Can I see the real me?
私はいつも夢を見る。男の人の夢だ。彼は車に乗せられて、私から離れていく。彼は後部座席に無理矢理に乗せられているようだった。とても悲しげな顔をしていて、ミラー越しに私を見ている。彼は悲しげだったが、しかしどこか微笑んでいるようにも見えた。なぜだか知らないが、私は彼に赦されているような気がしたのだ。私は、彼を見送ることしか出来なかったのだが。
それでも私は、彼が誰なのかを知らない。
午前七時。電子アラームの音で私は目が覚める。というよりも、七時という時間に覚醒するよう私のカラダは出来ているのかもしれない。そういうふうに仕組まれているのかもしれない。
私は毎朝七時に起きる。そうするように命令されているからだ。
起きたらシャワーを浴び、歯を磨いてから、食事を取る。私の部屋はこぢんまりとした場所で、白い四壁に囲われた机とベッド、そして椅子だけの空間だ。さすがにバスルームだけは個室であったが、それ以外は完全に一つの部屋にまとめられていた。キッチンだってない。私が料理をする必要はないからだ。
卓につくと、私が椅子に座るのとほぼおなじタイミングで食事が現れた。机の中心が裂け、そこから白いボウルに入ったオートミールが一つ。ついでに銀のスプーンもついてくる。牛乳などは既に浸してあって、あとはもう食べるだけになっていた。
まずいオートミールだ。まさしく栄養摂取のためだけに存在しているように思える。私を生きながらえさせる、そのためだけに与えられるものに。
私は、いま自分がこうして此処にいる意味が分からない。ただ、寝る場所と食事は出てくるから、いるだけだ。此処は安全な場所と言えばそうだが、しかし私にとってはまったく未知の、恐ろしい場所とも言える。
私の記憶が正しければ、此処へ来たのは三日ほど前のことだ。目が覚めると、白い天井が見えた。それ以前のことは、あまり覚えていない。小さな製造業者で経理の仕事をしていたことは覚えているが、その仔細は思い出せない。とても凡庸で、思い出すに値しないことのように思えるのだ。
オートミールを食べ終えると、見計らったようなタイミングでコーヒーが出てきた。それも、私の好きなブラック。砂糖もミルクも入れない。だから、豆の味にはうるさい。此処のコーヒーは、誰が淹れているのか知らないが、比較的うまい。私は白いマグカップに入れられたそれが飛び出るのを見守って、それから手にとった。調度良く冷めていて、飲みやすかった。
そうして飲み終えたカップと、ボウルを机の上に置いておく。すると、勝手に机が裂けて回収していく。私にすることなど何もない。
食事を終えると、いつも室内にブザーが鳴る。このブザーは、だいたい八時過ぎぐらいに鳴る設定らしい。ブザーが鳴ると、私は外に出される。
この空間は、私一人のもの、というわけではない。壁と同化した白色のために見づらいが、一応扉はある。私の側から開くことは出来ないが、向こう側から開けることは出来た。つまり、私を監視している側だ。
扉が開かれると、いつも数人の白衣姿の男性が立っている。たまに女性がいるときもあるが、往々にしてそれは男性だ。事実、今日は男三人だった。
「ミス・チューズデイ、昨晩はよく眠れましたか?」
三人の白衣の男のうち、最も老いている――ように私には見える――男が私に問うた。
「ええ、いつもどおりです」
「そうですか、それは良かった」
如何にも社交辞令的な笑みを浮かべる彼。
その一方で、若い白衣の男二人は、何やらタブレット様の端末を操作していた。一人は大急ぎで文字を入力しているように見える。もう一人は、タブレットと紙のメモ帳を併用していた。
私は、男の案内で廊下を歩く。いつも同じ無機質な黒の廊下だ。私の部屋が真っ白なのに反して、廊下は真っ黒。ライトが壁を白く照らすが、その黒黒とした壁面には敵わない。
「それでですね、ミス・チューズデイ」しばらく言葉を区切ってから、あの老いた白衣の男が、「また、夢は見ましたか?」
「夢、ですか」
「ええ、夢です。何か夢は見ましたか? なんでもいいです。覚えていないのなら、それでも結構。ですが、もし覚えているのなら、ぜひお聞かせ願いたい」
