2話「ルキウス」
王都から西へ向かって馬車で十日ほど先にミューリルという名の街がある。
王都の近くにあるという以外、取り立てて特徴があるところではなかった。
外敵に備えて高い壁に囲まれているのも、貴族が市長として街を治めている点も。
何か違いがあるとすれば、最近になって引っ越してきた一人の男の存在であろう。
その男の名前はルキウスと言い、かつては近衛騎士の総督という地位に就いていた。
クローシュ王国において近衛騎士総督とは、屈指の輝かしい要職である。
王族の側に仕えるのだから身元がたしかであることが求められた。
そして王族を危険から守らなければならない以上、武勇に優れている必要もある。
総督はその選りすぐりの騎士たちの頂点に立つのだから、王家からも貴族からも仲間たちからも信頼される人物になるのは必然と言えよう。
このルキウスはまさにそれを体現したような男であった。
そのことを彼の妻も息子も親族たちも誇りに思っていなかったと言えば、嘘になってしまうだろう。
それ故に彼は「勇者を否定したらしい」という噂が流れても、街から叩き出されずにすんでいると言えるかもしれない。
義理の兄、すなわち彼の妻の兄でありミューリルを治める市長でもあるサミュエルは、複雑そうな顔で妹とその夫を迎え入れたものだ。
今の彼はそのサミュエルの護衛の一人という立場にある。
近衛騎士総督までなった男が貴族とは言え、一市長の護衛とは格落ちもはなはだしい。
だが、彼はその運命を受け入れていた。
休み時間になると市長は彼とともに食事をとる。
本来貴族と護衛が食事をとるなどありえないが、休み時間中は兄と義弟という家族になるという理屈であった。
ルキウスは最初とまどったものの、今の彼に何かを言えるはずもなくとまどいながらも受け入れている。
「どうだい? いい加減慣れたかい?」
「ええ。とてもよくしてもらっていますよ。私はどういう境遇になろうとも身から出たさびですが、妻や子どもだけは何とかならないかと思っていたので」
あたたかい義兄の銀色の瞳を真っ向から受け止めて、彼は問いに応えた。
言葉使いも義兄の希望を受け入れた、砕けたものである。
義弟の言葉を聞いたサミュエルは満足げにうなずく。
「たしかに君の行動は悪手だったね。過去の伝承から勇者殿を信じすぎない方がよいという考えは私も理解ができるけど、まだ具体的なことが分かっていない段階では言いすぎだった」
温和なまなざしの中に一筋の鋭い光が宿る。
「君も妹も処刑されずに暮らしていられるのは、あくまでも陛下のご厚情を賜ったことと、そして今代の勇者殿が君を糾弾しなかったからだ」
「御意……全く恥ずかしいかぎりです」
ルキウスは目をそっと伏せて、かつての己の愚かさを認めた。
いにしえの伝承によると勇者はあくまでもデーモンを倒すだけの存在であり、必ずしも善ではない。
そればかりから非道としか思えぬふるまいをした者は珍しくなかったという。
現に今代勇者も己の使命をすぐには受け入れず、戦うことを拒んでいたのだ。
そのようなものに全てを託すなど、彼にとって耐えられることではなかったのである。
結果を見れば彼こそが愚かであり、勇者のことをあくまでも信じたユニス王女こそが正しかったと判明した。
いくら王族と言えども世間知らずの少女にすぎないと思っていたが、とんでもない。
さすが王族であり人を見る目は正しかったと、今のルキウスならば認められる。
(だが、全ては過ぎ去ったことだ)
苦い自嘲を込めて彼はつぶやく。
じゅうたんにこぼれた水をグラスの中に戻すことができないように、勇者を批判し否定した事実は今さら取り消せない。
今から何を言ったところで彼は「この世界を憂い民の為に戦う真の勇者を否定する大悪」であった。
この街で彼を悪く言う者こそ一人もいないが、よくしてくれる者は目の前の義兄くらいである。
幸いなのは彼の亡き兄マティウスと妻の兄サミュエルの功績と声望が、彼の子どもたちに叩きつけられる世間の冷たい風を和らげてくれていることであろうか。
(義兄の養子になれば、きっと子どもたちの将来も拓けてくるだろう)
そう思えば救われる。
自分を愛し、信じてどこまでもついてきてくれる妻には申し訳ないのだが。
「まあ悔い改めているならば、それでよかろう。少なくとも私が言うことはない。君の気持ちが全く理解できないわけではないからな」
サミュエルの瞳が優しいものに戻る。
「ありがとうございます。義兄上」
ルキウスが改まった態度で礼を言うと、彼は短く嘆息した。
