6話「王女の気遣い」
ユニスが本をめくると、上部に「カルカッソン」と書かれていて、その下に大陸が描かれている。
それを見た翔太は内心首をかしげた。
(これ、どことなくオーストラリア大陸に似ているんじゃないか?)
タスマニア島やヨーク岬半島がないとか、こちらの大陸の方が正方形に近いとか、おそらく大きさも違うだろう。
それでも万が一地球人に説明すると仮定すれば、オーストラリア大陸を引き合いに出すのが一番分かりやすい気がした。
「わが国にはこちらになります」
王女が白く細い指で示したゾーンは、左下の部分である。
横は大陸の四分の一くらい、縦には半分くらいという広大な面積を誇っているようであった。
他にも十ほどの国の名前が見受けられるが、クローシュという国が最も国土が広い。
「現状を簡単に申し上げますと、わが国とこのルーラン、ロルモン以外の国は領土の全て、あるいは大半がデーモンに制圧されてしまっています」
「ひどいな……」
彼女の説明に彼は眉をひそめる。
ルーランとロルモンはどちらもクローシュから見て北部に位置する国であった。
この両国がデーモンに落とされてしまうと、クローシュは北と東の二方面から圧迫されることになるだろう。
「まあ、そういうレベルの相手じゃないのかもしれないけど……」
要害とされているガムース城をたった三体で落としたのが、デーモンという存在である。
人間たちの常識に当てはめようとしない方がよいかもしれない。
「そうですね。お恥ずかしい話ですが、わたくしどもでは最下級のデーモンである地狗星にすら、全く歯が立たないのです」
ユニスはうつむき、ぎゅっと手を握りしめる。
そのほっそりとした腕の震えが、彼女の悔しさを伝えていた。
彼はそっと二の腕に触れる。
「けど、その為の俺だろう? 至らないところがあるかもしれないけど、精いっぱいやらせてもらうよ。これからよろしく頼む」
彼のこの言葉を聞いた王女は感極まったのか、今にも泣きだしそうに表情がゆがむ。
「こちらの事情で身勝手にお招きしたのにも関わらず……」
「いや、そういうのいいから」
苦しそうに謝罪しはじめた彼女に焦り、彼は途中でさえぎる。
気がつけば自然と体が動いていて、彼女の体を抱きしめていた。
自分で驚いたものの、今さら冗談にしたり、とり消したりすることなどできない。
彼女のぬくもりと香りを感じながら彼は優しく話しかける。
「もう気にしなくていい。俺だって蘇生してもらったという恩があるんだから」
「……はい」
身を強ばらせていた彼女だが、彼の言葉を聞いてようやく力を抜く。
しばらく二人の間には無言の時が流れる。
翔太にとって天国のような、地獄の生殺しのような時間はやがて終わりを迎えた。
「あの、ショータ様」
恥ずかしそうにユニスに声をかけられて、理性と羞恥心が急に働いて彼女を離したのである。
「ご、ごめん」
彼は全身が茹であがったような気持ちのままになって彼女に詫びた。
とてもではないが、彼女の方を見られたものではない。
「い、いえ、わたくしの方こそご心配をおかけしてしまい……」
ただ、それはユニスも同様である。
彼女の顔はリンゴのように真っ赤で、応える言葉もか弱かった。
初々しい二人が築きあげた空気は、ドアを叩く音によって崩されることになる。
「は、はい」
彼らはびくりと体を震わせ、同時に返事をした。
「失礼いたします」
ドアを開けて姿を見せたのはシンディである。
「お茶をお持ちいたしました」
そう告げて彼女は、乗っ二つの白いカップが乗った銀のトレーを持って中に入ってきた。
クローシュという国では毎日十五の刻、日本で言うところの十五時にお茶をする習慣がある。
そのことを二人はすっかり失念いたのだった。
「ありがとう、シンディ」
ところが、侍女にねぎらいの言葉をかけた時のユニスは、すでに本来の様子に戻っている。
その切り替えの早さに舌を巻きつつ、翔太も平常をよそおうと務めた。
彼らの様子にシンディは気づかず、お茶の準備をする。
とは言っても白いカップに同じく白いポットに入った熱い液体を入れるだけであった。
トレーには他にも黄色の果物が乗った皿もある。
「レモンです。お好みでどうぞ」
彼女は慣れた手つきでカップを二人分並べてから、翔太の方を見ながらそう言って皿も置く。
「うん、ありがとう」
彼が彼女の目を見つめて礼を言うと、彼女の口元が約二ミリほどゆるむ。
それを目ざとく気づいたユニスは「あら」と内心つぶやいた。
それでも態度には出さなかった為、シンディは何にも感じずに椅子を一つ運び入れる。
「それでは失礼いたします」
そして二人に一礼をして退出した。
侍女の到来によって、よくも悪くも一度リセットされたと翔太は感じる。
(でも、ちょっとありがたいか)
あのままユニスと二人で盛りあがっても、彼はどうすればよいか分からなかったからだ。
いくら勇者だからと言って気軽に手を出せる存在ではないはずである。
「そう言えば……」
彼の脳裏にふとあることがひらめく。
ただ、言ってしまってよいものかためらわれる。
しかし、少しでも言葉になってしまった以上、その場にいたユニスは気になった。
「どうかなさいましたか?」
しまったと思ったがもう遅い。
逡巡したすえ、彼は彼女には言うことにする。
「勇者と救世騎士とはどう違うのかなって。今は勇者って呼称で統一されているけど、前は違う呼ばれ方だったような?」
「ああ、そのことでしたか」
王女の青い瞳には理解の光がともった。
「本来は同じなのです。ただ、勇者様はデーモンと戦うお方、救世騎士様は魔王シュガールを倒したお方、という意識がそれとなくあるかもしれません。ですから人によって、あるいは場合によって呼称が統一できないのかもしれません」