「何故ですか」
「あなたのためですよ、ミス・チューズデイ。あなたはいま、隔離病棟にいるんですよ」
ああ、そうだ。私は病院にいるのだった。
この奇妙な空間は、病院なのだ。そういえば、アルコール消毒の臭いがする。頭がクラクラするぐらいに。
「……見ていません。というよりは、思い出せません」
私は、彼のことを口外しなかった。そうしてはならない気がしたのだ。なぜかはわからないが、直感的に。
「そうですか……仕方ありませんね。夢を覚えているのも、なかなか難しいものですから」
彼はまた社交辞令的に笑む。
そして、彼らの部下と思われる若い男たちは、相変わらずペンを走らせていた。何を記録しているかは、私には分からない。
「入りたまえ」
そう言われたから、私は入った。わざわざドアをノックして、仰々しくもお辞儀をしてから。
そこは恐らく、この病院で最も偉い人間がいる部屋だった。だから先程まで私に付き添っていた男たちは失せ、私一人だけが室内へ入る。私だけだ。
室内にいるのは、高そうな革張りの椅子に座った男だった。彼も白衣姿だったが、医者というよりはむしろ重役という雰囲気を放っている。白髪に眼鏡、シワの寄った肌に、肉の落ちた頬。瞳はかすかに色が失せ、彼の視力が衰えていることを示していた。
「おはよう、ミス・チューズデイ。まあ、かけたまえ」
彼はそう言って、私をソファーへ促す。彼が座る豪奢な事務机の前に、応接セットのように革張りのソファーが二組、それとガラステーブルがあるのだ。テーブルには既にコーヒーと、灰皿とが用意されていた。コーヒーは一つ、向かい側には紅茶のティーバッグの入ったカップがあった。
私はコーヒーの側に腰掛ける。このコーヒーは、いつも彼が用意してくれているものだった。
「具合はどうかね、ミス。先日渡した薬は効いているかい?」
言って、彼は椅子から立ち上がり、私の向かい側――紅茶の側に腰掛けた。
「先日の薬、ですか?」
私は一瞬、その先日の薬が指すところがわからなかった。
それから私は、しばらく自分の服のポケットを探した。私はブラウスに黒のスラックスという姿だったが、スラックスのポケットから錠剤が出てきた。どうにもそれらしい。
「そうだ、その薬だ。副作用として記憶が少しばかり混濁するが、仕方ないものと思ってくれ。まさしく、今のようにね」そう言って、彼は紅茶を啜る。
私もコーヒーを一口頂いた。彼の淹れるコーヒーは、酸味が強い。キリマンジャロだろう。
「だが、君の病状を何とかするためには仕方の無いことなんだ。さもなくば、君は今頃死んでしまっているかもしれないのだからね」
「ええ、救ってもらった御恩は忘れません」
「いやいや、医者としてはね、君のような美人でたくましい女性を救えるなんて光栄だよ」
彼はどこかスケベオヤジのような笑いをして、私を見た。色素の薄くなりつつある彼の瞳。眼鏡の奥にそれが見える。
「追加の薬は出しておく。今の君を見る限り、このまま薬を出しておけば良さそうだからね」
「そうでしょうか」
「ああともさ。君は、そろそろ退院出来るよ。……薬はいつもどおり、君の個室に送ってある。飲んでくれたまえ」
「ありがとうございます」
私はそこでコーヒーを飲み干す。
そしてカップを置くと、ふうと一息ついた。鼻の奥から豆の香りが抜けていく。胃には少し痛みを感じたが、むしろそれが私には心地よい。
そして、ちょうど時を同じくして、彼も紅茶を飲み終わった。彼は空になったティーカップをソーサーに戻すと、静かにそれを端へ寄せた。そして、続けて白衣の胸ポケットから手の平ほどの大きさをした箱を取り出す。
「ところでミス・チューズデイ、今日も一本やるかい?」
彼が取り出したのは、タバコだった。レッドアップルという銘柄のものだ。私はタバコの銘柄には詳しくは無いが、気分が落ち着けられるのなら何でも良かった。それに、医者が勧めているのだ。何の問題もあるまい。
「それじゃ、お一つ」
私はそう言うと、彼が差し出すレッドアップルのうちから、その一本を引きぬいた。ライターは無かったが、彼は黄燐マッチを持っていた。今時めずらしいというものだ。