「かまわない。それよりもそういった言葉は妹にかけてやってほしい。どこまでも君とともにあろうという決意に揺らぎはないし、後悔しているわけではないだろうが、それでも君の言葉があれば違うと思うのだ」
妹を思いやる兄の表情に、妻に苦労させている自覚がある身としては何も言えない。
無言で頭を下げたのみである。
その後、食事が終わるまで何となく二人の会話は途切れてしまった。
これはこの二人にとって別に珍しくはない。
五年や十年程度のつき合いではなく、沈黙に支配された空間を居心地悪く感じることはなかった。
食後のお茶を楽しんでいるところにノックの音が響く。
サミュエルが入室許可を出すと、緊張感に満ちた顔つきの従者が入ってくる。
「お休みのところを失礼いたします、市長。ルキウス様に面会を求める方がいらっしゃいました」
「ルキウスにか?」
彼が怪訝そうに訊き返したのも無理はない。
義弟が家族を連れてこの街にやってきてすぐ王都を追われた理由が広まり、それ以降誰一人として訪ねて来なかったのだ。
それが今になって一体どうしたというのだろうか。
しかし、彼の頭脳はすぐにある解答を思いつく。
「まさか今になってルキウスの処分が決まったのではあるまいな? 一体誰が訪ねてきたというのだ?」
「はっ、それが……」
従者が何故か目を伏せて言いよどむ。
これにはルキウスも嫌な予感を覚える。
「私からも頼みたい。誰なのだ?」
重ねて要求された従者は伏せていた目をルキウスに向けて口を開く。
「それが勇者様でございます」
二人の時が凍りつく。
そこに従者の言葉が続けられる。
「陛下の印が入った書状と、伝説に謳われるディバインブレード、ディバインシールド、ディバインハートをお持ちでしたから間違いないかと存じます」
彼ら二人が立ちなおるにはたっぷり十秒必要だった。
「勇者殿が一体何をしにここへ……」
「まさかルキウスを自身の手で断罪しにきたのか?」
ルキウスは動揺まみれの疑問を漏らし、サミュエルはより悪い予想を口にする。
本来貴族が一個人の手で裁かれるなどあるはずがないが、相手は世界の命運を背負う伝説の勇者だ。
咎めるべき国王や他の貴族たちも見て見ぬふりをするに違いない。
「もしそうであれば、私一人で向かうべきだな」
ルキウスは覚悟を決めてそう言う。
そうでなければ義兄はおそらく命だけは助けてもらえるよう、嘆願するだろう。
冷徹な計算タイプのようでいて、実際は家族思いの男なのだ。
義兄までが勇者の逆鱗に触れてしまうと、一族が破滅してしまう。
「おい、ルキウス」
馬鹿な考えは捨てろと言いたげなサミュエルに向かい、彼はふっと笑いかけた。
「妻と息子をよろしくお願いします、義兄上」
義弟にそう頼まれたミューリル市長の端正な顔が、悲しみでゆがむ。
何か言われる前に彼はそっと部屋から去ろうと足を動かす。
「待て、ルキウス。勇者殿をどこで迎えるつもりだ? 私なしで迎えるなど、できるはずがあるまい」
我に返ったサミュエルは義弟を止める為に、その背中に言葉を投げかける。
その正論はルキウスの足を止める効果があった。
勇者ほどの人物を出迎えるのにも関わらず市長がその場に不在というのは、たしかに許されるものではない。
「義兄上……」
それでも彼は義兄の言葉を受け止めるのをためらう。
義弟の態度を見たこの街の統治者は苦笑まじりに言った。
「安心しろ。私の身に万が一のことがあれば妻や子のみならず、一族が崩壊しかねないことくらいわきまえているさ。それを忘れてまで君の擁護はしないよ」
だから安心しろという口を介さぬ声が、ルキウスの心まで届く。
(つまり私の最期を見届けてくれるということか……)
そうであればこれ以上拒むことはできないと感じた。
「分かりました。おそらくは見届け人をお願いする形になってしまうでしょうが……」
「それ以上は言うな、義弟よ」
サミュエルは義弟の言葉を封じ、従者に向きなおる。
「それで勇者殿は今どうしている?」
「は、はい。来賓室にお通ししております」
義兄弟たちが放つ悲しい空気に気おされつつ、従者は急いで返答した。
「分かった。あまり待たせすぎるわけにはいかぬな」
彼はそう言うと義弟の肩を叩き、移動を促す。
あまり待たせすぎると感情が硬化してより事態が悪化するかもしれない、ということを危惧したのだ。
伝え聞こえてくる情報によると勇者はとても慈悲深く、話が分かる人物のようだがあくまでもそれは「守るべき民」相手の話である。
ルキウスのように勇者を否定した者にはどう対応するのか、未知の領域なのだ。
彼らが悲観的な理由はここにあると言えるだろう。
