロールルーム脇にある非常扉を抜け、外へ出た。サイロの外部には、地上へと通じる非常階段があった。二人はそれを駆け上がった。薄暗い、灰の螺旋階段。ミサイルが停止したいま、残る兵士は二人を狩り出すことに追われていた。敵はまだいる。階段を上る度、軍靴の奏でる低い足音と、低く叫ぶような命令の声。

 非常階段を駆け上がると、ようやく地上にでた。しかし、地上で待ち受けていたのは、ピックアップトラックから降りてくる地上部隊だ。カラシニコフを構えた兵士達が続々と車両から降りてくる。脱出するにはそれを倒すしかない。

 チューズデイとサタンは、ピックアップからを降りてきた兵士を撃ち殺す。向こうが二人に気づいた時には、すでに銃撃が始まっていた。声にもならない断末魔と、敵の発見を知らせる怒号。そのうちに、銃声が響きわたる。

 真っ赤な液体が、黄金色の砂を汚した。砂漠に残した轍に鮮血が流れ落ちる。ピックアップを取り囲む兵士を一掃。二人は車両を奪う。

 チューズデイは車両を奪うや、大急ぎでアクセルを踏みつけた。クラッチを繋げ、発進。オフロードタイヤが砂漠を咬む。遙か遠方、陽炎に揺れる大地目指して、二人を乗せたピックップは走り始める。

 そして同時、サタンが設置したC4が爆発した。ミサイル内部の起爆用炸薬が誘爆。地下ミサイルサイロを覆う爆発。地獄の業火が、サイロのミサイル発射口噴き出した。まるで、大火山の噴火のように。

 二人は背中に熱いものを感じながら、その場を離れた。追っ手が来る、それよりも前に。


 ミサイルサイロ脱出から一時間は経たずとも、三〇分は経っていた。サタンも、チューズデイも、そろそろお互いに別れるべき時が近づいてきたと、そう感じずにはいられなかった。

 まもなく、チューズデイの運転で砂漠を駆けるピックアップは、岩場で停車。赤い岸壁の合間で、陰に隠れた。遮蔽物もあり、隠れるには最適だ。だがこのとき、サタンは気づいていた。契約を履行する時がきたのだ、と。

 チューズデイはエンジンを切ると、ステアリングから手を離した。そして、腰のホルスターからルガーを取り出したのである。彼女は銃口をサタンへ向けた。どういう意味かは、彼にも分かっていた。

「降りろ」

 いつになく冷たい声で、ルビー・チューズデイは言った。

 サタンは両手をあげると、降参と言ったふうに外へ出た。彼も彼で、抵抗の意志は無いようだった。

 砂上に強い風が吹いている。砂を巻き上げる強烈な旋風。それがきめ細やかな砂漠の砂を持ち上げ、上空へと霧散させていく。だが、二人がいる岩場には、岸壁が邪魔をして塵すらも入ってこなかった。代わりに、冷たい風が吹き込んでくる。陽が沈みかけていた。

 外へ出たサタン=ハリー・ライダーは、チューズデイへ向き直った。死刑執行人ルビー・チューズデイは、彼にボンネットの前に立つよう命じる。抵抗する素振りもせず聞き受けるサタン。彼の顔には、悲しみの色は無かった。

「早く殺した方がいいぞ、ルビー・チューズデイ。じゃないと、俺だけでなく、あんたまで追われることになる。どのみちCIAの部隊は、あんたを回収または消すためにこっちへ向かっているはずだ。……それだけは勘弁したいだろう?」

「安心しろ。私には、あなたみたいに度を超した愛国心も、英雄願望もない。私は、言われたことを実行するだけよ」

「そうか、それなら安心出来る」

 サタンは両手をあげたまま、トラックを背に砂漠を向いた。彼の視線の先には、未だ空に黒い煙が見える。ミサイルサイロから噴きだした例の黒煙だ。それは、遠く離れたこの位置からでもくっきり見えた。空が黒くにじんでいる。夕暮れの空に、黒のまだら模様が描かれている。

「最後に何か言い残したいことはあるか、サタン」

 チューズデイは問うた。同時、MkⅢの銃口をサタンの後頭部に突きつけた。

「俺はもうやることはやったと思っている。それに、やったことへの報いも受けるべきだと思っている。……でも、せめて願いを言うのなら、祖国にいる妻に会えなかったことだけが無念だ」

「……そうか。わかった、奥さんにはよろしく伝えておこう」

「ありがとう、チューズデイ。……ところで、君の本名は何だったんだい? コードネームではなく、本当の名前だ。偽名でもない。死ぬ前に教えてくれないか」

「……私の本名ね」

 口に出し、それからチューズデイは黙り込んだ。言いたくなかったわけではない。分からなかったのだ。自分の、本当の名前だ。

「ルビー・チューズデイ、それが私の名前よ」

「そうか」と、どこか悲しげにサタン。「わかった……もう心残りはない」

 サタンのため息。決心をしたような、息を飲む音。そして、MkⅢのボルトを引く金属音。薬室内に弾丸が装填。撃鉄が、銃弾の尻を狙う。

「さようなら、ルビー・チューズデイ」

 そして、サタンがそう口にしたとき、チューズデイは引き金を引いたのだ。

 銃声は、確かにした。鉛が肉をえぐる音も響いた。だが、そのすべては流砂の中へと消え失せていった。砂に飲まれていく男の体。足下から胸へ、胸から腕へ、頭へ。そして最後には、左腕がゆっくりと飲まれていった。彼の薬指は、黄金色の輝きを放っていた。それは彼と、祖国に残した妻との絆の証だったのだろう。

 そして、彼は砂を噛んだのだ。


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