タバコとマッチをいただくと、私はそれに火を点けた。マッチは灰皿に棄て、タバコを呑む。彼も呑んでいた。それに、誰も私に文句を言わなかった。
部屋に戻ると、彼の言ったとおり薬があった。錠剤だ。銀色のフィルムに梱包された、小さな白い薬。これが私の病を治してくれるらしい。
だが、思えば私の病とは何だったのだろう。これを飲まなければ、私は死んていた、と彼は言ったが。
記憶の混濁だ。
私はそう結論づけると、水道へ行って水だけ手に入れてきた。食事は机から出てくるが、飲み物は違う。水道からは飲水が出る。沸騰させる必要はない。
グラスに水を注ぐと、それで薬を飲み干した。気分が悪くなるようなことはない。ただ、記憶の混濁がまだ続いているように思える。
私は、静かにベッドに横たわることにした。何をするにも力がいる。いまは、何をする気にもなれなかった。
徐々に薬が回ってくる。眠気がやってきて、そして、私は目を閉じることにした。
またあの夢だ。
男が私を見つめている。車の後部座席に乗った彼が。
車は、黒いバンだった。サイドミラーには彼の顔がかすかに映っていた。窓はスモークグラスになっていて何も見えない。ただ、黒い鏡面に私の顔が反射されるだけ。私の泣き顔――
いや、違う。
そこに写る私は、憎悪に駆られた悪魔のような形相をしていた。そして、右手には拳銃があったのだ。
その拳銃は……
スターム・ルガーMkⅢ、インテグラルタイプサプレッサーに改造したモデル。銃身はマッドブラックに仕上げられ、完全な消音、隠密任務仕様に仕上げられていた。
そんなものを、どうして私が持っていた?
夢の中の私は、いったい何者なのか?
目が覚めたとき、私は汗だくだった。ブラウスにはシミが出来ていて、スラックスも酷い有様だ。
これでは気持ちが悪くて仕方ない。
どれだけ眠っていたのだろう。昼の食事が机の上に出されている。パスタだったようだが、もうとっくに冷めていた。
私はパスタに手を付けること無く、シャワーへ向かうことにした。
バスルームにある時計を確認したところ、私は今朝から五時間以上寝ていたらしい。もう昼過ぎだ。自分でも何をしていたのかよくわからない。
シャワーを浴びていると、あの夢のことが克明に思い出された。
あの一瞬、あれだけが思い起こされる。車に乗った彼が、どこかへ消えてしまう。私はそれを見ているだけ。だが、その時の私は――怒りに満ちた表情で、銃を手にしていた。だが、私は撃とうとしなかった。何故だ?
あの距離ならば、ルガーでも十二分に届いたはずだ。流石にバンのボディは貫けないにしても、タイヤぐらいならパンクさせられるはず。もっとも防弾タイヤであったらどうしようもないが。だが、パンクをさせればいくらか時間を稼げたはずだ。そうしたら、走って追いかけ、思うように走れていない所に飛び乗る。車両の上に飛び乗ったら、前方の座席へ左右二発ずつ銃弾を撃ちこみ、黙らせる。そして続いて後方右側から出てくる護衛を片付け、最後に彼に銃を向ける。生け捕り。
……私は何を考えているんだ。
記憶が混濁しているんだ。
私はそう自分に言い聞かせる。自分が何者なのか、よく分からなくなってきていた。
むかしある小説で、スパイ映画の主人公のような記憶体験を植え付けることで、自らを本物の工作員だと勘違いする男の話があった。きっと、今の私はそういう状況なのだ。今までみた映画や、自分が経験したことが混濁して、あたかも自分がそのようなフィクションの存在に思えているのだ。そうに違いない。
そう思うと、私はシャワールームの壁に突っ伏した。それからバスタブに腰を下ろし、お湯を浴びる。胸の谷間を水が流れ落ちていった。
私は、自分のカラダに目を落とす。私のカラダには傷一つ無い。綺麗なものだ。男の侵入だって一度足りとも許したことがない。純潔なカラダだ。それが、銃を持って誰かを殺しにかかった女に見えるだろうか? そんなはずはない。
私は自分の純潔さを確認すると、シャワーから出た。汚れのすべてを洗い流したような、そんな気がしたのだ。記憶と共に。