世界を救ってこそ救世主であり、それまではただの勇者だということだろうか。
翔太がそう感じていると、彼女はにこりと微笑む。
「わたくしにとってはどちらの呼び方も、ショータ様のことを示す以外にありませんわ」
「ありがとう」
彼女に肯定されると少しだけだが救われたような気分になる。
(せっかくこんな美少女に召喚されたんだし、この子の為にも頑張りたいんだよな)
この気持ちがただの下心だと言われても、彼は否定するつもりはなかった。
女の子の為に頑張って何が悪いとまでは考えていないのだが。
さてこの後はどうしようと彼は思ったところで、ある重要な情報を聞いていなかったことを思い出す。
「すまないけど、訊き忘れていたことがあったよ」
彼が突如切り出しても、ユニスは驚きもせず小首をかしげる。
「はい、何でしょうか?」
「守護三神についてだよ」
彼女の可憐な桃色の唇が「あっ」と動いたが、彼は見なかったふりをした。
人のことを言えないからである。
彼女は背筋をぴんと伸ばして咳ばらいをした。
その後立ち上がって、本棚から赤い表紙の本をとって持ってくる。
「こちらの本に記されています。カルカッソンを守護してくださる三神のことが」
彼女がページをめくると、一人の若い青年の大きな絵が出てきた。
その青年は右手に剣、左手に盾を持った勇ましい姿である。
「こちらが戦神ディマンシュ様です。ディバインブレードを授けてくださったお方です」
一ページまくると、次には大きな杯を持っている左向きの女性の姿があった。
「こちらが愛の女神メルクルディ様です。わたくしたち一部の者が癒しの力を使えるのは、メルクルディ様のご加護があるからです」
「……ユニスも使えるのかい?」
彼が何となくたずねてみると、彼女はこくりとうなずく。
「はい。ショータ様も練習すれば使えるようになるかと存じます」
そう言ってまたページをめくる。
次に現れたのは、右向きで竪琴を持った女性の姿だった。
「こちらが豊穣の女神ヴァンドゥルディ様です。わたくしたちが飢えずにすむのはヴァンドゥルディ様のお力によるものですね」
そこで彼女は一度説明を止めて、彼の目を見つめる。
「以上の三神がカルカッソンを守護なさっている守護三神だと言われています。ショータ様が今いらっしゃるのも、この三神のお力によるものです。ヴァンドルディ様のお力でショータ様の魂をこちらの世界に招き、メルクルディ様のお力で肉体を再構成し、ディマンシュ様が戦いに関する力を授けてくださったとお考えください」
「へえぇっ」
翔太は思わず間が抜けた声をあげた。
似たような話は彼女と初めて顔を合わせた時に言われたはずだったが、時間をおいて改めて告げられるとあまりにも衝撃が大きすぎる。
その結果、「何だ、その程度か」と思われるような反応しかできなかったのだった。
「やっぱり神様ってすごいものなんだな。これまではいまいち実感していなかったけど」
彼は素直にそう思う。
死んだはずの肉体が若返った状態で蘇生されて、しかも異世界に来ていて言語に不自由しないなど、奇跡という他ない。
今頃になってようやく心身の理解が追いついてきた、と言うべきだろうか。
そんな彼のことをユニスは春の木漏れ日のような微笑で見守る。
「ショータ様のように異世界からいらっしゃった方は、なかなか実感する機会はなかったでしょうね」
彼女の言葉にこれまで戦おうとしなかったことを非難する色はない。
純粋に住んでいた世界について言及している。
彼女がそういった態度であった為、彼としても次の質問を放ちやすかった。
「うん。ところで癒しの力ってユニスは使えるんだよな? 見せてもらえることはできる? 俺も使えるようになるのかい?」
「えっと……」
矢継ぎ早に出されて彼女は目を丸くしていたが、好奇心で緑の瞳を輝かせる彼が好ましく思えたのか、くすりと笑う。
「わたくしも使えますし、練習すればショータ様も使えるはずだとは先ほども申し上げた通りですわ」
泣いて駄々をこねる子どもを優しくなだめているかのような口調で言われた為、彼は赤面する。
たしかに彼女はそう言っていたと思い出したのだ。
「ただ、今すぐお見せするのは難しいですね。何しろ癒しの力ですし」
ユニスはそう言うと形のいい眉を動かす。
「なるほど。すまなかった」
彼は彼女が言いたいことを察したので詫びる。
「癒しの力」が求められるような状況を考えれば、今すぐ見せろという要求が無茶というものであろう。
「練習は今からじゃだめか……?」
彼はおそるおそるたずねてみる。
彼女が今日の修行には乗り気でなかったことも思い出したからだ。
「そうですね……」
美しい王女は虚空に目を向けて考えたが、ほどなくして視線を彼に戻す。
「それでは一緒にメルクルディ様にお祈りをささげるというのはいかがでしょう? 少しですがこちらの習慣についても学べますし、癒しの力を使う為の鍛錬にもなると思いますよ」
「そうか、それはありがたい」
彼はまずは喜び、ついで彼女が自分の修行に乗り気ではないのは「この世界のことを知ってもらいたい」と考えているではないか、とひらめく。
それに彼が戦いのことばかり考えるような人間になってしまわないように、と配慮されているのではないか。
そうだとすれば、魔王と配下のデーモンの脅威が間近に迫っているのにも関わらず、一国の王女がこのようにのん気な様子なのも腑に落ちる。
(俺って大馬鹿野郎だな)
彼は敵のことしか考えていなかった自身を恥じ、己を大切にしてくれる彼女に感謝した。
言葉にするには照れくささが勝ってしまったが。