徒歩数分程度の距離にあるはずの来賓室が、彼らにとっては地の果てにあるように感じられた。
従者がノックをして、その後にサミュエルから入ってルキウスが続く。
中にいるのは勇者ただ一人で、彼らを出迎えてくれる。
その気さくさに義兄弟たちは一瞬、立場が逆になったような錯覚に陥ったものの、にこやかにあいさつを交わす。
「初めまして、勇者様。私はこの街の長の任をアレクシオス陛下より賜りし、サミュエルと申します。そしてこちらが愚弟のルキウスにございます」
ルキウスの無言の会釈を受けた翔太は、微笑みながら話しかけた。
「初めまして、サミュエル殿、ルキウス殿。今日はルキウス殿にお願いがありやってまいりました」
「はい、何でございましょう」
ルキウスは表情をこわばらせたまま応じる。
「勇者に頼らない防衛制度について、詳しく話をうかがいたいのです」
彼もその義兄も初めは勇者が何を言っているのか、理解できなかった。
次に浮かんだ疑問は「皮肉か嫌味か」というものである。
自分を貶した男への報復と考えれば、ありえない話ではない。
彼と義兄の困惑・警戒を察したのか、翔太は説明を続ける。
「残念ながら私は一人しかいません。私一人では遠く離れた地にデーモンが現れたとしても、すぐに気づいて対応するという行為は不可能に近いのです。被害を減らす為には何らかの手が必要だと考えております」
勇者の言葉がじわじわと義兄弟たちの頭と心に入っていく。
どうやら目の前の少年としか思えぬ今代の勇者は、ルキウスが提唱していた防衛制度に興味を持っているようだと分かってくる。
しかし、彼らもひとかどの人物であり、それ故にすぐに彼の言葉を全面的に信じるのはためらわれた。
やがてルキウスが意を決しておそるおそる口を開く。
「勇者様……私はすぐに戦おうとしなかったあなたを批判しました。そして信用できないと否定しました。その上であなたに頼らない防衛制度をと陛下に申し上げたのです。あなたはそれをご存じではないのですか?」
「知っています。ガムース城を守っていた将軍があなたの兄君だということも」
勇者の言葉とまっすぐな視線を浴びて、彼は一瞬詰まる。
そこに翔太はたたみかけた。
「あなたの気持ちが分かるとは言いませんが、想像できなくはありません。私には私の事情があると皆は言っていますが、全員が当時の私に納得できないことも理解しているつもりです」
「……あなたは私が何を考え何を言っていたのか承知しているのですか? その上で私の力を貸せとおっしゃるのですか?」
ルキウスはにわかには信じられず、サミュエルも全く同じである。
「ええ。私一人では全ての人々をデーモンから守る力はありません。もちろん、あなたの力を借りても被害を減らすことしかできないかもしれません。しかし、大切なのは被害を減らせるという点ではないでしょうか」
彼にとってこの勇者の意見は、全面的にうなずけた。
だが、反応できずに硬直してしまっている。
「あなたは私を許せるのですか?」
気の遠くなるような長い時間、あるいはごくわずかな時間の後ルキウスはようやく声を絞り出す。
「ルキウス殿、あなたが私を批判したのはクローシュの人々の為でしょう。そして私はそのクローシュの人々の為には、あなたは必要不可欠だと思っています」
黙ってそれを待っていた翔太はすぐに切り返す。
それでもまだ半信半疑と言わんばかりの元近衛騎士総督に対して、彼はさらに言葉をつむぐ。
「ただ過ちを犯しただけの人を責める資格は、私にはありません。ですが、あなたを許せるのは私しかいないのであれば、私が許しましょう。そして今一度力を貸してほしいのです。クローシュの為、カルカッソンの為に」
ルキウスは黙ってうつむいてしまう。
そして小さな声を発する。
「私は処刑されると思っていました。当然の報いだと考えておりました。妻と子までが処刑されないことだけを願っていました」
それは一人の男の苦しい胸の内を吐露するものだった。
「しかし、勇者様はこのような愚かなこのような私を許してくださるのですね……再びこの国の為、人々の為に働く機会を与えてくださるとおっしゃる……どうして私に拒むことができましょうか」
彼の目からは光る粒がこぼれる。
それをぬぐうことなく、彼はじゅうたんに両膝をつく。
「真の勇者様。不肖なるこの身がお役にたつのであれば、どうか存分にお使いください」
そう言うと額もじゅうたんにこすりつける。
その彼の前にかがみこみ、翔太は笑いかけた。
「これから一緒に頑張りましょう、ルキウス殿」
彼らの様子をじっと見守っていたサミュエルは、ほっと安堵の息を吐く。