バスルームから出ると、私は着替えを探した。ブラウスは無かったから、ワイシャツにスラックスを選んだ。此処のクローゼットには、そういう服しかないのだ。
机を見ると、あの冷えたパスタはいつの間にか片付けられていた。代わりに軽食だろうか、ポタージュスープとコーヒーが出ている。まだ湯気が立っているあたり、出来立ての証拠だ。
私はスープを飲みながら、あたりを見回した。混濁する記憶を何とかして留めておきたいと思ったのだ。
今の私には、外部記憶装置というものがない。電子機器も持っていないし、紙もペンもない。あるのは、このカラダだけだ。記憶を失う男が、カラダに刺青を入れることで記憶を保つという話があった。だが、私は自分のカラダを傷つけることだけは勘弁だった。
この部屋は、本当に何もない。クローゼットと水道と、それから机と椅子とベッドがあるだけだ。化粧台はあるけれど、化粧品が無いから手をつけたことがない。
しかし、私はもし化粧品があれば――例えば口紅とか――何か書くことが出来るのでは、と思ったのだ。ペンは無いが、その代替品ならあるかもしれない、と。
だから私は、初めて化粧台に近づいた。鏡には、やさぐれた私の顔が写る。反射した私の表情は、痩せこけて、今にも死にそうだった。いや、もうとっくに死んで、化けて出てきたようにさえ見える。
私は自分の顔が憎かった。見たくなかった。だから目を落とし、化粧台の引き出しに手をやった。そして、そこで私は異様なものを見たのだ。
端的に言えば、そこには口紅があった。そして、他のものもあった。それは――スターム・ルガーMkⅢ。引き出しの中にはルージュで文字が書かれている。
「あなたは、あなたが思うほど弱い人間じゃない」と。
何のことだかさっぱりだった。だが、そこにある拳銃がすべてを表しているようだった。
私は、何者だ……?
口紅を手に取る。その先端は、恐らくこの引き出しの壁面に文字を綴ったせいだろう、荒く削れていた。人の唇に押し当てたような面の滑らかさではない。
誰が、こんなことをしたんだ?
私がここに来たのは、記憶が正しければ三日前。薬を服用し始めたのも、確か三日前。それ以前から服用し、記憶が混濁していたのでなければ。あの医者たちが私を騙していたのでなければ……。
その時だった。私は後方から何かが近づく殺気のようなものを感じ、咄嗟に振り返ろうとした。だが、結論から言えば振り返ることは出来ず、私は誰かに後ろから拘束された。首が締め付けられる。筋肉質な、男の腕だ。到底私に引き剥がせるものではない。酸素がカラダから消えていくのが分かった。意識が遠のいていきそうになる。私は、何をしたというのだ?
必死にもがこうとしたが、何も出来なかった。ただ、激烈な苦しみだけが私を襲う。
しかしそのとき、私の苦しみは、銃声と共に消えたのだ。
銃声。それは、私を拘束した男が放ったのでも、それ以外の誰かが放ったものでもなかった。この私自身が撃ったのだ。この、口紅型拳銃――キス・オブ・デスによって。
ルージュの下から射出された一発の四十五口径は、意図せず放った銃弾に過ぎなかった。だが、それは幸運にも男の下腹部を貫き、大量の血をあたりに撒き散らした。男は思わず力が抜け、のけぞり、倒れる。白い床の上に突っ伏し、仰向けに。
私は咄嗟にルガーを取り出し、それを彼の頭に突きつけた。マガジンに弾丸が装填されているか確認、ボルトを引いて初発を装填。銃口をこめかみに押し当てる。
男は筋肉質の黒人で、アーミージャケットらしい服を着込んでいた。この病院の警備員にしては厳重すぎる。腰にはホルスターがあり、九ミリ弾を放つポリマーフレームオートがしまわれていた。
「答えろ、お前は何者だ」
銃口を押し当てたまま、私は問うた。
「や、雇われの警備員だ! お前が怪しげな行動をしたら拘束しろと言われた!」
「雇い主は誰だ」
「し、知らない! お互いに素性は明かさないという契約だったんだ」
「……くそっ」
私は吐き捨てるように言うと、男の頭部に一発銃弾を食らわせた。即死だろう。頭部から大量の出血。
白い床が真っ赤に染まる。男のカラダの輪郭をなぞるようにして、液体は私の足元までやってきた。
何故私は、こんな事を覚えている?
ルガーの扱い方。口紅型拳銃のありか。そして、私は……。
『あなたは、あなたが思うほど弱い人間じゃない』
あの言葉が思い出される。すぐそばにある引き出しに、まさしくそう書いてある。そんな、言葉一体誰が書いたというのか。
間もなくして、部屋中に警報が鳴り始めた。廊下にもだ。
私はドアの鍵に向けて銃弾を撃ちこむと、無理矢理にこじ開けて脱出。廊下へ飛び出した。向かうのは、あの偉そうなヘヴィスモーカーのいる部屋だ。
自分でも見に覚えのないことばかりだった。真っ赤に染まったワイシャツが肌に張り付いて気持ち悪い。だが、それを気にしている余裕はなかった。
既に後ろには、私を追ってきたのであろう警備員たちが三、四人ほど見える。サブマシンガンを構え、私に狙いをすませている。
黒い廊下を横っ飛びして、私は無理矢理に他の部屋に入った。病室だった。もぬけの空の病室だ。寝台があるきりで残されているのは薬品特有の臭いだけ。アルコール臭さがそこかしこに充満している。
部屋の隅に隠れて様子を伺った。顔を覗かせようとしたが、しかし直後には銃弾の雨がやてくる。どうにも廊下を通って行くのは無理そうだ。かと言って、他に私の素性について知っている人物がいるだろうか。いるとすれば、あの怪しげな笑みを浮かべるヘヴィスモーカーだけだ。
私は、そこで病室の窓に気がついた。白い遮光カーテンの向こう、緑の庭が広がっていた。窓はロッキングされていたが、銃を使えばどうということはない。無駄弾は使いたくないが、敵に囲まれるよりはマシだ。
私は窓の鍵をぶち抜くと、そのまま蹴破って外に出た。
そこにはバルコニーも何もありはしない。窓の桟があるだけだ。私はそれに沿って、左へと進みはじめる。あの男の部屋はそちら側にあるはずだ。
それにしても奇妙な病院だ。私は此処へきてから外の空間というのを見たことがなっかった。今はじめて見たが、そこはごく普通の庭が広がっているだけだった。遠くにゲートは見えたが、有刺鉄線にコンクリの壁が見えた。武装した警備員も何人か立っている。とても正面突破出来るようには見えない。
私は、此処に収容された工作員か何かなのか?
一瞬、そんな考えがよぎった。
それもあの男に問いただせば、きっと分かる話だ。
私は堕ちぬゆっくりと、しかし急ぎ足に進んだ。
あの男の部屋の窓まで来ると、私はガラスを蹴破って中に飛び込んだ。驚いた様子で私を見る彼を、私は勢いそのまま組み伏せた。そして、彼が大事にしていたであろう、ペルシャ絨毯に、彼の汚い顔を押し当てたのだ。
彼の白髪を掴んで、無理矢理に床へ顔をぶつけてやる。脳を揺らしたところで、今度はこめかみにルガーを突きつける。
「答えろ。お前たちは何者だ。私は、誰なんだ」
「やめたまえ、ミス・チューズデイ。君の記憶は混濁しているんだ」
「だったら、机の引き出しにあったこの銃とメッセージは何だ。誰がこんなことをした。貴様の敵が、私を脱出させるよう仕向けた結果か」
「それは考えられん……君に仲間なんているはずがないのだから……」
彼はしわがれ、すり減ったような声で言った。
「……どういうことだ。私に仲間がいないって……私は、何者なの」
「そうか、記憶が混濁しているのだったな。まあ、我々がそうしたのだが」
すると彼は、大きく咳払いした。それから続けざまにむせ始め、血の混ざった痰を吐き出した。
「君の名前はルビー・チューズデイ。どの諜報機関にも属さないフリーランスのスパイだ。金で雇われることでのみ、君は動く。だが、だれも君の本当の姿を知らない。知っているのは、ルビー・チューズデイという名前だけ。そしてその女は、我々の気づかぬ内に行方をくらましてしまう……それが、君の正体だよ」
「まさか」
「その、まさかなんだ。我々CIAは、君が逃がしたという二重スパイを追うため、なんとか君を捕らえた。だが、君への尋問は一筋縄ではいかない」
「……だから、私の記憶を混濁させ、人格を破綻させることで、聞きたいことだけを聞き出そうとした。本来の私を封じたまま、都合のいい情報だけを抜き出そうとした。私が見た、その二重スパイの正体を、夢として私の中に登場させることで……。私が意識を失っている間、あなた達は私に拷問と記憶の削除を繰り返した……思い出してきた……。だけどあなた達はそうすることで、私は本来の私を呼び覚ましてしまった」
「はっ、よくお分かりで」
「……」
私には、まだ信じられない。だが、信じるしかなかった。
私は再び彼の顔をペルシャ絨毯に打ち付けると、銃口を彼の喉笛に当てた。そして、何のためらいもなく引金を引いた。彼は一瞬で死んだ。パスッ……と静かな銃声の中で、銃弾は彼の喉を抜けて脳髄を掻き回し、そして殺した。
そうだ、私はルビー・チューズデイ。
彼の机を漁る。武器があるはずだと、そう思ったからだ。案の定、そこにはMP5Kが一丁と、グレネードが一つあった。そして更に、引き出しの奥にダミーの底板があることに私は気づいたのだ。
底板を外すと、そこには赤いルージュで文字が書かれていた。
『裏門に移動用の足を用意した。目が覚めたら、後片付けをして脱出せよ。 チューズデイより愛をこめて』
その為のグレネード。そして、底板の奥にはプラスティック爆薬が幾つかあった。
私はそれらをしまい込むため、紅く染まった白衣を例の男から拝借した。ポケットの中に爆薬を隠し、腰にはルガーを。そしてMP5を構える。
私は廊下へ飛び出すと、グレネードを一つ投げて威嚇。手応えは無かったが、その爆発に紛れて通路を駆け抜けた。
先程見た庭の入口が正門だとしたら、その反対側が裏門に違いない。私は、そこへ向けて全力で走った。後方から敵が来ようが気にしなかった。前に敵が現れたら銃弾を浴びせた。
そして、通路の突き当りまで出たのだ。突き当りの窓から見ると、裏門も警備は同じ様な物だった。だが、一つだけ違うのは、彼ら――あの男は自分たちをCIAだと言っていた。ここはCIAの病院か――の倉庫らしきものがあったということだ。
私はいま、自分が立っている場所に爆弾を仕掛ける。そして、窓から飛び降りた。
飛び降りる私を、追手の警備員たちが見ている。続けざまにスーツ姿の男達もやってきた。彼らがCIAのエージェントなのだろう。
だが、残念ながらお前たちには死んでもらわなければならない。
ルビー・チューズデイは、誰も知らない間に消えている。
爆弾が炸裂し、二階の窓が飛散。そこにいた男たちの肉片までもが一階に落ちてきた。
着地した私は、その爆発の間に倉庫へ向かった。倉庫というよりガレージのようだった。トタン屋根のように波打つ扉を開き、私は倉庫の中を見る。そこには一台のネイキッド・バイクがあった。鍵は既にささっていて、ガソリンも満タン。チューズデイがどこからこれを手に入れたかは知らないが、今はありがたく使わせてもらう。
私はエンジンをスタートさせると、アクセルを全開にして倉庫を飛び出した。追手に威嚇射撃をしながら、病院から脱出する。すでにサイドミラーには、小さくなりつつある爆炎が見える。陽炎の中に死んだ男たちの肢体が見えた。
CIA、彼らが追っていた男。すべてがわかってきた。
私は、あの男を逃がした。何の為に? 彼は私を悲しげな表情で見ていた。そして、私は銃を握りしめたまま、悔しげな表情で歯噛みしていた。
何のために?
誰のために?
彼は、誰だ?
それもすべて、これから確かめに行けばいい。
私はアクセルを開けた。とにかく、今の私に自由の国は合わない。此処が私より不自由な国だからだ。